第4話 少年、奮起する。

 月明かりを受けて黒光りする肢体したい。全長四メートルほどは優にあるだろうか。硬そうな膨らみを穿うがつように左右から対に生えた六本の足。長くしなやかな首。頭に生やした立派な角。

 それは蜘蛛のような体に牛のようなつらを備えていた。けれど裂けた口元からこぼれる牙は明らかに肉食獣のそれだし、尾もある。なんだ、こいつは。


「ひぃっ。ば、ばけものおぉお!」


 小林と広瀬が競うように叫んで、うの体でその場から逃げ出した。

 突如水中から現れた得体の知れないは、赤く血走った眼で残された二つの命を等しく見下ろしていた。

 けれど選択肢なんて初めから一つだったのだ。ひどく緩慢な動作でその重たげな首をしならせると、自分たち目がけて一気に飛ばしてきた。


(食われるっ!)


 そう感じた瞬間、鼓動が強烈な一跳ねを繰り出した。きつく瞬きをやれば、化け物のよだれなのか水飛沫みずしぶきなのか、自分を濡らす感触があった。


「グオオォォウウッ」


 自分たちの断末魔より先にそんな醜い声が響いて。透夜は反射的に目を開く。

 

 化け物が尾を堀の壁面や水面にしきりに叩きつけていた。その衝撃たるや凄まじい。水中に建つ石灯籠いしどうろうが粉砕し、瓦礫がれきや飛沫が次々と体を打ってくる。

 目元を腕で庇いつつも透夜は何事かと目をすがめた。すると化け物の尾に黒い毛玉のようなものが貼り付いていた。

 

 それは小さな獣だった。何度叩きつけられようとも必死に咬みついて。そして何度目かの応酬に小さな体は宙を舞い、その身を翻すと柵の上へと着地した。


 たぬきだ。その愛らしい容姿に見合わぬ威嚇をくれると再び化け物に突進していく。


(……助けられた)

 

 そう思った。そうしてようやく自分はまだ生きているのだと実感を取り戻せば、わずかだけど冷静にもなれた。この隙に鈴木を救出しなくてはっ。


 狸に気を取られている化け物に注意を払いながら透夜は鈴木に駆け寄った。両脇に手を差し入れて水中から引き上げる。


 鈴木は気を失っていた。透夜は鈴木を担ぐと一先ずお堂の脇に身を隠した。


「おいおい、どうなっているんだよ。なんだよこれは、なんだよあれは」


 今更ながら全身が震える。頭の中で非常警報が鳴り響いていた。耳鳴りがひどい。この場を早く離れよ、と本能が訴える。けれど瞳は瞬きも忘れて異様な光景に釘付けだった。

 

 どんな因縁いんねんがあるのか、狸が化け物にいく度も挑みにかかっている。けれどその体格差ではライオンが尾にたかるハエを払うようなもの。化け物がとうとう煩わしいとばかりに渾身の力で振り払えば、狸は滝の上の高台まで弾かれた。滝を見下ろすように囲う石造仏の群れへと突っ込んだ。小さな体がずるずると崖を滑り落ち、そして水面へ落下する。

 仕留めた獲物の周りを一巡りし様子をうかがっていた化け物がゆっくりと首をもたげる。

 

 透夜は息を呑んだ。この光景は先ほど見たばかりだ。その動作の後、どんなに恐ろしい事がこの身に起こったか。

 足が細かく震えている。敵うはずがない。間に合うかも分からない。けれど図らずも助けられたこの身がその恩を返さずに良いわけもない。でも、でも、でもっ!



『――透夜。強くあれ。』



 まことと交わしたいつかの誓いが脳裏に響く。


「や……、やめろおおおぉ!」


 柵を飛び越え、スライディングするようにして水面に手を伸ばした。小さな体を掬い上げればその身に抱え込んで横へ転がる。

 一瞬気を取られた化け物だったが、殺意を新たに咆哮ほうこうすると、その図体を半分浮かせて前足を放ってきた。暗がりの中ほとんど直感で避ける。刃のように鋭利な足が透夜の背にある石像へと刺さった。


「えっ」


 穿たれた石の隙間から赤黒い光が漏れ出す。徐々にその輝きは増していく。

 

 化け物がひるんだ。すると透夜の左手にある数珠がまたしても熱くなった。いつの間にかそこからも同じ色の光が漏れている。水晶に刻まれた梵字ぼんじが浮かび上がった。


「うわああああ」


 その身を焼くような痛みが透夜の全身を伝う。膨大な映像が頭の中を駆け巡る。

 粗末な平屋がひしめく町並み。往来を行き交う着物姿の人々の活気に溢れたさま。どこまでも高い空。燃え盛る炎。涙を流して手を伸ばし、こちらに微笑みかける女の人――。

 

(なんだ、これ)


 死ぬ前に人は記憶が走馬灯のように蘇るという。ならばこれも自分の持つ記憶の一部なのだろうか。でもこんなのは知らない。なにも分からない。

 そうして情報に占拠されるようにして、透夜の意識は彼方へと追いやられた。

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