第2話 江戸五色不動

 併設されたシャワールームで汗を流して着替えを済ませる。バッグ、竹刀袋の順にまた肩にかけて、まことから渡された紙袋も忘れずに持った。

 本道場の扉の前で立ち止まり、神前に体を向けて深々とお辞儀する。


(本日も大変お世話になりました)


 心の中でお礼を述べて、透夜とうやは道場を後にした。去り際、胸の大きな若い女性に技をかけられて鼻の下を伸ばす残念な指導者の姿なんて見なかった。絶対に。

 


 七時を過ぎれば辺りはすっかり暗くなっていた。

 川沿いの桜がライトアップされ、夕方とは違う幻想的な趣にまた多くの人が酔いしれている。

 人混みを抜けて橋を渡り、商店街のアーケードを潜ればすでに我が家に帰ってきた心地になる。いくつかの店が閉店作業を始める中、くだんの店からは未だ楽しそうな声と美味しそうな匂いが漏れていた。


「こんばんは」


「あら透夜ちゃん。いらっしゃい。お稽古の帰り?」


「そうです。笹爺ささじいはいますか。資料を渡すよう頼まれまして」


「まあそうだったの。わざわざありがとねえ。いるわよ。ちょっと待っていて」


 女将さんは愛想よく笑うと、


「お父さん、透夜ちゃんが来たわよお」

 

 お店の奥に見える障子戸に向かって大きな声を投げた。

 その声に反応した何人かのお客さんが透夜に気づいて「おお。今帰りかい」と声をかけてくる。いずれもご近所さんだ。「そうです」と話をしていると、やがてお目当ての人物が姿を現した。


「おお、坊。よく来たなあ」


「こんばんは、笹爺。もう風邪は大丈夫?」


「お陰様でほれ、この通りすっかり元気だぞう」

 

「それは良かった」


「透夜ちゃん、なにか食べていくでしょ? そっちのお座敷が空いているから二人で使って」


 そのつもりだったが、女将さんのほうから決められてしまうと「ありがとうございます」と返す声にも思わず笑いが混じった。


 もともとこの店『寿庵じゅあん』は笹爺こと笹塚幸造ささづかこうぞうと、今は亡き彼の妻が営む和菓子屋だった。近くに目黒不動尊をはじめいくつか寺社仏閣を有する土地柄から、お参り客目当てに作った三色団子がヒットして店は繁盛していた。そこにきて十数年前、幸造の娘の佳代子かよこが近くの定食屋で働く男性を婿にもらったものだから、今ではご飯処としてすっかりみんなの憩いの場になっていた。


 透夜が日替り定食を注文すると、隠居の身である笹爺も当然のように向かいの席に腰を下ろした。シャツのポケットから老眼鏡を取り出すと「早速見てもいいかい」と目を細める。「もちろん」と透夜が紙袋を渡せば、嬉しそうに資料を取り出した。


「ずいぶんあるでしょう。溜まっていた分も持たされたから」


「これは読み応えがあって嬉しい限りだねえ」


「今は目黒不動について話し合っているんだよね」


「ああ。その名を冠するに相応しいこの地を代表する名刹めいさつだからねえ。いまだ謎も多く、面白い題材だよ」


「謎っていうのは例えば?」


 透夜の問いに笹爺は待っていましたと言わんばかりに笑む。白く蓄えた顎髭を手で撫でつけながら嬉しそうに語る。


「江戸初期に一度。そして昭和期に二度。あの寺は火災に遭っているんだよ。本堂や伽藍がらんのほとんどがその度に消失してしまうんだが、どういうわけか、ご本尊と、ご本尊の手に握られた天国あまくにの宝剣だけはその度に難を逃れてねえ。ほぼ無傷の状態で今に残されているんだよ」


「あまくにのほうけん……かっこいい響き。でも凄いな。そんなことってあるんだ」


「だからこそ、危機を察した誰かが災いの度に寺から持ち出し難を逃れたのではと、当時の記録を探しているんだがねえ。未だそれらしい資料は見つかっていない。あるいはこれこそが不動明王の成せる業かと、この爺なんかはすっかり感動してしまっているよ」


「不動明王、か。たしか背中に負った炎でみんなの煩悩を焼き払うんだっけ」


「おお、さすが古書店のせがれ。坊は博識だなあ」


「そんなことないよ。仏教の話って難しいからなんとなくの知識しか持ってないもん」


「ほほ、そうかい。じゃあ爺がもう少し教えてやろうなあ」


 そうして笹爺はまた新しい知識を授けてくれた。

 不動明王は仏教の一つ「密教」で崇拝される大日如来だいにちにょらいという仏様の化身なんだそうだ。

 お寺や博物館で目にする仏像はだいたいが優しい顔つきだ。けれど不動明王像だけはとても厳しい顔で、まるでこちらを睨むような視線を据えている。それは不動明王がどんな悪であっても力づくで救済する役目を担っているからだそうだ。

 片手に持つ剣で人々の煩悩や因縁を断ち、もう片手にある縄で悪を、あるいはその悪に囚われた人々を縛り上げて。そうやって、たとえ地獄の淵からでも力づくで救い出して天上へと導く……すごい仏様だ。


「あんなおっかない顔して、実は凄く慈悲深い仏様なんだなあ」


 透夜が感心したように呟くと、資料を脇に置いた笹爺が「そうだねえ」と頷く。


「その身を常に清めの炎、迦楼羅炎かるらえんに宿している仏様だ。その炎でもって身に降りかかる厄災の一切を制してきたのだとすれば、さすがと言えるだろう?」


「本当だね!」


 これは中々興味深い話だぞ、と透夜は思った。

 そんな奇跡みたいな話が近所に転がっていたなんて。歴史が一等好きな自分だが、そうした謎めいた話も大好きなのだ。都市伝説とか、妖怪とか、幽霊とか。ちょっぴり怖くも謎めいた存在には、誰もが心惹かれる不思議な魅力が備わっているものだ。


「坊よ。今の皇居を中心として東京にはいくつもの霊的な結界が施されていることは知っているかい?」


「うん。この前読んだ『江戸という風水都市』って本で知った。徳川家康とくがわいえやすの時代に家康に仕えていた天海てんかいってお坊さんによって風水的な工夫が施されたって話でしょ?」


「そうそれだ。そして目黒不動尊もまたその結界の一部とされているんだなあ」


「《五色ごしき不動》ってやつだね」


「おお、それも知っているかあ。やはり坊は物知りだねえ」


瀧泉寺りゅうせんじの説明書きの看板を読んだだけだけどね。江戸城を囲うように目黒、目白、目赤、目青、目黄不動のそれぞれが各方角に配置されているって」

 

 そしてそのお寺を順に巡ってお参りする《五色不動巡りバスツアー》なんてものが今、一部の人達の間で人気だった。小さなこの町にだって、週末は大型観光バスが乗り入れているくらいだ。


「でもさ。目黒と目白は今も地名にあるから分かるけれど。目赤と目青と目黄ってなに。どこからきたわけ。そんな地名が昔はあったの。それともお寺に祀られた不動明王の目の色がそれぞれ奇抜な色をしているとか?」


 最近ではおしゃれの一つとしてカラーコンタクトを気軽に目に入れる若い人も多い。まさか不動明王がそんな目的なはずもないだろうが、ではどういう理由だろうか。


 眉根を寄せて真剣に考える透夜に「ほっほ」と笹爺は愉快げに机の縁を叩く。


「いやなあ。ここで言う五色とは、東西南北に中央を合せた五つの方角をそれぞれ色で表したものなんだよ」


「なあんだ。やっぱり目の色説は違ったか」


「残念だがねえ。中国の思想に陰陽五行いんようごぎょうというものがあってなあ。宇宙を成す五大の要素を火は赤、水は青、風は白、地は黄、空は黒なんていうふうに色で表すんだよ。まあ配色にも諸説あるらしいがねえ。そしてそれを方角にも割り当てているという事さね」


「なるほど。ゲームに出てくる属性マークみたいなものか。たしかに色にすると捉えやすいもんなあ」


「最近のゲームのことは爺には分からないが。おそらくはそういう意図だろうねえ。そして徳川家光とくがわいえみつの時代にもなれば《五眼ごがん不動》という名が正式に制定され、各所にあった五つの不動尊は江戸の庶民の信仰のよすがとなった」


「それはどういう目的があったの」


「江戸城と、江戸を起点として全国へ伸びる五つの街道の守護。いわゆる方位除けさね」


「それがいつしか五色不動って呼び名に代わって、今に伝えられているってわけか」


 笹爺が分かりやすい言葉を選んで説明してくれたお蔭で透夜はいっそう興味を惹かれた。五色不動の一つ、目黒不動。その謎を追っているなんてロマンだ。今度の郷土会の集まりには是非とも自分も参加させてもらおうとすでに決意した次第だ。


 そうやって透夜と笹爺が資料片手に会話を弾ませていると、


「……二人ともいい加減になさい。すっかり冷めちゃうでしょう?」


 女将さんの低い声が頭上から降ってきた。

 笹爺と目が合うと、透夜はテーブルの脇をのぞいた。

 いつの間にか膳が置かれていた。茶碗からうっすらと湯気が立ち上っている。

話に夢中になっていたせいで食事が届いていたことに気づかなかった。


「いただきます!」


 透夜は慌てて手を合わせて箸を取った。


「もうっ。お父さんが悪いんだからね!」

 

 くどくど説教を受ける笹爺を置いて、ご飯を胃に流し込んでいく。

 体格のいい女将さんの仁王立ち。その怒れる顔つき――。噂の不動明王みたいだな、なんて思ったことは内緒だ。

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