第49話 別れの朝焼け

 目覚めた時、すでに空は遠くあった。

 意識は驚くほどはっきりしている。

 醜かった頃の記憶も覚えている。なにもかも。

 

 稲光に打たれて結界の中へと沈んだ御坊の体は今、千代田城天守の屋根上に転がっていた。


「まだ……生きて、いる……」


 あれほどの衝撃を受けて灰と消えずただの人間に戻れたことは、あの一撃が正しく仏の慈悲であったからだと今ならば素直に受け入れることが出来る。


「御坊さん」

 

 自分を呼ぶ張りのある声。

 目の前に左右に仁王立ちし、自分を見下ろす二人の男子。まるで阿吽あうんのようだと御坊は思った。

 残されたわずかな力を注ぎ、首を右側へと傾ける。


 霞む視界に江戸の街並みが広がる。人工の建物と手つかずの自然とが上手く溶け合う都は、次の朝日が昇るのを待ち、暁の空の下、静寂にその身を預けている。


「美しい町じゃなあ」

 

 これをこの手で壊そうとしていたのだから、本当に気が狂っていたのだ。憎しみに囚われて、魔を己の内に巣食わせてしまった。そして――修羅となった。


「……ただひたすらに憎かった。父上を逆臣に仕立て上げ、我が一族の信頼を地の底へと貶めた本多家が。そして一家に傾倒する愚かしい連中が。そしてなにを成すでもなく、人目を逃れ、無様に生きるこの身が……。だから、望んでしまったのじゃ。力を」


 少年たちは御坊の懺悔を聞くことに徹している。ひょっとすると嗚咽おえつにも似た彼の掠れ声にかける言葉を探している最中かもしれなかった。


「我が一族は引き裂かれ、冤罪の下、兄上たちはみな自刃させられた。さぞかしご無念であったじゃろう」


 母親こそ違うが父親の血を分けた尊き七人の兄。その一人一人の名を丁寧に、愛おしそうに呟けば、御坊の視界がじわりと滲む。


「ああ、父上。兄様方。再びお目にかかれたら……。その想いでこの御坊、一心にここまで努めてまいりました。しかしいつの頃からか道を違えてしまったようでございます。黄泉よりお連れするため、罪なき多くの人々をこの手にかけるなどと……。これよりこの身は地獄の業火に炎々と焼かれながら、この手にかけた人々の冥福をひたすら祈ることになりましょう。ですから、どうか……。どうか父上たちは、安らかにお眠りくださいませっ……」


 とうとう熱い涙がその頬を下りた。


「いいえ」


 風の守人が静かに頭を振る。


「あなたは地獄になど落ちない。先ほどあなたを貫いた光は、その身に巣食った悪のみを滅しました。あなたは再び人の道へと戻られたのです」


「そうですよ。言ったでしょう? この剣があなたの苦しみをすべて断ち切ったんです」


 空の守人がその手に握る剣を示すように軽く持ち上げる。


「……地獄に堕ちた衆生しゅじょうさえも救うてくれるか。まことそなたたちは不動明王の化身であるのう」


 その言葉に二人が照れたように黙する。

 そうしてよくよく見つめていれば、不動明王の化身でも、忌々しい宿敵でもない。ただの愛らしい子供たちであった。


「ありがとう。その言葉に、二度も救われた心地じゃ。……なれど、生きることにも疲れてしもうた。どうかこのまま逝かせておくれ。真実まことこの罪が許されたとあらば、残る我が望みは唯一つ。……父上たちの元へと参りたい。どうか、どうかご慈悲を」


「それがあなたの願いなのですか」

 

 ただ真っ直ぐと。緋色の瞳が見下ろしてくる。

 御坊は「はい」と小さく答せた。


 彼らが顔を見合わせる。風の守人が前に出て屈んだ。懐に手を忍ばせる。


「これを。お返し出来てよかった」


 御坊の胸元にそっと置かれたのは、彼の父親の唯一の形見。

 これだけは奪われまいと、あの日から肌身離さずあった物。

 喜びも苦しみも共にした友。

 この手で生み出してしまった哀しき妖の、有りのままの姿――。 

 

「そうか。持っていてくれたのか。……すまぬ。すまぬのう……っ」


「御坊さん」


 御坊の体はすでに衰弱しきっていた。元より戦など知らない柔な体。それを今の今まで動かしていた熱源は周りへの激しい復讐心。それだけ。

 それも潰えた今となっては、死に向かう間際の穏やかな空気が彼の周囲を包んでいた。

 

 守人の二人もおそらく悟ったのだろう。慈愛に満ちた眼差しを向けている。

 黒髪の少年などは鼻をずびずび言わせて、別れを惜しむように涙さえ流してくれている。


(ああ。我にも弟がおったなら。こうも優しい子であったかな)

 

 御坊はほとんど見えなくなった視界の中で手を伸ばす。

 すると意図を察した黒髪の彼がそっとその手を握ってくれた。柔い感触を微かに捉えれば、まろい頬に導いてくれたのだと御坊は理解した。


「我のために泣いてくれる優しい子。どうか。どうか、許しておくれ……。このような醜態を晒したは、全て、己のせいじゃ。しかし甘言についつい乗せられてしもうたのよ」


「え?」


「江戸を落とし、将軍家のお世継ぎを葬ること叶えば……我が一族を蘇らせてくれると」


 その言葉に直ぐにも反応したのは、隣にあった青年だった。


「一体誰があなたにそのような甘言を吐いたのです」


 御坊は息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。


はその機会を常に狙っておる。人も、妖も……上手く利用する術を知っておるのじゃ。……どうか、用心しておくれ。そして、この国を……真に平和へと、導いて、おくれ……」

 

 はくはくと掠れた息を吐くだけが彼に残された動作だった。

 

 御坊の限界を悟った二人がその場に跪くと頭を垂れた。


「ご忠告をありがとうございます。あなたの願いは五色の守人がしかとこの胸に刻みました。どうかこれからの事はお気になさらず、ゆっくりとお眠りくださいませ」


「家族みんなできっと仲良く過ごしてくださいね。……御坊さん。ありがとうございました」


(ああ。今の今まで敵であった者に礼を言うとは。おかしな子供たちよ。どうか我のような哀れな者をこれからも救っておくれ……)


 御坊は満足したように目蓋を閉ざした。そしてとうとう永久に沈黙した。

 

 日が昇る。

 黄金色の朝焼けが彼の体を優しく包む。

 その胸元で、翁の面が穏やかに笑んでいた。

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