Takaの目

増田朋美

Takaの目

暑い日も過ぎ去って、やっと過ごしやすくなってきた。杉ちゃんたちは相変わらず、水穂さんの世話をし続けたのであるが、時折、水穂さんの態度を見て怒って仕舞いたくなるときがある。その日も、水穂さんは、お昼すぎに急に咳き込んで、内容物を出し、畳を汚した。

「もういい加減にしてくれや。何回畳を張り替えたら気が済むんだ!」

杉ちゃんは大きなため息を付いた。

「そうですね、畳の張替えの人件費より、そばにいてくれるひとを、一人雇ったほうが、やすいかもしれません。」

ジョチさんは、腕組みをしてそういう事を言った。

「でも、水穂さんの世話をさせると、みんな嫌になってやめちまうんだよな。その記録だけは残してあるぜ。」

と、杉ちゃんが言う通り、色々な人を介護人として雇った経験があるが、大体の人が、水穂さんに音をあげて、やめてしまうのであった。

「そうですね、たしかに、何人か雇いましたが、みんなすぐやめてしまうんですよね。本人に生きようという気がないのと、ほぼ動けないから。」

ジョチさんは、現状をしっかりといった。

「それでも、畳を頻繁に張り替えるよりは、やすいと思います。誰か、手伝ってもらいましょう。」

その時、玄関先から声がした。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルセッションに参りました。」

「あ、竹村さんだ!」

壁にかかっているカレンダーを見ると確かに竹村さんが来訪と予定欄にかかれていた。

「すみません、上がって来ていただけますか?」

と、ジョチさんが言うと、竹村さんは、ハイわかりましたと言って、クリスタルボウルをたくさん乗せた台車を押しながら、四畳半へ入ってきた。クリスタルボウルという楽器は、持つととても重いのである。

「ああ、またやったんですか。まあ仕方ないですよね。できないことに目を向けるのではなくて、できることに目を向けて、そっちに重点を置くしか、できないですよ。」

竹村さんは、鮮血で汚れた畳を眺めてそういう事を言った。

「でもさ、竹村さん。畳の張り替え代がたまんないよ。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「そうですね。畳の張替えをするよりも、人を雇ったほうが安いくらいですよ。でもですね、水穂さんの病状のせいで、いくら、家政婦さんに来てもらっても、音を上げてやめてしまうんですよ。」

ジョチさんは困った顔をしていった。

「ほかに、家政婦斡旋所はなかったかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「いえ、富士市内の家政婦斡旋所は、虱潰しにあたりました。いずれにしても、どこの斡旋所に行っても、水穂さんの事を話せば断られるに決まってます。それにやる気のない人に来られて、失敗するようなことであっては、余計に困りますから。」

と、ジョチさんはまた現状を言う。

「でも、誰か手伝い人がそばにいてくれたほうが、水穂さんのためにもなるでしょうから、断られて当たり前の気持ちで、家政婦斡旋所に電話してみます。」

「そうですか。そういうことでしたら、いい人材がいますから、紹介しましょうか?」

不意に竹村さんがそういう事を言った。

「僕のところにクリスタルボウルを習いに来ている子で、ちょうど家事労働に向いている人間がいますから、彼にやってもらいましょう。ただし、家政婦ではなく、家政夫ということになりますから、それでもよろしければ。」

杉ちゃんもジョチさんもびっくりした。

「家政夫というとどういうことかなあ?つまり中年のおばちゃんじゃないってこと?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい、間違いなく中年のおばさんではありません。若い男性です。子供の頃の心の傷のせいで、話す能力を失っています。その代わりよく働きますし、人間は悪くありません。どうでしょう。彼に手伝わせたらいかがですか?」

竹村さんはにこやかに笑った。

「でもですね。家政夫というか、介護人というか、たしかに若い男性であれば力持ちでいいと思うんですけど、口が聞けないというのは、ちょっと困るのではないかと。」

と、ジョチさんは腕組みをしてそう言うが、

「嫌、もう、そんなこと言っている場合じゃないじゃないか。役に立つか立たないかは、こっちで雇ってから決めればいいさ。それならぜひ、来てもらおう。」

と杉ちゃんが言ったため、わかりました、明日連れてきますと竹村さんは言った。ジョチさんも杉ちゃんも、ぜひお願いしますよと言って、頭を下げるのであった。水穂さんだけが、そんな事を気にしないで眠り続けているのであった。

その翌日。

杉ちゃんとジョチさんが、水穂さんに、今日から新しく、世話をしてくれる人が来ますから、ちゃんと期待に答えてやってくださいよ、なんて、話していると、また玄関の引き戸がガラガラっと開いて、

「おはようございます。竹村です。彼を連れてきましたよ。彼に話をしたら、ぜひお役に立ちたいと申しておりました。話す内容は、全て筆談ではありますが、それさえできれば何も問題ではありませんから。」

と、竹村さんの声が聞こえてきた。

「ああ、どうぞ、お入りください。長らく、手伝ってくださる方を、お待ちしておりました。」

と、ジョチさんが言うと、どうぞ、入りなさいという竹村さんの声がした。でも、わかりましたとか、そういう返事はなかった。話す能力を失っているのだったら、仕方ない話でもあった。でも、二人分の足音がするから、確実に連れてきているなと杉ちゃんは言った。その日は、昨日とは、別の人物が一人いた。今西由紀子である。

「昨日な、竹村さんが来てくれて、水穂さんの世話をしてくれるやつを、紹介してくれると言ってくれたのさ。由紀子さんだって、週に一回こっちに来るのが精一杯だし、こんなに頻繁に畳を汚されちゃ、張替え代がたまんないから、僕達彼を雇うことにしたんだよ。」

杉ちゃんが、由紀子にそう説明するが、由紀子はなぜか、嬉しいという気持ちがしなかった。

「そいつは、何でも、よくわからない理由で、言葉はいえないそうだが、竹村さんの話では、よく働くし、人間は悪くないそうだ。まあ、言ってみれば、家政婦ならぬ、家政夫かな、はははは。」

「そうなんですね。」

由紀子は、それだけ言っておく。

「こんにちは、水穂さん。具合はいかがですか?今日は、あなたの介護をしてくださる、男性を一人連れてまいりました。定期的に来てくれて、あなたの事を手伝ってくれるそうです。食事のこと、着物の事、憚りのこと、何でも仰ってください。ではどうぞ、米山貴久くんです。」

そう言って入ってきた竹村さんが紹介したのは、何でもタレントにでもなれそうな、細身で可愛らしい感じの男であった。男としては小柄な男で、由紀子よりも少し背の高い感じの男性であったが、もし、もうちょっと背が高くて、筋肉質の体格をしていれば、芸能人としてやっていけそうな顔をしている。

「はあ、いい顔してるな。何か幇間にでもなれそうな男だねえ。それか、歌舞伎役者とか、そういう感じ。」

と、杉ちゃんが感心してしまうほどである。

「じゃあ、ちょっと自己紹介してもらいましょうか。あ、、、それは無理でしたよね。」

とジョチさんがいうが、直ぐに話すことができないということを思い出して、そう訂正した。すると彼は、持っていたカバンの中から、一枚のプラスチック製の画板を取り出した。それには、何枚かコピー用紙が挟まれていた。それを急いで首に下げて、カバンの中からボールペンを一本取り出して、なにか書き始めた。ということは、聾ではないんだなと言うことはわかる。ただ、話す能力だけが欠如しているのだろう。書き終わると、米山貴久と呼ばれた男性は、それを杉ちゃんとジョチさんに見せた。

「悪いが読めないので読んでくれ。」

と杉ちゃんが言うと、

「はい、こう書いてありますね。名前は、米山貴久、出身は京都府です。富士に引っ越してきたのは、3年前で、それまでは看護助手の仕事をしていました。今回こちらで働かせてもらうことができて、とても嬉しく思っております。どうぞよろしくおねがいします。」

とジョチさんが、画板に書かれた文章を代読した。

「はあなるほどね。京都府か。いかにもそんな感じの顔しているもんな。まあ、いろんな事要求することが多いと思うけど、頑張って水穂さんのこと手伝ってくれよ。」

と、杉ちゃんが言うと、貴久は、にこやかに笑って、一つ頷いた。

「じゃあ、僕はこれで失礼しますが、彼になんでも手伝わせてください。本当に、よく働く男なので、それは、心配する必要はありませんので、大丈夫ですよ。」

と、竹村さんが、部屋から出ていくのを見た由紀子は、なんだか竹村さんがすごくずるいことをしているような気がした。それと同時に、水穂さんが咳き込み始めたので、由紀子は、直ぐに背をさすってあげなければと思ったが、それより早く、米山貴久が、水穂さんのそばに行って、水穂さんの背中を叩くなどして、吐き出しやすくしてくれた。なので、今回は内容物は出たが、畳を汚すことはなかった。由紀子は、貴久が、ここは明治か大正時代なのかとか、そういう嫌味を言うのではないかと思って身構えたが、貴久はそのような事は一切いわなかった。出すものをとにかく出してしまうと、水穂さんは、貴久に差し出された薬を飲んで、静かに眠りだした。こうなるのも仕方ないことであるが、貴久は何もいわなかった。それが、彼の障害によるものなのか、それともわざと何もいわないのか、彼のその表情からは何も読み取れなかったので、由紀子は少々、気味が悪いと思った。

「米山さん、水穂さんが眠っている間に、お昼を作ってやってくれませんか。」

とジョチさんが言うと、貴久はまた頷いた。

「台所は、あっちだよ。」

杉ちゃんが食堂のある方向を指差すと、彼は、直ぐに立ち上がって、食堂に向かっていった。そして、台所に置かれている冷蔵庫を開けて、しばらく考えたあと、米を丁寧に研いで、だしの素を溶いた水に入れ、それを火にかけた。その中に、柔らかいほうれん草とカブを追加して、しばらく煮る。はあ、炊きがゆを作ってるんだなと杉ちゃんが言う通り、彼はおかゆを作っているのであった。おかゆは、病人が一番食べやすいと言われている全粥だ。そうこうしているうちに、時計は十一時半を超えていた。紛れもなくお昼の時間である。

「はあ、すごいなあ。介護食の作り方知っているなんて、なかなかいないよ。看護助手というだけでは、考えられない腕だな。」

と、杉ちゃんがつぶやくほど、貴久の作ったおかゆはうまそうだった。それを持ってきた貴久に、

「すごいうまそうだな。水穂さん喜ぶぞ。お前さんは、結構な腕が立つな。ほかにも、介護にまつわる料理とか作れるのかな?なにか料理学校でも行ったのか?」

と、おしゃべりな杉ちゃんはそう聞くが貴久は何も答えなかった。ジョチさんが、杉ちゃん、質問攻めにしてはなりませんよ、彼は話せないのですから、と戒めると、杉ちゃんは、ああ、すまんすまんなとカラカラと笑った。でも、由紀子は、そんな貴久を見て、面白いと思えなかったのだ。なぜ、そうなってしまうのかわからないけど、口の利けない若い男が、自分たちのやることを持っていってしまう、、、ということは、何故か許せなかったのだ。

「じゃあ、水穂さんに食べさせてやってください。きっと喜んで食べると思います。」

と、ジョチさんがそう言うが、貴久は、何も反応しなかった。つまり、話す能力がないのである。

「おい、起きろ。お昼を食べさせてくれるんだってよ。」

と、杉ちゃんが水穂さんのからだを揺すって、彼を起こした。水穂さんが目を覚ますと、目の前に貴久がおかゆの入った器を持って、座っていたので、水穂さんはちょっとびっくりしたようである。

「びっくりすることはない。こいつはお前さんを看病してくれる、手伝いにんだから。まあ、幇間みたいな顔してるけどさ、お前さんも早く慣れてくれ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「じゃあ、幇間に食べさせてもらってくれ。きっと味は良くてうまいと思うよ。」

貴久は、お匙でおかゆをとって、水穂さんの口元に持っていった。でも、水穂さんは、貴久から、おかゆを食べようとはしなかった。おかゆを持っていっても、水穂さんは、顔を背けてしまうのだ。いつものことであるけれど、そんな事を、十回くらい繰り返した。

貴久の目に、ポワンと涙が浮かんだ。口元がわなわなと震えだした。由紀子は、もし、彼が口を利くことができたなら、今何を言うのかを想像した。彼は、何を言うだろうか。水穂さんが、自分が差し出している食べ物を受け取らないので、悲しい気持ちをしているのだろうか。それとも、自分が作った食べ物を受け取らないので、悔しい気持ちをしているのだろうか。それともそれ以外の別の感情か。いずれにしても、貴久は涙を流しているから、なにか重要な事を考えているんだろうと言うことがわかる。人間は、大事なときでなければ、涙を流さないから。もしかしたら、貴久は腕が立つことで、自信過剰になっていたのではないか。それが水穂さんが食べ物を拒否するから、一気に崩れたと言うか、そんなことに直面して涙を流しているのではないか。由紀子は、そう思った。

そうなったら、いい気味だ。と由紀子は一瞬思った。自分はなんてことを考えているのだろうと思ったけど、そう思った。それは、思ってはいけないと、言うことはわかっているんだけど、でも、思ってしまったのである。

ふと、人がすすり泣く音が聞こえる。泣いているのは貴久である。多分、自分で感情を口に出して言えないぶん、そういう態度に出るのだろう。由紀子はその目を見て、彼には、自分が予想しているような感情はないんだなと言うことを知った。それなら、彼になにか教えてあげなければだめなのではないかと思って、そっと、貴久くんの耳元で、静かに囁く。

「米山くん、笑顔よ。」

たった一言だけであるけれど、それだって、大事なことだ。貴久くんは、由紀子の方を向いて、涙をこぼしながらであるけれど、にこやかに笑ってくれた。それは、自分の事も、水穂さんの事も、憎んでいるような顔でもなかったし、自分の自信が崩れたという顔でもなかった。単に、水穂さんが、食べてくれないで、悲しかっただけなのだと由紀子は確信した。

貴久は、もちろん何もいわなかった。彼にそうすることはできないのだから、それを要求しても仕方ないのであるけれど何もいわなかった。でも、その顔に偽りはなかった。

「お前さんは、幇間みたいないい顔しているけど、接客という分野では弱かったようだね。」

と、杉ちゃんが言うと、貴久は恥ずかしそうな顔をして頷いた。彼と杉ちゃんが話すのには、首を縦にふるか横にふるかしかない。でも、何故か杉ちゃんとは、しっかり通じているように見える。

「まあいいさ。それはこれからの課題だと気がついてもらってさ、それで、お前さんも、これから介護人としてやってくための土台だと思ってくれればいいよ。じゃあ、由紀子さんがヒント出してくれたから、もうちょっと、頑張ってみてくれ。」

杉ちゃんがそう言うと、貴久くんは、しっかり頷いて、もう一度覚めたおかゆをとった。そして、水穂さんの口元へ、今度はニッコリしながら持っていく。それでは、水穂さんも食べなければ行けないと思ってくれたらしい。水穂さんはやっと、おかゆを口にしてくれた。由紀子は、水穂さんが、吐き出してしまうのではないかと思ったが、幸いそれはなかった。貴久くんはもう一度笑顔になって、水穂さんにおかゆを食べさせる。また水穂さんは受け付けてくれた。貴久くんは、さらににこやかになった。そしてそれを何回か繰り返したが、水穂さんは、咳き込んで吐き出すことは一度もなかった。杉ちゃんもジョチさんも、畳を汚さないで食事をしていたことに、大変驚いてしまったようだ。同時に、水穂さんが、食事をしているときに、吐き出してしまうのは、からだの問題ではなく、心のことなんだろうなということも読み取ることができた。こういう状態が続けば、もしかしたら、水穂さんも回復してくれるかもしれないと、杉ちゃんがつぶやくが、ジョチさんはそれはいわないほうがいいと言った。今はとにかく食べられる事を、祝ってやるべきだと。それは、由紀子もそう思った。

水穂さんは食事をし終えると、食後に飲むように処方された薬を、貴久くんから出されて、それもきれいに飲み込んだ。そして、薬の成分で眠り始めた水穂さんを見て、

「あーあ、無事に完食か。これが毎日続いてくれれば、いいのにな。」

と、杉ちゃんがでかい声でいうのだった。そうすると、ジョチさんが、静かに指を口に当てた。すると、貴久くんが、画板をとって、また何か書き始めた。

「水穂さんのお皿を片付けてきますね。はいわかりました。じゃあ、よろしくおねがいします。」

とジョチさんがそう言うと、貴久くんは、空っぽのお皿を持って台所に行った。由紀子は、何故かその後をついていった。貴久くんは後片付けも手早く、どんどんやってくれる。自分のときより偉い違いだ。そんな彼の働きぶりが、もう少し、周りの人に評価されればいいのになと由紀子は思った。家事仕事は、あまりに当たり前過ぎて、軽視されすぎていると思う。貴久くんのような家事の才能がある男がいたっていいのではないか。それはだって、命に関わることでもあるから。

「米山くん。」

由紀子は、思わず彼に言った。

彼は、口がきけないぶん、呼びかけには敏感なのか、直ぐに後ろを振り向いた。由紀子は、言葉を選ぶよりも、自分の感情を素直に言うべきではないかと思ったので、飾ることなく、こういった。

「どうもありがとう。」

鷹の目に涙が浮かんだ。どうやら彼は、涙というものに弱いらしい。でも、それは頑張って乗り越えてほしいことでもあった。だから由紀子はそれ以上の事はいわないことにしておいた。





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Takaの目 増田朋美 @masubuchi4996

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