りん

「ぼく、おおきくなったら、おねえちゃんとけっこんする!」

 幼い彼は、町内中に聞こえるような大声で叫んだ。近所にある自分の家の玄関先に立ち、頬を真っ赤にして真剣な表情をしている。彼の目はうるみ、私の目をじっと見上げていた。

 まだ幼稚園に通っている子供なのに、その純粋で熱い言葉は不覚にも深く心に響いた。その為私は持っていた学生カバンを地面に投げ捨て、思わずしゃがみ込んだ。そこで愛くるしい小さな体をギュッと抱きしめ、言った。

「お姉ちゃんもこうちゃんの事、大好き!」

 自分の頬を彼の火照ほてったほっぺに二回、三回と擦りつけた。彼は決して肥満児ではなかったが、顔だけでなく六歳児の体全体はぷにっとしてとても柔らかい。しかもほんのり温かく、抱き心地が良かった。

 自分にこんな弟がいたら、ずっとこうして毎日可愛がってあげられるのに。一人っ子の私は、彼を見る度にそう思う。

「お、おねえちゃん、い、痛い……」

 耳元で呟く小声を聞き、ハッと我に返る。ぬいぐるみを抱くかのような加減で、つい力が入ってしまったようだ。 


 慌てて体を離すと彼は耳の先まで紅潮こうちょうしており、恥ずかしそうに私から目を逸らしうつむいていた。まだ少年とは呼べない無邪気な幼児のそうした姿に、再び胸がきゅんとなる。

「ごめんね。痛かった?」

 彼は小さく頷きかけたが、すぐに首を大きくぶんぶんと、横に振った。そうした健気けなげな仕草に私は頬を緩ませ、かがんだまま彼の頭を撫でた。

 坊主頭より少しだけ前髪と頭頂部の髪を伸ばした、スポーツ刈りだ。元気でツンツンとした髪質の感触は、とても気持ち良い。 

 特に刈りたてのうなじを撫でている時など、うっとりとしてしまう。何とも言えないあの柔らかい様で、少し硬さが混じった感覚がたまらないのだ。

 さすがに恥ずかしいのか、余りのしつこさに嫌気が差したのか、彼は私の手から一歩だけ後退あとずさりした。それでも下を向いたまま、ちらっちらっとこちらの顔を覗いている。

「ありがとう、こうちゃん」

 そうお礼を言っていると、彼の母の和江かずえがエプロンで手を拭きながら、家の中から出てきた。

「まあ、りんちゃん、ごめんね。この子はいつまでも甘えるものだから。ほら、お姉ちゃんにちゃんとバイバイして。中に入ったら手を洗いなさいよ。もうすぐご飯だから」

 私の名は星凛と書いて、“あかり”と読む。だがりんという字がある為、“あかりん”という呼び名から派生し、いつしか親や周囲からは“りん”と呼ばれるようになっていた。

 彼女は彼の手を握り、引きずるように家の中へ連れて行こうとした。彼は名残惜しそうな表情を浮かべながら手を振り、後ろ歩きのまま入って行く。

 その間、私もずっと笑いながら手を振り返していた。彼の姿が見えなくなった後、放り出したカバンを手に取る。よいしょと立ち上がり、セーラー服についた土埃つちぼこりを払って我が家へと戻った。

「ただいま!」

 すると母の今川いまがわ佐知子さちこには、先程までのやり取りが聞こえていたのだろう。台所でせっせと夕飯の準備をしながら、首だけ振り向いて言った。

「お帰り。あなたったら、またこうちゃんの家で遊んでいたみたいね。こっちもあと少しでお夕飯だから、あなたも手を洗ってさっさと着替えてらっしゃい」

 世の中はバブル景気が始まり、某上場企業が有名な絵画を五十億円以上の値段で落札したと大騒ぎしていた頃だった。国鉄が民営化してJRとなり、日本電信電話がNTTと名称変更して上場し、財テクブームに沸いていた時期だ。

 しかし私や彼の家などの周辺は、古くからある木造の小さな一戸建てが連なる田舎町に過ぎない。よって賑やかな騒動は、テレビの中だけの、遠い世界の話だと思っていた。

 それより重要な問題は身近な話題であり、それら全てが筒抜けだった。その為余所者よそものは少なく、昔ながらの近所付き合いもしっかりしている。色んな人が頻繁に、

「これ、ちょっと多めに作ったから」

「頂きものなんだけど、沢山あって」

などとこれまた定番の口上を述べながら、煮物や野菜、お菓子などと様々なものを持って、家を訪ねて来る。貰った方は、

「どうもすいません。ああ、そういえばうちも」

と、また他の人に頂いて消化しきれない物等をお返しに渡すのだ。

 ただこの時、注意しなければならない点がある。その頂き物が、あげた本人の手にも渡っていないであろう物を選び、重ならないようにする事だ。そうしなければ、

「ああ、これは○○さんのところから私も頂いたわ」

などと言われてしまう。“後で使い回ししているのよ、あのお宅”と陰口を叩かれないよう、気を使わなければならなかった。使い回しなど公然の秘密で、どこのお宅だってやっていることなのに。

 それでも判らないよう、時には自分でわざわざお返し用に買って用意する。そうしたものを織り交ぜながら、上手く循環させるのが近所付き合いのみょう、と言ったところだろう。

 こうした関係は、大人達の間だけではなかった。この街では、子供同士でもそのような繋がりがある。先程こうちゃんの家を訪ねたのも、私が友達と学校帰りに寄った駄菓子屋で飲んだジュースに、彼が好きなアニメキャラクターの人形がおまけについていたので、それを渡す為だった。

 そういう私も幼い頃、彼の母の和江にはよく遊んでもらった。二十三歳の彼女とは九歳の年の差だ。その為彼と同じ年の頃、実の姉のように慕っていた事を思い出す。

 だから彼は私にとっても大好きなお姉さんの子供であり、実の弟のような存在だった。

 和江は十七歳の高校二年生の時、妊娠した。相手はその頃付き合っていた隣町に住む大学三年生だった。

 当時小さなこの街では大騒ぎになったようだが、結局二人は周囲の反対を押し切って翌年出産。その後彼氏の大学卒業を待って結婚し、彼女は隣町へ移り住むことになったのだ。

 その時まだ小学生だった私は、敬愛けいあいしていた彼女が遠くに行ってしまうと悲しんだ記憶がある。引っ越しの際には、涙を流して車の後を走り、追いかけたほどだ。

 しかしその四年後、小さな彼を一人だけ連れた彼女は再びこの街に戻ってきた。出産後、大学を卒業した彼女の夫は無事就職をしたらしい。

 だがいざ働き始めると長続きせず、会社を辞めてしまったという。その上再就職もままならない状態で、一日中家の中に籠り始めたそうだ。

 しかも精神が不安定になったのか、彼女と子供に暴力まで振るいだしたとの噂を耳にした。そこですぐに彼女の母の静子しずこが、相手の家に出向いたという。その後二人を離婚させ、この街に連れて帰ってきたと聞いている。

「静子さんには、私もお世話になったからね」

 母も私と和江のように、静子には可愛がって貰ったそうだ。五十一歳の彼女を、四十二歳の佐知子もまた実の姉のように想っていたのだろう。私と和江と同じ年の差だった為、容易に想像ができる。

 だからという訳でもないが、何かというと静子や和江一家の事を気にかけていた。それは私達だけでなく、その他の近所の大人達も彼女達に対し好意的であり、決して苛める事など無かった。

 だが子供達の間では違ったようだ。まだ幼稚園に通いだしたばかりの彼は余所者扱いをされたのか、上手く馴染めないでいたらしい。また元々内気だったからか、一人で遊ぶことも多かったようだ。

 そんな息子を心配する和江の為にと、私は学校帰りにできるだけ家へ寄り、彼と遊ぶようになっていた。そんな私にすぐなついてくれた彼は、先程のような“大きくなったらお姉ちゃんと結婚する”発言をするようになったのだ。

 自分の部屋で制服を部屋着に着替え、台所の横にある洗面所で手を洗っていた私に、母は笑ってからかった。

「よかったね。あなたをお嫁さんにしてくれる人が見つかって」

 彼の大声は、台所仕事をしていた母の耳にもしっかり届いていたようだ。私は顔を膨らませて言い返した。

「何を馬鹿なこと言ってるのよ。私には白いタキシードを着たカッコいい王子様が、結婚式を挙げる教会でお姫様抱っこしてくれる、という夢があるの。相手がこうちゃんだったら、私が抱きかかえる役になっちゃうでしょ。それじゃあ逆だから」

 そう言いながら、和江の家で遊んでいる時の事を思い出していた。トイレに行きたがりジタバタしだした彼を、私が急いで抱きかかえ連れて行ったのだ。その為思わずぷっと吹き出した。

 この頃の私にとっての“お姫様だっこ”は、テレビで見た外国映画のワンシーンや漫画でしか見たことのない、非現実的な世界の事との認識はあった。

 それでも自分があのように、もし男性のたくましい腕で抱き上げられたらと想像するだけで、幸せな気分になれる“願望”の一つだった。夢見る乙女達なら、誰しもがそんな憧れの一つや二つは持つものだ。

 しかし母は、現実的だがとても意地悪な言葉で答えた。

「ハイハイ。でも後二十年もしたらあの子だって、二十六歳でしょ。あなたを簡単に抱きかかえるくらい、屈強な大人になっているかも知れないわよ。まあその頃あなたは三十四歳か。逆に見向きもされなくなっているかもしれないね」

「何よ! 自分の娘に向かって! 私だってその頃には、とっくに結婚してるわよ!」

「ははは。そうよね。じゃないとお母さんも困るわ」

 冗談を切り上げた母は、台所のテーブルにお皿を並び終え、私が座った席の真向かいに腰を下ろした。じゃあ食べようか、と手を合わせる。

「うん、いただきます」

 私も手を合わせた。基本的に夕飯は、私と母の二人だけで食べる。銀行につとめている父の治夫はるおが三年前から単身赴任しており、今は東京にいるからだ。

 およそ月に一回の頻度で週末に帰ってくるが、その時東京で買ってきてくれるお土産を、私は毎回楽しみにしていた。

「もう、そんなに甘やかしちゃいけません」

と母は父をよく叱っていた。だが一人娘と遠く離れて暮らす父親としては、喜ぶ私の顔を見る楽しみを奪われるのが嫌だったのだろう。

「いいじゃないか。そんなに高価なものじゃない。それに父親がいなくて寂しい思いをさせている、今のうちだけだ。しばらくしたらこっちに戻ってくるんだし、これくらいさせてくれよ」

と反論し、いつも母と喧嘩をしていた。

 東京へ単身赴任、と言っても父の勤める銀行は地方の小さな銀行だ。東京に支店はあるけれど、ほとんどの支店が県内にある。だいたいは、自宅から通える場所ばかりだ。

 今回たまたま東京支店へ異動したが、二、三年経てばまた地元に戻ってくるのが通例らしい。だから今だけと言っているのだ。

 最初は難しくなり始めた年頃の娘の機嫌を取る為だけ、という意図がバレバレだった。それに買ってくるのは安物で、センスの欠片かけらも無い物ばかりだった。

 だが最近は、何が中学生の娘を喜ばせられるか、どこかで研究したらしい。徐々にちょっとしたお洒落な雑貨品を、プレゼントしてくれるようになった。

 それも私の住んでいる街には売って無い小物だった為、さすが東京はすごいと憧れたものだ。数年後、私が高校を卒業して東京の大学に進学を決めたのも、そうした事が影響していたからかもしれない。

 私は皿に乗ったコロッケを箸で突きながら、母に尋ねた。

「お父さんが今度帰ってくるのって、再来週の土曜日だっけ?」

「予定ではそのはずだけど、仕事の都合もあるからまだ判らないわ。来週にはいつくるって電話があるでしょ。でも何? あなた、またお土産を期待しているの? もしかしてお母さんに内緒で、お父さんに何かおねだりしているんじゃないでしょうね」

「そんなこと、してないわよ。だってお父さん、お土産の中身を考えるのが楽しみだからって、私の欲しい物は参考程度にしか聞いてくれないから」

「それ、こういうのが欲しいと言ってるようなものじゃない」

「そ、それは、まあ」

 私は箸で一口サイズに切ったコロッケを口に含み、ごにょごにょと誤魔化した。実は前回父が帰ってきた時、今夢中になっている少年サッカー漫画がアニメになっていて、そのキャラクターグッズが欲しいと伝えていたのだ。

 今住んでいる地域にも多少売ってはいたが、田舎だけに種類が少ない。だから東京ならば友達も持っていない、レアな物が手に入るだろうと期待していた。

 どうやらその事に、母が勘づいたのだろう。厳しい声で言った。

「だめよ。余りあなたの我儘わがままを聞くようだったら、今度こそお土産を禁止させるからね。あとあなたのお小遣いも減らすから」

 私は慌てて首を横に振った。

「や、やめてよ! 言ってない、言ってない! お父さんは好きで私に買ってきてくれるんだから。よく言ってるじゃない、何にしようかと選ぶのが楽しいんだって。それに、お母さんにも買ってきてるでしょ。お父さんも東京で一人だから、寂しいだろうし大変でしょ。だから数少ない楽しみを、取っちゃまずいんじゃない?」

 父の単身赴任に触れた点が効いたらしい。母は気がとがめたようだ。

「まあそうかもしれないけど、お父さんに迷惑かけちゃ駄目よ」

 それ以上何も言わなかった。

 母は元々父と同じ銀行に勤めており、結婚を機に退職した。けれど私が小学校に上がってしばらくすると、子育ては一段落したからと、近くのレストランで働き始めた。

 最初はパートからだったが、元銀行員の真面目な働きぶりを評価されたらしい。今では正社員になっている。だが仕事のローテーションによっては、土日に入ることも多い。

 その為父が東京に行ってから、母は最初に私と二人で一度、その後に一人で一回だけ社宅を訪ねたきりだ。それ以降は基本的に、土日が休みの父が帰ってくるのを待つばかりだった。

「いいよ。俺だって結婚するまでは一人暮らしだったんだし、東京は何だってあるから大丈夫だ。佐知子は折角正社員にまでしてもらったんだから、しっかり働いて子供のことを見ていてくれたらそれでいい。俺が時々帰ってくれば、済むことだから」

 父はそう言って、母を責めることがなかったからだろう。その優しさに、つい甘えてしまっているようだ。そうした後ろめたさは、いつも感じているらしい。

 実際それだけでは無かったのだが、様々な事情を知った上で、私はつい意地悪で弱点を突いたのだ。その為母に悪い事をしたと気が咎め、黙々とおかずを平らげると茶碗をおいてすぐに、

「ごちそうさま」

と手を合わせ、食卓から逃げ出すように自分の部屋へ駆け込んだ。

「もう、お母さんが嫌な事を言うから」

 そう独り言を呟きながら部屋に入るとベッドの上でゴロンと横たわり、気分を変えようと大好きなサッカー漫画を手に取った。 

 最近母と父との間がぎくしゃくしている事に、私はなんとなく気づいていた。どうやら東京で父が浮気でもしているのではないかと勘ぐり始め、父もまた母の行動に不信感を持っているようだ。

 私の前だと二人は気を使ってか、そうした話をしない。だが陰でこそこそと、そんな話題で言い合いしている所を、一度見かけたことがある。

 そのことがあってから、私も父の様子をよく観察するようになった。すると確かに母が疑っている通り、女の影が父からうっすら見え隠れしている事に気がついたのだ。

 一方の母もまた、父が単身赴任してしばらく経った頃から化粧が変った。服装も、なんとなく小奇麗になったりしている。単なる嗜好しこうの変化とは、微妙に異なる気がしていた。

 その違いが何かと聞かれても、言葉では言い表しにくい。だがそこは同じ女性の勘だろう。父もまた長年連れ添った夫としての直感で、そのぼんやりした違和感を察知したと思われる。母に男ができたのではないか、と怪しんだのだろう。

 私はもう子供じゃ無い。そういう複雑な男女の関係が、全く判らない年頃でもなかった。だからと言ってその手の話を自分の両親に当てめ考えるには、まだ辛すぎた。

 一時は一人で悩み苦しみ、泣きながら眠れない夜を過ごした事もある。しかしある時から、そうした考えを頭から追いやると決めた私は、その後何事もなかったかのように過ごす事が出来たのだ。 

 両親が互いに浮気をしているかは、定かでない。それに例えしていたとしても、いい大人である二人がやっていることだ。私がどう考え悩もうが、解決などしないだろう。

 離婚するとなれば、私が未成年で自立しない間はどちらかに引き取られ世話になるしかない。つまりなるようにしかならないと、開き直ることができたのだ。

 くよくよ考え過ぎ、頭を抱える事に疲れ諦めたまたは放棄した面もある。だが今自分ができるのは、それしか思いつかなかった事も事実だ。

 一人っ子に生まれ、とはいっても他に兄弟姉妹がいないから甘やかさないようにと、真面目な両親に比較的厳しくしつけけられた。

 そのせいか一人遊びが好きな分、私は幼い頃から他の同級生達に比べ大人びていたのだろう。集団の中にいても、どこか冷静に一歩引いて考える癖がついていた。

 だからといって、冷めているのではない。それなりに周りの空気を読み、合わせることは得意だった。

 だが皆と一緒に笑いながら同調していても、頭の中ではそれは違うと思う、これじゃ駄目だ等と考える子だった。表だって場を乱す事はしない。だから笑顔のまま、別の事を考えるのだ。

 こういう時の現実逃避する手段に私がよく使ったのが、サッカー漫画だった。もう何度も読んだ本だが、ペラペラとめくっている内につい読みふけってしまう。実際に今日も母にお風呂が湧いたわよと声をかけられるまで、時間が経つのを忘れ夢中になっていた。

 この頃、今のようにテレビでサッカーの試合が放送される機会は余りなく、日本にはプロサッカーチームも無かった。スポーツと言えば圧倒的に野球、もしくは相撲だ。一部ではプロレスやボクシングと言ったものが、主流だった時代でもある。

 しかし私が好きになったのは、少年サッカーだった。というのも住んでいる地域には野球のリトルリーグの他、少人数ではあったけれど、小中学生で構成されたサッカーチームがあったからだ。

 さらに小学五年生の頃から憧れていた、サガワマコトという一つ年上の先輩が加入していたことも要因の一つだった。私は彼の姿を見てサッカーに興味を持ち、またサッカー少年達が夢中になって読んでいた漫画にものめり込んでいった。

 私自身の運動神経は、ほとんどゼロと言ってよかった。かけっこなどをしても、必ず最後にしかゴールしたことがない。

 背も低く、中学に入ってもなかなか伸びない身長とは対称的に、体重だけは増えた。ぷくぷくと丸い体を見て同級生の男の子には、

「お前は球みたいな体だから、名前もタマでいいんじゃない」とか、

「走るより、転がる方が早いんじゃないか」

などと、よくからかわれた。それでも私はにこにこと笑いながら、「何よ! 丸くて可愛らしいってことでしょ!」

と言い返していた。それは本気で嫌って苛める子が、余りいなかったからだろう。私は割と男子から人気があった。

 少し太ってはいるけど愛嬌がある、とよく近所の大人にも小さい頃から可愛がられていた。後に言う“ブスかわ”で、ゆるキャラ的存在だったのかもしれない。成長してからも、それは余り変わらないと自分では思っている。

「大きくなったねえ。ますます可愛くなって」

「ほらほら、こっちへ来てその可愛い顔をよく見せておくれ」

 そう声をかけてくれるのは、いつも年配の方ばかりだ。後はこうちゃんのような、小さい男の子にも好かれていた。だが残念ながら同級生の男子達にとって、好きという対象からは外れていたようだ。

 あくまでおちょくりやすく、話しやすい相手としか思われなかったらしい。憧れのサガワ先輩とも、結局は告白する前に憧れだけで終わった。気づけば、先輩には同級生の彼女がいたからだ。

 それでも私は日曜日になると、先輩が所属するチームの練習や試合に顔を出した。じっとその姿を見つめ、同じく応援に来ている女子達と一緒に、陰ながら声援を送ったりもしていた。

そこには先輩の彼女、ミナコ先輩もいた。

「今日も来てくれたんだ」

 そう声をかけてくれた彼女は、同級生の先輩二人を引き連れ試合の応援に来ていた。その頃には、私がサガワ先輩に憧れている事を知られていた。

 しかし私は純粋にサッカーが好きで、先輩のプレーをする姿をカッコイイと思っていたからだろう。また異性として競争相手にならないとも判断されたのか、ミナコ先輩には嫌悪感を持たれなかった。それどころか彼女は、私に目をかけてくれたのだ。

 複数のチームで練習試合が行われる時だと午前中で一つ終わり、お昼にお弁当を食べて午後から再び試合が始まるケースは良くあった。そういう日だと、ミナコ先輩が必ずサガワ先輩や数人分のお弁当を作って持ってきたりしていたのだ。

 サッカー部の人達も、当然自分の親が用意したそれぞれのお弁当を持参している。それらと一緒に広げ、ピクニックのように大勢で突き合って食べるというのが、毎回恒例となっていたらしい。

 いつからかミナコ先輩の誘いで、その輪の中に私も入れてもらえるようになった。その時初めて、サガワ先輩と言葉を交わすことができたのだ。

「この子、小学校の頃からあなたのファンだったんですって」

 サガワ先輩に対し、そうミナコ先輩が私を紹介してくれた時には心臓が飛び出るほど驚いた。顔が赤く火照っているのが、自分でも判った。

 しかもサラサラの髪を爽やかになびかせたサガワ先輩に、

「ああ、何回か見かけたことあるよ。そうなんだ。ありがとう」

と言われた時、私はそれこそ失神してしまいそうになったものだ。

 それでも回数を重ねて行く内、ミナコ先輩に気を使いながらも自然な形でサガワ先輩と会話ができるようになった。お昼の弁当は朝早く起きて母に手助けを請い、一生懸命作って先輩に何度か食べて貰った事もある。

「美味しいよ、これ」

 サガワ先輩がそう言うと、周りのサッカー部の人達が、

「マジマジ? あ、本当、うめ~! 自分で作ったの?」

と大騒ぎしながら手を付けてくれた。そんな時は冗談で、

「あ、それはスーパーで買って温めただけのやつ、かも」

と言ったりして、え~、マジ~、なんだよ~、と皆で笑ったりしたのだ。そんな一時がとても楽しく、私は試合のある日曜日が大好きになっていた。 

 それは新たに、タカシという身近で好きな人ができたからでもある。彼は私と同じクラスで、チームでは準レギュラーの子だ。お弁当タイムにもよく顔を出していた。

 そこから二人は仲良くなり、私に対して憎まれ口を叩く彼を意識するようになった。これはサガワ先輩への好意とは、明らかに別の感情だった。

「お前、気をつけろよ。グラウンドに寝転がったら危ないぞ。ボールと間違えて、蹴られちゃうから」

 彼は私の顔を見る度に、昔から色んな男子達に言われ続けて来た意地悪を繰り返していた。だが皆でお弁当を持ち合い広げた時は、いつも私の作ったお弁当を中心に食べてくれるのだ。 

 ランチタイムだと、やはりミナコ先輩が作ってくるものは一番人気だった。その後はミナコ先輩と同級生の人達が持ってくる、豪勢なお弁当(後で判ったがそれらは全て彼女らの母親が作ったか、どこかで買ってきたものを詰めた物だったらしい)に皆が手を伸ばすのが通例だ。 

 私のお弁当は家庭の味がすると、だいたいの男子が褒めてくれた。だが他の人の物に比べれば地味な為、最初に一口義理で手をつける程度だった。

 その為最後の方は、残ってしまうことが多かったのだ。よって残りは自分で食べ、片付けるというパターンが続いていた。

 しかしある時から、タカシはその事に気付いたらしい。そこで何気なく箸を伸ばし、口に黙々と詰め込んでくれるようになったのだ。おかげで無理して食べなくても、私のお弁当は早めに空となった。

 彼はそんな素振りを、他の人達に気づかれないよう気遣っていた。何かの話題で盛り上がっている時、さりげなく食べるという優しさがあった。

 しかし表向きは私に対して、ぞんざいな扱いをしていたからだろう。サガワ先輩から、よく注意されていた。

「女の子に対して丸いとか、外見をからかうのは良く無いぞ」

「はい、すみません」

 彼も注意されたその時だけは、頭を下げ謝っていた。しかし悪気が無い事は、私と同じく先輩達も判っていたようだ。ただ単に場を盛り上げる為の、冗談の一つにしか過ぎないと知っていた。

 その為、皆もそれ程深刻に受け取ってはいない。それどころか私は彼に構って貰うことが、いつしか嬉しいと思うようになっていた。それはやがて変化し、どんどんと彼に対する想いが募り始めたのだ。

 そうして好意を抱くようになった私は、思い切った行動に出た。二月のバレンタインデーに小さな手作りチョコを渡し、自分の気持ちを伝えたのだ。

 定番である校舎裏に呼び出された彼は、とても驚いていた。

「え? 俺? いつも悪口ばっかり言ってるのに」

 彼は私に悪態をついていた為、自分が嫌われているものだと思っていたらしい。好きだと言われたことが、しばらく信じられなかったようだ。困惑しているのか、それ以上口を開かなかった。

 今までの自分に対する言動から、私は彼も憎からず思ってくれているだろうと期待していた。だがもしかすると、それは自惚うぬぼれだったのかもしれないと不安になった。

 それでも勇気を振り絞って言った。

「私の残りそうになったお弁当を食べてくれる、そんな優しいタカシが好きになったの」

 すると耳まで真っ赤になりながら

「あ、ありがとう」 

 そう言ってチョコを受け取ってくれたのだ。やはり彼も私に、特別な感情を抱いてくれていたらしい。あるあるだが、好きだからこそ意地悪をしていたのだろう。

 後に大人になり、これは心理学において反動形成だと学んだ。無意識に自分の気持ちや感情を抑圧しているが為、素直に表現出来ない反動で正反対の行動を取るものらしい。

 その後二人は付き合うようになった。だから私は日曜日のサッカーの試合はもちろん、練習にも顔を出し続けた。その頃はもうサガワ先輩達は卒業し、ミナコ先輩達もグランドに来なくなっていた。

 それでもお昼のピクニックは、かつてと同じように開かれた。そこでは私とタカシが中心になり、他の女子や新しくできた後輩達を巻き込むようになっていたのだ。もちろん私の作ったお弁当だけは、彼がほとんど一人占めしていた。

 ファーストキスの相手もタカシだ。場所は彼の部屋だった。春休みでサッカーの練習が無い平日の昼間、家に上がりこんだ。その後彼の母親が少しの間買い物に出かけた時間を利用し、彼は緊張しつつ覚悟していた私の手を握り、二人は初めて唇を重ねた。

 初体験の相手も彼だ。場所は同じく彼の部屋だった。中三の夏休みに彼の母親が留守の時を狙って二人はキスを交わした後、慌ただしく服を脱いだ。私は汗だくになりながら、必死になっている彼の顔を見上げ、痛みに耐えながら愛おしく抱きしめた事を覚えている。

 その日に二人が結ばれる計画は、夏休みに入る前から立てられていた。彼は慎重にその日を選び、私にこっそりと、

「大丈夫? 俺の家に、その、遊びに来られる?」

 照れを必死に隠そうと、変に真面目な顔でそう聞かれた時には思わず、ぷっと噴き出してしまった。

「何がおかしい?」

 からかわれたと思ったのか怒っていたが、私は笑って、

「いいよ。いつでも」

 そう答えると、彼の顔はますます赤くなりながらも、頬だけは緩んでいた。そんな時、彼は彼で様々な事を頭の中で想像していたと思われる。けれど私も幼い頃から頭の中で繰り返し描き、憧れたあのシーンを思い浮かべていた。女子だってそれなりに色々と考えるのだ。

 彼の部屋にはベッドが置いてある。最初は床に引かれた座布団に座って、おしゃべりなどをするのだろう。やがてその行為に至る為、二人はベッドに横たわるはずだ。座っている私におそらくキスをしてくるだろう彼が、どうやってそこまで連れて行ってくれるのだろうか。

 おそらく抱きかかえるに違いない。ああ、それこそ私が長い間夢見てきた、お姫様抱っこだ! そこから彼が私の服を脱がし、あんなことをして、こんなことをして……。

 だが現実は、そんなに甘く無かった。

 いよいよ計画実行日のその日、彼の家に上がってしばらく私達は軽く話をしていた。だが二人の耳は、彼の母親が出かける音を確認することに集中していた。

 彼によると、この日母親は久しぶりに集まる友人達と夜、食事に出かける予定だという。四時頃に出かけ、帰ってくるのは九時過ぎになるらしい。

「だから今日の夕飯は、お父さんと店屋物てんやものを頼んで食べてね」

 そう前から言われていたそうだ。そこで計画はこの日に決行しようと決めたそうだが、急遽目論見もくろみに変更が加わった。

 それは彼の父親が当日の朝、

「せっかくだから、今日はお父さんが会社から早めに帰って来て、夕飯を作ってやるよ」

と、余計な提案をしたからだ。普段なら父親の帰宅は、夜七時頃らしい。だがその日は六時頃に帰ってきて、夕飯の準備に取り掛かると言い出した。

 つまり私達が二人きりでいられるのは、母親が出かけた後の四時過ぎから父親の帰ってくる六時頃までの二時間だけ、ということになる。いや、万が一父親がもう少し早く帰ってくる可能性を考えると、一時間半程度かもしれない。そう彼は言うのだ。

 本来なら、少なくともあと一時間以上は余裕があったはずなのに。だからと言って予定日を変えれば、今度はいつそんな都合のいい日が来るか判らない。その為計画は、強行することになったのだ。

「早く出かけてくれよ……」

 時計の針が、三時五十分過ぎを指した。彼はそう呟きながら母親が出かけるのを、今か今かと耳を澄ませて待っている。だからだろう。目の前にいる私に対して、視線すら寄こさなくなっていた。

 しかしもうすぐ予定の時間が来る。そう思うだけで私は座布団の上に座っている間、期待と不安で胸が一杯になった。緊張しながら、その瞬間を待ちわびていたのだ。

「じゃあ、お母さん出かけてくるわね」

 四時三分過ぎにようやく待望していた言葉が聞こえ、玄関先でばたばたと靴を履く音が耳に届いた。

「あ、ああ、いってらっしゃい」

 自分の部屋のドアを開け、顔だけ出しながらそう返事をした彼は、母親が外に出る様子をじっと待っていた。

「じゃあ、お願いね」

 そう最後の声がして、玄関の扉がガチャンと閉まった瞬間、彼は自分の部屋のドアを閉めて私の方を振り向いた。その目はいつもの優しい、ちょっとはにかむ彼では無かった。充血した、真剣な眼差しだった。

「りん!」

 それまでに、相当我慢を重ねていたのだろう。私に覆いかぶさるようにしてキスをしたかと思うと、

「時間がないんだ!」

 そう言って素早く服を脱ぎ始めた。急がなければならない事は理解している。だから私もその勢いにつられ自分で服を脱ぎ、飛び込むようにして二人でベッドに潜り込んだ。

 それまでに掻いた変な汗でベトベトしたお互いの体を抱きしめ、私は痛みでふと我に返った。その時滑稽こっけいなそれまでの状態と一生懸命な彼の姿を見て、吹き出しそうになる。それでもすごく幸せな気分に浸り、彼の体にしがみついていた。

 慌てた割には、あっという間だった。けれど残り時間を確認した彼は、

「もう一回!」

と、小さく叫び私の体にむしゃぶりついた。まだ痛みが治まらなかったが、強く拒否することもできない。そのまま彼にされるままの状態で、終わった時にはサウナへ入ったかのように、二人とも汗が体全体から噴き出ていた。

 事前に用意していたバスタオルで汗を拭き、ベッドから降りて脱いだ服を着ている時、私は肝心なことを忘れていたと思い出した。

「ねえ、タカシ。お願いがあるんだけど」

 私はお姫様抱っこについて説明し、今からやってくれないかと頼んだ。するといつもの悪ふざけの口ぶりで、

「え~、もう三回目はできないよ。それに丸いお前を持ち上げられなかったら、俺が恰好悪いから」

と気だるそうに、私の希望を却下した。

 いつも通り、彼に悪気はなかったのだと思う。それは判っていた。それでも許せなかった。デリカシーの無い、もう自分のしたい事は全て終わったからという彼の態度は、私の心を一気に冷ました。

「じゃあ、いいわよ!」

 私は服を着替え、すぐに彼の部屋を出た。時計は夕方の五時少し過ぎを指していた。ベッドに入ってから小一時間ほどしか経っていない。あれほど慌てることなど、全く無かったと今更ながら気づく。

「ああ、じゃあ気をつけて帰れよ」

 彼は父親と私が遭遇するのを、できるだけ避けたいと言っていた。その為私がその意を汲み、早めに帰宅するのだと思っていたようだ。

 怒って帰ったとは、全く気付かなかったらしい。それに済ますことだけは済ました為、すっかり気が緩んでいたのかもしれない。

「じゃあ」

 冷たくそう言い残し、後ろを振り向かず私は彼の家の玄関を閉め、帰路についた。その道すがら、ずっと涙を流し歩いた。

 もうあんな奴、好きでも何でもない。大っ嫌い。そう言い続けながら歩いた。私の夢をあんな形で無にし、否定したことが許せなかったのだ。

 今となって考えれば、馬鹿で浅はかな行動だったと思う。それでも当時の私にとっては、真剣だった。不思議なもので、家に着き自分の部屋でもう一度思いっきり泣いたら、お腹が空いた。諸々の意味で、体力を使い果たしたからであろう。

「りん、ごはんよ!」

 母の呼ぶ声がした頃には、腹の虫がグルグルと鳴いていた。

「今行く!」

 返事をして着替えを済ませ台所に駆け寄った私は、いつも以上にモリモリと食べた。母はその様子を見て、笑いながら言った。

「今日は食欲があるのね。最近ダイエットだとか言って、余り食べてなかったのに。もう気にしなくてよくなったわけ?」

 今日の計画を立てた時、私は彼の前で初めて自分の裸をさらさなければならないと気づいた。その為少しでも細く見せようと、二週間程だけだが食事制限をしていたのだ。

 そんなことはお見通し、とも取れる母の言葉にドキリとしたが、

「うん、今日はちょっとお腹が空いたから。無理すると、体によくないし」

 そう答えて表に出そうな自分の感情を懸命に隠し、茶碗によそったご飯を慌てて口の中へと掻きこんだ。

「ちょっと、りん。お行儀の悪いことしないで、ゆっくり食べなさい。ご飯は逃げないから」

「は~い」

 母に注意されながらお腹を満たした私は、既にその時すっかり元気を取り戻していた。一度嫌い、と気持ちを切り替えてしまったら、後の取るべき態度ははっきりしている。

 この時期、高校受験が目の前にあったことも大きかった。私は目指す高校の難易度をワンランク上げ、勉強があまり得意では無いタカシとは違う高校に目標を定めた。かつて憧れていたサガワ先輩やミナコ先輩も通う、私立の進学校だ。私はそこを受験すると決めた。

 こうと決めた時の私は強い。そうなると一直線だ。彼の家を離れた次の日から、彼と一切の連絡を絶った。その分夏休みの残り期間の多くを図書館で過ごし、受験勉強に取り組んだのだった。

 元々勉強はそれ程苦手でなかった為、その時期に集中し勉強したおかげか、二学期になってから急速に成績も上がった。

「おい、どうしたんだよ。何度も俺が家へ電話してもいないし、出てくれないんだ。家にも行ったんだぞ」

 この頃は携帯などという、便利なものが無かった時代だから良かったのだろう。それでも学校が始まれば、どうしてもタカシと顔を合わせなければならない。

 だがその頃には気持ちも完全に冷めており、面と向かって淡々と告げることができた。

「もう私達、付き合うの止めよう。これから受験だし。じゃあ」

 廊下の隅で彼に声をかけられた私は、彼を置いてさっさと教室へ向かった。すると、意外な言葉が背後から聞こえてきた。

「何だよ。もしかして、俺って、その、あの、下手だったとか……」

 男というのは本当にバカだ、とその時知った。そんな事は考えてもいなかった。予想外の反応に驚いて振り向くと、こんな情けない彼は見たことがない程、暗い表情で落ち込んでいる。

 そうではない。私は自分の中でもう終わりだと決め、受験勉強に集中してきただけだ。それでも時々、彼を思い出す事はあった。

 しかも初めて抱かれたあの日の行為を考えると、私の体は熱くなり、それを慰めるのが一苦労だったりもした。つまりそれほど悪くなかったのだ。いや、最初にしてはとても良かったと思う。

 呆れた私だったが、ここでふと、今まで彼にされてきた意地悪なもの言いを思い出し、つい、

「そうかもね。じゃあ」

 そう言い残し、背を向けて口では舌をペロッと出しながら笑った。だが残された彼には、冗談に聞こえなかったのだろう。

 相当後になって聞いたが、彼はその後しばらく女性との交渉に、コンプレックスを抱き続けていたらしい。彼女ができても夜の関係が、なかなか上手くいかなかったと耳にした。

 けれど当時はそんな事になるなんて、全く想像できなかったのだからしょうがない。


 私は二学期に入ってから、休み時間になっても勉強する癖がついていた。夏休み中に作った単語帳や参考書をまとめたノート等を使い、受験に一生懸命取り組んでいたからだろう。

 失恋というのか、一方的な想いによって勝手に傷ついた心の隙間を埋めるように始めた勉強だった。だが私にとって、それがどんどん面白くなっていたのだ。

「どうしたの、りん。タカシ君と別れたんだって?」

「急に勉強しだしてどうしたの? 何かあった?」

 口々に親しい女友達はそう尋ねてきたが、真面目に心配している人は、一人もいない。ただ興味本位に、別れ話を聞きたかっただけだろう。

 特に彼の口から、男子を通じてねじ曲がった情報の真相を確かめようと、言い寄ってきているだけだとすぐ理解できた。

 けれど面倒だったので、その度に答えた。

「別に。ちょっとサガワ先輩とミナコ先輩のいる学校を目指そうと思って。だから恋愛は邪魔なの」

 あながち嘘では無い。

「え~! あそこって、ちょっと難しいところよね」

「あんたの成績で行けるわけ?」

 失礼なことを言う友達もいたけれど、だから一生懸命勉強しているのと言い返したところ、これまた意外な情報が耳に入った。

「どうして今更サガワ先輩なの? あれ、もしかしてミナコ先輩と別れたらしいって噂を聞いたから?」

「そうなの? 初耳なんだけど」

 目を丸くして聞き返す私の様子に、その子は説明してくれた。

「なんだ、知らなかったんだ。あくまで噂だよ。ミナコ先輩に新しい年上の彼氏ができたんだって。タカシ先輩より年上で、ずっとカッコいいらしいよ」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、一生懸命勉強して同じ学校に入ったら、私にもチャンスがあるかもね」

 心にも思っていない冗談を口にして、私はその話題を終わらせた。

 面白いもので、勉強というのは興味を持ってやればやっただけ、結果が出るものだと知った。成績はぐんぐんと上がり、受験間際の模擬試験では、志望校としていたサガワ先輩達のいる高校の合格率で、七十五%の判定まで出た。

 まだ確実な合格圏内ではなかったが、それまでの実力ならせいぜい合格率三十%がいいところだったはずだ。これで自信を持ったこともあり、勉強にも弾みがついた。最後の最後まで必死に勉強した私は、とうとう目標にしていた高校に合格したのだった。

 中学の卒業式が終わり、私は数人の友達と家に帰る途中、久しぶりにタカシを見かけた。本当だったら私も通う予定だった高校に、彼は無事合格したと聞いていた。

 そんな彼は私の知らない、別のクラスの女の子と楽しそうに腕を組んで歩いていた。方向は彼の家の方角だった。もしかしてあの子をこれから部屋に連れ込むのだろうかと想像した時、急に寂しくなった。

 嫉妬した訳でもない。未練など残ってはいなかった。ただ自分の隣には、自分の体温と相手の体温を感じ会える存在がいないと気付き、胸に痛みが走ったからだ。

 何かあった時、話を聞いて優しく支えてくれる誰か、私を抱きあげて歩いてくれる誰かが、そこにはいない。そう思うと、急に涙がこぼれてきた。人肌が恋しくなった。誰かに温めて欲しい。抱きしめて欲しい、という想いが溢れた。

「どうしたの? 何?」

 一緒に歩いていた友達の一人は、私が涙を流している事を察し、心配そうに顔を覗き込んできた。幸い彼女には、タカシと女の子の姿が見えていなかったらしい。角を曲がった彼らは、既に視界から消えていた。

 私は涙を手の甲で拭い、誤魔化した。

「ごめん。本当に卒業なんだと思ったら、つい涙が出ちゃって」

「そうね。りんとは高校も違っちゃうから、あまり会えなくなるね」

「寂しくなるね」

 そう言って私の涙に誘われたのか、彼女達も泣き始めた。そんな様子を見つめながら、私の心は冷めていた。

 彼女達は本当に寂しくて泣いているのではない。悲しいねと言い、涙を流す自分に酔っているだけだ。そう判っていたけれど、私は思ってもいない言葉で、話を合わせて頷いた。

「そうだね。でも近くに住んでいるんだから、いつでも会えるよ」

 もう私の目は乾いていた。ただこの時決断した。タカシの家から歩きながら泣いて帰った時のように。

 それは高校に入ったら、すぐにでもいい恋をしよう。大好きな人を見つけよう。心を温めてくれる人と、絶対出会うんだ。

 次の目標を定めた私の気分は、もうすっきりとしていた。早く今周りにいる友達達と離れ、すぐにでも新たな道に向かって歩きたい。そう心の中で笑っていた。

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