光輝

 小学校四年に上がった年、大好きなお姉ちゃんは街を出て東京に行ってしまった。

 光輝達が住む街は、小さくて狭い。それに二軒隣にある彼女の家とは、小さい頃から母親達同士も交流がある。例え耳を塞いでいても、彼女の両親が揉めている話は嫌でも漏れ伝わってきた。

 まだ子供の光輝でさえも、彼女がどれだけ辛い思いをしているかは想像ができた。自分の家も両親が離婚をしている。子供は無力だ。ただ親達の醜く激しい言い争いを聞き、じっと喧嘩が収まるまで、静かにしているしかないと知っていた。

 だから彼女と会う度に、光輝は元気に笑って声をかけた。するといつも手を振ってくれたり、笑い返してくれたりした。そんな事しかできなかったからだ。

 それでも彼女が街からいなくなるまで、ずっと続けた。心の中で、

「お姉ちゃん頑張れ、お姉ちゃん頑張れ」

 そう祈り続けた。幼い頃からのおまじないだ。そうやっていつも応援していると、いつの間にか彼女は元気になっていた。だからとても効果があるものだと、今でもずっと信じ続けている。

 光輝は小学校に入って三年生の夏休み前までは、ほぼ毎朝彼女と一緒に歩いた。まん丸の坊主頭から少しだけ髪の毛を伸ばしていた光輝だったが、身長はなかなか伸びなかった。

 クラスでも低い方から数えた方が早く、ランドセルを背負って歩いていても、ランドセルが光輝を連れて歩いているように見えるほどだ。

 しかしそのほんの短い距離だったが、毎日の楽しみだったといってもいい。それが夏休みを過ぎて彼女が大学受験の為に忙しいからと、朝は光輝よりもずっと早く家を出て勉強をし始めた。

「ごめんね。でももう三年生だから一人で行けるよね?」

 彼女はそう言って、朝一緒に通えないことを謝ってくれた。だが判っていたはずだ。別にほんの少しの距離なので、最初から自分一人でも大丈夫だった。 

 ただ一緒にいたいから、理由をつけて通っていただけなのだ。そんな光輝の気持ちが嬉しいといって可愛がり、付き合ってくれていただけなのだ。

 ただそうした気持ちになれない程、その頃の彼女には余裕がなかったのだろう。家庭内がごたごたし、その後周囲からの心無い噂話から逃げるように、東京の大学を受験して街を去った。 

 彼女は、どうやってでも東京の学校に合格しなければならないと思い、必死に勉強をしていたのだろう。それは大きくなってから、光輝も理解できるようになった。

 あの時もまた、彼女の心の叫びを肌で感じていた。だからこっそりと、陰で応援をしていたのだと思う。

 彼女がいなくなってからの光輝は、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような気持ち、というものをまさしく経験した。朝会えなくなってからも、寂しい気分になってはいた。

 だけど当時は直接顔を見ない日でも、二軒隣にはいつも彼女がいた。そこで必死に勉強していたり、笑っていたりしていると想像するだけで光輝は幸せだった。

 しかし今はそこにいない。同じ会えないのなら、二軒隣でも東京でも同じだ。そう思えるようになるまでは、相当時間がかかった。

 彼女は今、東京で必死に頑張って勉強している。そして働いてもいるらしい。だから頑張れと思い続けはしたが、光輝の心のどこかにある虚しさ、寂しさはなかなか治まらなかった。

「光輝くん、どうかしたの? 元気ないよ」

「どこか気分でも悪いの?」

「保健室でも行く? 私、一緒について行こうか?」

「あ、それなら私も!」

「ずるい、それなら私もいく!」 

 小学校の高学年になってからの光輝は、やたら女の子からもてるようになった。低学年の頃から比べると、ぐっと背が高くなったからかもしれない。

 髪の毛も少し長くなった。それでも身長はクラスの男子の中で上の下くらいだったし、まだ女子の方が背の高い子もいたくらいだ。しかし学校の成績は良かった。

 お姉ちゃんが言っていた通り勉強はできた方がいいと、こつこつ真面目に取り組んだ成果がでたのだろう。入学した頃は中の中程度だった成績が、クラスで常に上位三名には入るようになった。

 運動も頑張った。体力をつける為にと、毎週日曜日に練習をしているサッカークラブへ入った。練習日以外でも光輝は毎日のように、休み時間や放課後の時間を利用し、ボールを蹴っていた。

 大きくなった体の成長と練習の成果がうまく重なったのか、チームでは四年生にして唯一の準レギュラーに選ばれた。通常レギュラーは六年生を中心にして構成され、中には補欠も入れて五年生が数人選ばれる。その中に入った光輝は、学年でも一躍注目されるようになった。

 子供が成長期の時は、周りがあっという間に変わっていくものだ。光輝にとって、そのタイミングはお姉ちゃんがいなくなった頃と重なった。

 誰にも言えない胸の中だけで秘めていた心の支えが、目の前から消えたのだ。その為、授業中でもぼんやりと空を眺めることが多くなった。

 そんな姿が同級生の女子の目から見ると、大人びて映ったのかもしれない。小学生の十歳前後だと、女性の方が圧倒的に大人びており、ませている。

 だから同級生の男子がガキに見えてしょうがない彼女達にとって、光輝は少し違った風に感じられたのだろう。一気に注目を浴びるようになった。

 授業を終えると、休み時間にわらわらと周りを取り囲まれた。そこで物憂ものうげな様子の光輝は心配されたのだ。そんな時は女子達に笑顔を見せて答えた。

「大丈夫だよ。ありがとう。少しぼんやりしていただけだから」

 それだけで数人がきゃーっと騒ぐ。

「遠慮しなくていいよ。最近、光輝くんっていつもぼんやりしていたり、元気がなかったりしているもの。何か心配事があるのなら、私達が相談に乗るよ」

 集団の中でも積極的な子が、身を乗り出してそう迫る。すると別の子が、その言葉に同調した。

「そうよ、何でも相談して! 私達、力になるから」

 ここで他の女子達も騒ぎ出した。

「私も!」

「私も!」

 かなり面倒な状態で、内心ではうっとうしく思っていた。だがそれは顔に出さず、もう一度にっこりと微笑んで言った。

「本当に大丈夫だから。ありがとう」

 光輝は席から立ち上がり、教室を出て男子トイレに向かった。途中まで一部の女子達がついて来たが、さすがに中までは入れない。その為教室を出た辺りで、ほとんどが離れて行った。

 ようやく一人になれた光輝はトイレの個室に腰掛け、またぼんやりと考え事をしていた。この時は、お姉ちゃんが今住んでいる東京に行くにはどうすればいいか、だった。ただ遊びに行くのではない。

 光輝も彼女と同じように東京で勉強し、そこで生活をしたいと思っていた。ただどうすればそれが可能になるか、十歳を過ぎた程度の頭では、さすがに思いつくこともできなかった。だからただぼんやりと、東京にいる自分を想像ばかりしていたのだ。

 そろそろ次の授業が始まると思い、使ってもいないトイレの水を流し、個室を出た。一応ハンカチを取り出し、洗った手を拭きながら教室に向かった。

 すると同じく教室に入ろうとした一人の男子が、話しかけてきた。

「光輝って女子にもてるよなあ。お前、あの中で誰が好きなんだ?」

 驚いて彼の顔を見た。同じクラスの子だが、それほど親しい訳では無い。だけどすぐに言っている意味が理解できたので、光輝は笑って答えた。

「この学校に僕の好きな人はいないから。だから安心していいよ。君は○○さんが好きなんだろ?」

 先程まで取り囲んでいた女子の一人の名を告げると、彼は顔を真っ赤にして、首を激しく横に振った。とても判りやすい反応だった。

「な、何言ってるんだよ、違うよ」

「別に隠さなくていいじゃない。好きな子がいるのはいいことだよ。僕の好きな人は、東京にいるんだ。だから羨ましいよ。好きな子が近くにいるってさ」

 思いがけない言葉に、その子は突然真顔になって聞き返してきた。

「本当か? お前、東京に好きな子がいるのか?」

「本当だよ。僕の気持ちをちゃんと伝えない間に、向こうへ行っちゃったんだ。だから君も好きな子が離れちゃう前に、気持ちだけはしっかり伝えた方がいいよ。いつ、どこかへ行って離れ離れになるかもしれないから」

 彼は考えた事も無かったのだろう。目を丸くして言った。

「え? そうなの?」

 その反応を見て、光輝は理解しやすいように色んな例を挙げて伝えた。

「だって家の都合で、その子が急に転校するかもしれない。もしかすると病気や怪我をして、会えなくなることもあるでしょ。あと学年が変われば、クラス替えもある。その子が他の男の子を好きになって、付き合いだすかもしれないよね。それも自分から離れていくようなもんだからさ」

 けれど彼は、口を尖らせて呟いた。

「でもあいつはお前のことが……」

「僕の好きな子は、東京にいる。だからこの学校の女子と両思いになって、付き合うことは無いよ」

 光輝が真面目な顔ではっきり言い切ると、彼は安心したらしい。

「そうなんだ」

 そう言い残すと、教室の自分の席に向かい走っていった。この時の会話は、後で一気にクラス中で広まった。

「光輝くんって、好きな人が東京にいるって本当?」

「どんな子? 私達の知っている子? 東京に転校していった子っていたっけ?」

 放課後になり、帰り仕度をしてからボールを持って外に行こうとしていた光輝を、女子達が取り囲んだ。

「本当だよ。だけど君達は知らない人だから」

 そう言って囲みを抜け出し、校庭に出た。他の男子と合流し、グラウンドの隅でボールを蹴り始める。だがこの話題は、男子達の間にも広がっていたらしく、やたら質問攻めにあった。

「東京にいる子って、どんな子なんだよ?」

「俺達の知らない子って、どこで知り合ったんだ?」

 光輝は適当に答えられるところは答え、隠す所は隠してその話題をさらりと流した。

 こうなると、男子達も女子に囲まれている光輝を妬む気持ちはあっても、好きな女子が他にいると知って安心したのだろう。苛められることは無かった。

 サッカーを通じて親しい男子達もできたし、光輝はどんな子達とも社交的に話し、勉強もできるほうだ。それでも一番ではないという微妙な位置を保った。運動もサッカーは得意だけど、他の競技は多少できる程度だった為か、嫌われることも余りなかった。

 それから光輝を取り囲む女子達の数は、少しばかり減った。だが相変わらず話しかけてくる子は、多数いた。好きな子が別にいることで、逆に話をしても他の子にからかわれずに済む。だから気軽さが増したのだろう。

 その影響なのか他の男子が好きな女子から、光輝にならと相談を持ち掛けられるケースも増えた。その子達にも、優しく接しなければいけない。お姉ちゃんの教えは、守らなければならないからだ。

 一肌脱いで、二人の間を取り持ったりもした。これが一組成功すると、あとは僕も私もと男子や女子から意見を求められるようになり、別の意味でも人気者になってしまった。

 数多くの恋の悩みを受けていたこの頃は、男子側からの気持ちだけじゃなく、女子側の想いも両方を聞ける立場にいた。その為同性と異性の考えの違いや共通点を、生の声で聞き学ぶことができた。 

 それはその後人間関係を築くことに、とても役立ったのである。


 そんな中光輝が小学六年生になった時、一人気になる女子ができた。クラス替えをして窓側の席に座っていた、今まであまり見かけたことのない女の子だ。

 体は周りの子達より一回り小さかったから、余計に目立ったのかもしれない。彼女はいつも一人窓の外をずっと眺め、ぼんやりしている子だった。

 お姉ちゃんの事を考えていた、かつての自分を見ているようだったからかもしれない。もうこの頃の光輝は、ぼんやりするほど彼女の事を思い出さなくなっていた。

 ただ考え抜いた結果立てた計画を実行する為、日々努力しようと気持ちを切り替えていたのだ。

 そんな光輝の心に引っかかる、その女の子の名は早苗さなえといった。何気なく他の女子達から情報を得ると、彼女は去年この学校に転校してきたらしい。

 しかし休みがちで、余り登校していないことが多かったそうだ。その為今まで、見かけたことがなかったのだろう。

「ふ~ん、何か病気なの?」

 何気なく女子の一人に、彼女の事を突っ込んで尋ねると、その子は言葉を濁らせた。

「そういう訳じゃないみたいだけど……」

 何かを知っていて、でもそれを話していいかどうか迷っている口調だった。

「どうかしたの? 何かあるの? 大丈夫だよ、僕、口は固いから」

 あくまでさりげなく、その女子を追い詰めないよう、にこやかに話しを続ける。そこでようやく声をひそめ、教えてくれた。

 それは自分が幼い頃の、嫌な記憶を呼び覚ます出来事だった。それからというもの、できる限り早苗に話しかけるよう心がけた。あくまで自然に、同情していると思われないよう慎重に、でも優しく声をかけた。

 最初は彼女も戸惑っていた。だが他の女子を巻き込みながら話題を振る光輝に、一つ、二つ返事を返してくれるようになった。

 そんな様子を見ていた、光輝よりも一回り大きく恰幅のいい女子とその取り巻きが、光輝をからかいだした。この年齢くらいだとまだ女子の方が活発で、体も大きい子がいたのだ。

 同じ学年にも、平気で男子に喧嘩を売って負かしてしまうような女ボスがいた。その女子も男の子だったら、

「将来、何部屋に入る? 高砂たかさご部屋? 九重ここのえ部屋?」

などと必ず言われるような子だ。

「光輝くんって、早苗のことが好きなんじゃないの~?」

 そんなことはどうでもよく、本当はただそう言ってからかいだけの女ボスが、仲間を引き連れて早苗に話しかけていた光輝の周りを取り囲んだ。

「そうよ、光輝くんって東京に好きな子がいるとか言っているけど、嘘なんじゃないの?」

「そうそう、早苗のことが好きなのを、誤魔化そうとしてたりして」

 勝手に決めつけ、キャッキャと女ボスの手下達が騒ぎ出した。こういう面倒くさい手合いは、下手に逆らうと余計厄介になる。その為光輝は笑いながら、女ボスの目を見つめて言い返した。

「なに? もしかして、僕が早苗さんと話しているのが妬けるとか? いいよ、君も一緒に話そうよ」

 優しい猫撫で声を出す光輝に、一瞬引いた彼女は戸惑いながら言い返してきた。

「何を自惚れてるんだよ、馬鹿じゃないか? ちょっと女子達に人気があるからって調子に乗るな。誰がお前なんかと喋りたいもんか」

 そこで更に話しかけた。

「そうなの? だって喋りたそうな顔して寄ってくるから、そうかと思って。別に僕はいいよ、遠慮しないで一緒に話そうよ、ねえ?」

 彼女やとり巻き達と早苗を交互に見ながら、あくまで笑顔は絶やさない。それがコツだった。

「バッカじゃないの! お前達がイチャイチャしてるから、来たんじゃないか」

「だから楽しそうに話をしているのが、羨ましいんでしょ? だったら一緒に喋ろうよ。僕も君達と話がしたいなあ」

 相手が押してきても、やんわりと引きながら巻き込む話術を繰り出す光輝に、彼女は調子を狂わしたようだ。さらに仲間の女子達の中には、光輝の隠れファンもいたらしい。話そうよと言われ、赤くなり照れている子までいた。

「もういいよ、勝手にイチャついていろ!」

 にこにこと笑い続ける光輝に、彼女はとうとうさじを投げたようだ。名残惜しそうにその場へ残り、話に入りたがっている手下達を引き連れ離れて行った。

 そんなことがあり、光輝の目を気にしたのだろう。女ボス達が早苗を苛めることはしなくなった。また彼女もだんだん周りの子達に、心を開いてくれたようだ。

 光輝だけじゃなく、他の女子達とも話をするようになった。家庭に問題があり、その影響もあって大人しくしていたようだ。けれど元々暗い子では無かったらしい。

 一度仲良くなったからか、いつも集まっている四、五人の女子の輪に早苗はいるようになった。以前は学校も休みがちだったというが、光輝のクラスになってからほとんど休まなくなっていた。

 そんな彼女が朝から様子がおかしいと気がついたのは、いつもよく話をしている、陽子ようこという女子だった。登校してきた早苗を、彼女はずっと心配していた。

 みると顔が青く、体調が悪いのか時折脇腹を押える仕草をしていたからだ。それでも彼女は笑って、大丈夫、大丈夫だからと答えていた。

 初めは光輝も、その様子を見て女の子の日なのかと思い、余り気に止めていなかった。この年頃の女子は初潮を迎えた子もいて、毎月一回ほど気分が悪くなることを何気なく知っていたからだ。母も時々そのような話をしていたことがある。

 昔お姉ちゃんにも、教えられたことがあった。

「女の子はね。月に一回、機嫌が悪くなったり頭が痛くなったりお腹が痛くなったりするの。そういう時は、いたわってあげないといけないのよ」

 その時は何を言っているのか、よく理解できなかった。だが光輝達も保健体育で学ぶ年頃になると、なんとなく察するようになったのだ。

 しかし授業が進むにつれて、早苗の様子はますます悪くなっていた。それでも保健室に行くよう勧める陽子に、彼女は大丈夫だと言い続け、かたくなに拒絶していた。

 余りにも顔色が悪く、痛そうに体を押さえる彼女の様子を見て、光輝は嫌な予感がした。そこでしばらく悩んだ。我慢をしながら必死に耐えている彼女の額には、脂汗あぶらあせが流れている。

 それでも心配する陽子に対し、首を横に振って引き吊った笑顔を浮かべる早苗。どうすればいいのか。彼女の気持ちを尊重し、そっとしてあげるのがいいのか、それとも……。

 光輝は三時間目の授業が終わり、休み時間に入ると思いきって早苗の席に近づいた。同じように近くにいた陽子も、また彼女の横に駆け寄った。

「大丈夫? やっぱり保健室へ行こうよ」

 授業中も痛みに堪え切れない表情を浮かべていた為、再び説得し続けていた。三時間目の授業でも、先生が彼女の様子がおかしいと気づき保健室へ行くようにと言ったのだ。しかしその時も首を縦に振らず、頑として席を立たなかった。

 だからこそ光輝は覚悟を決め、歩み寄った。怖い顔をして近くに立っていたからか、二人は驚いたような顔で見上げている。だがそんな彼女達の態度を無視し、早苗の顔に口を近づけ耳元で囁いた。

「お前、親に殴られた脇腹が痛いんだろう。俺も小さい頃やられたことがあるから、判るんだ」

 その言葉に彼女は目を見開いて、じっと光輝の顔を見つめた。その表情は、明らかに指摘が図星だったことを意味する。また同じ境遇を持つ子がいると知り、戸惑っているようでもあった。

「ちょっと見せてみろ」

 強引に手を払い、彼女のシャツをめくり上げて脇腹を晒す。咄嗟のことで早苗も陽子も抵抗できなかった為、すぐに肌が見える。そこには、大きな青い痣が浮かんでいた。彼女の肌が白い分、内出血し変色している異様な個所は、嫌でも目立っていた。

「ちょっと、止めて!」

 慌ててシャツを下し隠した彼女は、涙目でキッと睨んだ。その顔は真っ赤だったが、単なる恥ずかしさからそうしたのではない。その気持ちは痛いほど判っている。

 見られてはいけない物を、発見された時の顔。決して人に知られてはいけない児童虐待の証拠を他人に、しかも光輝と近くにいた友達の陽子に露呈ろていしたのだ。その事実に、どうしようもない怒りを持った顔をしている。

「どうしたの、その痣! 真っ青じゃない! やっぱり保健室へ行かなきゃ。それより病院へ行った方が、いいんじゃないの?」

 陽子は痣に気が付き、それまで苦悩の表情を浮かべていた原因がそこにあると単純に思い、そう叫んだ。彼女は早苗の家庭が複雑で、虐待を受けている事実を知らなかったらしい。

「止めて! いいの! 私のことは放っておいて!」

 早苗は彼女の言葉に対し、ヒステリックな態度で応じた。保健室へ、さらには病院へ連れて行かれれば、この痣が大人達にバレてしまう。その恐怖に怯えたのだろう。

 先程までの抵抗とは、その度合いが全く違った。必死の形相で体を震わせながら、早苗は陽子と光輝を交互に見つめた。

 しかしそこで先程大きな声を出した為、肋骨に響いたのだろう。

「痛っ」

 急にお腹を押さえ、うずくまった。ずっと我慢し大人しくしていた彼女は、少しでも身じろぎできない痛みを抱えていたに違いない。

 先ほど見た所、下手をすれば肋骨が折れているか少なくともひびが入っているように感じられた。

 以前サッカーの試合中に、相手選手と接触して肋骨骨折した先輩がいた。その時コーチと一緒に病院へ付き添った光輝は、先輩の青く内出血した脇腹を見たことがある。早苗のお腹の痣は、それとよく似ていたのだ。

 それに彼女は、朝からずっと痛みを訴えている。周りが心配するように、どんどんその痛みは我慢できない程酷くなっていた。だからこのまま放っては置けない。

 そう決心した光輝は、非常手段に出た。思い切って腕を振り上げ、早苗のお腹めがけて拳を打ち付けた。

「キャッ!」

 彼女は驚いて大きな声を上げる。その声がお腹に響いたらしく、再びうずくまった。

「何してるの、光輝くん!」

 周りで見ていた女子達が、大きな声で騒いだ。光輝はわめく女子達を無視し、隣にいた陽子の方を振り向いて言った。

「今、僕がこの子を殴った。それで大きな青痣ができて、すごく痛がっていると先生に言って。早く! 先生を呼んできて!」

 唖然としていた彼女だったが、光輝の言う意味を理解したらしい。うんと頷いて立ち上がり、教室の外へ出て行った。

「止めて、先生なんか呼ばないで」

 早苗は抵抗を試みたけれど、激痛が走るのかもう蚊の鳴くような声しか出せなかった。すぐに顔を歪めてお腹を押さえ、脂汗は頬に何本かのすじを作り流れていた。

 その後陽子が呼んだ先生は嫌がる早苗を押さえつけ、無理やりシャツをめくってお腹の痣を確認した。その酷い状況から、すぐ彼女を車に乗せて病院へ連れて行った。

 騒然とする教室の中、当然ながら光輝と陽子や周りの数人の生徒が、職員室に呼ばれ事情を聞かれた。よく判らない周りの生徒の中には、光輝が急に早苗を殴ったと証言した子もいたが、陽子はそれをしっかりと否定した。

「最初は私もそう言って先生を呼びましたが、本当は違います。光輝くんは、殴る振りをしただけです。近くにいた私が言うのだから、本当です」

 さらに早苗が朝からお腹を押さえて痛がっていた事、それでも保健室に行くことを嫌がった事、それに気づいた光輝が隠そうとする早苗に対し、無理やりシャツをめくってお腹の痣を見つけた事を説明した。

 またそれがすごい大きな痣だった事、その痛みがどんどんひどくなっていて大怪我だと判った事、それでも抵抗する早苗に光輝がわざと殴った振りをして、先生を呼ぶよう指示した事等を泣きながら話したのだ。

 三時間目に他の先生が、確かに早苗の様子がおかしくて声をかけた事や、それを拒絶した早苗の様子を証言した。その上病院で診断を受けた結果が出た。脇腹は強い力で蹴られたような跡があり、やはり骨折していたらしい。

 そこで小六の男の子が一発殴ったぐらいで、あれ程の怪我にはならないことが判明した。その為それまでずっと黙り続け何も説明しなかった光輝は、無罪放免となったのだ。

 学校側も、以前から早苗が家庭で暴力を受けているのではないかと疑いを持っていたらしい。それに今回の騒ぎで脇腹以外にも多数の痣が見つかり、古いものもあったことが明らかとなった。

 それに小学六年生にしては体が小さく、医者が検査をしたところ、かなりの栄養失調状態であるとの診断も下されたようだ。その結果を受け、病院側は児童虐待の疑いありと判断し、警察へ通報したという。

 小さな街では、一気にその話が広まった。テレビや新聞などのマスコミも一気に押しかけ、全国的なニュースにまでなったからだ。

 しかしその後、早苗は二度と学校に姿を現すことは無かった。

 もちろん光輝や陽子も元気な姿の彼女に一生、会うことはできなくなった。なぜなら彼女は病院へ連れて行かれた数日後、母親に首を絞められ殺されてしまったからだ。

 彼女を蹴り、普段から暴力を振るっていた父親が、警察に事情を聞かれている間のことだったという。早苗は骨折していたが、入院の必要はないと判断され、一度家に帰されたらしい。

 この病院側の見解と警察の決断、また病院に駆け付けた児童相談所の職員達の判断が甘かった。

 暴力を振るっていたのはもっぱら父親で、近所の人達からの情報だと、母親は必死に早苗をかばっているとの証言を得ていたという。だが実態は、そんな単純なものでは無かったのだ。

 早苗のせいで父親の虐待が世間にばれ、警察に捕まったことに逆上した母親は、彼女の首を絞めたらしい。連日マスコミに追いかけられ、近所からの目も厳しくなったからだろう。

「あんたのせいで、あんたのせいであの人が、あの人が」

 そう大声で叫ぶ声に異変を感じた近所の人が、家へ押しかけた時にはもう、早苗はぐったりしていたという。その彼女の体の上で、母親は狂ったように泣き叫んでいたそうだ。

 その上取り押さえようとした近所の人達の腕を振りきり、台所にある包丁を取り出して振り回した挙句、自殺しようとしたと聞く。精神的に相当追い詰められ、錯乱状態に陥っていたと思われる。

 幸いと言っていいのか、駆け付けた警官に取り押さえられ、救急車で病院に運びこまれた母親の命は、無事だった。だが暴力は振るっていなかったものの、彼女もまた早苗に対し食事を与えない等、父親とは違った虐待が明らかとなり、彼女も逮捕された。

 その事実を知らされた光輝は、泣き叫んだ。早苗の死後、彼女の葬儀が執り行われクラスの皆と一緒に参列した際も、他人の目など気にすることなく号泣した。

「僕が、僕が余計なことをしたから、僕が、僕が彼女を死なせてしまったんだ……」

 違う、そうではないと色んな大人達や陽子達も、光輝を必死に慰めてくれた。だがそんな言葉は、一切耳に入らなかった。

 あの時光輝が早苗の虐待をあんな形で暴きさえしなければ、彼女は死なずに済んだかもしれない。もっと違う形で助ける方法はあったはずだ。

 それなのに自分の未熟な力の無さを理解せず、分不相応なことをしようとして逆に不幸を招いた。あの時光輝は、過信していたのだ。彼女の苛めを阻止した自分が機転を利かせれば、今度は家庭での虐待から、彼女を助けられると自惚れていた事は間違いない。

 子供のそうした浅はかな考えが、複雑な事情を抱えている他人の家庭の内情を暴露してしまった。その顛末てんまつは、早苗の死という悲劇をもたらしただけで終わったのだ。

 光輝自身も自分の家庭がそうであったように、子供の力だけではどうにもならないことなど判っていたはずだった。しかし光輝の家では両親が離婚し、それから平穏無事な暮らしが何年も続いた。その間に、大事な事を忘れてしまっていたのだろう。

 別れた後もずっと父を庇っていた母親。そんな姿を幼い頃からずっと見守っていたはずの光輝が、家庭の問題の根深さを知らない訳は無かった。

 それなのに甘く見ていた。なんとかなるのでは、と思ってしまったのだ。そんな自分を光輝は責めた。責め続けた。

 しかしそんなことをしたからといって、もう早苗は生き帰らない。彼女の笑顔は、二度と見ることができないのだ。自分のせいで彼女が死んだという現実は、決して変わらない。

 それから光輝は、余り笑わなくなった。サッカーも辞めた。学校でも、友達と深く関わることを止めた。その代わり、勉強だけはしっかりとやった。

 休み時間はいつも一人で机に向い、参考書や問題集を開いて勉学に励んだ。その理由の一つは、前から考えていた計画を実行する為でもあった。

 光輝は学業に励み、東京にある中高一貫の学校を受験しようとしていたのだ。事前に調べていた全寮制の学校へ入学すれば、東京で生活出来ることが判った。よってその学校に合格する為、必死になって勉強をし始めたのだ。

 当初の動機は、当然お姉ちゃんが上京したからだった。しかし早苗の事件が起こった為、事情は大きく変わった。光輝はこの小さな街から一刻も早く出たかったし、そうしなければならない程、暮らしにくい環境に陥っていたからだ。

 早苗の事件は、全国のニュースで大きく流れた。その中の一部の報道では、虐待の事実を発覚させた光輝のことも匿名ではあるが、掲載した雑誌があった。

 母親の保護の元で取材は一切断ったが、その態度が余計に心無い記事を書かせたのかもしれない。光輝が思い詰めていたように、虐待を助けようとした同級生の安易な行動は、悲しい事件が起きるきっかけになった。そうした内容の記事を掲載した雑誌があったのだ。

 それに周りの人達が反応した。多くは光輝達を擁護する意見だったが、中には光輝の目の前で非難する大人もいた。

「正義感を振りかざして、格好をつけたかったんだろう。だからあんなことが起こったんだ」

 子供達の間でも女ボスを中心として、以前から光輝を気に入らないと思っていた連中が、同様の態度を示した。やがて周りに人は集まらなくなり、自分からも敢えて近づこうとはしなかった。

 全て自分がいた種だ、自分が悪いんだとの気持ちがあったからだろう。とはいっても、そんな環境に耐え続けることは辛かった。その為、この場所から早く逃げ出そうと考えたのだ。

 幸い光輝は未成年により、実名報道されなかった。まだネット社会の時代でなかった事も、その後の事を思えばとても助かったと言えるだろう。

 それならば、小さな街を出て自分を知らない大きな都会、例えば東京へ出て暮らしたい。そう母親に告げた所、一時は反対された。

 しかし何度も真剣に頭を下げる光輝の態度と、周囲の冷たい目に晒される心苦しさを察した母親は遂に折れた。最終的には無事試験に合格できたらいいね、とまで言って応援してくれたのだ。

 その学校なら授業料も比較的安く、寮に入るから生活費も抑えられる。その為母親達の仕送りで、何とかやっていけるだろうとのことだった。

 光輝は必死に猛勉強した。結果無事合格し、街を捨てて東京生活を送ることが決まったのだ。奇しくも両親が離婚した街から去ったお姉ちゃんを追いかけるように、光輝も東京へ出たのだ。

 その頃、彼女は短大を卒業した後有名な会社に無事就職を果たしていると聞いていた。住所や連絡先は、彼女と交流があった母親から聞き出し、何かあったら助けて貰いなさいと言われた。

 母親は彼女に電話でも事情を説明してくれ、嬉しいことに代わってくれた。彼女は受話器の向こうで、

「光輝、何か困ったことがあったら、いつでも私のところに連絡してね。遠慮しなくていいんだよ」

と優しく言ってくれた。呼び名は昔のような愛称ではなく、下の名前の呼び捨てだった。もう中学一年になったからだろう。あの頃の幼い自分ではないと、彼女も認めてくれた気がして嬉しかった。

 その声は何年振りかに聞くものだったが、自分の中では何も変わらない。以前のままの、温かいお姉ちゃんの声に間違いなかった。彼女の声を聞いているだけで、胸に大きく空いた穴がほんの少しだけ埋まっていく気がした。

 しばらく感じたことのなかった幸せな気分に浸り、不覚にもその時涙を流してしまった事を覚えている。光輝が東京に出てすぐの頃、彼女は会いに来てくれた。何年振りかに対面した彼女はとてもあか抜けて見え、奇麗になっていた。

 そんな彼女の顔を照れくさくてまともに見られない光輝に、向こうから駆け寄って来てくれた。身長はもうほぼ同じ位になった光輝の頭を、かつてよくやってくれたように撫でながら励ましてくれた。

「とても辛い思いをしたのに、よく頑張ったね。これから嫌な事は忘れられなくてもいいから、胸の奥にしまいなさい。新しい環境で今できる事を、一生懸命やればいいの。応援しているから」

 光輝は我慢していた涙を止められなかった。早苗が死んだと聞いた時以来、激しく泣いた。彼女は黙ったまま小さな肩で、それを受け止めてくれていた。

 東京に来てよかった、と心からその想いが湧き出てきた。またあらためて、光輝はお姉ちゃんの事が大好きになったのだ。この気持ちはまさしく、惚れ直したというものなのだろう。

 とは言っても、実際に彼女と東京で会う機会はその後なかなか無かった。光輝の入った学校は中高一貫教育の男子校で、全国から集まる優秀な生徒達全員が寮生活を送っていた。

 そこでは勉強だけでなく、日頃の生活から厳しく指導された。門限は勿論、休日の外出もかなりの制限があった。学校の勉強もかなり高度なもので授業の進め具合も早く、宿題もたくさん出た。

 さらに光輝は途中で辞めたサッカーを、この学校に入って再び始めた。学校では文武両道を奨励し、生徒は全員何かしらのクラブ活動に所属しなければいけなかったからだ。

 それなら昔やっていて、得意で大好きだったサッカー部がいいと決めた。だがクラブの練習も熱心なことに、毎朝授業の前の朝練があり、放課後も暗くなるまで続けられた。

 その練習量は他の運動部と比較しても、相当厳しい部類に入っていたと後に知る。そのせいもあり、光輝が入学したばかりの頃は休みだからといって、外に遊びに出る暇などなかった。

 またサッカーの練習でくたくたに疲れた体で、寮の部屋に戻っては授業について行く為、必死に勉強をしなければならなかったのだ。

 彼女に会いたくて仕方がない光輝だったが、そんな精神的な余裕や現実的な時間的余地も無いまま、月日はあっという間に流れた。

 身長がぐんぐんと伸び、サッカー部で鍛えた逞しい体を持った光輝は、中学三年の夏を過ぎてサッカー部を引退した。そこで僅かに時間の余裕ができたため、ようやく勇気を振り絞ってお姉ちゃんに連絡を取り、久しぶりに会う約束をしたのだ。

 東京に来て二年半の間、光輝は彼女と何度かは会っていた。だがそれはいつも光輝が心配で、母親が上京してきた時だけだった。

 昔から仲よくしていた母親が折角東京にくるからと、その時だけは彼女も何回に一回は来ていたのだ。光輝に会うことがメインでは無い。

 もちろん彼女も仕事があり、友人達と過ごすプライベートの時間だってあるのだ。中学生の光輝なんかにかまっている暇は無いだろうことは自覚していた。

 それでも東京に来て時間も経ち、光輝もそれ相応の東京における知識も地理も覚えた。だから思い切ってデートに誘ってみたのだ。

 この頃はまだ今のように携帯などまだそれ程普及していない時代だった。メールをやりとりする習慣も無い。もしこの時期にそんな便利なツールがあったら、電話で話す勇気のない光輝は、頻繁に打ち続けていただろう。

 光輝はドキドキしながら、夜遅く寮にある公衆電話を使って彼女に電話をかけた。周囲をキョロキョロと見渡しながら、冷やかす先輩や友人達がいないかを確認した。

 寮の中には、限られた場所にしか公衆電話がなかった。この電話を使って寮に住んでいる生徒達が皆、家と連絡を取ったり、友達の家に電話をかけたりするのだ。

 家から生徒宛てにかかってくる時は管理人室の電話が鳴り、生徒は寮内放送で呼び出され管理人室に入って話をする。よってプライベートの電話、例えば彼女との連絡などは、その公衆電話で話すしかなかった。

 だが時には堂々と長電話をする先輩がいたり、こっそり恥ずかしそうに喋っていたりする後輩達がいた。その周りを、冷やかしながら騒ぐ生徒達も必ずと言っていいほどいるのだ。

 それが嫌でこっそり寮を抜け出し、外の公衆電話を使おうとする生徒もいた。だが監視の厳しい寮では、無許可の外出をした場合、罰則が設けられていた。発見されると一カ月のトイレ掃除や、外出禁止などを言い渡されたりする。

 その為光輝は人がいない時間帯を狙い、寮の公衆電話へと辿り着き、心臓をバクバクと鳴らしながら受話器を取った。時間は十時を少し回っていた。

 それでも仕事で遅くなったりする彼女は、そういう遅い時間帯の方が捕まりやすいことを、母親から事前にリサーチしていたのだ。

 コール三回で出た彼女は、相手が光輝だと判ると心配そうに声を落とした。

「どうしたの? こんな遅い時間に珍しい。何かあった?」

「う、ううん。別に心配するようなことは、何も無いよ。ただ今度時間がある時に、会えないかなあと思って」

 光輝はそこから一気に頭の中で描き、何度も繰り返した言葉を吐きだした。

「この間の夏の大会が最後で、三年は部活を引退したから時間もできたんだ。お盆になる前に、お母さんも心配しているから早く田舎に帰んなきゃいけないし。でもそっちは行かないでしょ。だからこっちにいる間、一度会えないかなあと思って。いつもお世話になっているし、僕が映画でも何でも好きなところに連れていくから」

 しばらくの沈黙があり、突然彼女は笑いだした。

「なに? 私をどこかに連れて行ってくれるの? もしかして、デートのお誘いかな?」

 からかうような口調で話す声を聞き、光輝は耳まで真っ赤になっていた。電話だから、こんな姿を見られなくて済むのが幸いだった。そう思いながら、なるだけ明るい声で言い返す。

「そうそう! デート! 十五歳の若い男の子とデートだよ。そんな機会なかなかないよ!」

「えぇ~! もうそんな年になるんだ! 早いなあ、私も年取る訳だ。そうだよね。あなたからすれば、もうおばちゃんだよ」

「そんなことないよ。お姉ちゃんはまだ十分若いじゃん」

「あら! 光輝、じゃんなんて東京言葉使っちゃって! あ、それと、そのお姉ちゃんって言うのはそろそろ止めようか」

「えっ! 何て呼べばいいの?」

 光輝と名前を呼び捨てされ、再び顔が熱くなり動揺しながら聞き返した。

「そうねぇ。愛称も良いけど、私が光輝って呼んでいるんだから、お互い名前の方が良いんじゃない。だったら、あかり、さん、だね。さんはつけよう」

「あかりさん? 照れ臭いなあ。あかり姉ちゃんじゃいけない?」

「だってそれじゃあ姉弟きょうだいみたいじゃない。実の姉じゃないんだから、変でしょ」

「そうか。あかり、さん。えぇ~、やっぱり照れくさいよ」

 そんなこんなで、光輝は結局あかりねえ、と呼ぶことで妥協してもらった。

 それから会う日時は彼女の都合もあり、改めて向こうから連絡して貰うことに決まった。だが数日後、かかってきた電話で光輝はショックを受ける。

「光輝、あのね。会うのは今度の日曜日にしたいんだけど、その時私の友達も連れて行っていい? 丁度向こうの友達も光輝と同じ年の子が今度東京に来て、会う約束になったらしいの。ねえ、いいでしょ?」

 本当は嫌だと言って、ごねたかった。だが管理人室にかかってきた電話で、変に揉める話をすることは憚られる。長話になってもいけないし、会えるだけでも良しとしなければならない。

その為光輝は少しぶっきらぼうに答えた。

「いいよ。で、時間と待ち合わせ場所は?」

「いいの! じゃあ、新宿の西口のアルタ前の広場に十時でどう?」

「うん、判った」

「そう! 楽しみにしてるね!」

 そう言って彼女は電話を切った。光輝の気分はまだすっきりしないままだったが、それでも久しぶりに顔を見て話しが出来る。しかも新宿で、と考えただけで気持ちが高揚してきた。

 光輝はその時知らなかった。これから運命的な出会いをすることを。

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