case.9-3
微かな期待を抱き思わず足を踏み出すと、その子も他人の気配に気付いたのかこちらへと振り返った。何か声を掛けたかったはずなのに、目が合った瞬間、胸が一杯になって言葉に詰まる。初めて会った知らない人。僕を見つめる知らない顔。でも、その真っ直ぐな瞳を、その柔らかい雰囲気を、僕は誰よりもよく知っているような気がした。
「パーティーに疲れて抜け出してきました?」
「あ、えっと」
「実は僕もなんです。仲間ですね」
「あ、そうなんだ。ふふっ」
僕は何とか言葉を絞り出し、近くにあったベンチに彼女を誘うことに成功した。彼女の名前はリリー・テイラーといって、僕より一つ年上らしい。僕と話すのに少し緊張しているような感じだが、会話の途中でふと漏らした笑顔はとても優しげだった。
「フルート、とてもお上手ですね。あまりに素敵な演奏だったので、僕も一緒に吹きたくなってしまいました」
「ありがとうございます。あなたは、何の楽器を?」
「僕はトロンボーンが得意です」
「……え?」
「え?」
「あ、いえ。……トロンボーン?」
「はい。トロンボーン」
「んん……?」
なぜだか彼女は変な声を出したが、気を取り直すようにして咳払いをする。どうしたんだろう。はっ、まさかユーフォじゃなくてがっかりされた? 違うんです。決して浮気じゃないんです。楽器がなかったんです。仕方がなかったんです!
「あの、本当はユーフォニアムがよかったんですけど、両親が連れていってくれた楽器店に置いてなくって、それで」
「……ユーフォ?」
「はい!」
「……ちなみに、オーボエとかは?」
「え、オーボエ? えーっと……そういえばお店の人が、いいオーボエが入荷したとか言って勧めてくれたような……」
「でも、トロンボーンを選んだんだ?」
「はい。どうしても金管楽器を吹きたかったので」
「そっか。……そっか」
どうして突然オーボエのことを聞いてきたのかはわからないが、彼女はどこかすっきりしたような顔になった。どうやら僕の答えに満足してもらえたらしい。よかった。
「実は私も他に吹きたい楽器があって」
「ですよね」
「でも、フルートを吹かないといけないような気がしていて」
「……何でです?」
「ほんと、何でだよね。ちょっと原作に囚われすぎていたのかも」
「……?」
「ううん。こっちの話。私もフルートにばかりこだわらないで、金管楽器を吹いてみようかなって」
「! な、なら。一緒に練習しましょう。僕、あなたと一緒に演奏したいです」
「本当に? いいの?」
「ぜひ!」
この日を境に、僕と彼女はお互いの家を行き来して一緒に楽器の演奏をする仲になった。
初めて一緒に演奏した日、なぜかトランペットを持ってきたのには驚いたが、きっとどうしてもユーフォが手に入らなかったんだろう。人気がないからといって、店にすら並ばないのはいかがなものか。しかし、そんなに吹いたこともないはずのトランペットをあっという間に吹きこなしてしまったのはさすがだ。そして、どんなに楽器が変わっても、僕の好きな音に変わりはない。
それから数年、演奏を通して彼女との仲を深める日々は、実に幸せなものだった。もう二人でユーフォを吹くことができなそうなのは非常に残念だが、トランペットとトロンボーンというのも、高音と中低音で音域の幅が広がって面白い。一応これは、この世界では何か凄い魔法を使うための手段なのだということは心の隅に置いてはいるけれど、とにかく二人で楽器を吹くことが楽しいので、そういうのはもうどうでもいいかなって思った。
あの人が魔法学院に入学すると、寮生活のせいでなかなか会えなくなって寂しくなってしまった。しかしまあ、それもたった一年間のこと。いよいよ僕も、あの人と同じ学院に入学するときがやってきて心が浮き立つ。早くまたあの人と一緒に楽器を吹きたい。ただ、入学してしばらくはオリエンテーションやらなんやらでかなりばたばたしてしまった。おかげで全然会いに行けなくて思いだけが募っていく。
そんな生活がやっと落ち着いてきた頃。あの人に会うタイミングを完全に逃してしまった気がしてならず、釈然としない気持ちで放課後の廊下を歩く。寮へ帰るために玄関へ向かって歩いていたわけだが、しばらくすると開いた窓から聞き覚えがありすぎる曲が風に乗って流れてきて、僕は思わずそちらへ駆け寄り中庭を見下ろした。そこにいたのは思った通り、トランペットを吹き鳴らすリリー先輩。そして、それからもう一人。先輩と一緒にサックスを吹いている知らない男の人。
そう、確かに全く知らない人なのだけれど。この曲を先輩と一緒に、こんな風に完璧に、楽しげに演奏する人なんて、僕には一人しか思い当たらなかった。
心に何かがこみ上げてくるのを感じた。また三人で演奏できるのだという喜び。僕を差し置いてちゃっかり先輩と演奏しているなんてずるいという嫉妬心。いろんな感情が溢れ、ない交ぜになる。そして、はやる気持ちを抑えることもできず、全速力で二人の下へと走り出した。
息を切らし、中庭に突然現れた僕に二人はちらりと視線を向け、驚きに目を見開く。しかし、演奏を途中で止めることはなかった。だから僕は何とか息を整えながら、楽器ケースを地面に置いて、中からトロンボーンを取り出す。そして、いつか一緒に演奏したアンサンブルの譜面をなぞるように、二人の演奏に合流した。
楽しい。楽しい。まるであの頃に戻ったみたいだ。この世界には楽器の演奏が上手い人が多いけれど、それはあくまで魔法を使うための手段なのだという風潮が強い。だから、楽しむというよりは義務感でやっているようなところがある。しかしこの二人ときたら。魔法のことなんて一切頭にないに違いない。
学院入学前に先輩と二人っきりで演奏していたときももちろん楽しかったけど、今の先輩はさらに生き生きとしているように見える。それがこの男のおかげかと思うとまた、もやもやした気持ちがこみ上げるが、その気持ちを補って余りあるほどに楽しい気持ちで満たされた。どうやら自分で思っていた以上に、僕は前の生活が恋しかったようだ。
曲を最後まで終えると、一息ついてから部長(?)がまた別の曲を吹き始めた。確か、アンサンブルのために先輩が貸してくれたゲームのサントラに、一緒に収録されていたやつだ。さっきまで吹いていたのがオープニングで、こっちはエンディングだったかな。ゲームの内容はよく知らないけれど、曲はどれもよかったのでだいたい覚えている。
思わず先輩の方に視線を向けると、彼女は心得ているとばかりに微笑んで頷いた。この曲の譜面はない。もちろん、パート分けもしていない。しかし、僕たちはお互いがどのように吹きたいのか、手に取るようにわかるくらいには理解し合っている。サックスの音色に追従するように吹き始めたトランペットとトロンボーンはすぐにぴったりと合い、三人でのアンサンブルが再び奏でられ始めた。
どうやらこの夢のように楽しい時間は、まだまだ終わらないようだ。
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