case.9-1

 中学3年生の秋のこと。


 何となく立ち寄った、家から少し遠い場所にある高校の文化祭で、僕は運命の音に出会った。




 ちょうどどこの高校に進学するか迷っていた時期のことだった。家からの距離、偏差値、校風。気にかける点はいろいろあるが、僕が何より重視していたのは吹奏楽部が強いかどうか。中学から始めた吹奏楽はとても楽しく、初めて吹いたトロンボーンは奥が深く、演奏の追求には果てがなく。高校ではとにかく自分を高められるような場所に身を置きたかった。


 コンクールで金賞を取っている高校に、いくつか目星を付けていた。しかし、絶対にここに行きたいという決め手は特になかった。そこに偶然手に入った、金賞常連校の文化祭の情報。吹奏楽部の演奏は一般客も観覧自由とのことで、それならばと足を運んでみることにしたのだった。




 コンクールで金を取るくらいだから上手いのは当然知っていたが、改めて聴くとやはりというか、さすがは圧巻の演奏だった。選曲はポップスばかりとはいえ、一人一人のレベルが高いのがよくわかる。しかし、それは他の強豪校だって同じこと。どうしてもこの学校に入りたいという決定打は特にない。そもそも何を基準に決めればいいかもよくわからない。結局は入部してみないとわからないってことか……そんな諦めにも似た気持ちになりかけたとき、その音は突然僕の心へと響いてきた。


 マイクを通して聞こえてくるソロに、はっとして演奏者の方を見る。そこに立っていたのは、ユーフォニアムを優雅に奏でる小柄な女の子。その美しい音色は体育館中に広がり、彼女の柔らかな雰囲気とも相まって、僕たち観客を一瞬で魅了した。魅了されてしまった。あまりの衝撃に、彼女から目が離せなくなった。彼女がソロを終えて一礼し、自分の席へと下がった後も、僕はその姿を目で追い続け、彼女の音を必死で聞き分けた。とても心地よい音だった。いつまでも聞いていたくなるような、まるで夢見心地な音色だった。


 こんな音を出せるあの人は一体どんな人なんだろう。他にはどんな演奏をするんだろう。もしも一緒に演奏したら、僕の音とどんな風に溶け合うだろう。僕の頭はあっという間に、名も知らぬあの人のことでいっぱいになってしまった。そして唐突に気づいた。ああ、これこそが進路を決める決定打なのだと。




 そこはそれなりの進学校であったので、受験に不安がないといえば嘘になる。しかし僕はもう、あの人のことが知りたくて仕方がなかった。文化祭は時期的に、3年生は引退しているはずなので、僕が入学した時にあの人が卒業済みだなんてことはないはず。つまり、入学さえできれば、確実にあの人と一緒に演奏ができるのだ。このチャンス、絶対にものにしなければならない。


 もともと勉強が苦手というわけではないが、万が一にも落ちるわけにはいかないので必死に勉強した。そして、その甲斐あって僕は見事、目的の高校へと入学を果たし、真っ先に吹奏楽部へと入部届を提出したのだった。




 初めての部活の日。音楽室で1年生のパート決めが行われた。高校で初めて楽器に触れる人もいるので、先輩の指導の下、自由に楽器を吹いていいらしい。人気があるのは華やかで主旋律も多いトランペットやサックス、クラリネットにフルートといったところか。人がたくさん集まって、賑わっているのがわかる。しかし、僕はもう吹きたい楽器を心に決めていた。


 ユーフォニアムは一度知ってしまえばとても魅力的な楽器なのだが、知名度が低いせいか、初見でやりたいという人間はなかなか現れない。思った通り、文化祭で僕を魅了したあの人の周囲に、1年生が近づいていく様子はなかった。だから、僕が迷わず真っ直ぐにそちらへ向かったことに、あの人は少し驚いた顔をした。




「もしかして、ユーフォニアム希望? 経験者かな?」

「中学のときはトロンボーンをやっていました。高校ではせっかくなので違う楽器に挑戦してみたいと思い、マウスピースのサイズが同じユーフォなら取っつきやすいかと思いまして」

「そっか。ユーフォを選んでくれるなんて嬉しいな」




 おそらく、自分のパートに1年生が来てくれることをあまり期待していなかったのだろう。僕がユーフォを吹きたいと言うと、あの人の表情はぱっと花が咲くようにほころんだ。




 あの人の名前は結城奏というらしい。現在のユーフォニアムパートは、上級生の卒業により奏先輩一人しかいないそうだ。願ったり叶ったりである。ユーフォを吹くのが初めての僕に先輩がつきっきりで教えてくれるし、中学でトロンボーンをやっていたおかげで飲み込みが早い僕を先輩は手放しで褒めてくれた。すぐに二人で一緒に演奏もできるようになり、僕のユーフォニアムの腕前はどんどん上達していった。思った通り、この先輩と一緒に過ごす吹奏楽部での時間はとても楽しい。


 しかし、一つだけ誤算があった。僕と同じように奏先輩の音に惹かれた人間が他にもいるという可能性を、全く考えていなかった。僕と先輩が一緒に練習していると、高確率でしれっと混ざってくる人がいるのだ。それはこの吹奏楽部の部長。片桐俊樹先輩。テナーサックス奏者で、ユーフォとは音域が同じだからという理由でしょっちゅう奏先輩の下へとやってくる。


 最初は正直邪魔だと思った。せっかくの先輩との時間を奪わないでほしいと。でも、部長の演奏を聴いてしまうと邪険にはできなかった。部長もまた吹奏楽が好きであり、理想の音を求めて真剣に、心から楽しんで演奏しているのだとわかってしまったから。そして部長は奏先輩に特別優しかったが、僕にも優しかった。楽器の才能があり、演奏が上手な人が大好きなんだそうだ。僕にとっての一番は奏先輩であるけれど、部長にとって自分がそういう人間として認識されたのは、まあ悪い気はしなかった。




 いつの間にか三人で演奏するのが当たり前になっていった。そんな、外の渡り廊下で練習していたある日の放課後のこと。一人の女子生徒が近くに腰を下ろし、にこにことこちらを見ていることに気がついた。えっと、誰だ。




「あの、なんか見られてるんですけど」

「ん? ああ、時々来る観客だ。気にするな」

「はあ……」




 確かに、外で楽器を吹いていれば嫌でも生徒たちの目につくだろう。しかし、通りすがりに何となく聞くのならともかく、こんなあからさまに聴いてくるような観客がいるものだろうか。凄く疑問には思ったが、先輩も部長も気にせず譜面台を設置して吹く体勢に入っているので、これ以上この話を広げることはやめた。


 そして一曲通しで吹き終わり、何とはなしに先ほどの観客の方を見やると、新たに男子生徒が腰を下ろしてこちらを眺めていた。だから誰だよ。




「あの、なんか増えてるんですけど」

「ん? ああ、一人来るとだいたいもう一人も来るんだ。気にするな」

「はあ……?」




 いよいよわけがわからなくて、もっとちゃんと質問しようと口を開きかけたとき、奏先輩が観客の方へと歩み寄っていった。なんだ、先輩の知り合いだったのか。だったら最初からそう言ってほしい。




「結衣花ちゃん、最近よく聴きにきてくれるね」

「この時間が私の癒やしだから。奏の演奏を聴いてると、この後も部活頑張ろうって思える」

「嬉しいこと言ってくれるね。高橋くんも、聴いてくれてありがとう」

「お、俺も演奏聴くの好きっていうか、部活の息抜きっていうか……」




 どうやら三人はクラスメイトらしい。それぞれ部活は違うが、休憩時間になるとどちらからともなく奏先輩の演奏目当てにやってくることがあるようだ。先輩の演奏のファンはやっぱり多いってことだな。しかし、女の子同士で仲がいいのはわかるけど、男が来るっていうのは……。高橋先輩とやら、要注意人物かもしれないな。奏先輩の恋愛事情に口を出すつもりはないけれど、僕との時間が減るのは許せない。だから僕は奏先輩の方へゆっくりと駆け寄ると、甘えるように腕をつかんで気を引いた。




「奏先輩、そろそろ次の曲やりましょ?」

「ああ、うん。そうだね」




 先輩にとって僕は唯一の後輩であるので、可愛がってくれているのはわかっている。そこに存分につけ込んでいく所存だ。それにしても、この先輩のクラスメイトたちはいつもふらりとやってくるってことは、これからも会うことになるってことか。なら一応挨拶しておいた方がいいかな。




「あ、僕は新入部員の雨宮透といいます。奏先輩とは同じ楽器の仲間としてそれはもう仲良くさせていただいています。よろしくお願いします」

「お、おう。何か棘を感じる気がするけどまあよろしく」

「なるほど。奏の信者がまた増えたってわけね」




 女の先輩が部長の方をじとっと見つめた。見つめられた部長は意味をよく理解していないようできょとんと笑顔を返す。部長は無自覚信者だ。そして僕は別に信者ではない。


 ただ奏先輩の音が好きで、ずっと奏先輩の時間を独占していたいだけである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る