第5話 黒炎の使者
誰かが立っている。
燃え盛る炎の中でじっと立ちつくしている。
その眼差しは射るように鋭く、絶えずこちらを見つめている。なんだか怖い。自分という人間がどんなに無力でちっぽけな存在か、すべて見抜いているという眼差し。
(ああ。そうか。あれは不動明王だ)
その手には大きな
そうだ。さっき背中にぶつかったのはたしかこの仏様の像で、するとこの騒ぎを鎮めるため、わざわざ姿を現してくれたに違いない。
それにしても不動明王とはずいぶんと小さな仏様らしい。離れた場所に立っているとはいえ、赤黒い炎に体のほとんどが呑まれてしまっている。炎の勢いが凄いばかりじゃない。それに剣を握る手の細いこと……。
(違う。そうじゃない。あれは、あれは――っ)
不思議な気分だった。全身を炎に包まれながら踊っている。立派な剣をその手に携えて。見た事もなければ手にしたこともないはずが、吸い付くようにしっかりと手に馴染んだ感触。その重みは夢にしては生々しく、稽古で使っている竹刀とは比べるべくもない。
次から次へと飛んでくる悪意を受け流す。その軌道すら読めているかのように体が先に反応し、舞うように交わす。弾く。態勢を整えるように後ろに跳び退けば、差し出されるようにして飛んできた相手の首を踏み台にして宙へともんどり打った。
その間にしっかりと剣を構えて。脳天目がけて振り下ろす。
「ギィイイイイイイィッ!」
おぞましい叫び声から遠ざかるように
ゆらゆらと足元の暗い水面に命の
あんまり綺麗でうっとりと眺めていると、肌の上を滑るように流れていた炎が左手にある数珠へと収束していく。ズン、と下半身が脱力した。透夜は剣を地面に突き立て、片膝を突くに留まると呼吸をひたすらに繰り返す。
置き去りにされていた痛覚や疲労感がここにきて「追いついたぞ」とばかりに押し寄せてきたのだった。直ぐにも吐き気が器官を競り上がり、その場に盛大にぶちまけた。
「うえぇっ。はあ、はあっ……。俺、どうしてっ」
なんてあべこべな夢だろう。炎さえ
口元を拭って辺りを見渡せば、透夜はその他にも圧倒的な異変に気が付いた。
鈴木は無事かと振り返れば、そこにあるはずのお堂がなかった。石畳の地面もなければ土くれの地面がどこまでも続いている。目の前に泉はある。けれど先ほどまで自分がいた場所とは明らかに違う。剥き出しの地層から清水が勢いよく噴き出ている。月明かりだけで判断するのは難しいが、明らかに先ほどより豊かな水が眼前に
「ど、どうなっているんだ……?」
もはや見覚えのある存在といえば、横でぐったりと倒れている狸くらい。
小さな膨らみがわずかに上下している。息はあるようだ。けれど色々と聞き出すには及ばない。そもそも言葉が通じるはずもないのだけれど。
「くそっ。夢なら早く覚めてくれ」
透夜は切に願った。疲労と倦怠感がひどい。ひどく目も霞んできた。こんなわけの分からない状況とは一刻も早くさよならしたい。この際どんな終わり方でもかまわないから――。
するとそんな透夜の願いを聞き届けたとばかりに雄叫びが上がったのだった。
高台の木々の隙間から多くの瞳がギラついていた。透夜は後ろを振り返った。
獣の群れがすでに自分たちを囲っていた。奇妙な鳴き声に頭上を仰げば、おこぼれに
「……これはまた目覚めが悪そうな最期だなぁ」
そんな悪態をつくのがもはや精一杯だった。剣を握る力も残されていないし、そもそも先ほどまでどうやってこれを扱っていたのかまったく思い出せない。その手に巻き付いた数珠も完全に光を失っている。あるいはすでに夢から覚めてしまったかのように、無力な自分がその場に残されているだけだった。
警戒するようにじりじりと距離を詰められて。とうとう群れの一匹が痺れを切らしたように
視界を橙色が染め上げた。
「え」
眼前にそびえ立った炎の壁。先ほど自分が纏っていた赤黒いものではない。火災現場でよく見かけるあの猛った色の炎だ。
残るやつらが後ろに跳び退いた。が、高台にいた仲間たちは報復だと言わんばかりに果敢にもこちらへ跳び込んできた。
今度は泉の中から巨大な水柱が上がった。やつらをことごとく蹴散らすと、大量の水飛沫が四散し、辺りが一面深い霧に包まれた。なにがどうなっている。
やがて霧が退けば災難はすべて去ったかのように思われた。けれど上空で高みの見物を決め込んでいたヤツの存在をすっかり忘れていたのだった。
「クワアアアァアアア」
巨大な鳥の化け物がクチバシを開けて今まさに透夜めがけて下降を始めていた。
ざわり。
風が過ぎった。
空高く躍り出た人影。闇に一閃が走った。爆風が天地を揺らし、木々が鳴く。
細かな白い光の粒が空に
もの凄い高さから見事に着地を決めた人物が立ち上がる。汚れを払うように手にした刀を一振りすると、鞘らしきものに納めてこちらへ顔を向けた。
(まただ。あの鋭い眼差し――)
紅い瞳が値踏みするようにこちらを見ている。頭の天辺で結わえた銀色の長い髪が風になびいて。この世のものとは思えない幽玄な姿に透夜は息を呑んだ。
「だ、だれ……だ」
月明かりに縁取られた人物の輪郭が曖昧になっていく。そればかりか、この夜に味わった絶望も興奮も、なにもかもが曖昧に溶けていってしまいそうだった。
(望むところだ。だいたい夢なんてそんなものだ)
透夜は半分意地になって目蓋を落とした。というよりも色々と限界だったのだ。そうして今度こそ、このおかしな夢からきちんと覚めますようにと心から祈った。
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