愛可理

 一幸の死から四年余り経ち、あの時大学に合格したと喜んでいた光輝も、この春から社会人になった。月日が経つのは早いものだ。愛可理も会社に入って十二年目を迎える。

「お互い、歳も取るはずだよね」

 同じようにまだ勤め続けているりんにそう嘆いた。自分達が新人と言われていた頃が懐かしい。それがもう中堅を通り過ぎ、ベテランのお局様となってしまった。

 かつてのバブル時代に大量採用され多くいた先輩達も少しずつ退社していき、今では数えるほどしか残っていない。といっても下から入ってくる若手事務員も入社四、五年目までには、半分以上が寿退社や自己都合の退社で辞めていった。

 さらにここ最近増えたのが、うつ病などにかかって会社を休みがちになり、その後出社してこなくなってしまう社員だ。それは女性社員だけでなく、男性社員にも多くみられるようになっていた。

 そういう愛可理自身も、一幸の事件が起こってからしばらくは警察の取り調べや何やらとても慌ただしかった。おかげで酷い精神不安定に陥った時期がある。

 あの事件で一幸自身は、被害者だと明らかになった。しかし事件の発端は、愛可理達が六人の男達に襲われた所を彼と光輝が助けようとしたことだ。

 しかもその前に、未成年と知りながらお酒を飲ませていたことから、りんと二人で警察からかなり厳重注意を受けた。それ以上に愛可理達を責めたのが一幸の母だった。

 病院へと駆けつけた彼女は、警察から事情を聞いて怒鳴った。

「あなた達のせいで、一幸は死んだのよ! どう責任取ってくれるの!」

 結果愛可理やりんと光輝までもが、彼の葬儀に参列することは許されなかった。だが愛可理達以上に傷ついたのは、すぐ隣にいたにも拘らず、彼の死に気づいてやれなかった光輝だったかもしれない。

 あれ以来、愛可理達は彼と一度だけ会ったきりだ。事件の事が影響したらしく、大学へも行かず引き籠ってしまったと聞いたので、様子を見に行った。励ましては見たものの、精神状態が良くなかったことを覚えている。

 その後は会うどころか、連絡を取ることもしなくなった。お互いが接することで一幸を思い出してしまうことを、どちらともなく恐れていたからかもしれない。

 ただ彼と縁遠くなっていたのは、愛可理自身のプライベートがめまぐるしかった事も大きな要因だった。雅史と別れた後、自分を失っていたのだろう。許されない恋に溺れていたのだ。

 一幸が亡くなった時も、その関係は続いていた。馬鹿な事をしていたから、ばちが当たったのかもしれないと考えたことさえある。

 そうした気持ちが、態度に出ていたのかもしれない。その後彼の素振りも冷たくなったせいか、繋がりに綻びが生じ始めた。結果として、相手とは二年程度で別れたのだ。

 これではいけないと正気に戻り、新たな恋人探しも始めた。その時出会った男性と、早々に結婚までした。だがそれも三十を過ぎるまでにはと、焦っていたからだろう。互いの相性やそれまでの素性にも、目を瞑っていたのが問題だった。

 新婚生活が始まって、一年も経たない内に彼の言動がおかしいと気付き始めた。そうなると、夫婦としての結びつきにも支障が生じる。挙句の果てには破綻し、二年余りで離婚することになったのだ。

 幸いといっていいのか仕事は止めずに続けていたし、子供は作らなかった。共働きだったこともあり、別れる時も慰謝料や財産分与等も全くなしで、揉めずに済んだ。今は以前と変わらず、旧姓で働く毎日を過ごしている。

 しかしそんな四年間が経過したこの春に、光輝が突然、愛可理達の前に現れた。しかも驚いたことに、会社の新人総合職として姿を見せたのだ。

 彼が一昨年から就職活動をする学年になったことは、なんとなく気付いていた。だがどこの会社に内定を貰ったのかなど、詳しい事は全く知らなかった。

 後で聞いたところによると、彼は愛可理達を驚かせたかったらしい。その為入社するまで黙っているようにと、母親や周囲に口止めしていたようだ。

 久しぶりに会う彼は学生時代の幼い面影がすっかり消え、社会人らしくきりっとしてより逞しくなっていた。しかも愛可理は、同じ課に配属される新人として紹介されたのである。

 しかも事務等に関する仕事について、指導をするようにと課長から申し渡された。

「寺内光輝です。宜しくお願い致します、岸本愛可理先輩」

 彼は人懐っこい笑顔で片目をつぶりながら、そう挨拶した。その様子から、一幸の事件についてのわだかまりは全く感じられなかった。それどころか、時折四人で遊んだかつての頃の空気を醸し出していた程だ。

 愛可理は彼に会えば、一幸のことを思い出して辛くなるだろう。だから彼も私達に会えばそう思うはずだ、と変に気を使っていた自分が恥ずかしくなった。

 それにここは会社だ。仕事にプライベートな感情を持ち込む必要などない。入社十二年目の事務職の先輩として、入社一年目の新人をしっかり指導しなくては、と愛可理は気持ちを入れ替えた。

 だが問題なのは、隣の課にいるりんのことだ。彼女の不倫はまだ続いている。二人の関係は、つい一幸にだけ口が滑り喋ってしまった。

 その後誰にも言わないようにと口止めしたが、あれは五年も前だし翌年に一幸は亡くなっている。よって光輝の耳に入っているか、今でも覚えているかどうかは不明だ。

 長谷川課長はその後同じビルの一つ上の階の部署に異動し、次長に昇進した為近くには居ない。よって最近だと、愛可理以外に気づかれることなど社内ではまずないと言って良かった。

 だがこれから、そうはいかないだろう。光輝だってもう大人だ。りんが同じ会社の同じフロアの隣の課にいれば、何となく感じる雰囲気や仕草からばれるかもしれない。

 または他の同僚達の噂などから、感づく公算も高かった。もう五年近く続いている二人の関係は、一部の社員達に知れ渡っているのではないか、との話も聞いたことがある。愛可理自身もかつて、

「長谷川課長と今川さんって怪しくない? あなた、彼女と仲がいいんだから、何か知っているんじゃないの?」

と、先輩社員から問い詰められたことがあった。だがその時はきっぱり、それを否定した。

「そんなこと、ある訳ないじゃないですか。もしそうなら私も気づきますよ。あの二人はそんなんじゃありません」

 または、知らない振りをして恍けたりもした。

「不倫しているなんて噂、あるんですか? へぇ~、私は何も知りませんでした」

 だがそんなことなど、いつまでも通用はしない。そろそろ社内的にも問題になるのではないかと彼女に注意したところで、課長が次長に昇進し部署が変わったのだ。

 同じビル内だが離れたおかげで、噂は一旦収まっていた。しかし問題はくすぶっている。この四月には無かったが、十月の人事異動で次長が再び異動するのではないかとの話も出ていたからだ。

 愛可理達の会社では、事務職は一度配属されると、比較的長く同じ部署にいることが多い。もちろん退職していく女性達や入社する新人達のバランスを見て、異動する人達も多少はいる。

 だが愛可理やりんのように、十年以上同じ部署に居続ける事は珍しくなかった。

 一方で男性の総合職の場合は、平均すると五年から十年の間で部署を移動するケースが多い。そう考えれば長谷川の単身赴任は九年目を迎え、かなり長い方だと言える。

 四年目で昇進と共に、部署が変わった事もその要因だと思われた。だがそろそろ次の部署に移ってもいい頃だ。よって家族が待つ大阪に戻るかもしれない、と予想されている。

 そうなれば二人の関係はどうするのか。不倫を解消するのか、それとも次長を家族から奪って二人は結婚するのか、と愛可理はりんを問い詰めたことがあった。

 そんな時、彼女はいつものらりくらりとかわすのだ。

「四月と十月の年二回の異動発表の時期になると毎回、同じような話が出るよね。だけど今までこうやって続いてきたんだから。二人がどうなるかは、彼の異動が正式に出た時、判るんじゃないかな。それまではこのままだと思うけど」

「それって問題を先送りにしているだけだよ。何の解決にもなってないじゃない」

 そう責めると、彼女は不敵に笑うだけだった。

「先送りって、今の日本の政治家みたいな真似をしているってことよね。じゃあ大丈夫なんじゃない? 日本だって危ない危ないって言いながら、なんとなくやってきているでしょ」

「そんな投げやりな言い方、しないでよ。あんただってもう今年で三十二歳よ。いつまでも結婚できない相手と付き合って、本当にいいの? それとも結婚はするつもりなの?」

 しかし口では彼女に勝てなかった。

「そんな事、判んないわ。それに愛可理は、結婚したけど離婚しちゃったじゃない。次はいつ結婚するのと聞かれたら、困るでしょ? 今はそういう相手が居ないみたいだし。私には一緒に過ごす相手がいるけど、ただあなたと同じで、結婚するかどうかも先なんて見えない。なるようにしかならないわよ。それにもう三十二じゃなく、まだ三十二よ。もう、なんて言ってたら直ぐにオバサン化しちゃうから」

 いつもこんな感じで、話をはぐらかされてしまう。だが彼女も本心からそう言っている訳では無いはずだ。どこかで蹴りをつけなくてはいけないと、考えているに違いなかった。

 そんな時、あの光輝がこんな近くに現れたのは、偶然で無いのかもしれない。あの彼の前で、愛可理に対して言った通り、不倫をしている事をなんでもないかのような素振りで、語れるだろうか。

 彼の過去を愛可理達が知っているように、彼女についても同様のはずだ。そんな彼に、彼女は開き直って胸を張れるのだろうか。

「りん姉、いや、今川さん、よろしくお願い致します」

 光輝は彼女がいる課にも、挨拶に回っていた。隣の課では、新人の男性総合職の他に女性事務員が一人ずつ配属されている。りんと愛可理達の所属する部ではもう一つの課があり、そこにも女性事務員が一人採用されていた。

 一つの部で三つの課があるこの部署では、総勢男性二名、女性二名の新人が加わった。だが愛可理達が入社した頃は部の中の課も四つあり、毎年十名以上の男女の新人が入社してきていた。

 その当時を考えると、まだまだ世間は不況から脱していない現状が判る。

「では今週末の金曜日、部全体で集まって新人歓迎会をやります」

 朝礼でそう言い渡された時、愛可理は嫌な予感がした。そうか、歓迎会の場があったのか。

 職員の異動などの歓送迎会は、いつもそれぞれの課ごとにやるものだ。しかし新入社員が入った時だけは、部全体でやることが最近多くなった。

 その為隣の課だが普通に仕事をしていれば、それほど接点の無い課の職員と、この時ばかりは会話を交わす機会がある。そんな場所で、もし光輝がりんと長谷川次長の噂を耳にしたらどうしよう。

 愛可理はそんなことを心配し始めた。それならば、当日は彼の隣の席を確保し、他の職員からの余計な情報を遮断するしかない。そう秘かに作戦を立てていた。


 新人歓迎会の当日、愛可理は光輝のお世話係の特権を発動し、計画通り隣の席に座ることができた。だが新人の周りには、沢山の職員が物珍しさも手伝って集まってくる。

 特に若手の女性社員は、可愛い若い男の子が来たと喜び、群がってきた。

「寺内さんって、カッコ良いからモテるでしょう。彼女はいるの?」

「どんな子が好み?」

「趣味は? 背も高くて体つきもがっしりしてるけど、何かスポーツはやってるの?」

「あの国立大学を卒業したんだって? すごい! 頭いいんだ!」

「岸本さん、寺内さんの隣の席、私達に譲って下さいよ!」

 三十路を越えたおばさんの出番は無いとばかりに、愛可理は押しのけられ、彼と喋りたい女性陣が周りを取り囲んだ。質問攻めに合っているその内容から、そうか光輝は昔でいう三高の候補生何だな、と今更ながらに気づく。

 収入はまだ新入社員だから、それほどでも無い。しかしやがてこの会社の男性達の年収は、四十代に近づく頃に一千万近くまで届く。 

 かなり以前から彼を見て来たけれど、確かに皆が褒めるように顔立ちは整っていて、背も高く体つきも男らしくなっていた。それで学歴も高いとなれば、やはり女性は放っておかないのだろう、と他人事のように観察した。

 しょうがなく愛可理はその輪の外でお酒を飲みながら、余計な話はしないかと耳をそばだてることにしたのだ。

 先程の彼の大学の話題が出た時、自分の胸が痛んだことに自分自身が驚いていた。四年以上経った今でも、まだ一幸の件が心の傷として残っていることに、あらためて気づかされる瞬間だった。

 あの時、光輝達がお酒を飲んでいた事は警察にばれている。それでもお咎めなく無事大学に入れたのは、あくまで彼らが被害者であり、お酒をすすめたのは愛可理達だと認められたからだ。

 ぼんやり一人お酒を飲みながら当時を思い出していると、ある一人の子がこそっと小さな声で、心配していた話題を口にし始めた。

「寺内さんって、隣の課の今川さんとお知り合いなんですって?」

「はい。岸本さんと一緒に、学生の時からお世話になっています」

 光輝が女性の質問に答えていると、その子は彼の耳に近づき、意地悪そうな顔で尋ねた。

「じゃあさ。前に隣の課にいた上司との噂なんて知ってる?」

 愛可理は思わずその場で立ち上がり、注意しようとした。だがそれより先に近くにいた他の事務員が、その話題をたしなめた。

「駄目よ、こんな所で寺内さんにそんな話をしちゃ」

 しかし当の本人は、意外にも平然とした表情をしていた。その事に愛可理は驚いた。さらに彼は自分からその話の内容を興味深く聞きだしたのだ。

「噂って何ですか? 同じ課の上司と何かあったんですか? まさか不倫しているなんて言わないですよね」

 ストレートな質問に、周りは逆に答え辛く黙っていると、彼は爽やかに笑って話を締めくくった。

「そんな訳ないですよね。これだけ皆さんが噂しているぐらいですから、本人達の耳にもそうした話は聞こえているでしょう。それでもまだ不倫しているなんて、あり得ないですよね」

 すると女性達は、ああそうかもしれないと納得したように頷いた。いつの間にかあの話が、ただの噂だったのだろうといった流れのまま、話題は別の話に移った。

 彼の一言で疑心暗鬼を生じさせていた不倫話は、彼女達にとって一気に関心の無いものへと変わったのだ。その様子を見て確信した。彼はりん達が、本当に不倫している事に気付いているのだと。

 宴席が進むにつれ、新入社員の光輝達は席を立って他の男性社員達などへの挨拶に回り始めた。その為女性職員の取り巻きも、一時解散をした。

 しばらくした後、再び自分の席に戻ってきた彼は、愛可理の隣に腰掛けゆっくりと食事を取り始めた。挨拶している間はお酒ばかり周りから飲まされ、なかなか食べられなかったからだろう。

 彼は周辺にある、大皿に残った唐揚げやお刺身などの残り物に箸を伸ばし、次々と平らげていく。

「それだけ食べると、見ていて気持ちいいね。光輝、じゃなくて寺内さんってそんなによく食べたっけ」

 そう話しかけると、口の中を大きく膨らました彼は、少し顔を赤らめて頭を掻いた。

「すみません、少しお腹が減っていたので」

 そのあどけない仕草に、ああ昔と余り変わらない、愛嬌のある光輝がここにまだいるんだ、と嬉しくなった。

 微笑ましい思いで、引き続き食べ続ける彼をしばらく眺めていた。その後一通り食べ終わり箸を置いたところを狙い、愛可理はこっそりと耳打ちした。

「光輝ってりんが不倫していること、知っていたんでしょ」

 一瞬ぴくりと反応したが、周りに悟られないよう気遣ったのだろう。愛可理の目を見ず、正面を見たまま呟いた。

「知ってましたよ。大学へ入る前に、一幸から聞いてましたから」

「え?」

 動揺して声を出しそうになったが、なんとか口の中で驚きを抑えた。そこで彼の表情を確認したい気持ちを我慢しながら、同じように視線を逸らしたまま尋ねた。

「そんな前から知ってた、っていうの?」

 彼は淡々と答えた。

「はい。一幸があい姉には口止めされていながら、でも知っておくべきだと、高三の夏頃だったかに言ってました」

「そうだったの」

 あの時はつい口が滑り、光輝が受験体制に入っている時期だった為、邪魔にならないよう強く言い聞かせていたはずだった。それなのに、一幸が話していた事実を知り困惑した。

 だが現実には、問題なく彼は受験に成功している。しかも一幸がいない今、何を言っても遅い。そう考えていると彼は言った。

「でもその事を聞いて、良かったんです。おかげで僕は受験に身が入りました」

 意外な告白に、思わず横にいる彼の顔を見ながら尋ねた。

「え? どうして? 心配じゃなかったの?」

 それでも彼は、じっと前を向いたまま平然と答えた。

「心配はしていましたよ。でも当時、親友のあい姉でさえ止められなかったと聞きました。だから高校生の頃の僕が何を言っても、りん姉には届かなかったでしょう」

 余りにも聞き分けのいい彼の態度に、首を傾げた。そんな簡単に割り切れる感情では無いはずだ。そう思った時、彼は続けて言った。

「あの時僕はまだまだ未熟な自分を、より磨かなければいけないと気付きました。だから受験勉強をしっかりやって、希望の大学に入らなければならないと思いました。そうして一人の自立した、頼れる男性になろうと、今まで努力してきたんです。それでようやくここまで辿り着きました。長かった。でもまだ間に合う。もうこれからは、好き勝手になんかさせません。僕が彼女の目を覚まします。あの時の僕にはできなかったけれど、今ならできる。だからこの会社に入社したんです」

 まっすぐ前を向いたまま、隣の愛可理にだけ聞こえるよう小さな声で囁いた彼の言葉は力強かった。まさしくりんを長谷川次長から引き離すという宣言であり、愛可理に向けた決意表明だった。

「当然、協力してくれますよね?」

 この時彼はやっとこちらを振り向き、確認を取るように愛可理と視線を合わせた。その迫力には、首を縦に振るしかなかった。いや彼なら今の彼女を救ってくれるかもしれない、と期待できた。

「判ったわ」

 こんなに頼もしくなった彼を横目に、いつの間にか一幸の姿を重ね合わせていた。もし生きていれば彼もまた、このような立派な社会人になっていたかもしれない。そしてこうやって堂々とした態度で、

「あい姉、俺は、」

 そこまで想像して目頭が熱くなった。もうこれ以上、彼のことを考えられなくなった。思い出せば思い出すほど辛く切ない。 

 あれほど愛可理達を慕ってくれた一幸。年下の鼻たれ小僧だった彼がどんどんと成長するにつれて、昔から言い続けていた言葉が現実味を帯びてくる、あの不思議な感覚。

 だけどほんのりと心を温かくしてくれる、飾り気のないまっすぐな気持ち。一度、光輝から教わったという折り紙で作った人形をプレゼントされたことがあった。

 りんにも似た物を渡したと言っていたが、後に彼女が貰ったのと比べれば、明らかに愛可理の方が立派で綺麗だった事を覚えている。あれが彼なりの、愛情表現だったに違いない。

 愛可理は今になって、そのことがどれだけ大切なことで、得難いものだったかを気づかされた。しかしもうその彼は、この世にいない。あの熱い思いに、誰も応えてあげられないのだ。

「岸本さん、どうしたんですか?」

 気がつくと頬には、大粒の涙が何筋も流れ落ちていた。正面に座っていた女性社員の一人がそれを見て驚き、声をかけてきたのだ。横では光輝も心配そうに、顔を覗き込んでいる。

 しかしその目は、愛可理が何を思って泣いていたのかを知っているかのように温かく、見守っているような優しい目だった。

「ご、ごめん、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出して、つい。駄目ねえ、歳を取っちゃうと、涙腺がバカになっているんだから」

 涙を拭いて茶化すと、なんとかその場で笑いを取り和ませて事なきを得た。それでもまた、目からこぼれそうになった。隣の彼が嬉しい言葉をかけてくれたからだ。

「あい姉、大丈夫だよ。僕が一幸の分まで二人の事を守るから」

 そんな彼だったが、時折遠く離れた席に座っているりんを、悲しげな目で時折見つめていた。

 本心ではもっと彼女の近くに座って話をしたかっただろうが、隣の課の人達に囲まれていた為遠慮したのだろう。先程も席を立った時、彼女とは軽く挨拶程度に言葉を交わしただけだった。

 新入社員歓迎会が無事終わり、それから時は刻々と過ぎ去った。そこで愛可理は光輝と共に机を並べ仕事をしていく内に、今まで全く知らなかった一面を垣間見ることとなった。

 何も知らない白紙の状態である社員に、一つ一つ仕事を教えて行く事はかなり大変な労力がかかる。今までに何人もの後輩達を指導してきたが、同じ事をさせるにもそれぞれの理解能力は全く異なるからだ。

 その為、その人毎に教えるスピードも教え方も変えなければならない。相手の性格に合わせ、厳しめに教えた方がいい場合、優しく褒めながら繰り返し辛抱強く伝えなければいけない場合と、それこそ様々だ。

 しかし光輝の仕事に対する真摯しんしな態度は、今まで見てきた新人の中で飛びぬけていた。一つ教えると、それこそ十を知るほど仕事勘が鋭い。

 誰よりも早く、仕事の段取りを覚えた。また自ら積極的に新しい仕事に取り組み、求められる以上の成果も出していた。数年目の社員でさえ、ここまでできる男性社員はいない。そう直属の課長が褒めちぎっていたほどだ。 

 もちろん優秀な大学を、彼は卒業している。だからと言って、仕事ができるとは限らない。それが社会であり、会社だ。学歴だけ高く、それこそ東大卒の新人が来たからと言って、光輝と同じようにできるかと言えばそうでは無かった。

 仕事は一人でやるものでは無い。複数の人間達とのコミュニケーションや、情報伝達を経て成り立つものだ。相手も人間であり、それが様々な性質を持った厄介な生き物であるからこそ、大勢の人達の絡む仕事は面倒だった。

 関わる人間が多くなればなるほど複雑になり、難しくなる。大きな仕事というのは、そこに発生するお金が大きいから大変なのでは無い。

 予算が大きく絡めば絡むほど、そこに入り込もうとするハイエナのような人間達が紛れ込むから厄介なのだ。さらにはそこへ、理不尽な責任が圧し掛かってくる。

 だが光輝は人当たりが良かった。学歴を鼻にかけることもなく、謙虚で先輩達には素直に頭を下げて教えを乞う。だからと言って、ただ大人しい訳でもなかった。

 時には物怖ものおじせず、自らの意見をはっきりと口にし主張していた。疑問点をあやふやにせず、解決しようとする姿勢は誰からも好感が持てた。

 そうした彼を見て課長がある時、愛可理に声をかけてきた。

「いい新人が入ってきたな。君も教えがいがあるだろ」

 教育係といっても女性事務職が教えるのと、男性社員の先輩が教える仕事の内容は異なる。だが女性事務職がこなす基本的な事務を理解することは、とても重要だ。

 時にそれをおざなりにして、事務は全て女性に任せっきりの男性社員もいる。そういう人は女性職員から疎んじられ、結局いい仕事ができない。

 けれど彼にはそれが全く無かった。その為若手女性事務職から、絶大な支持を得ていたのだ。男性のどこに魅かれるかと問われた時、職場結婚をした人達がよく言う言葉がある。仕事している時の真剣な顔や眼差しが、とても素敵だったというものだ。

 やはり仕事のできる男性は、格好がいい。愛可理はプライベートの、しかも飲んだり食べたり喋ったりしているほんの一部分の彼しか知らなかった。

 見たことのないそんな一面に気づき、間近に接したことで感心してしまった。尊敬すらするようになった。愛可理がかつて年下の子に、ここまで思わせるなど無かったことだ。

「ねえねえ、光輝ってすごいらしいね」

 若手の女性達がいない所で、噂を聞き付けたりんが、愛可理に話しかけてきた。そこで彼の仕事ぶりを報告した。すると隣の課の彼女にも、評判は伝わっていたらしい。

「そうだってね。あの光輝が仕事のできる男だ、なんて言われると私達まで嬉しくなっちゃわない? あんなにあどけなかった彼が、そこまで成長したなんてお姉さん、嬉しくて涙が出ちゃうって感じ」

「そうそう、私も! 四人で初めて会った頃と比べても、ずっと逞しくなったよね。すごく成長してくれて頼もしい半面、ああ、私も歳を取ったんだなあ、って思っちゃう」

「判る、判る! そうなのよ。うちの課にも新人がいるけど、すごく肌艶はだつやからして違うのよね」

 これには思わず呆れた。

「りんって、どこ見てんのよ?」

「ええ? 見ちゃわない? 教えてる時にふっと振り向いて横顔を見た時に、頬の張りなんかつるっつるよ!」

「え~? そう? そこまで見てなかったなあ」

「それは愛可理が見てるのは、光輝だからよ。うちの課には女の子の新人がいるから」

「あ、女の子の方ね」

 勘違いしていた事に、顔が赤くなってしまった。そこを彼女に突っ込まれた。

「なんだと思ったの? ああもう一人の、男の新人君のこと? そんな子の肌なんて見てないから。愛可理って何を想像しているの?」

「ごめん、ごめん、おかしいと思ったんだ」

 二人してそんな馬鹿話で笑っていたが、その後で今度光輝の肌がどうか、隣で見てみようと心の中で秘かに思っていた。

 だがその後、彼女の様子がおかしくなった。元気に大きな声で笑っていたのに、梅雨の時期が過ぎていよいよ夏本番だという頃、体調が狂いだしたようだ。

「ただの夏バテよ」

などと言っていたが、ある時さすがに症状が酷いからと言って会社を休み、病院で検査をした。するといきなり彼女は、入院することになったのだ。

 突然のことで驚いた愛可理は、光輝と御見舞いの為に病室を訪れた。そこには長らく絶縁していたはずだった、彼女の母がいた。その状況を見て、りんの病状がただならぬ重いものだと悟った。

 光輝も愛可理も彼女と母親との確執については、詳しく聞かされている。だからこそ場に漂う空気は、冷たく重苦しいものだった。

「ごめんね、心配かけちゃって」

 病院の電動ベッドを傾け半身で起き上がった彼女は、思っていたより元気だったが、その表情は暗かった。

「大丈夫? 入院って聞いたからびっくりしたのよ」

 隣の課長や課の職員を含め、愛可理達の課にも彼女はしばらく入院することになった、とだけしか聞かされていなかったからだ。

 詳しい病名は告げられず、お見舞いもしばらく体力が戻って落ち着くまで控えるように、と言われていた。だが愛可理だけには特別親しいと知っている課長から、こっそり教えられたのだ。

「御見舞いに行ってあげて欲しい、彼女も待っていると言っていた」

 その表情はとても落ち込んでいて、げっそりとしていた。それがとても気になった。しかも御見舞いには、光輝も連れて行くように、とまで言われたのだ。

「どうしたのよ、りん。大丈夫?」

 愛可理は枕元のイスに腰掛け、彼女の手を握った。光輝はその後ろに立ち、彼女の顔を心配そうに覗いていた。彼女の母は、少し離れた所で私達の様子を見ていた。

 青白く少し頬がこけたように見えるりんは、引き吊った笑顔で喋り出した。

「ありがとう、来てくれて。あい達にはちゃんと伝えた方が良いと思ったから、課長にお願いしたの。実は病院で検査をしたら、大腸に腫瘍があると判ったの。それを詳しく調べたら悪性のガンだって。それで急きょ入院することになったんだけど、かなり広範囲にガンが転移しているらしいの。手術である程度は取ったけれど、完全に取りきれなかったんだって。若いとガンの進行も早いみたいね。それで最悪、後半年の命かもって言われているんだ」

 そこまで一気に伝えきった彼女の目には涙が溜まり、一つ、一つとこぼれ落ちていた。後ろではすでに聞き及んでいたらしい彼女の母が、すすり泣いている。

 愛可理は鳥肌が立った。何の悪い冗談かと思い、体は震え、握っていた彼女の手をさらに強く掴んでいた。ぶるぶると震える愛可理の肩を、後ろから光輝がそっと包みこむように掴んでくれた。

 振り向くと彼は真っ赤な目から涙を流し、唇をきつく噛んでじっとりんを見つめていた。愛可理はその時、自分も涙で顔が濡れていることを知った。

 ぽろっ、ぽろっ、と大粒のしずくが頬を何度も何度も伝って落ちていく。ぐしゃぐしゃになった顔で、愛可理は彼女の目を見た。その為、かすれた声で聞き返すのが精一杯だった。

「嘘、でしょ?」

 そうで無いことは、彼女の態度と母親の様子で二人は十分理解している。しかしそう言わずにはいられなかった。

「ううん。嘘じゃない、本当なの」

 ゆっくり首を横に振った彼女は、愛可理の手を握り返し手の甲をさすりながら、何度も繰り返した。

「ごめんね、心配かけて、ごめんね」

 すると突然、光輝が大きな声で叫んだ。

「どうして? どうして、りん姉が、こんな目に合わなくちゃいけないんだよ! 俺やっと大人になってりん姉達の会社へ入ったのに。やっとこれから、二人の事が守れると喜んでいたんだよ。頼れる一人前の大人になって、一幸の分まで頑張ろうと思っていたのに、どうして? どうしてこんな時に」

 肩を掴んでいた手を離し、彼は愛可理の体を押しのけるようにして、彼女の手を握った。

「こ、光輝」

 突然の行動に戸惑っていたが、りんも泣きじゃくる彼の手をきつく握り返していた。

 少し興奮が納まると、彼は自分の行動が恥ずかしくなったのか、慌てて彼女から離れた。そんな様子を微笑ましく眺めながら少し気になっていたことを聞いてみた。母親が席を外したからだ。

「会社では、課長が他の職員に説明していたから、りんは単なる検査入院が長引いているだけ、という話になっているの。でも私達だけがここに呼ばれガンだと聞いたってことは、課長は当然として、長谷川次長も病気について知っているの?」

「うん。彼も知っているわ」

 光輝は枕元に立ったまま黙って聞いていたが、その表情は急に険しくなっていた。次長が自分達よりも早く、真実を知っていたことはしょうがない。だが次長を彼と呼ぶ彼女を見て、激しい怒りにかられたのだろう。

 そこでさらに尋ねてみた。

「こんな事を聞くのはなんだけど、何て言ってくれたの?」

 愛可理の問いに、彼女は俯いて答えを躊躇した。しかし顔を上げ、思い切ったように笑顔で告白した。

「病気の件を伝えた上で、これでもう終わりにしようと私から言った。どちらにしても、そろそろ結論を出さなければいけなかったんだけど、ちょうど良かったわ」

 実は次長が今度の十月の異動で、大阪に戻る内示を受けていたらしい。だからこれで悩む必要が無くなったと、彼女は苦笑いした。

 確かに結論は、一つしかなかっただろう。次長が妻や娘を捨ててりんと一緒になるなど、まずありえない。何故なら彼女は、あと数カ月しか生きられないかもしれないからだ。

 だが素直に頷けなかった。全く意に介さない様子で話そうとする彼女の作り笑顔は、微妙に引き吊っている。最後の方は声もひっくり返り、明らかに無理している様子が愛可理達には理解できた。

「そんなこと」

 そう言いかけて、次の言葉が出てこない。冷静に考えれば、現実的な答えはそれしかないだろう。しかしそれでいいのかと問いたい気持ちが、口にはできなかった。そうせざるを得ない彼女の辛い想いを考えると、それは余りに酷だと思ったからだ。

 すると代わりに光輝が、明らかに不機嫌な声で彼女を見下ろしながら尋ねた。

「それであいつは、何て言ってるんだよ」

「なんて言うも何も、彼だって受け入れるしかないじゃない。ただ正式に異動が出て大阪に行くまでは御見舞いに来る、とは言ってたけどそれも断った」

「それでいいのかよ! 何年も不倫していた相手が大病にかかったんだから、様子を見に来るぐらいは当然だろう。そうじゃなくて、長い間付き合ってきた男として、あいつはどう責任を取るつもりだ、って聞いているんだよ!」

「大きな声を出さないで。ここは病室よ」

 興奮する光輝を宥めた彼女は、さらに続けた。

「どうしようもないの。他に選択肢は無いのよ。じゃあ聞くけど、他に方法があるの? 光輝は彼にどうして欲しいっていうのよ。別れるしかないじゃない。私の命はあと僅かなんだから」

「だからこそ、じゃないか! 今一番辛い思いをしているのは、りん姉なんだ! それなら少しでもその気持ちを和らげるようにするのが、あいつの役割じゃないの? それこそ義務じゃないか! 不倫しといて、相手が病気になったから、」

 彼の言葉を遮り、彼女は初めて感情を露わにした。

「それ以上言わないで! もうあの人に会うのが辛いのよ! だからもう別れるって決めたの。病院へも来ないでって言ったの。彼はそれを承知した。ここへ来ない方が、私の気持ちを落ち着かせるって判ったからなの。だからもう、私の事は放っておいて!」

 光輝に厳しい言葉を投げつけると、背を向けて布団を頭までかぶり、これ以上は話をしないという態度を示した。

 外まで大きな声が聞こえだのだろう。慌てて病室に戻ってきた彼女の母が、三人の様子を見て言った。

「あ、あの、ちょっとりんもまだ動揺しているようなので、今日は申し訳ないですけど、これぐらいにしてお帰りいただけますか。わざわざ御見舞いに来てもらったのに」

 愛可理はもう一度だけ、彼女に声をかけようとした。だがやはりかけるべき言葉が見つからず、そのまま立ち上がるしかなかった。光輝も同じだったのだろう。その為二人で病室を後にした。

 ただ彼は部屋を出て行く際に、一言だけ言った。

「りん姉、また来るから。俺はできるだけここへ来るから」

 その言葉通り、光輝は会社が休みの土日と、平日でも仕事で遅くならない時以外は、できる限り病院へと通った。

 愛可理も土日の用事がない時以外は、できるだけ光輝と時間を合わせ、お見舞いするようにしていた。また長谷川次長から、彼女の様子を何度か尋ねられたが、差し障りない程度しか報告しなかった。

 自分自身は言われた通り、病院へは近づいてもいないらしい。以前から話があった十月の人事で、正式に家族の待つ大阪の部署への異動が決まったからだろう。

 それも驚いたことに、部長としての昇進を伴っていた。仕事のできる人だった事は間違いない。だがそれでも年齢からすれば、かなりのスピード出世と言える。

 そのような背景もあったから、彼は彼女との関係を清算したのではないか。そんな噂もその後一部では飛び交ったが、愛可理はその事自体を責める気にはならなかった。

 彼に迷惑をかけないよう、身を引く。それが彼女の出した、最後の愛情を伴った答えだったと思うからだ。

 しかしベッドの上で、彼女は確実に日々命が削られていった。そうした死へと向かい歩む、苦しく寂しい心をずっと支えてきたのは光輝と愛可理だった。母親さえ、あれから病院へは来ていないという。

 初めての見舞いで声を荒げた彼だったが、その後は一切長谷川次長について触れなかったらしい。愛可理達は、彼女との思い出などを語り合いながら、御見舞いをし続けた。

 時折ガンに侵され、痛む体をさすったりもした。何とか彼女を最後まで、安らかな気持ちでいさせてあげることに、二人は心を砕いていた。

 ある時光輝は病室に、折り紙を持ってきたことがある。

「りん姉、これって覚えてる?」

 彼が見せたものは、折り紙で折られた座布団の上に、同じく折り紙でかたどった雛人形だった。それは赤や青や緑や金など複数の折り紙を使用した、十二単の着物を身につけた立派なものだった。

「覚えてるわよ。こんな豪華な奴じゃなかったけど、以前貰ったことがあるもの」

 もう既にその頃の彼女は、抗がん剤の影響で髪の毛は抜け落ち、げっそりと痩せ細っていた。それでもおぼつかない手で、嬉しそうにその折り紙を手のひらに載せた。

「そう、それでこれがお内裏様。お雛様の隣に座らせて飾っておいてよ。ずっと一緒に置いてね。お雛様はりん姉でお内裏は、言わなくても判るだろう。もちろん僕やあい姉は、ずっと一緒にいるから」

「ありがとう。以前これを貰った時は、そんな嬉しい言葉なんて言われなかったけどね」

 彼女は人形を大事に持ちながら、昔を懐かしんだ。

「でも昔からずっと言ってたんだよね。お姉ちゃんと結婚するって。もうそれは叶わないけど、その気持ちはずっと変わっていないと、俺は思っている」

 彼は真剣な顔で彼女の細い手を握り、語りかけた。

「りん姉が憧れていた、お姫様抱っこをしてもいいかな。でも昔から言っていたらしいね。こうちゃんはまだ小さいから、もっと大きくなって、お姉ちゃんを持ち上げられるようにならないといけないって。それだけじゃなく、女の子に優しくしなきゃいけない、とか勉強しなきゃいけない、体を鍛えなきゃいけない、とか色々。でも今の僕なら、りん姉を簡単に持ち上げられるよ」

 彼女はうんうんと、穏やかな目でその言葉に頷いていた。横で聞いていた愛可理は、言外に含まれる彼の気持ちに気づき目が潤んだ。

 彼はさらに話を続けた。

「僕は知っているよ。ただ持ち上げられるだけじゃなく、ちゃんと支えられる大人になりなさいって言ってたんだよね。僕も色んな人と接して見聞を広めたり、大学みたいに難しい目標を設定したりした。その目的を達成できて、りん姉達が勤めている大きな会社に就職もした。あとはこれから仕事を頑張って、給料もしっかり稼いで、現実の世界で守ってあげられる大人になるだけだったんだ。後もう少しだったんだよ。それなのに、それなのに、ずるいよ」

 光輝は彼女の手を握り、震わせながら訴えた。

「お願いだよ。お願いだから、もうちょっと待っててよ。もう少しだから。僕が胸を張って、お姉ちゃんに結婚を申し込んで、結婚式でお姫様抱っこをするのがずっと、ずっと夢だったんだから。それを皆に見せたかったのに。こんなところで壊さないでよ。どうしてりん姉はそれを待っていてくれないの。ここまで、ここまでやっと来たのに」

 光輝は大粒の涙を流しながら、彼女のベッドに顔を埋めた。彼女はそんな姿に涙を堪えながら、ただただ、

「ありがとう、ありがとう、ごめんね、ごめんね」

といって、彼の髪を撫でていた。

 りんは長谷川次長が大阪に去ってから、二カ月が過ぎた頃の十二月の初旬まで入院し、三十二年という短い生涯を閉じた。永遠の眠りについた彼女の枕元には、愛可理と光輝の他に母親が立会い、最後を見送った。

 そこに当然次長の姿は無い。葬儀は彼女の意志により、実家ではなく東京で行われた。それほど帰りたくなかったのだろう。その告別式の際、彼は一度姿を現しただけだった。

 ちなみに一幸の母も参列していた。彼の死から四年以上経っていたからだろうか。当時あった心のわだかまりは、ようやく整理がついたのだろうと愛可理は解釈していた。

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