第31話 本多家の疑惑 前編

 走る。走る。

 すると頬を切る風が心なしか冷たくなっているのを感じる。

 遠く山の狭間に見えていた夕日はもう欠片ほどだ。

 茜色に染まる田畑にうっとりと見入る暇もなく、ひたすら道を突き進む。

 早くしなければ夜の帳が降りてしまう。

 今市を発って、大沢は経た。

 すでに次の宿場は近い。そうなれば宇都宮はすぐそこだ――。


 柳生宗矩やぎゅうむねのりは心の中で道程をひたすらなぞっていた。

 逸る思いと、目的地に近づく憂鬱とが代わる代わる胸を締めつける。

 空き腹なところにきてそんな調子だから胃はもたれ、それが馬の動きに合わせて前後されれば、不快さはもう喉元まで迫っていた。だからこそ口を結び、ひたすら心の中でなにかを唱えていなければならない。祈るように。耐えるように。そうすれば余計な事だって考えずに済む。


「どうなされた柳生殿」


 馬上から声をかけてきたのは、年寄衆が一人、井上正就いのうえまさなりだ。


「どうにもご気分が優れぬようだ。やはりそこもとも今市に留まっていた方がよかったのではござらぬか」


「いえ。それがしも是非にお連れ下さいませ。が真実であるのか。この目で確かめず、ただじっとしてはおられませぬ」


「……そこもとは上野介こうずけのすけ殿とは昵懇じっこんの間柄であったな。ならばその思いも当然であろう」


 井上正就は同情するように言って首を前に直った。

 宗矩は静かに言葉を飲み干した。

 

 宇都宮へ向かう。たった数騎で。

 

 本来ならばこの街道は将軍秀忠を筆頭に万の供とともに折り返すはずだった。けれど今、宗矩は井上正就とそのわずかな家士に随従し、本多正純ほんだまさずみのもとへと向かっている。こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。

 

 すべては加納の方の話の真偽を確かめるためだった――。



        



《本多上野介正純殿に謀反の疑いあり》


 数刻前、今市に現れた使者、堀利重ほりとししげより差し出された書状は加納の方からのものだった。

 秀忠は一読するやいなや、側に控える土井利勝にそれを手渡した。


「これは!」

 

 秀忠の意向により書状はその場にいた者全員に回し読みされた。末座に控えていた宗矩でさえ読むことを許されたのだった。

 そこには本多正純の不審が何カ条にもわたって書き記されていた。


 読み終えた連中はそろって顔をしかめた。いよいよ彼女が嫉妬の牙を剥き出しにしたぞ。誰もがそう思った。すると不穏な雰囲気を感じ取って、彼女の使者が言った。


御宿所おんしゅくしょ、宇都宮城内の怪しき構造。恐れ多くも将軍家をしいし奉る謀反であると推測いたします。とくとお調べくださいますように、とのご後室様からのお言葉にございます」


「上野介殿が謀反と。いかに上様の姉君の申されることとはいえ、鵜呑みにするには確かな証拠に欠けますな」

 

 土井利勝が鼻で笑うようにして言った。初めこそ驚きもしたが、冷ややかな見解にはその場の誰もが納得していた。その通りだと年寄衆が口ぐちに囁いた。


 すると堀利重はある話をつけ足したのだった。


 それは今回の宇都宮城の工事に関わっていた番匠(大工)の一人が本多家によって誅殺されたというものだった。どうも番匠は里で帰りを待つ恋人に一目逢うため、城を無断で抜け出してしまったらしかった。


「なにをそのようなことを。無断で城を抜け出すなど言語道断。本多家の制裁は妥当なものであったといえましょうぞ。それのどこがご不審につながるのやら」


 井上正就が鼻で笑うように言った。すると堀利重の言い分はこうだった。


「その番匠、御成り御殿の建設に携わっておりました。城内に不審な構造を見つけ、それを指摘してまいったのはその番匠と恋仲にあった娘にございます」


「では城を抜け出した番匠が陰謀を漏らそうとしたと。その疑いでもって本多家が口封じをしたと申されるのか」


「さようにございます」


 土井利勝は困ったように同輩の酒井忠世に目配せをした。すると彼はいつもの冷静沈着な様子で口を開いた。


「それがしにはどうも娘の戯言と思われて仕方ございません。本多家は思い人を葬った憎き仇。これを陥れんと画策するが、悲しくも人の情けというものにございましょう」


 そうだそうだ、と一同が追い風を吹かせた。しかし堀利重は怯まなかった。


「もちろんそれだけではございません。皆様はご存じでいらっしゃいますか。根来衆ねごろしゅうの件にございます」


「それならとうに上野(正純)より報告を受けておるわ」


 とうとう秀忠が取るに足らない様子で口を開いた。


「狼藉を働いた数人を成敗したというのであろう。余も承知しておる」


「さ、さようにございましたか」


 秀忠直々の発言に堀利重は一瞬強張ったが、しかし長い息を吐くと鋭い目つきを食らわした。


「……では。残りの衆が近頃検地に赴いた先でことごとく消息を絶っているとのこと。これもすでにご承知のことにございましょうなあ」


「なに?」


 にわかに室内が色めきだった。

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