第32話 本多家の疑惑 後編
根来衆が消息を絶った――。
その報告に一同はそろって眉根を寄せた。
その場にいる誰一人としてそんな報告は受けていなかった。
根来衆は将軍家直属の鉄砲組だ。
今回宇都宮城の防衛強化にあたり、本多家にはその百人ほどが幕府より貸し出されていた。しかしどうにも城の普請に協力的でなく、そればかりか城下で女子供に狼藉を働くゴロツキぶりだったらしく、城主である本多正純が自らの手で代表格である四人を成敗したと。それだけは報告を受けていた。
しかし残りの者もすべて姿が消えているとは。
一体どういうことなのか。
「本多家により頭株が成敗された後は彼らも心を入れ替え、普請に励んだと聞き及んでございます。それも能力に見合った難しい現場を担ったとか。それが近頃ではいくつかの組に分けられ、連日領内の至る地に検地に駆り出されていた模様。そしていつの間にやら姿を消しているのでございます」
堀利重が淀みなく得意げに語る。
「まさか」
「ご後室様は、残りの衆は本多家の放った刺客によりすでに斬り伏せられたものと見ておいでです」
いよいよ興奮した土井利勝が体を前に傾けた。
「なんと。しかし仮にも相手はあの根来衆。砲術と忍術に長けた精鋭部隊ぞ。かつて織田信長公ですらさんざんに手を焼いた相手。これをいかにして消したと申すのか」
「その方法こそがすべてを物語っておりましょう」
末席で言葉の応酬を見守っていた柳生宗矩は皮膚がひりつくのを感じた。
それが真実だとするならば方法は一つだったからだ。
民間の刺客に依頼した。
となれば、その者は相当な手練であっただろう。金は相応に積まなくてはならない。そうまでして本多家が根来衆を一掃したかった理由とはなんなのか――決まっている。口封じだ。
「彼らは荒々しい一面を持っておりましたが、公儀直属の部隊衆としての
「く、口が過ぎようぞ、堀殿!」
利勝の叱咤が飛んだ。
けれど使者も引き下がるわけにはいかないと、顎を引いて彼を睨んでみせた。
「では何故そうした報告が皆様のお耳には届いておられぬのか!」
やはり番匠と同じ理由で根来衆も消されたのだろうか。ならば正純が秀忠を手にかけようとしていることもまた事実か。――ありえない!
宗矩はここまでくると口を閉ざしていることが難しくなっていた。
正純のことだ。御殿の構造は将軍を堅くお守りするための工夫だと確信があったし、根来衆の失踪にしたって別の理由があると思った。それを打ち明けていないのは、日光社参という大切な行事を前に、余計な心配をかけまいとする正純の配慮なのではとも推測がいった。
(きっと江戸に帰れば説明があるはずだ。それとも本当に上野介殿も把握していない事態なのやもしれない。まさかこれも加納の方が仕組んだことなのか。いや、あるいは別の何者かが彼を陥れようとしていることだって考えられる……)
可能性はまだいくらも残っていた。けれど状況は正純にとって完全に不利となっていた。
しかしついに宗矩は口を
口を出すなどおこがましい。自分は一介の剣術家にすぎず、同席を許されているとはいえ、彼らとの権力の差は天と地ほどもあった。
戦国期。織田信長に故郷の領地を没収される屈辱を味わって以来、宗矩は父とともに一族再興のためにひたすら尽力した。そして領地を見事に取り戻し、お家再興は成った。これからますます飛躍することは、宿命にも似て亡き父との誓いだった。それをただの同情によって心乱せば、正純もろとも奈落へと蹴落とされかねない。
(けれど本当にそれでよいのだろうか。本人がいない今、本多家を擁護する存在は自分以外いないのではないか。一体どうすれば……)
気づけば宗矩の額には大量の汗が滲んでいた。
「――これでは埒が明きませぬな」
酒井忠世の落ち着いた声に宗矩は我に返った。
「それが
「ではいかにするっ」
井上正就が切羽詰まったように言った。忠世は少し考えてから言を発した。
「ここは別の用向きを立て宇都宮は迂回し、上様だけでも江戸に早期にご帰還なされるのがよろしいものと存じます。その間、我々はこの地に留まり情報を収集いたしましょう」
「別の用向き、とな」
「
「ふむ。しかしこのような時ばかり
秀忠は正妻の顔を思い浮かべているのか苦い顔をしていた。
「事は一刻を争います。直ぐにも使役を手配いたしましょう」
「では上野のもとへは誰を遣わすのがよいか」
「
土井利勝が提案した。すると指名を受けた井上正就も勇んで言った。
「それがしが参りましょう。御殿の構造も改めてまいりますゆえ」
「では上様とご近習の方々には日光西街道をお使いいただき、今宵は壬生あたりにて御休息めされるのがよろしいものと存じます」
「うむ。そのように手配いたせ。しかし……」
秀忠は忠世の提案に頷くと目を細めた。
「例の者を呼び戻さずともよいのであろうか」
「風の守人はすでに江戸に復帰いたしております。これを呼び戻すとなるとご
土井利勝が諭すように言った。
「詮なきことかな」
今後が決まっていく。
矢継ぎ早に指示は下りて、その場に居なかった大名たちにも話し合いの内容が伝えられた。近習たちは出発に向けてそれは慌ただしく動いていたし、堀利重に至っては終始興奮しきったように脂っこい面を手の平で拭っていた。
……数年前。
堀利重もその煽りを食らい大名の身分を剥奪された男だ。
すると奥平家預かりの身となっている今、加納の方とは仇を同じくする者同士、この展開を待ち望んでいたに違いない。
(やはりなにかがおかしいぞ)
宗矩は事の成り行きを見守りつつ、そんな思いを抱かずにはいられなかった。
勢いづいた水に押し流されるようにして事はなめらかに運ばれていく。
その中で自分だけが窪みにはまった小石のように動けずにいる。
心の有り様が問題か。しかしそれだけではない気がする。
ではこの違和感はなんなのだろうか……。
宗矩はひたすらに考えた。しかし答えは出てはこなかった。けれどじっとしているばかりでは事を見定めることなど出来ないということだけは明らかだった。
「恐れながら申し上げます。それがしを是非、
宗矩の突然の申し出にその場の年寄衆がそろって動きを止めた。
一同の視線が秀忠へ収束した。
秀忠は脇息に当てた肘を退かすと、しばらくの間宗矩を見つめた。
しまった。出過ぎた真似だったか。そう宗矩が感じたのも束の間、
「許す」
それだけを言うと秀忠は立ち上がった――。
そうして今、宗矩は願い通り井上正就とともに宇都宮へ向かっている。
去り際、思いがけずかけられた秀忠の言葉が頭を巡る。
『宗矩。とくと見極めるがよいぞ』
正純の裏切りを、という意味だったろう。けれど声の深みになにか別の思惑を感じてならなかった。勘ぐり過ぎだろうか。
「よいのだ。いずれすべてがはっきりしよう」
自らに言い聞かせるようにして吐き捨てると、ようやく気分も少し落ち着いて、宗矩はわずかにしなった背を正した。正就の後に続いた。
欠片ばかりの夕日がついに山の狭間へと没した。
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