case.9-2

 先輩が好きなゲーム音楽でアンサンブルをしたり、真面目にコンクール曲を練習したり。部活以外でも先輩の教室に遊びに行ったり、教師の中に先輩のお兄さんがいると知って驚いたり、高橋先輩を牽制したり。それから、倉田とかいう人がなぜか先輩を目の敵にしているようなので、篠原先輩と一緒にその人のことを睨んだり。そんな充実した毎日を送っているうちに、やがて季節は夏になった。




 とある日の昼休み。先輩の顔を見たくなった僕は、軽やかな足取りで図書室へと向かう。先輩の委員会当番はもちろん把握済みだ。静かに図書室に入り、本棚の陰からそっとのぞき込むと、思った通りカウンターの中で先輩が読書をしていた。一番好きなのはもちろん一緒に演奏することだが、こうやって先輩の姿を眺めるだけの時間も嫌いではない。いや、決してストーカーではないけれど。ただ何というか、先輩の柔らかい雰囲気が好きなのだ。いや、だからストーカーではない。


 人はほとんどいないようなので、おそらく話しかけても問題はないと思う。でも、今はただ先輩のことを眺めていたい気分だった。放課後になれば部活で会って話せるし。


 しかしその時、それは突然やってきた。大きな揺れ。校舎がみしみしと軋む音。地震対策をしているはずの本棚も一部は倒れ、倒れなかった本棚からも中身の本が次々に飛び出していく。本棚の間にいた僕は完全に本の雪崩に巻き込まれた。突差に頭は庇ったが、上手く身動きが取れない。途方に暮れかけたとき、先輩のか細い声が聞こえ、はっとしてそちらに視線を向けた。カウンターの中にも本棚はある。その惨状は想像に難くない。




「先輩! 奏先輩、大丈夫ですか!?」

「透くん? っ、透くん……!」




 心細そうな先輩の声にすぐにでも駆け寄りたい衝動に襲われたが、散乱した本や本棚に阻まれているせいで簡単に近づくことはできない。今、先輩の一番近くにいるのは僕のはずなのに、この数メートルの距離が果てしなく遠い。先輩を助けてあげられないのがひどくもどかしい。


 不本意だ。とても不本意だ。しかしとりあえずは、本棚に押しつぶされて圧迫、なんてことにはなっていない。これは大人しく誰かが助けにきてくれるのを待つしかないか。先生たちならきっと、この状況に対応するために走り回っているだろうし、あのシスコン兄なら真っ先に妹の所へと駆けつけるだろう。


 そんなことを考えた矢先、今度は室内に煙が充満しだした。どうか嘘だと言ってほしい。まさか、地震の次は火事なのか。火はどこにも見えないけれど、煙にじわじわと意識が浸食されていく感じがする。もしもこのまま気を失ってしまったらどうなるんだろうか。漠然とした予感に震えが走る。せめて先輩の側に行きたいと体に力を込めたが、やがて感覚はふわふわと遠ざかっていく。ダメだ。もう、動けない。そうして意識が途切れるその瞬間、最期に視界に入れるのが先輩と僕、お互いの姿というのも悪くはないな、なんてことをちょっとだけ思った。









 ふと気づくと、知らない家の、知らない家庭に、僕の知らない僕がいた。意識としては確かに僕なのだけれど、こんな家族、僕は知らない。あれから一体どうなったんだ。先輩は? 突然放り出されてしまった未知の世界に、僕はどうしていいかわからなくなった。


 誰もが普通に魔法を使えるとか、この家は伯爵とかいう爵位を持っているらしいとか、僕にはついていけないことばかりで混乱する。というかまず、どうしてまた人生をやり直さなければならないのか。僕は生まれ変わったとでもいうのだろうか。本当に意味がわからない。


 ただ、こんな受け入れがたい世界にも、一つだけいいところがあった。どうやらこの世界では、幼いうちから音楽を学ぶことを奨励しているらしいのだ。なんでも、とても強力だけど扱うのが難しすぎる物凄い魔法があり、それを使うための必須スキルが楽器の演奏なんだとか。正直なところ魔法にはそんなに興味はないが、まあ楽器が吹けるなら理由は何でもいい。僕から何かを言わずとも、両親が僕に楽器を与える気満々なのは明白だった。




 ある日、この国でも有数の楽器店に連れていってもらったので、僕は店内を回ってユーフォニアムを探した。しかし、大きな店であるくせに、なぜだかユーフォは見当たらなかった。店主からはいいオーボエが入荷したと勧められたが、いきなりダブルリード楽器なんて渡されても吹ける気がしない。どうせなら金管楽器がいいし、せっかくだからまたユーフォが吹きたい。


 しかし残念ながら、ユーフォなんてマイナーな楽器はそもそも取り扱っていないとのことだった。なんだ、違う世界に来てもユーフォの知名度は低いのか。がっかりだ。というか店にすらないなんて、元の世界以下じゃないか。


 非常にテンションが下がったが、仕方がないので僕はトロンボーンを親にねだることにした。先輩との繋がりを手放すなんて苦渋の決断だが、楽器自体がないのだからどうしようもない。音階にスライドを使用するのは久しぶりだが、まあすぐに感覚も取り戻せるだろう。




 9歳の頃。この国の王子様とやらの誕生日がやってきたらしく、僕ら一家も貴族としてお祝いに出向くことになった。欧州っぽい雰囲気だなとは思っていたけれど、そうか。王様とか王子様とかが普通にいるのか。何だか不思議な感じだ。


 お城に行くとそこではパーティーが行われており、王子様の下にはたくさんの人間が集まっていた。皆こぞってお祝いの言葉を述べているようだ。特に王子様と同世代の女の子が多いようで、そこに貴族社会の闇を見てしまったような気がして何とも言えない気持ちになる。こんな子どものうちから権力に取り入らなければならないなんて、貴族怖い。何が怖いって、王子様の側にはすでに凄く親しそうな女の子がいるっていうのに、それでもなお娘をアピールする大人たちが怖い。これ、王子様にはもう婚約者がいるってことなんじゃないのか。違うの?


 僕が王子と言葉を交わしたのはほんの一言。おめでとうございますと定型文を述べただけだが、王子は穏やかな笑顔でお礼を言ってくれた。この状況でこんな対応ができるなんて普通に凄いな。側にいる婚約者らしき女の子も笑みを浮かべているし。これが上に立つ者の振る舞いか。でも、この二人を見ていると、凄いなという気持ちと共になぜだか苛立ちがこみ上げてきた。え、本当になんでだろう。なんだか本能的に心が拒否してる感じがする。僕、そんなに貴族が嫌いなんだろうか。




 まあとにかく、王子への挨拶という最低限の任務は果たしたので、後のことは親に任せて人気の無い場所に移動することにした。あまり社交の場に出たことがなかったせいで気付かなかったが、貴族として生きるのはなかなかに大変なようだ。できれば僕はこれからも楽器の練習に専念したいと思う。この世界では楽器の演奏の腕前が想像以上に重要視されるようなので、楽器さえ吹いていれば、人付き合いが多少おろそかになっても文句は言われないだろう。


 それにしても、この世界に来てからずっと一人でトロンボーンを吹いているものだから、さすがにそろそろ吹奏楽が恋しくなってきた。また先輩と一緒に演奏したいな。あとついでに部長とも。思わずそんな風に思いを馳せる。澄み渡った青空を眺めながら、のどかな光景にぼーっとする。


 それからどれくらいの時間が経ったのか、ふとどこからか、誰かが演奏しているような音が聞こえてきた。パーティー会場からは離れた場所だというのに、一体誰だろう。音を頼りに歩いていくと、やがて目の前に立派なバラ園が現れる。そしてそのちょっとした空間に、人目を避けるようにして、一人の女の子がフルートを構えてたたずんでいた。


 彼女が奏でる音は軽やかで、ふんわりと優しくて、そしてとても柔らかい。その音色に、僕は否応もなく惹きつけられた。全く違う状況なのに、なぜだかあの文化祭で、先輩のユーフォの音色を聞いた時のことが思い出される。そうだ。これは先輩の音だ。大好きな先輩の音。この音を僕が間違えるはずがない。これって。まさか。もしかして……。

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