第2話 忍耐のカウントダウン

「今、ここでハンドルを切れば楽になれるのかなぁ」


 帰り道のトラックが走り抜ける直線道路を走りながら、反対車線に走るトラックを見るたびにそう思っていた。結局実行に移す勇気はなかったが、それは良かった。たとえこちらが百パーセント悪くとも、相手の運転手に与える被害を考えると、すんでのところでいつも思いとどまった。だが運転しながら涙が溢れるのはいつものことだった。

 そんな気持ちでようやく家にたどり着き、食事を済ませ風呂に入り、寝るまで酒を飲んで酔った勢いで眠りにつく。この時間だけが自分にとっての唯一の癒しであった。明日は何をきっかけに怒鳴られるのか、どんな事で攻められるのか。そんな気持ちをかき消すように目を閉じて布団にくるまった。


 転機が訪れたのは突然であった。ある日、担当の営業の一人が突然全ての職務を放棄して会社に来なくなった。いわゆる『バックレ』というやつである。

 辞めたいのはこっちの方なんだよ馬鹿やろう、という気持ちで何とか相変わらずの罵声と怒号を浴びながら作業をこなして少し経った頃、社内で人事異動の話が起こった。


営業の穴を埋めるべく、こちらの部署から一人の上司の引き抜きの話が出た。その上司は自分から見ても有能のベテランで、こちらの部署を支えるのに無くてはならない人物である。部署長に毎日のように攻められる自分を呆れつつも、最終的に尻拭いをしてくれる人でもあった。内心はまたかよ、勘弁してくれ、と思っていたのは間違いないだろうが。それは本当に申し訳なかったと今でも思う。


 だが、それほどの人物だけに部署長は内心穏やかでなかっただろう。部署的に人数は足りているだろうと上から言われ、自身の右腕的なポジションの人間をあっさり引き抜かれたらたまったものではない。異動の話が具体的になりだした頃、会社でいつものように残り確認作業をする自分に部署長が声をかけてきた。


「……お前、これからもここで働いていけると思っているか?どうなんだ」

 部署長が何が言いたいかは考えなくても分かった。

人数が充分に足りているから、と判断された上での引き抜き話である。つまり、ここから一人いなくなれば引き抜きの話は事情が変わる。思い通りに殴り放題、言いたい放題のサンドバッグのような存在と、優秀な右腕。どちらかを失うのならいくらでも替えが利くサンドバッグに決まっている。

 過去に一度意を決し、自分が涙をこらえて退職を願い出た時に、挽回もしないで逃げるのか、まだそんな風に考えるのは早計だ、となぁなぁに引き伸ばしていた部署長の口から出たその言葉に、一年ぶりに『辞めたいです。辞めさせてください』の言葉を返した。


 そこからは、あれだけ悩んでいたのがまるで嘘のように退職日が決まった。


 部署長が上にどのように伝えたかは知りようもないし、知りたくもない。どうせ自分に都合の良いように言っただろうが、一日でもこの会社から離れたいという気持ちが何より強かった。

退職の手続きの際、人事や総務の態度からもそれが伝わったが、自分が壊れるよりはましだった。主張したいこと、言いたいことは山ほどあったが、どうせ変わることもないのなら出来るだけ早くここから逃げたかった自分の気持ちを優先した。

 それからはただただ自分の引継ぎと雑務を済ませ、退職日までの日を今か今かと待ちわびて過ごした。いざ退職の日を向かえ、数少ない自分が声をかけれる現場の方にだけ挨拶を済ませ最後の勤務を終えた。ただただ部署の床や機械を拭いて磨くだけであったが。


「お前、辞めるからって周りに変なこと言いふらすんじゃないぞ」

 自分の発言や態度に多少の自覚はあったのか、最後の最後までぶれることのない部署長の発言にマスクの下で大和は苦笑する。人心も権力も掌握している癖に、そういった根回しだけは忘れないのだな、と思った。


「……言いませんよ。本当自分がお世話になった方にお声がけするだけです」


 あと数時間。あと数時間でこの場所から永遠に離れることが出来る。

 床の汚れを落とすための布切れを握る手に、より一層力を込めた。

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