光輝
「せっかくの合格祝いが、変なことになっちまってごめんな」
一幸は光輝と一緒に彼の寮へ戻り、六畳一間で引きっぱなしになった布団に腰掛けて謝った。
「一幸が謝ることは無いよ。悪いのは絡んできたあいつらだ」
殴られた腕が急に痛みだし、手で抑えながら光輝も床に座った。
「いや、あの状態だと最初から逃げるか、大きな声を出して人を呼ぶなりした方が良かったんだ。もう俺達は子供じゃない。しかも光輝は大学生になるんだ。下手な問題を起こせば、折角入った大学も退学になっちまうことだってあるんだぜ。もう少し自重しなきゃいけなかったんだよ。なのにりん姉やあい姉がいたから、つい格好つけようと思っちまった俺が悪いんだ」
そう言いながら彼も殴られた所が痛むのか、顔を歪ませ頭を押さえながら横になった。
「大丈夫か? 頭痛薬だけでも飲んだら。薬箱にあったよね」
心配で顔を覗く光輝に、軽く頷いた。
「大したことないけど、念の為にそうするよ。でもちょっと疲れたな。今日はもう寝ようか」
彼は薬を飲むと直ぐに目を瞑り、本当に疲れた顔をして横になった。それを見て光輝も毛布を借り、電気を消し彼の横に寝転んだ。
あれが彼と交わした、最後の言葉となった。
彼の携帯を使って呼んだ救急車は、直ぐに駆け付けてくれた。けれど特殊な状況だけに、警察車両もやってきた。彼は変死と判断された為、一緒に泊まっていた光輝はしつこいくらい、事情聴取を受けた事を覚えている。寮に母親が上京している事を告げると、彼女まで呼び出されたのだ。
まるで彼を殺したのは、光輝だと言わんばかりの扱いまで受けた。しかし司法解剖の結果、死因は頭部にあった打撲による急性脳内出血と判った。それは昨夜男達に殴られたことが原因ではないかと、病院では最終的に判断したらしい。
警察はその夜に居合わせた、りん姉とあい姉にも連絡をして署へ呼んだ。そこで繰り返し事情聴取をし、六人の男達の顔の特徴などが確認された。また現場での聞き込み等からも、光輝達が襲われていた時の目撃情報がいくつか確認されたらしい。
やがて一幸が亡くなった二日後には、六人全員の身元を掴んだ警察が、彼らの身柄を拘束したという。その時、一幸と光輝が未成年にも拘らずアルコールを飲んでいたことは、一時問題視された。
ただ現行犯でないことなどから厳重注意で済み、大学への入学に関しても事なきを得たおかげで、光輝は無事卒業までできた。
だがしばらくの間は、暴行した六人による傷害致死事件として大騒ぎになり。周りは騒がしいまま時が過ぎた。
その間、光輝は入居を決めていたマンションで、一人籠ることが多くなった。大学に通い出し、他の生徒と同じように授業を受けられるようになったのは、三カ月以上経ってからだった。
入学前にそんな事件が起こった為、大学どころでは無かった。一幸が死んだことや、自分がそのすぐ横でいた時の状況を、時折思い出されたからだろう。
死後硬直で硬くなった彼の体に触れた時の、あの感覚。それら全てが、いつまで経っても頭から離れなかったのだ。
あい姉達も同じように、憔悴しきっていたという。一幸を失った悲しみに、二人も一日だけ会社を休んだらしい。だが学生とは立場が違う。また彼女達の方が大人だった分、立ち直りは早かった。
その為、しばらくは光輝の事を静かに見守ってくれていたが、余りにも長引いたからだろう。休日を利用し二人して部屋を訪れ、一度だけ活を入れられた。
「いつまで引き籠っているつもり? 光輝は何の為に一生懸命頑張って大学へ入ったの。せっかく入学できたのに、あなたは何もしないで過ごすつもり? そんなことで一幸が喜ぶと思ってるの?」
言われてみれば、確かにそうだ。あれだけ合格を喜んでくれた彼が、今の自分を見たらどう思うだろう。それでも俯いて何も言わない光輝を見て、苛立ちが募ったらしい。厳しい言葉を浴びせられた。
「いつまで加害者ぶってるの。あなたが落ち込んでも、一幸は帰ってこない。それに彼を殺したのは、あの六人の男達よ。それに彼らの目的は、私達二人だった。あなた達は助けようと、彼らに立ち向かってくれたの。責任を感じなければいけないのは、私達の方よ。あなたのせいじゃないし、もしかすると光輝だって下手をすれば死んでいたかもしれない。生き残ったあなたは、一幸の分まで一生懸命生きるの。それが彼や、私達の為でもあるから。あなたがいつまでも落ち込んでいたら、私達だっていつまで経っても前に進めない。判る? 光輝は大学で、今自分ができることをするの。それが一幸や私達が望むことよ」
涙ながらに訴える二人の言葉に目を覚ました光輝は、次の日からようやく大学に通いだした。またサークルにも入り、多くの友人達も作ることができた。
そう、光輝は幼い頃の約束を思い出したのだ。早く一人前になり、お姉ちゃんを一生幸せにして守り続けると、あの時誓った。これは自分だけでなく、一幸も同じだ。
しかし志半ばでこの世を去った彼の願いの分も、光輝は叶えようと決心した。その為に今自分ができることは、大学でしっかり勉強することだ。
さらに多くの優秀な友人達と交流して人脈を形成し、人間力を更に磨くことだと、改めて自分に言い聞かせた。その為敢えて彼女達とは、連絡を絶っていた。
だが何度かこっそり、遠くから様子を伺った事がある。そこでまだ、りん姉の不倫が続いている事を知った。その為、二人が密会している所を尾行し、こっそり写真を撮ったりもした。後に何かで使えるかもしれないと思ったからだ。
あい姉も長く付き合った彼氏と別れた後、人として道を外れた関係を築いていることも分かった。その様子も隠れて確認した事が、何度かある。
その後ようやく目を覚ましたのか、おかしな状況から脱したものの、別の男と付き合い出して結婚話まで出るようになっていた。
あい姉はまだしも、りん姉の場合はその先に幸せが待っているとは思えない。ただ光輝が手を打つには、二人の付き合いが長かった。
その為彼女自身が、いつかはその過ちに気付いてくれるかもしれない。そう思い込むようにしていた。何故なら自分が自立し、相手の男に対抗できる程の一人前にならなければ、守り通すこともできないからだ。
また二人の前へ、新たに愚かな男が現れた場合、それを跳ねのけるほどの魅力を持つ男として、その前に立ちはだかる必要があった。その為に、ここまでコツコツと努力してきたのだ。ここにきて、その目標を見失ってはいけないと、自分に何度も言い聞かせた。
大学生活を立て直すと、一幸の代わりも務める目的から、彼女達に連絡しない分、二人の状況はしっかりと把握することにした。彼の代わりにできることは、自分ができる限りの範囲で、彼女達を守ることだ。
ただ二人の様子を探ったのには、別の理由がいくつかある。一つは、卒業後に彼女達と同じ会社に就職しようと狙っていたことだ。その為会社の仕事や、職場環境の情報収集も兼ねていた。
さらに幼い頃からの一途な思いとは別に、光輝は大学に入り始めて女性と付き合い、肉体関係を持つ経験もした。中学、高校は彼女への想いがあり、女性と深く付き合う機会は敢えて持たなかった。
裏切りたくない、との思いもあったことは確かだ。また過去のトラウマから、光輝は女性に優しくすることはできても、深入りできなくなっていたのだろう。
しかし大人の関係を持った彼女達の前に立った時、それではいけないと思ったのだ。
人間を磨く為に、光輝は一流と呼ばれる大学へと入った。そこで勉強も大切だけど、友人などの人脈作りや人間関係の構築と同じく、女性経験だってしっかり学んだ方がいい。そうでなければ、ただでさえ年上で人生経験の豊富な彼女達の前に立ち、他の男達を撥ね退ける力など持てないと考えたのである。
一見矛盾しているかに思われるかもしれないが、これはあくまで裏切りや浮気ではない。いってみれば男としての修行だ。彼女を作って男女の営みについても、しっかり勉強しなければ大人の女性は落とせない。
もちろんただ女性と一夜を共にすれば、それで済むものでもなかった。異性と付き合う事で、パートナーには何が必要で何を求めているか等、様々な状況における言葉や態度の意味を察しなければならない。それこそが大人の男だと考えたのだ。
幸いなことに大学名や外面、身長等から女性に対して受けが良かった光輝は、相手探しにそれほど苦労しなかった。大学ではサークル等に、他の女子大の子が入部していることがよくある。
他校でもそうだが、人気のある大学には人材交流の名の元に、女子大生達が集まってきた。彼女達から見れば、将来玉の輿に乗る為の相手探しが主な目的なのだろう。
一方の男性達から見れば、将来のお嫁さん候補、または大学の名を利用した彼女集めとして、そうしたサークルを利用していた。
といって、余りにも露骨な遊び専門サークルへの所属は躊躇われる。その為光輝は、過去の経験からサッカーサークルの一つに入部した。
かつて足を怪我していたので、本格的な体育会系ではなく、楽しめる程度でサッカーができるところを選んだ。
そこにも他の女子大から、マネージャーの名目で参加している女性が複数いた。その一人と、光輝はお付き合いをすることになった。
一つ年上だったその女性とは、一年ほど付き合った。そこで学んだ一番の収穫は、まさしく女性との営みだった。相手は年上だったこともあり、また光輝に女性経験が無いと知った時、彼女は非常に喜んだ。
そういうタイプの子だった。彼女は中学生から、既に男性経験があったという。よってそちらに関しては、一家訓あるほどのこだわりを持っていた。
初めての男性と付き合うのも、光輝が二人目だったらしい。だから光輝にとっては、ほぼ全てを相手に委ねるだけでよく楽だった。
他にも彼女との付き合いで、女性の変わり身は化粧だけでないことも知った。昼間は仔猫のように大人しく、可愛げのある仕草をする子でも、夜になると
しかし女性は、自分が攻撃してばかりだと満足しない。光輝に対しても、徐々に求める事が多くなってきた。ああしてこうして、そこはどうあそこはこう、と指示されるのだ。
その為、汗だくになって言われるがまま腰を振らざるを得ない。サークルでのサッカーよりも、ずっと体力を消耗することを学んだ。
初心者だった為に、ベッドの中で非常に従順な男を光輝は演じざるをえなかった。それがやがて、彼女には物足りなさを感じさせたのだろう。一年で振られてしまった。
しかも彼女の新しい男は、光輝と全く真逆の、今でいう肉食系の男子だった。肉食系には、同種の人がよく似合うのかもしれない。今でいう草食系だった光輝は、彼女にとってほんのつまみ食い程度の扱いだったのだろう。
それでも光輝は次の相手探しに、それほど時間がかからなかった。二番目に付き合った彼女の見た目は、お嬢様系の可愛い子だった。前の彼女から得た教訓を生かし、自分に合った大人しい相手を選んだ。
そのはずだった。しかし女性に限らず、人間には表と裏がある。当然彼女も例外ではなかった。清楚に見えた彼女の裏の顔は、一言でいえば不潔な子だった。いわゆる片付けられない女性で、気にしない、物を捨てられないガサツな子だった。
光輝自身、それ程綺麗好きだった訳でもない。だが中学から寮生活をしていた為、部屋は自分で掃除する習慣があった。汚くしていると、寮の管理人に叱られることもあったからだろう。身の回りを片付けることは、それなりに昔からできていた。
とはいえ汚れている部屋が嫌だとは思わないし、潔癖症でもない。男だらけの寮生活では、やはり掃除できない友達も中にはいた。足の踏み場もない部屋に入り、遊んだこともある。
だがそれでも付き合っている相手がそうだと、さすがに引いてしまった。そんな女性もいるとは聞いていた。しかし実際にそれを目にした時は、とても驚いた。
彼女の部屋に入ると、足の裏にお菓子の屑か米粒なのか判らない物体がこびりつくのだ。長くそのような淀んだ空間でいると、さすがに気が滅入る。
その為彼女とは一年で別れた。それでも良く持った、と言われるかもしれない。だがそれは本当の姿を知るまで、半年以上隠された関係だったからだ。
その後は就職活動や卒論の作成に忙しくなり、大学を卒業するまで女性と付き合うことは無かった。大学の勉強に励み、コツコツと就職活動を行った。といっても就職先は初めから決まっている。第一希望は、断トツで彼女達の勤めている会社だ。
幸運にもその会社では、就職難の時代でも光輝の通っている大学レベルでは競争率が低く、入社しやすい状況だった。現に面接もトントン拍子で進み、内定を貰うまでそう時間はかからなかった。
一応、滑り止めのつもりで複数の会社の面接も受けてみた。だが第一希望が順調だった為、早くから途中で面接を辞退するようになった。
就職活動に関しては、親や周辺の友人達にも秘密主義を貫いた。万が一でも彼女達の耳に入らないよう、気を付けていたからだ。よってかなり厳しい状況だと、最後まで言い続けた。
面接で会社訪問する時も、二人に合わないよう極力注意をした。変装用に普段かけていない、伊達メガネまで用意して臨んだくらいだ。
そんな努力のおかげもあり、まさか同じ会社を受けているなんて、彼女達は思いもしなかったらしい。内定が決まっても、会社名は伏せた。その為入社するまでずっと隠し続けることができ、彼女達を驚かせることに成功したのだ。
しかも配属されたのがあい姉の課で、その隣にりん姉の課がある部署に配属されるという幸運にも恵まれた。おかげで二人の驚いた時のあの顔は、今でも思い出すと笑ってしまう。
だが不幸にもまだりん姉の不倫は続いており、彼女は結婚できずに会社員を続けていた。あい姉は一度結婚したものの、幸い会社を辞めずにいてくれたおかげで、離婚した後も働き続けている。
そのような状況でようやく光輝は社会人となり、スタートラインに立てたのは幸運だと思えた。自分の働きでお金を稼ぎ、自立した立場で彼女達の前に現れるところまで辿り着けたのだ。後は仕事で成果を出し、もっともっと会社でのスキルを磨き、地位を高めなければならない。
年は変わらず離れたままだ。しかし昔とは、全く状況が違う。彼女達を支えるに相応しい男まで、あともう少しだ。そう信じていた。いくら他に男がいようと、撥ね
それなのにりん姉は、光輝の前からいなくなってしまった。もう二度と、彼女の声を聞くことはできない。再び彼女に触れることもできなくなった。彼女が長く思い続け憧れていた、お姫様抱っこする夢を叶えてあげる事もできなくなったのだ。
「私の病気はガンなの」
隣の課で一生懸命仕事に取り組んで三カ月が過ぎた頃、体調を崩し急きょ入院した彼女の病室に、光輝とあい姉は呼び出された。そこで一緒にそう聞かされた時は、全身に鳥肌が立った。
とてつもなく恐ろしい悪夢に引きずり込まれ、まさしく目の前が真っ暗になる錯覚に陥ったことを今でも覚えている。それが夢ではなく現実だと判った時、光輝はこの世を恨んだ。
神や仏がこの世にいるのなら、何故彼女の人生の結末をこのような酷いものにしたのか。何故自分達の前から一幸だけでなく、彼女までをも奪うのか。
そう考えると、全身の毛穴から血が噴き出す程の腹立ちを覚えた。
「光輝が悲しんで怒る気持ちは判るわよ。でもね。今、一番辛くて苦しいのはりんなの。だから私達がやるべきことは彼女の苦しみを少しでも和らげ、最後まで彼女の側にいてあげることじゃないかな」
あい姉が興奮する光輝を、そう慰めてくれた。そんな彼女がいなければ自分をコントロールできず、仕事にも影響していただろう。悲劇の男を演じ続け、いつまでも悲しみに明け暮れる態度を取っていたかもしれない。
「私達がりんの病気のせいで辛く悲しんでいる、と彼女が知ったらどう思うかしら。光輝も逆の立場で考えれば判るでしょ。あなたが病気になって、彼女や私が苦しんでいたら、どう? 辛くない? 自分の事でそんなに苦しまなくても良いって、思わない?」
あい姉の言う事は、最もだった。自分なら、大丈夫だから心配しないでと考えるだろう。そんなに周囲の人を苦しませる位なら、早く死んだ方がマシだと思ったはずだ。
おそらくりん姉も、同じ気持ちだったのかもしれない。だから光輝達はいつもと変わらず、自分達が彼女の為にできることをやろう。彼女の心が安らぐように接する事が、幸せなのだろうと話し合った。
あい姉にそう教えられなければ、光輝は彼女が苦しむ姿を見ることに耐えられず、病室へ足を運ぶことも出来なかったに違いない。また光輝の想いはともかく、親友を失おうとしているあい姉が今、どんな気持ちなのかを考えてあげることが先だった。
りん姉が残りの人生を、どう生きようとしているのか。それをまず大切にしてあげることと、その姿を見送るあい姉の心に寄り添う事が、自分にできることだと思えるようになった。
もしあい姉の言葉を理解していなければ、光輝は長谷川次長のところに乗り込んでいたかもしれない。彼が十月の人事異動で正式に大阪への赴任が決まり、部長に昇進すると聞いた時は、胸倉を掴んで叫び、殴りかかっていただろう。
「自分が愛した女性を、このまま置いていくつもりか。自分はのうのうと昇進し、目の前から去る女にもう用は無いって言うのか」
だがそうする機会は訪れなかった。九月の終わりにりん姉と最後のお別れをした彼は、二度と病室に現れなかった。
もし気持ちの整理がついていなければ、直ぐにでも彼への復讐を考えていだろう。りん姉との不倫を会社に告発し、彼の会社人生をめちゃくちゃにしてやっても、おかしくはなかった。
だが長谷川次長と病室で最後の話し合いをして別れた後、彼女は泣きながら笑って光輝とあい姉に説明してくれた。
「きちんと気持ちをぶつけあった上で、正式に別れたわ。それからもう二度と病室に来ないで、とも言った。勘違いしないで。これは私が決めたことなの。彼は最初、別れたくないと言ってくれた。大阪に行っても、御見舞いには来るって。でもそれは止めてと私が言ったの」
「どうして?」
眉間に皺を寄せながら問うたあい姉とは対照的に、頬を濡らしつつも晴れ晴れした表情を浮かべながら彼女は答えた。
「彼が本気で、本心からそう口にしたのかは判らない。でもその言葉を聞いて、余計切なくなったの。だってそんな事をしても、悲しいだけよ。私のせいで彼が苦しみ、家庭を壊すリスクを冒すなんて嫌だから。せっかく部長に昇進した会社の地位まで危うくすることになったら、私は死んでも死にきれない。そう言ったの。心は痛んだけど、今別れないとそれ以上に哀れだと思ったから。後は良い思い出だけを胸にしまって、安らかに死んでいきたいもの」
光輝達は、黙って聞いているしかなかった。りん姉のその顔からは、強がりや無理して嘘をついている様子が全く感じられなかったからだ。
涙を流してはいたが、すっきりとした表情で自分の決心を語っている彼女を見ていると、光輝達は頷くしかなかった。また彼女の決めたことに従い、後は長谷川次長がいなくなった寂しさを、少しでも埋めてあげよう。そうあい姉と話し合い、交代で時には一緒に、病室への御見舞いを続けた。
秋頃になると、日に日にやつれていく彼女を見るのが心苦しい時もあった。手足がやせ細り、髪の毛は抜け落ちていた。時々痛みに顔を歪める姿を見るのは、非常に胸を絞めつけられる思いだった。
それでも一番辛いのは、彼女だと思い直した。痛みを和らげる為、恥ずかしがる彼女の手や足をあい姉と一緒に、優しくさすったりもした。彼女の枕元で、会社で起こった馬鹿な出来事を面白おかしく話し笑ってもらうことが、何よりの楽しみでもあった。
しかしそんな時間も、長くは続かなかった。いよいよ最後という時、さすがに彼女の母親も病室に訪れた。もうその頃の彼女は話しかけても反応が無く、意識は
ベッドの脇に立って、光輝達は何度も呼びかけた。彼女の手を握りながら、必死に励ましもした。だが彼女からの反応は無い。
やがて病室の中を医師や看護師達が慌ただしく動き回りだすと、光輝達はベッドから離れ、遠巻きに見つめていた。すると一瞬だけ体が激しく波打ったかと思うと、彼女は全く動かなくなった。
「りん! りん!」
あい姉達が一斉に叫ぶ。光輝は自分の手を握り締め、その様子を茫然と見つめていた。医師が時計を見て、時間を確認する。その後彼女が臨終したことを告げると、病室は泣き声で埋まった。
光輝も泣いた。人の死を目の前にしたのは、一幸に続いてこれで二度目だ。人が亡くなる喪失感を、再び味わった。体から自分の魂が抜け出てしまったかのように、立っていることすらできず、その場にしゃがみ込んでしまった。
そんな光輝をあい姉が気遣ってくれた。光輝と同じように床に座り込み、背中をさすってくれたその手はとても温かった。
りん姉のお葬式は、彼女の地元ではなく東京の葬儀場で営われた。しかし最低限の人にしか連絡しなかったらしく、こぢんまりとした集まりだった。告別式には、部長になった長谷川さんの姿もあった。
光輝はその時、彼を見ても怒りが湧くことは無かった。それよりわざわざ遠くから、よく参列しに来てくれたものだと感心さえした。
隣の課の元課長だったこともあり、あい姉と二人で長谷川部長に挨拶をした。りん姉との関係を知っている光輝達に会ったからだろう。最初は何となく所在無げな態度だった彼だが、式の終りにこっそりと呟くように教えてくれた。
「彼女には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。その罪は私もちゃんと感じているんだ。今、私は家族と別居している。部長には昇進したけれど、不倫の件が最近になって突然大阪の支店内で知れ渡ってね。家内の耳にも入ったらしい。問い詰められた俺は、彼女との事を、正直に話した。近々離婚するかどうかの協議をするつもりだ。会社もその後、辞めることになるかもしれない」
あい姉は驚いて、目を見張っていた。部長は寂しげな笑いを浮かべ、話を続けた。
「でもね、後悔はしていないよ。彼女と会ってからの私は幸せだった。だから彼女を失った今は辛い思いをしているが、それはその代償だから仕方がないし、後悔もしていない。彼女がもういないことは寂しいが、それも運命だと思って諦めるしかないからね」
「これから会社を辞めて、どうされるのですか?」
思わず光輝がそう尋ねると、部長はいたずらっ子のような表情で軽く舌を出し、
「彼女の後でも追うことにしようかな」
そう言い残して光輝達に背を向け、お寺から遠ざかって行った。その数日後、離婚した部長が会社を辞めたという社内の噂を耳にした。だがもっと驚いたのは、その後だった。
何故ならさらに数日後、彼が首を吊って自殺したと聞いたからだ。本当にりん姉の後に続き、この世を去ったのである。光輝達は人の人生というものの
あい姉はりん姉の死後、ショックを引きずり自分を完全に見失っていた時期があった。光輝もまた引きずられるようにして、嫌なことを忘れ去ろうと一心不乱で仕事に打ち込み、身がぼろぼろになるまで働いた。
その様子に見かねたらしく、二人は課長から注意を受けた。
「無理はするな、少し休め。体が資本なんだから、そんな仕事の仕方をしていたら、必ず後で反動が来てしまうぞ」
その直後、光輝は過労により倒れ一時入院することになった。さらに退院後も体調が戻らず、朝から頭痛がひどく動悸がして、顔色も他人から見て明らかにすぐれないため、
「大丈夫か? 今日は早めに帰れ」
と言われる日が続いた。その為会社を休み、病院で再び内科の診察を受けたが、特にどこも悪いところは見当たらないと医者に告げられた。
だからまた会社に行く。すると体調がすぐれないという繰り返しだった。そんな光輝に、あい姉は言った。
「今度は違う病院に行ってみたら?」
そこでメンタルクリニックの診察を受け、結局軽いうつ病と診断され、しばらく会社を休むことにまでなったのだ。
“心の風邪”とも呼ばれ、近年では珍しくなくなったうつ病だが、いざ自分がそんな病気にかかってしまったと判った光輝は、ショックを受けた。
しかし思い返すと、小学生時代の事件から少しずつ人との距離を置き始めた頃から、心に深い傷を負っていた。その後も数少ない心許し合った友の一幸やりん姉を失い、さらに次長が自死した一連の事件によって、これまでにないほど例えようのない衝撃を受けた。それらの後遺症が、一気に表へと出てきたのかもしれない。
そんな光輝の寂しく震える心は、人の温もりという名の毛布を一枚、一枚剥ぎ取られたようだった。真っ暗な夜空の下、裸同然の格好で白い雪の中へ放り出されたような寒さを覚えた。
“風邪”をこじらせた光輝は、会社を休んで医者からもらった薬を飲み、頭の痛みや動悸から逃れる為、布団に潜り込んでひたすら眠ろうとした。
だがすぐに目を覚まし、また眠るという状態が続く。眠りが浅い為か体もだるく、疲れもまるで取れない。そうした状況の中、徐々に食欲も減退し、ベッドから抜け出せない毎日が続いた。
そんな時、光輝の部屋を訪れ見舞ってくれたのがあい姉だった。
「余り食べていないみたいね」
最初、会社帰りに寄ったという彼女はそう声をかけてくれ、大きな鍋一杯のカレーを作ってくれた。香辛料の匂いが食欲を刺激し、久しぶりに食事らしい食事ができた。
バクバクと食べる光輝の横で、彼女は何も言わず微笑みながら、じっと様子を見てくれた。やがて帰る時は優しく言った。
「沢山作っておいたから。カレーなら明日の朝でもお昼でも、ご飯さえ炊いておけば食べられるでしょ。しっかり食事だけはして、ゆっくり休みなさい」
それ以上の事は何も言わず、尋ねもしなかった。光輝には、それだけでありがたかった。心の体力が無い今の状態で、あれこれ聞かれたり指図されたりするのは、とても耐えられなかったからだ。
そんな状況を理解してか、彼女は必要最小限のことだけを告げ、食事を作り、様子だけ見て帰っていく。そんな日が続いた。休日には、
「少し散歩しようか」
と誘ってくれ、近所の公園まで歩き部屋まで戻ったりもした。
昼食前に一度歩き、また食事を食べさせてから光輝が横になっている間、部屋の掃除を簡単に済ませて夕方近くに起こしてくれた。
「食事前に少し、散歩しようか」
と再び公園まで歩いて帰ってくる。それを何度か繰り返した。夕飯も食べさせた後、
「ゆっくり休みなさいよ。今は休めってあなたの心と体が言ってくれてるの。だからそう言う時は無理せず休むのよ」
そう告げて、また彼女は帰っていく。そんなことが一ヶ月ほど続き、少しずつ光輝の体調は回復していった。
頭痛も治まり、動悸もほとんどしなくなった。夜も寝られるようになり、昼間は起きて本を読んだり、日に当たった方がいいからと早朝に散歩をしたりした。
そうした生活をしていると、医者からは徐々に会社へ通いながら通院を続けてくださいと言われたのだ。結局二カ月ほどの疾病休暇を経て、光輝は会社に復帰することができた。
「お帰りなさい」
あい姉は職場でそう笑って、温かく迎えてくれた。他の職員達も気遣ってくれ、とても優しくしてもらった。おかげで光輝は、今までよりも仕事に取り組むことができたのだ。
「おい、無理するなよ」
時々課長から、そう釘を刺されることもあった。だが長い休みの間、凍えていた心に何重もの温かい毛布をあい姉にかけ続けてもらったおかげだろう。すっかり立ち直ることができていた。
また会社復帰してから一カ月後、光輝の部屋であい姉と二人で快気祝いをした時、
「元気になってくれて本当に良かった。一幸やりんに続いて光輝までいなくなったら、今度は私がおかしくなっていたかもしれない。ありがとう」
突然、ポロッと涙を流し彼女が呟いた言葉を聞いて、光輝は胸が熱くなった。そこでこの人の為にも、自分は元気に働き続けよう。彼女が寂しい時、困った時は必ず力になろう、と何度も心に誓ったのだ。
光輝は初心に戻り、自分の為でなく人の為に生きることで活力を生み出したのだ。この人に喜んで貰おう、この人を楽しませよう、悲しませないようにしよう。この人を大切にしよう、この人の心を温かくしよう、傷つけないようにしよう、守ってあげよう。
そう想う自分の心が喜び、楽しめ、悲しまずに済むのだ。大切にされ、心温かく守られるのだということを、光輝はあい姉に改めて教えられたように思う。
人は自分の為だけに生きるよりも、人の為に生きる方が強くなれる。それが愛する人であれば、尚更だった。光輝はあい姉に心を救われたのだ。また彼女も光輝がいることで、心の安静を支えられているのだと気づいた。
もちろん彼女の前に、心の安らぎを与える別の男がまた現れるかもしれない。光輝の前にも、彼女以上に想える相手がこの世にいるかもしれない。
だがそれまで光輝は今まで通り自分を磨きながら、自分が想う相手を支えられるような男になる為に努力し、あい姉のことを見守っていこうと決心したのだった。
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