第50話 決断の時
梅雨が到来していた。
(俺はどうすればよい)
ここのところそうして眉根を寄せて悶々としていれば、家中が湿っぽくなるようで家族や下男も彼に近づこうとはしていない。
それほどまでに宗矩の塞ぎ様はひどかった。
原因は半月ほど前に行われた千代田城での閣議にある――。
その日、宗矩が秀忠に呼び出され登城すると、広間にはすでに
この場に呼ばれたのはなにかの間違いではないか。
そう思ったが、
「宗矩。そこへ」
そう言って秀忠が正面の畳に顎を放ったから宗矩は驚いた。
「柳生殿。そう固くなりますな」
御前に召されれば土井利勝がにこやかな顔を宗矩に向けた。
「実は先より我らが話し合っているのは、先月の日光御参詣の折り浮上した本多家謀反の疑いについてであるのだ。
ならばそこにいる井上正就の意見を聞いたことで事は済んでいるはずではないか?
自分はただの同行者の一人であって、意見を言えるような立場でもないが……。
宗矩はそんな疑念を抱きつつも、「であれば」と思ったままに意見した。
「――なるほど。一部外来の建具の使用はあったが、警護を固めるための工夫に過ぎなかったと」
「おっしゃる通りにございます」
「しかしだ。申告のない箇所に修繕が認められたのは事実である。上様をお喜ばせになりたいが為とはいえ、黙って修繕を行えばこれ立派に法度違反である。上に立つ者のそうした行為が罷り通っては天下の御政道が疑われよう」
「それは」
もっともな意見だった。
法度を引っ張り出されては、結局それを前に意見など無力に等しい。
ならばやはり自分に意見を問うまでもなかったではないか。
宗矩は苛立ちを覚えた。けれどその思いが熱を失い凍りつくまでに至るとは、さすがに予想など出来ていなかった。
話は本多家のこれまでの功績を讃えつつも、近頃の行き過ぎた行動を懸念する方向に纏まっていった。
すると秀忠が放った次の言葉に虚を
「実はの。日光からの帰路、余は謎の一団より襲撃を受けた」
「なんですと!」
「異形の集団であったように思う。しかしその者共の風貌、上野に預けておいた根来衆によう似ておった。……
「そのようなことが……」
「風の守人の介入により事なきを得たが、この件については守人や近習どもに
いつも言葉数の少ない秀忠がこの時ばかりは珍しく雄弁に語ったため、宗矩は一抹の不安を覚えた。
すると、
「貴殿は駿府の頃より親交がおありとのこと。近頃の上野介殿、どう思われる」
続く土井利勝のその発言にようやく宗矩は悟ったのだった。
(ああ。俺は試されているのか)
日光参詣以来、胸の奥で燻っていた「なにか」がようやく分かった瞬間だった。
あの時生じた違和感がここにきてようやく拭えたのだった。
(力を持ち過ぎた本多家はとうに幕府より見限られていた。ここで問われているのは上野介殿の処遇ではない。この俺の身の振り方だ。一家を庇い時代の波に呑まれるか、あるいは御方々の手を取り新たな時代を築く一員となるか。いずれかを選ばねばならぬのだ)
将軍が自らを危険に晒すような芝居を打ったとは考えにくい。急襲の件は年寄衆も寝耳に水だったのだろう。やはり別の者の陰謀が潜んでいたことは間違いない。
しかし今や目の上の
宇都宮城の検分に同行させ、正純に反逆の意思がないことを確かめさせた上で、彼らはそれでも「自分たちの手を取ることが出来るか」と。そう、宗矩に問いかけていたのだった。
『宗矩。とくと見極めるがよいぞ』
それは究極の選択だった。
だからこそ簡単に頷くことも拒否することも出来なかった。
ただ正純の将軍家に対する熱い思いを知っていれば、視界は滲み、それが零れないようにと全身で力むことに宗矩は必死になった――。
そしていよいよ決断の時だった。
とはいえ、宗矩の心はすでに決まっている。
ただその決断によって失うものの大きさを考えると、いつまでもこうして床の上に座していたいと思う弱気な自分がいるのだった。
(だがそれでは進まぬのだっ)
宗矩は額の汗を拭うと立ち上がった。道場の扉を開け放つ。
「お心。お決まりのようでございますね」
「ああ。だがその前に一つ聞かせてほしい」
「なんでございましょう」
「日光より帰還してみれば天守のあの荒れ様……。あれはお前たちの仕業であったのだろう?」
「申し訳ございません」
庭先に控えていた白夜は素直に白状した。
「謝るな。宇都宮にて目にした雲霞のごとき異形の群れ。江戸へ向かうやつらを蹴散らしてくれたのはお前たちであったのだろう」
白夜は黙したまま、宗矩の次の言葉を待っている。
「こ度の騒動。以前より本多家を幕閣より追放する機会を窺っていた御方々にとって、加納の方の御注進はまさに格好の契機であったのだろう。……しかしその契機すらも利用し、徳川家に仇なそうとする輩があった。そういうことだな。お前たちの働きなくば、今頃我々の命運はとうに尽きていたのやもしれぬ」
「そのようなことは決して」
「いや。心より思うのだ。だからこそ俺は心を決めたぞ」
宗矩は迷うことなく白夜の前に突き進み、腰を落とす。
彼の肩をきつく握った。
「これよりこの国の均衡はますます難しくなる。泰平の世を成さんとすれば、戦国の残り香はわずかでも絶たねばなるまい。多くの武人が消え、その犠牲の上に新たな時代が築かれるのだ。ゆえに悲しみや憎しみは生まれ、悪しき物に魅せられる者も多くあろう。……しかしそのことを我々はどうしても見過ごしがちだ。だからこそ、お前たちの存在は希望そのものだ」
「宗矩様」
「俺は自分に成すべきことを成す。お前たちもまたそうであってくれ。ともに生涯を賭してこの国のため戦おうではないか。その先にきっと戦のない世が待っている」
宗矩はまさに仏に縋るような思いで白夜の肩に縋った。
雨がしとどに互いを濡らす。
いつしか宗矩の手には淡白くも武骨な手が重なっていた。
「はい。この命ある限り、この国の未来のため全身全霊を賭して戦います」
その言葉に、宗矩の心にわずかに残っていた罪悪感も洗われていくようだった。
「ああ。……白夜よ。一つ頼まれてはくれぬか」
彼と初めて出会ったあの日のように、庭先の
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