りん

 私が高校生になると、かつて大好きだった日曜日は大嫌いで憎むべき日に変わった。

 それは単身赴任先の東京から帰ってきていた父が、ほとんど来なくなり、たまに戻ったと思えば母と喧嘩ばかりするようになったからだ。

 いつのまにか私へのお土産も無くなり、母も父が帰ってくるからと言って、食卓に御馳走を用意することもしなくなった。

 きっかけは、ある時母が父に黙って東京での様子を見に行ったことから始まった。やはり以前から疑っていたのだろう。予感は的中したようだ。

 父は同じ銀行の東京支店に勤める、部下の女の子と不倫をしていた。部屋の中からは、彼女のものらしき持ち物等が多数見つかったらしい。

 それを問い詰めた母に、父は白状したようだ。その女子行員とは、娘へのお土産を何にしようかと悩み相談している内、徐々に距離が縮まったという。それがやがて一緒に買い物に出かけ、深い関係へと発展したらしい。

 私へのお土産がきっかけになった事は、母に申し訳ない部分もある。だが腹立たしい事、この上ない。これまで不倫相手が選んだ物を何も知らず無邪気に喜び、受け取っていたと考えるだけで悪寒が走った。

 だが母や私が父の浮気を疑い出したのも、そのお土産からだった。年頃の娘に喜ばれるものが何かを判らない男の人が、ある時からずばり、私の好みや好きそうな雑貨を買ってくるようになったからだ。

 最初は欲しい物の名を教えたり、ヒントを与えているからと思っていたが、それだけではない、期待を上回るセンスの良いお土産を選んだりし始めてから、母はうすうす感づいていたようだ。

 私も多少は気になったが敢えて口にせず、気づかない振りをして深く考えないようにしていた。もし現実だったらと思うと、怖くてしょうがなかったからだ。

 結局疑惑は的中したのだが、それだけで終わらなかった。父もまたこっそり東京から地元に戻り、母が働くレストランの独身店員との浮気現場を目撃していたという。 

 父もまた地元の行員から、母のそうした行動を見かけたとの情報を耳にしていたらしい。以前からずっとその件を探っていたようだ。

 実は二人共、何となく気づきながら二年ほど騙し合った結果、やがて離婚をしたいと決意したのだろう。頃会いを見て相手の浮気を暴露させたらしい。

 最終的には二人で話し合い、私が高校を卒業し東京の短大に合格したのを機に離婚した。その頃には、父も東京から地元の銀行に戻ってきていた。だが母や私とは別々に暮らしていたのだ。

 母もまた付き合っていた男の人の家に、堂々と通うようになった。しかし田舎町でそんな事をしていたら、評判はすぐに広がる。

 その為通学や帰宅途中にも、近所の人達が私を見かけてはヒソヒソ、買い物に出かける度にまたコソコソ陰口を叩かれた。酷い時には指を差して露骨に大きな声を出し、両親の悪口で会話の花を咲かせているやからもいた。

 私はそんな地元から、すぐにでも抜け出したかった。だから東京の短大を受験し、家を出て一人暮らしをしようと考えるようになったのだ。住み慣れた土地を捨てて両親からも遠く離れ、自分だけの新たな道を見つけようと決心したのである。

 両親は離婚したが、幸い私の短大の学費と東京での家賃や生活費等は、二人から援助されることを約束された。ただし期間は卒業するまでの二年間のみだ。

 その後は就職するなどして、自分で生活していく事を条件に家を出された。短大を卒業したらもう成人だ。そんな娘の面倒まで見る気は無い、と二人に宣言されたのも同然だった。

 女を作って出ていった父はともかく、親権を持った母さえも新しい男との生活を考え、大きくなった娘が邪魔になったらしい。だが私にとっても好都合だった。自立出来さえすれば、彼らと縁が切れるのだとかえって喜んだくらいだ。


 時代はバブルの名残を残しつつ、徐々に景気が冷え込みつつあった頃だった。それでも東京は華々しく、短大生として近くの有名大学との合同サークルに参加すると、男の人達からちやほやされた。美人では無いけれど愛嬌を武器に出来ると思っていた私は、上手く立ち回った結果と自ら分析していた。

 豪勢な食事に連れていって貰ったり、派手なディスコで踊って遊んだり、高価なプレゼントを貰ったりもした。当然のように車を持った男子学生達が、色々な所へ送り迎えもしてくれる、当時ではアッシーと呼ばれる子まで、私の周りにはいつも数人ほどいた。

 だからと言って、軽々しく男達に体を許したりはしない。確かにその華々しい短大時代に、何人かと付き合いはした。だが深い関係になるまで至らなかったのだ。

 出会った中で一番将来性がありかつ資産家の男を捕まえ、玉の輿に乗る。そう公言してはばからない同性も、周りには沢山いた。しかしそのような女性達と、私は一線を引いた。男性達と東京の夜を有意義に楽しむ事と、将来を委ねる事は別だと考えていたからだ。

 両親の件もあり、異性なんてずっとその先も信用できる存在だとは思えなかったからかもしれない。それに短大を卒業すれば自立して働き、生活しなければならなかった。

 もちろん金を持っている男を捕まえ、さっさと結婚して専業主婦になる選択肢もあっただろう。だが二十歳過ぎの若さで、そんな決まった線路を走りたいとまでは思わなかった。

 もっと楽しみたい思いと、就職して自活したいという願望が強かったからでもある。卒業してからの備えの為、短大時代は遊びながらもアルバイトの時間は確保し、ちゃんと貯蓄していた。

 この頃、遊ぶ時のお金は男性が出すものと決まっていた風潮も幸いだった。十分楽しみながら自分のお金の消費は、時代のおかげで最小限に抑えることができたのだ。

 就職に関しても幸運だった。就職活動はバブル期よりもずっと厳しくなってはいた。けれどまだ私達の年は、大量採用をしている最後の年とも呼ばれており、なんとか大手上場企業の事務職に採用されることができたからだ。

 ただ恐ろしいことに私の入った会社は、翌年から女性の事務職すら四大卒の学生しか採用しなくなった。私達より上の世代はほとんどが短大卒で、中には高卒の人達もいるにもかかわらず、である。

 それが急に自分達の下からは、年上かつ学歴の高い後輩達が現れ、なんとも厳しい時代に突入していた。

 男性社員達はもっと厳しいようだった。採用人数が私達の年と比べて半減し、入社が決まった男性達の学歴も一流の有名私立や国立の学生ばかりだった。

 それまでいたあまり名の聞かない地方にある私立や、有名でない国立大学卒の社員達の後輩達は、一切入社できなくなったらしい。

 私達はそのぎりぎりの挟間で助けられたようだ。しかしその分、肩身の狭い思いをしなければならない世代でもあった。

「何か、私達を見下している感じがするのよね」

「まだ仕事もろくに出来やしないのに、四大卒というだけで能力があるように見られてさ」

「会社に入ったら、学歴なんか関係ないのに。まさしく女子の事務職なんかそうよ」

「だけどやりにくいわね。後輩なんだけど年上なんて」

「経理の上田うえださんなんて酷いわよ。下に入ってきた新人の子が中学の時の先輩だったらしくて、すごく苛められているって聞いた。後輩なのに敬語使ってるんだって」

「入社三年目の総務の河合かわい先輩も、高校の時の同級生が下に入ってきたみたい。会話が完全にタメ語だって言ってた。やだよねぇ。私の課には、まだ新人が来てないからいいけど」

 周りではこのような会話が、度々耳に入った。私は地方出身だったので、さすがに地元の先輩や同級生が入社してくるような偶然など、まずあり得なかった。

 だが私のいる課にも四大卒の年上の後輩、西木にしき千絵ちえという子が一人来ていた。一応周囲の男性社員や女性の先輩達による注意と気配きくばりもあり、彼女は私に対して敬語を使っていた。仕事の事でも、素直に後輩として聞く耳を持つ態度の子だった。

 だから特別揉めはし無かったが、私はなるべく彼女と接する機会を少なくて済むよう心掛けていた。また話をしなければならない時も先輩面せず、丁寧な言葉使いに徹した。

 指導しなければいけない時も、他の事務の先輩を使うなど工夫を凝らしていた。というのも職場では大人しく振る舞っていた彼女だが、裏の顔は違うと知っていたからだ。

 ある時お昼休みで同期の子と話をし、仕事が終わった後の会話を聞いた所で気付いた。彼女はかなり活発で、同期の中でもリーダー的存在だと判ったのだ。

 こういう女性を敵に回せば、いずれ面倒な事が起きる。そうした経験は、高校時代に身をもって味わっていた。ミナコ先輩がそうだった。彼女は同級生の中で、いつも輪の中心にいる人だったが、後輩達に表だってきつい言葉を吐く真似はしない。だが裏では違ったのだ。

 私が小学校から憧れていたサガワ先輩のいる高校へ入学する前に、二人が既に別れていることを知った。その原因も、噂通りにミナコ先輩に別の好きな人ができたからだった。

 サガワ先輩は高校でもサッカーをやっており、私が入学した時は二年生で既にエース級の活躍をしていた。元々サッカーが好きだった私は、高校に入って久しぶりに見る先輩の練習している姿を、サッカー場の脇から眺めていた。

 彼は昔と変わらず格好よくて人気者の為、私達の他にも多くの女性が応援に駆けつけていた。そんな中で、ある日先輩の方から声をかけてくれたのだ。練習風景を眺めていた私の姿を、偶然見つけた為らしい。

「やあ、りんちゃんだよね? 久しぶり!」

「お久しぶりです。私のこと、覚えてました?」

「覚えてるよ。中学の時もよく練習を見に来て、一緒に飯とかも食べたじゃない。美味しいお弁当も作ってくれてさ。確かタカシと付き合ってたんだよね?」

「よく知ってますね。でももう別れました。学校も別々だし」

「そうなんだ。僕もミナコとは、もう付き合ってなくてさ。彼女の事は覚えてる?」

「もちろんです! ミナコ先輩には、すごくお世話になりましたから。でもお二人が別れたと聞いて、残念でした。すごくお似合いだったのに」

「しょうが無いよ、僕は振られたんだから。あっそうだ。うちの部でマネージャーの募集をしているんだけど、りんちゃんはサッカー好きだったよね。どう? マネージャーにならない?」

「マネージャーですか?」

「うん。志望者は結構いるんだけど、仕事が大変だから入ってもすぐ辞めちゃう子とか多いんだ。それでしっかりと、長くやってくれる子を探しているんだけどなかなかいなくてね。りんちゃんは昔、よくミナコと一緒にサッカー部の手伝いとかしてくれていたし、何ていってもサッカー好きだからね。もし応募してくれたら、僕が推薦するよ。合格は間違いないと思うしさ」

 そんな誘いもあって、私は高校サッカー部のマネージャーをやることになったのだ。だが大変だったのはそれからだった。

 先輩の後押しでマネージャーになったと知った、彼を応援している女子達から、私は睨まれるようになったからだ。そこには同級生だけでなく、先輩達も多くいた。

 さらにかつて可愛がってくれ、先輩とは別れたはずのミナコ先輩でさえ、私をうとんじるようになったのだ。しかも彼女は表だって直接攻撃することは無く、また面と向かえば昔のように優しい言葉をかけてくれ、笑みさえ浮かべてくれた。

 だが、目の奥は笑っていない。しかも彼女は裏で私が気に入らないと、周りの友人達に漏らしていたようだ。その為リーダー格の彼女の意向に沿った形で、その女子の先輩方が色んな形で私を苛めるようになった。

 私がボール拾いをしていると、ミナコ先輩の取り巻きの女生徒達が、コートの外に転がったサッカーボールに、ガムや時には犬の糞を擦りつけてから渡すようになった。

 それを拭いたり磨いたりさせる陰険なものから、廊下ですれ違うなり、わざと思いっきりぶつかってくるような直接的なものまで様々な事をやられた。

 私はサガワ先輩と、付き合っていた訳でも何でもない。ただ目をかけられただけだ。それでもミナコ先輩は、自分が捨てたはずなのに、彼と仲良くなる女が気に入らなかったようだ。

 結局私は、適当な理由をつけて半年足らずでマネージャーを辞めることになった。

「なんだよ。りんちゃんだったら、長く続けてくれると思ったのに。すごく一生懸命やってくれていたし、他の部員達からも評判良かったんだぜ。もっと続けてくれよ」

 何も知らない呑気なサガワ先輩は、そう言って引き留めてくれた。だがそうする訳にはいかなかった。くだらないことで、高校生活を嫌な思い出ばかりにしたくない。

 それに当時は家庭内でも、ゴタゴタし始めていた頃だった。だから少しでも、煩わしい事に関わりたくなかったのだ。

 私がマネージャーを辞めてサガワ先輩から遠ざかると、それまであった苛めはすっかり影をひそめた。冬を迎える頃には私も新たな恋をし始め、そのような災難に巻き込まれていたことすらすっかり忘れてしまうほど、充実した高校生活を送ることができた。

 そうした体験を経て、同性からの嫉妬や反感を買うほど恐ろしいものは無いと知ったのだ。その為かなり警戒するようになり、鼻が聞くようになっていたのだろう。

 その感覚が、千絵は危ないと警告していた。だから私は彼女を敵に回すことがないよう慎重に行動をし、言動に気をつけていた。彼女はかつてのミナコ先輩と、同じ匂いがしたからだ。

 すらりと背が高く、髪の長い彼女は目鼻立ちもはっきりしていていわゆる美人系だ。といって笑った顔も愛嬌があり、他の四大卒と違って気取ったところを感じない女性でもあった。

 だから男性社員達から人気があり、また彼女の同期である女性達の中心的人物にもなれたのだろう。

 そんなある日、私の隣の課で入社二年目の同期でもある岸本きしもと愛可理あかりが、千絵達一年目の四大卒女子との揉め事に巻き込まれた。きっかけは、彼女の下に配属された樋口ひぐち裕子ゆうこという一年目の子が、仕事上でミスをした事だ。そのフォローを、愛可理が手伝う羽目になった一件からだった。

 裕子には、入社六年目の中堅である遠藤えんどう先輩が教育係としてついていた。その遠藤が課長の指示により、お昼一時から開かれる会議に必要な資料の用意を、裕子と二人で行う予定だったらしい。

 その為会議の前日から依頼され準備をしていた遠藤達は、会議が開かれる午前中の十時頃までに、資料を揃え終えるはずだった。

 しかしあろうことか、裕子が大事な資料の一部を誤ってシュレッダーしてしまったのだ。遠藤達は慌てて資料を揃え直したけれど、先輩自身が別の会議に出席しなければならなかったという。その為残りの準備を、愛可理に託したのだ。

「お願い、岸本さん。シュレッダーしてしまった資料はもう揃え直したから、後は他の資料と順番通りに並べて、二十部コピーしたらホッチキスで止めるだけなの。樋口さんと一緒に、資料がちゃんと会議に間に合うよう見てあげて」

 そう愛可理に告げた遠藤は、十一時十五分ほどから席を外して出て行った。資料は会議が始まる一時より三十分前の、十二時半までに仕上げればよかったという。

 そこで愛可理は簡単な作業だと思い、お昼の時間を他の事務員と交代して貰った上で、裕子のフォローについた。私達の会社では、女性事務員が誰も課の中にいなくならないようにと、昼食時間を十一時半からの一時間と、十二時半からの一時間に別れて取ることになっていたからだ。

 その日の愛可理のお昼は、早番の十一時半からだった。だがそうなると資料の準備ができない為、遅番の子と代わったのだろう。

 しかし問題はそこから起こった。遠藤先輩が見本として用意した資料を、集めた原本の通りに並べいざコピーをする際、裕子は再びミスをしたのだ。

 一部の資料の順番を誤った状態で二十部コピーしてしまい、あとはホッチキスで止めるだけ、という段階でその間違いに愛可理は気がついた。

「ちょっと樋口さん、順番間違っているじゃない! 見本通りに入れ替えないと!」

 その時点で、丁度十一時時半を少し回ったところだった。よってもう一度順番を並び替え、二人でセットすれば会議三十分前には十分間に合う時間だった。

 だがそこで千絵が、他の一年目の女性達と連れ立って、同期の彼女を呼びに来たのだ。

「裕子も今日、お昼は早番だったわよね。来月の三連休で行く温泉旅行の打ち合わせをしなきゃいけないから、早く行きましょう」

 彼女達一年目は入社して半年が経ち、少し会社に慣れてきた時期でもあった。だからか十一月の三連休を利用し、仲のいい同期達で旅行に行く計画を立てる余裕も出てきたのだろう。 

 しかしそうした考えや慣れが、仕事上の油断や緊張感の欠如を生み出していた。裕子のミスも、そんな一つの現れだったかもしれない。

「ごめんなさいね。樋口さんは急ぎの仕事があるのよ」

 愛可理はそう言って、チラリと裕子を見た。当然彼女もこの状況なら、お昼の当番は遅番に交代しているものだと思っていた。もしまだであれば、他の事務員の子と代わって貰わなければならない。そう考え、依頼し易いように気を利かせて言ったつもりだった。

 しかしお昼の当番は、遅番より早番の方が人気は高い。早番の方が、会社の周りにある店は空いているからだ。遅番だと空いてくるのが、一時近くになってからになる。

 その為評判のいいお店だと、混んでいてなかなかすぐに座れなかったりする。それが十一時半からなら、余裕を持って入ることができるのだ。

 そこで裕子の口から出たのは、驚くべき言葉だった。

「すいません、岸本先輩。私達、どうしても早番で食事して旅行の打ち合わせをしなければいけないので、後はお願いできますか?」

 一瞬この子は何を言っているのだろう、と我が耳を疑ったらしい。これには愛可理も怒った。

「何言ってるの! これって元はと言えば、あなたが遠藤先輩とやるはずだった仕事でしょ! それにあなたのミスが重なって、とっくに仕上がっているはずが、今までかかっているんじゃないの。私はあくまで手伝いなんだから、あなたが最後まで責任持ってやりなさい。食事は遅番の人と交代してもらえばいいでしょ!」

「裕子さん、それって後どんな仕事が残ってるの?」

 千絵が愛可理の叱咤をまるで無視して、彼女に尋ねた。

「後は並べ替えて、セットするだけなの」

 そう抜けぬけと答えた言葉を聞き、今度は千絵の口から信じ難いセリフが発せられた。

「じゃあ四大卒のあなたしかできない仕事ではないでしょう。短卒の人だって、誰だってできる仕事じゃないの」

 この時の会話は偶然、私も聞いていた。余りにも露骨な差別発言に愕然とした。ちょうど他にも短大卒の先輩方が聞いていたけれど、同じ思いだったに違いない。

 言葉を失っている愛可理に、千絵は止めを刺した。

「じゃあ、裕子は私達と一緒に行きますので岸本先輩、後の事はお願いしますね」

 そう捨て台詞を残すと、彼女達はそそくさと部屋を出て行き、外へと食事に出かけてしまった。

「何、今の口の聞き方!」

 これには愛可理よりも、周りで聞いていた他の諸先輩達が怒りだした。しかしそこで何を言っても、やらなければいけない仕事が残っている事には変わらない。

 愛可理は先輩達が数人で集まり、千絵達の悪口を言い合っているのを余所に、黙々と一人で資料の整理をし始めていた。

 コピー機が発達した時代であれば、この程度の資料のセットは一瞬にしてホッチキス止めまでして終わっていただろう。だから例え食事を終え十二時半に戻ってからやっても、間に合う程度の仕事だ。

 しかし当時のコピー機に、そんな便利な機能は付いていなかった。速度もそれほど早くない。用紙をホッチキス止めするのも手作業だ。その為一人で十二時半までに終わらせるのは、そう簡単な作業で無かった。

 見るに見かねた私は、同じ課の先輩に断りを入れて彼女の手伝いをすることにした。周りにいた人達も仕事の依頼内容と経緯から、間に合わせなければならない仕事だとすぐ理解したようだ。よって別の課の仕事を私が手伝う事を咎めず、好意的に受け止めてくれた。

「りん、ありがとう」

「いいよ。さっさと終わらせて、お昼は一緒に食べよう。資料さえ揃えてしまえば、後は遠藤先輩に任せればいいから」

「うん、そうする」

 やがて資料の準備は無事整い、会議室に運び二人でセットされた二十部を並べ終わり、席に戻ってきたのがちょうど十二時半だった。

 するとそこで別の会議を終えた遠藤先輩が、他の事務員から事情を聞き終え戻っていたらしく、激怒している所に出くわした。

「岸本さん、準備は終わったのね? お疲れさま! 今川さんも隣の課なのに、手伝ってくれて有難う。でも樋口さんったらなんて子かしら! 自分のミスで余計な時間がかかったというのに、あれからまた失敗した事を棚に上げ、しかも先輩に押し付けて自分は旅行の打ち合わせですって! 西木って子もいい加減にしてもらわなきゃ! 入社半年程度しか経っていない、大した仕事もできないひよっこが四大卒だ、短大卒だって言える立場じゃないのよ! これはもう、私が注意するだけじゃ済まないわ! 課長や男性社員からも、しっかり注意して貰うから!」

「そうよ。あの子達、四大卒だからっていい気になっているんだわ! ここでビシッと言っておかないと、私達の気も治まらない!」 

 日頃からの鬱憤も溜まっていたのだろう。ものすごい剣幕でやりとりしている諸先輩方に、圧倒されていた愛可理と私はしばらく固まっていた。しかしそこで声がかかった。

「二人は行っていいわ、お昼でしょ。後はこっちで対応するから」

 遠藤に指示され、私は愛可理と一緒に昼食を取る為外に出た。すると偶然にも、食事を終えた千絵達とすれ違ったのだ。時間はもう十二時半を少しまわっている。

 しかも仕事が無事終わったかどうかの確認も無いまま、彼女達は軽く目礼だけして通り過ぎて行った。愛可理はもうこの時点で、何も言う気が失せていたようだ。

 少しお店が空き始めた七百円の洋風ランチを出しているお店に、私達は入った。パスタとサラダのついたセットを注文し、先程までの気分の悪い話題に全く触れることなく、

「りんは今度の連休、どうするの?」

「どうもこうも、大人しくお家でのんびりしてようと思って。出かけたってどこも混んでるし、お金を使うだけだからね」

「そうだよね。私もお金貯めないといけないから、無駄使いできないし。でもずっと家の中で一人ってのもねぇ」

「じゃあ、二人でどこかぶらりと、ウィンドウ・ショッピングでもする? お金かからないから。でも外でお茶するくらいは使うけど」

「いいね。どこにいく? 渋谷? 新宿? それとも銀座?」

などとこっちはこっちで、気楽な話題をして盛り上がっていた。二人はとても気があう仲だった。

 私が愛可理と知り合ったのは、今の会社に入る為の入社試験面接を受けている時だ。たまたま席が隣で声をかけあったのが最初だった。そこで二人には、共通点が多くあった事を知ったのである。

 例えば二人とも地方から短大を受けて上京し、今は一人暮らしで東京の会社に入る為就職活動をしている点。また二人とも一人っ子の一人娘である点。

 だが一番は、二人共が“あかり”という名だったからだ。私は星に凛と書いてあかりと読む。だが幼い頃から “りん”と呼ばれることが多かった。その為私は彼女を“あい”と呼んでいた。

 他にも両親が離婚していて、就職し社会人となって自立できれば、もうどちらの親の世話にもなりたくないと思っている点も全く同じだった。

 二人は入社式で再会し、隣同士の課に配属されて仲良くなった。どこか同じ匂いを感じた二人が親しくなるのに、時間はかからなかった。

 休日には一緒に出かけ、お互いの家を行き来するほどになり、泊まっていくことも多々あった。一人っ子同士なのに、まるで昔からの仲の良い姉妹のような関係だった。

 考え方も行動も、二人はよく似ていた。女の子同士で何人かでつるみ、あの子はどうだ、この子はどうだと陰で悪口を言い、表面上ではそんな素振りも見せず付き合うことを私達は嫌った。

 だからといって、女子達と距離を置くわけでもない。グループの輪には入るが、そうした話題になるとなるべく避けるよう気を付けていただけだ。

 争いごとも好きでは無い。嫌な事があったとしたら何も言わず、ただ再び同じ問題が起こらないよう注意した。近づかない事を心掛け、人となるべく関わらないようにするのが私達だった。

 今回の千絵と裕子の件も、正直言えば腹は立つ。だがそういう人達だから、今後は特に気をつけようと思っただけだ。怒りを抑えきれず、何か言おうとまでは考えてもいなかった。

 その感覚が彼女も同じだった。今回最も被害を受けた彼女なら、愚痴を吐き続けたとしても仕方がない。だがそうしなかった。裕子の人間性を、彼女もある程度予測していたからだろう。

 呆れてはいたが、改めて頭に血を上らせはしなかった。

「あそこまで自分勝手だと、ちょっとすごいね」

 彼女は会社を出る時、そう一言呟いただけでお昼の時間はその話を避けていた。そんな私も、彼女と楽しく食事をし終わり会社に戻る頃には、そんなトラブルがあったことすら忘れていたほどだった。

 しかし私達が会社に戻ると、そこには厳しい現実が待っていた。昼食から戻ってきた愛可理を見るなり、遠藤は席を立った。

「ちょっと岸本さん、待ってたのよ。一緒に会議室に来て頂戴。今川さんも来てくれないかな。あなたの課の人には、しばらく席を外す許可を既に取ってあるから」

 有無を言わさぬ勢いに釣られ、二人は自分の席に座る間もなくそのまま彼女の後について、会議室へ向かうこととなった。

 その僅かな間に私は自分の課の席に視線を移すと、いってらっしゃい、お気の毒にねぇという目で見つめていた課の先輩を見つけた。 

 その為軽く頭を下げ、席を外す事を申し訳ないと思いながら、千絵の所在を確認した。だが彼女はいなかった。愛可理の課にも、裕子の姿は無かった。

 ということは、これから向かう部屋に彼女達がいるのだろうか。遠藤が私達の目の前にいるのなら、別室で千絵達は課長ないし男性社員か誰かに、叱られているのだろうか。

 そう予想しながら彼女に促され、会議室のドアを開けて入った私達は驚いた。

 そこに男性社員は誰もおらず、遠藤率いるおつぼね様軍団と私達の同期である入社二年目の子達、さらにもう一つ上の先輩達、合わせて総勢十数名が、腕を組んで千絵達を睨み据えていたからだ。

 対して千絵達も負けてはいない。そこにいたのは千絵と裕子だけでは無かった。彼女達の同期、つまり入社一年目の大卒の子達が十名ほど集まり、お局様達に対抗する姿勢で立っていたのだ。

「あなたが岸本さん? 隣の子が今川さんね」

 顔だけは知っている、入社二十年は経っているだろうベテラン女性事務職の大橋おおはしという人が、会議室に入ってきた私達の顔をちらりと見た。背はそれほど高く無いが、年齢も四十近いだけあって貫禄充分の姉御だ。

「さあ、まずは謝って貰いましょうか、樋口さん。あなたのやったことは職務上、大変無責任で先輩である岸本さんに迷惑をかけた。判るわね? それとあなたがいない分を、隣の課なのに手伝ってくれた今川さんにも、ちゃんと頭を下げてお礼を言いなさい」

 え? そんな、と身を引いた私達に、すっと集団から一歩前に出た裕子は、意外にも素直に頭を下げた。

「岸本先輩、仕事を任せきりにして申し訳ございませんでした。今川先輩もお手伝いして頂き、有難うございました。ご迷惑をおかけして済みませんでした」

 彼女は想像していたよりも、ずっと落ち着いた声だった。反省している気持ちは、全く伝わって来ない。だが自分の非を認めた点は、それなりに感じ取れる謝罪の言葉だった。

 そう言われてしまえば、こちらから何も付け加える事は無い。諸先輩方が沢山いる中で、何かこれ以上裕子を叱るのは愛可理も必要ないと判断したのだろう。黙って頷いていた。

 私の立場では、一言お礼と謝罪があれば十分だ。手伝いをしたのも、あくまで私の自己判断だ。裕子が今後そのようなミスをしなければ、元々別の課の子だから何も言うことなど無い。だから私もその横で同じく静かに頷いた。

 だがそれだけではいけなかったようだ。

「なによ、それだけ? 腹が立たないの、あんた達。この子達が何って言ったのか覚えてる? 先輩の私達が短卒だと馬鹿にしたのよ! だからこんなに皆が、集まってきているんじゃない! これで済む訳ないでしょ!」

 大橋の近くに立っていたお局の一人が、こちらに向って怒鳴った。あまり見たことの無い人で、愛可理も私も思わぬ所からの攻撃により、たじろいでしまった。

 そこで遠藤が間に入った。興奮しているお局様に対し、顔を引き吊らせながら冷静に説明をしていた。

「いえ、樋口さんは何も言っていないんですよ。確かにこの子は自分で二回もミスをして、資料を揃える仕事に余計な時間をかけました。にもかかわらず私がいないことを利用し、フォローに入ってくれた岸本さんに押し付け食事に出かけた。その点については、先程から彼女は悪いと思い、反省して謝罪をしているのですから」

 だがお局の怒りは収まらない。

「そんな事は、さっきから何度も聞いて判ってるわよ! 資料を揃える仕事は“四大卒のあなたしかできない仕事ではないでしょう。短卒の人だって、誰だってできる仕事じゃないの”と言ったのは、この西木って子でしょ! でもね。この子も口にしなかっただけで同じように思っていたから、自分は遊びの相談をしたくて岸本さんに仕事を押しつけたんじゃない! 短大卒で年下の岸本さんを馬鹿にしていたのよ! 私が怒っているのはそこなの! 岸本さん、あんな仕事上の謝罪をさせただけじゃ済まないわ! これは私達全員に対しての侮辱なの! もっと叱りなさい! あなたは馬鹿にされたのよ!」

 ここで黙って立っていた千絵が、すっと前に出て発言した。

「これも先程から何度もご説明しましたけれど、樋口さんがそんな言葉を一言でも発したのですか? 彼女は言っていませんよね。四大卒云々うんぬんの話は私が言ったことで、樋口さんは私達の昼食の誘いを断れずに席を外しただけです。それで自分のミスにより、遅くなった仕事を岸本さんに手伝って頂きました。その事は反省していると、何度も言っていますよね。だから今彼女はその件について、ちゃんと謝ったじゃないですか。それとも謝罪の仕方が悪いとでも言うのですか? 土下座でもしないといけないのですか?」

 敬語を使いながらも、背が高く目がきりっとした迫力のある顔で千絵が見下ろすようにそう告げると、お局様は一瞬その勢いに押されそうになっていた。

 だが大卒だからと言って、入社一年目の新人に言われっぱなしのお局様では無い。年も上で社会の荒波を乗り越えここまで働いてきた強者つわものは、そこから一気に畳み返した。

「あんたが何偉そうなこと言ってんの! そうよ! 第一あんたが、四大卒がどうの、短卒がどうのって言い出したからこんな騒ぎになってるんでしょ。あんた、入ってきたばかりの新人のくせに仕事の何が判ってるの。四大卒の何が偉いのよ、言ってみなさい!」

 千絵も負けてはいない。お局様の目を上から見下みくだすような態度で反論した。

「少なくとも短大卒の方々より、しっかりと勉強をして大学に入り、四年間という時間をかけより深く学んでいます。それは会社も認めているんじゃないんですか。大卒の私達と短大卒の方とは、基本給も違いますよね。これってそういう事ではありませんか」

 確かに私達の会社で事務員は短卒が多いけれど、四大卒の先輩も中にはいる。その人達は同じ仕事をしているというのに、短大卒よりも基本給が高く設定されていた。だがその逆もある。高卒の先輩方は短卒の人よりも基本給が低かった。

 千絵達の年代になると事務職は全て四大卒になったが、やはり私達より高い基本給で入社している。その為一年目と二年目における逆転現象が、年齢だけでなく給与においても起きているのが現状だ。

「だから何? 一年目のあなた達が二年目の先輩よりも年上で給与が高いから、四大卒じゃなくてもできるような仕事は、短大卒の先輩にやらせておけばいいって事なの? あなたの言葉は、そう言っている事と同じなのよ! あなたは短卒の私達先輩に、喧嘩を売っているのよ!」

 興奮するお局に対し、千絵はあくまで冷静に反論した。

「喧嘩を売っている訳ではありません。ただあの時、私が樋口さんに聞いたところ、残された仕事は書類を二十部並べ直し、ホッチキスで止める作業でした。それは四大卒の彼女じゃなきゃできない仕事ではなく、誰でもできる仕事なのよね、と確認をしただけです。それにあの時間は樋口さんも私達も、お昼の時間でした。昼食を取る為の休憩は、労基法に基づいて決められた労働時間では無い休み時間です。誰もが持つ当然の権利です。その当然の権利を行使したことは、間違いじゃありませんよね?」

「何が権利よ! 新人の分際で何を権利、権利って自分勝手な主張しているのよ!」

「権利を主張するのに、新人もベテランも関係ないと思います。それなら先輩は、労基法に違反してまでもお昼の休み時間を削って仕事をしろ。そうおっしゃるのですか。それならそれで私達も上司にその旨を報告し、法に違反する業務命令であることを抗議します」

 私と愛可理はうんざりしていた。どんどん話の論点がずれていく。結局は互いが気に入らないので、今回の機会を利用し抗争しているようなものだ。

 第一ここで言い合いしている人達とその周りを取り囲む人達は、業務時間中なのに何故集まってきているのか不明だ。

 この場の話し合いではせいぜい、当事者の千絵と裕子、愛可理と私や仕事を依頼した遠藤、さらに事務職のトップとして指導教育する責任者の大橋、の六名がいれば事足りるだろう。

 だからいま千絵と口論しているお局様やそれを取り巻くお局様軍団と、千絵の周りにいる新人達合わせて十名ほどの面子は、仕事をさぼる理由をつけてここにいるのではないかと思ったほどだ。

 そう考えていたところに、会議室をノックして入ってくる男性職員がいた。

「何をやっているんだ、こんな所で」

渡部わたべ課長! すみません。会議は終わられたのですか?」

 遠藤が慌てて課長に今回の騒ぎについて、早口でかつ簡潔に説明をした。渡部は遠藤や愛可理が所属する課の上司で、今回の資料を揃えるよう指示した張本人だ。

 入社十八年目の四十歳で、若手のやり手課長として有名らしい、とだけは私も聞いていた。確か早稲田の政経学部を出ており、その年代の中でも出世頭の一人だという噂を、耳にしたことがある。

 遠藤の話を頷いて聞いていた彼は、一通りの経緯を理解するとすぐさま指示をした。その声は落ち着いて静かだったが、厳しさが含まれていた。

「だったら、ここには大橋さんと遠藤さん、西木さんと樋口さん、岸本さんと今川さんが残って下さい。後の人達はすぐ職場に戻り、自分の仕事をして下さい」

 その言葉に、先程まで千絵と口論していたお局様が何か言おうとしていた。しかしさらに年上である大橋がその口を制し、他の事務員達にもすぐ職場に戻るよう促した。

 千絵の周りにいた新人達は、課長の登場ですっかり怯えてしまったらしい。先輩達との対決姿勢を見せ、目を吊りあげていた顔は一気に青ざめ、逃げるようにそそくさと会議室から出て行った。

 私は僅かな時間で状況把握した課長の的確な判断に驚いたが、よく考えれば当然の成り行きだ。

 課長は女性達が残した六人だけになると、再び口を開いた。その第一声は以外にも、私に対してのものだった。

「今川さん、悪かったね。隣の課なのにうちの課の会議資料作りを手伝わせちゃって。後で僕から君のところの課長に、お詫びとお礼をしておくよ。ありがとう」

「い、いえ、そんな。ただ岸本さんが大変そうだったから手伝っただけで、たいしたことはしていません」

 頭を下げた彼に対し、恐縮して声が裏返りながら両手を振ってさらに頭を下げた。

「いや、そのたいしたことの無い仕事でこんな騒ぎに巻き込まれたんだから、いい迷惑だよ」

 顔を上げた課長の目は、にこやかに謝った先程の優しいものとは打って変わり、険しくなっていた。他の人もその変化に気づいたようで、場の空気が一気に引き締まる。

「まずここではっきりさせよう。まず短卒の人達より基本給与が高い四大卒の樋口さんが、会議資料を揃えて用意するという仕事を二回もミスし、必要以上に時間がかかってしまった事だ。ただしそこには、六年目のベテランである遠藤さんがついていながら起こっている。この問題点としては遠藤さんの指導不足と、樋口さん自身の仕事に対する緊張感、または集中力や責任感が欠如していた事が挙げられる。そこはいいね?」

 彼が二人の目を見て、確認をする。裕子は黙って頷いただけだったが、遠藤は課長に謝罪した。

「申し訳ございませんでした。今後、後輩指導において更なる注意を致します」

 それを見た裕子は慌てて自分も、すみませんでしたと頭を下げた。課長は彼女が顔を上げるのを確認して軽く頷き、さらに続けた。

「よし。では次に樋口さんが二回目のミスをした為、資料の準備がさらに遅くなってしまった。しかし遠藤さんには、十一時半から別の会議が入っていたんだね。その時間までに、僕の頼んだ仕事は間に合わせるつもりだったけれど、それができなくなった。だから止む無く岸本さんに後を頼んだ。それで間違っていないね」

 遠藤が頷いた。

「はい、申し訳ございません。別の会議の方は、私が議題を進める委員の一人でした。その為急遽欠席する訳にはいかないと思いながらも、ぎりぎりまで準備しました。資料をコピーして止めるという単純作業の段階まで見届け、後は岸本さんと樋口さんの二人だけでもできると判断し、お願いしました」

「そうだね。その遠藤さんの判断と指示は、特に間違っていなかったと思うよ。岸本さんは、本来早番だった食事時間を他の遅番の人に代わってもらい、遠藤さんの依頼を引き受けた。そうだね?」

 今度は彼が愛可理の方を向いて確認を取る。彼女はびくっとしながらも、小さな声で返事をした。

「はい、そうです」

 そのやり取りを聞いて、裕子や千絵は顔をしかめていた。どういう話の展開になるかが、徐々に読めてきたのだろう。

「しかし岸本さんが樋口さんと残りの仕事をしようとした時、西木さんが樋口さんに声をかけた。早番の昼食時間に、話し合いをする約束をしていたからだね。だから樋口さんは決められた早番の通り、仕事を岸本さん一人に任せて席を離れた。それを見て一人だと大変だからと思った隣の課にいた今川さんが、早番の食事時間だったにも拘らず他の人に代わってもらい、岸本さんを手伝った。そのおかげで仕事は無事終え、資料は揃い終わり僕達が会議を行う部屋に用意をしてくれた。遠藤さんから受けた指示を終えた後、十二時半になったので、二人は食事に出かけた。そうだね?」

 もうこうなったら、皆が黙って頷くしかない。それを聞いている大橋だけが腕組みをして、千絵や裕子の表情を睨みつけていた。課長の話はまだ終わらない。

「会議を終えて戻ってきた遠藤さんがその状況を聞いて驚き、食事を終えて戻ってきた西木さんと樋口さんに注意をした。加えて事務職全体の指導役でもある大橋さんに相談した所、その間のやりとりを聞いていた周りの先輩方が集まって騒ぎだした。さらに西木さん達の同期も、先輩達の攻撃に対抗するかの如く集まりこの会議室で話し合っていた、ということだね? そんな必要が本当にあったのですか、大橋さん?」

 彼は年齢が上である彼女に敬語を使いながらも、厳しい口調でそう尋ねた。

 それまで腕組んでいた大橋も虚を突かれて腕をほどき、手のやり場に困りながら目をきょろきょろしていた。だがその様子を静かにじっと見ている課長に対し、しばらくしてから非を認めた。

「申し訳ございません。私の教育不行き届きの為、騒ぎを大きくしてしまいました。今いる六人で話をすれば十分だったと思います」

 彼女はそこで課長に頭を下げた。彼は頷いて言った。

「そうですね。次に岸本さんはどうですか? あなたに落ち度はありませんか?」

 私は驚いた。それまで遠藤先輩や大橋が謝った点については厳しいとは思ったけれど、確かに課長の言う通りなのかもしれない。けれど急遽遠藤から言われた仕事を手伝った愛可理に、責任があるとは思えなかったからだ。

 しかも先程から彼は、チクリチクリと千絵や裕子達への非難をしながらも、直接叱ることをまだしていない。その対応に私は疑問を感じ、納得できない想いが湧いてきた。

 それでも彼女は、課長の意図を理解したらしい。

「申し訳ございませんでした。先輩として遠藤さんから受けた仕事の意味をしっかり理解した上、樋口さんと二人でやるべきでした。それを彼女に伝えきれないまま、隣の課の今川さんにまで迷惑をかけてしまったことは、間違っていたと思います」

 そう言ってお詫びした。彼はそれを聞き、笑みを浮かべながら首を縦に振った。

「そうだね。受けた以上、その仕事を全うする責任が生じる。今回の仕事の意味は岸本さんが言った通り、資料を揃えて準備する事だけではない。言っている意味が判るかな? 樋口さん」

 先程までより、比較的優しい口調で話しかけた。それでも彼女は消え入りそうな声で、はいと答えるのが精一杯だった。その横では、千絵も真っ赤な顔で下を向いていた。

「そう。人は誰だって失敗をする。しかも君はまだ一年目の新人だ。ミスをして、仕事をする時間が人よりかかっても仕方がない。でもそれは、最後まで自分でやり遂げてこその話だ。お昼の時間を取るな、とは言わない。休憩時間は、法律で決められている事だからね。だけどここで考えて欲しい。なぜ仕事の合間に、休みを取らなければいけないのか。それは次に仕事をしっかりと行う為、途中で十分な休養が必要だからだ。遊びの為じゃない。それは判るよね? だから君は今日のようなことが起こった時、どうすれば良かったと思うのかな?」

 もう答えは決まっている。裕子は俯いていた顔を何とか上げて、潤んだ目で課長を見た。

「岸本さんや今川さんが自発的に行った通り、他の人とお昼の時間を交代すべきだったと思います。私のミスにより時間がかかり遅くなったのですから、岸本さんに手伝って頂き最後までやるべきでした。申し訳ありません」

「そう。判ってくれたならそれでいい。今度からはそうしてくれれば助かるし、今回の件を生かして今後仕事上のミスが少なくできればそれでいい。そのフォローを同じ課の教育係である遠藤さんが行い、同じく課の先輩である岸本さんが、相談に乗るなどして声をかける。そういった全体の事務職の動きを把握し指導するのが、大橋さんの役目だ。判ったね」

 裕子は深く頷いていた。遠藤も愛可理も大橋も、はいと短く返事をした。

 これで残されたのは千絵だけだ。ずっと黙って目を伏せている。課長がようやく彼女に目を向けて話しかけた。

「さて、西木さん。君は樋口さん自身がミスをし、作業が遅れている事を知っていたにも拘らず、昼食に誘ったのかな?」

「い、いいえ、知りませんでした」

「ではその訳を知っていたら、誘わなかったかな?」

 彼の問いに、千絵は黙ってしまった。おそらく彼女が昼食から戻った後の発言を考えれば、それは無いだろう。元はと言えば裕子のミスから始まった騒ぎであることを、本人や他の人からも聞いていたはずだ。

 それでも強気で先輩達に食ってかかったのは、根本的に自分達が四大卒だという、高いプライドを持っていたからだろう。課長はその点を見抜いていた。

 何も答えない為、彼がもう一度語り掛けた。

「なあ、西木さん。君が卒業した大学を誇りに思うことは、悪くない。だからと言って、他の大学を卒業した人達を軽んじる態度は感心しない。少し考えれば判ることだ。君よりも有名で一流と呼ばれる大学を卒業した人達に、あなた自身が馬鹿にされたらどう思う?」

 四大卒といっても、千絵の大学は課長の卒業した大学と比較すれば、世間的に劣る。その意味が理解できない彼女では無かった。そこで素直に首を縦に振った。

 それでも口を開かない彼女に対し、彼は言葉を続けた。

「それにね。社会に出て働いて通用するのは、学歴等の肩書では無い。一応それなりの学校を出ている私が言うのだから、負け惜しみじゃないことは判るよな。十八、九歳の高校生や浪人生がたかだかペーパーテストができた、できないだけで決められた受験勉強の成果だけだろう。会社での仕事は、それだけで通用するほど甘くない。君達だって、それぐらいの事は判っているはずじゃないのか。しかし四大卒だ、短大卒だなんてまだ言っているのは、それを認めたくないだけなんじゃないのか」

 痛い所を突かれたからだろう。明らかに彼女の顔からは、血の気が引いていた。短卒でも高卒でも、自分達より学歴が低いと言われる人達の方が仕事はできるとの現実を認めたくない。そうした心理が働くのは、私だってそうだ。 

 大卒の彼女なら、その傾向はもっと強いだろう。だから学歴にしがみついていると言われ、否定できないに違いない。浅はかな考えであることは、私でも気づくことだ。

 彼はその点を強調した。項垂うなだれて何も言えなくなった彼女に対し、あくまで諭すように言った。

「その程度のプライドは、今すぐ捨てなさい。君達はもう学生じゃないんだ。既にお金をもらって働く、プロなんだよ。プロというのは自分の能力、働きによって得た成果の対価としてお金を貰うんだ。そこに肩書は関係しない。例え大卒と短卒の給与が違ったとしても、それは仕事の成果をより高く求められることを意味する。給与が高いから偉いのではない」

 私は話を聞きながら、入社した時に言われたことを思い出した。最初の数年程度の間は実際の能力や成果より、会社は高い給与を払っている。いわば先行投資だ。給与に見合った仕事ができ、または給与を上回る仕事ができたと公言できるのは、せいぜい十年を超えてからだ、と。

 課長はその事にも触れながら、徐々に言葉が厳しくなった。

「まだ君達の年次で、この仕事は自分達じゃなくてもできる仕事だとか、こんな仕事をやるために大学を出たのではない等と言えるほど働いていないだろう。勘違いしてはいけない。今後そのような判断で仕事をすることや、先輩達をさげすむ態度はつつしみなさい。いいね」

 千絵が涙を流しながら頷いたのを確認して、課長は全員に解散を命じ、それぞれが職場に戻った。

 その後彼の言った言葉は職場全体に広がり、千絵達の同期が先輩達に楯つく行動や行為は目立たなくなった。あれほど胸を張って歩いていた千絵などは、私や愛可理の顔を見るのも恐ろしいのか、やたらと避けるようになった。

「りんだけじゃないわよ。樋口さんも私や遠藤先輩には、もう頭が上がんないって感じ。すごく素直になったというか、萎縮しちゃっているもの。まあ注意した課長本人が、すぐ近くにいるからだろうけどね」

 それから何日後かに、私は会社帰りに夕食をしようと愛可理と二人でお店に入った時、彼女はそう教えてくれた。

「あれから渡部課長が、うちの課長のところに来たわ。しっかりとお礼していったけど、西木さん達のいない所で四大卒云々の話もしっかりとしていたみたい。それからうちの課長も、彼女に対する態度が厳しくなったのよ」

「りんの課だけじゃないらしいよ。部長を通して、他の課長にもあの一件の話をしたみたい。新人への教育をしっかりするようにってお達しが出たから、他の子達もかなり大人しくなったようね」

「渡部課長ってすごいっていうか、怖いよね。確かに頭は良さそうだし学歴もあって背も高いけど、ちょっと理屈っぽくて苦手かな」

「そうなの? りんはこの間のことで、課長から気に入ってもらっているみたいじゃない。よく声を掛けられているところ、私はよく見るけど」

「そうなの。私には優しい声で、“頑張っているかい?”なんて言ってくるんだけどね。近くに西木さんがいたら、目も合わさない感じで通り過ぎるところなんか、露骨過ぎて」

「でもうちの会社の課長といえば、それなりの給料でしょ。背が高ければ、高学歴高収入のいわゆる三高さんこうだよね」

 この時代に男性の評価の一つの物差しとして、三高という言葉はよく使われた。余り良い言葉では無いと思いながら、私もよく口にしている。

 やはり女性同士で男性の話をする時、どうしてもその辺りの話題は避けて通れないのが現実だ。他の女性達のように悪口を言い合うことはせずとも、恋バナは愛可理ともよくしていた。

 それにこの手の話題は、どうしても盛り上がる年頃だった。

「三高だけど、既婚者じゃない。やっぱり独身男性じゃないと」

「それはそうだけど、でもああいうしっかりとした年上の人って、よくない?」

「う~ん、年上は年上なんだよね。私も同級生か年上の人しか付き合ったことないから。でもちょっとあの課長みたいに頭良すぎ、って感じの人は苦手かな」

「課長ってどっちかと言えば、文化系だからかもね。りんは体育会系の方がいい? がっしりとして、よく色が焼けてる感じの人?」

「うんうん! そういう方がいい!」

「わかる! 私もそうかな。頼りがいがあって、私なんか軽く持ち上げてくれるような人っていいよね」

「そうそう! そうなのよ!」

 愛可理はりんと同じ位の身長で、タイプも似ていると周りから言われたことがあった。気が合うだけでなく、男性の好みもまるで同じだ。

 その為こういう話をする度に、いつか同じ人を好きにならないか心配だと、二人で笑い合ったことが何度かある。今のところ彼女には学生時代から付き合っている彼氏がいて、私は会社に入ってから、知り合った年上の人と付き合っている為揉める心配はない。

 その日は二人で夜遅くまでお酒を飲みながら、今いる彼氏のことを脇にどけ、理想の彼氏像を延々と語り合う事で盛り上がっていた。

 いつかきっと、もっといい男性が白馬に乗って自分を迎えに来るのだと、この頃の二人は信じていた。

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