第10話 侵攻準備

10-1 観察

 夜のとばりが落ち、満蒙国境地帯は暗くなった。先程、沈みゆく太陽をにらんでいた芳江は、塹壕内に戻り、すこし、要塞内を注意して歩くようにした。「武器」を探すためである。

 小柄で、そんなに体力があるわけでもない芳江には、簡単に橋田を殺せるとは思えなかった。現時点での芳江にとっての「武器」と言えば、自身の内心を表情に出さないことで、橋田を騙すことができること、司令室に入り得ることの2つであった。しかし、橋田に近づけても、具体的な武器がなければ、橋田を殺すことはできない。

 塹壕内では、兵達が忙しく歩き回っている。所々に、塹壕内から外を覗くための潜望鏡があり、又、塹壕の外には弾除けがあり、その所々の銃眼から、機関銃が蒙古側、つまり、満州国の西に位置する蒙古人民共和国をにらんでいた。それらは全て、ソ連軍の侵攻を予測してのものであることは無論である。それらを橋田殺しに転用する等はできそうになかった。

 芳江は、司令室内部の様子を思い出してみた。司令室内には椅子とテーブルがあった。背後からこれ等で橋田を襲えば、殺せるかもしれなかった。しかし、橋田と格闘になったら、橋田に勝つ自信はなかった。やはり、橋田を殺すためには、容易に殺害可能な武器が必要であった。例えば、軍刀や拳銃が考えられた。どこからか、調達せねばならないものの、勿論、武器の管理は厳しく、「調達」は容易なことではない。

 芳江は考えた。

 「司令室内には、椅子や机の他に、拳銃や軍刀等もあった。全て、橋田のだろうけ

 ど、そのうちの1つをおすそ分けしてもらえないかな」

 武器の調達は、その方法しかないようであった。芳江は司令室に向かった。

 「倉本芳江、入ります」

 「入れ」

 橋田の声がした。

 「橋田中校殿、私達婦女子も、赤魔との戦いになったら、命を懸けて戦うつもりで

 す。有事には、この司令室で中校殿のお傍においていただきたいのです」

 「うむ、お前の熱意を認める」

 「はい、そのためには、私はわざわざ、外郭要塞に志願してまいりました」

 と芳江は自身の「熱意」を言いつつ、

 「非力な私ですので、有事の際の武器を何かいただきたのですが。できれば、非力

 な私に使いやすい拳銃等をいただきたいのです」

 「貴様、銃をあつかったことがあるのか?」

 「はい、女学生の頃、軍事教練で38式歩兵銃を扱ったことがあります。恐れ多く

 も天皇陛下から下し置かれた皇軍の主力兵器ですので、あの時の教官の厳しさを通

 して、その大切さを心得ております」

 有事の際には、1人でも多くの戦力を必要としている現場である。芳江の言葉と表情から「熱意」を理解した橋田は、

 「武器庫にある拳銃一丁を貴様に支給する。金本に武器を調達してもらえ」

 橋田はそう言うと、傍らの机にあった電話によって、武器庫の金本(キム)に架電し、芳江に拳銃一丁を与えることを指示した。

 「倉本、下がります」

 芳江は、司令室を出て、武器庫に向かった。

 武器調達は、拍子抜けするほど、あっさり成功した。

 橋田は、要塞の司令として、絶対的な権力を握っている。橋田にとっては、要塞内の全ては自分のものであり、自分に逆らう者がいるとは思ってもみないようである。橋田は、芳江が女性ということもあり、懸念もなく、あっさり武装を許可したようであった。

 武器庫に向かいつつ、芳江は内心で笑った。

 「武器をいただきまして、有難うございました。その武器でもうすぐ、貴方は絶対

 権力者から一気に、黄泉の国の人よ。その日まで、せいぜい、悦に入っていなさ

 い」

 かつて、大地主の篠原夫妻に対して、心中で言ったのとほぼ同じ台詞を口にした。しかし、橋田を破滅させるのは、篠原夫妻に対してよりも困難であることも事実である。実際に、橋田を

 「黄泉の国の人」

 にできるかどうかは、今後の状況次第でもある。しかし、その

 「幸運なる機会」

 を掴み得る時までに、できる準備はしておかねばならない。

 そんなことを考えつつ、芳江が武器庫前に着くと、橋田の電話通り、キムが待っていた。橋田の指示通り、キムは軍用拳銃と実弾20発程を渡した。言い換えれば、橋田はキムに自身の殺害、即ち、自身の自殺の準備をさせたのである。

 キムから軍用拳銃を受け取った芳江はニンマリと笑顔になった。キムも又、無言で笑顔で返した。

 芳江は、自身の部下であるキムと何処かで、橋田殺害の密談という危険な行為も必要かと思っていた。キムもそう思っていたかもしれない。しかし、それも必要なくなった。

 駐蒙ソ連赤軍の進行に合わせ、この外郭要塞を破壊するという工作任務はあっさりと準備が整った。

 後は、駐蒙ソ連赤軍の侵攻をとりあえずは待つ、という待機状態に芳江とキムは入った。


10-2 駐蒙ソ連赤軍第12〇師団

 芳江が赤軍中尉として、満州里近くの外郭要塞内で任務を進めていた頃、アナスタシアは、駐蒙ソ連赤軍第12〇師団にて、対満侵攻準備に取り掛かっていた。

 芳江の謀略が上手く行き、外郭要塞が陥落すれば、満州国軍の一部が、満州国に反旗を翻し、独立政権を樹立、その政権への支援として対満侵攻の口実が得られるわけである。

 実際には、侵攻が先で、「独立政権樹立」が後なので、順序が逆ではあるものの、公式発表では、

 「独立政権からの支援要請を受けた」

 と発表される。

 要塞内の情報については、要塞から1~2キロメートル程、蒙古人民共和国側寄りに設置された歩哨所等から脱走して来た警備兵等から、聞き出すことに成功していた。

 要塞指令の橋田が絶対権力者であり、又、その周囲を何人かの日系軍官が幹部として取り巻いていること、他の民族出身者には反発している者も多いこと、故に絶対権力者である橋田が死ねば、要塞は組織として、一挙に崩壊する可能性があること等である。

 それらの情報を入手できたからこそ、ソ連側は、KGB将校のアナスタシアを通して、倉本芳江をそれ赤軍中尉に任官し、作戦を進めているのである。

 数日前にも、歩哨所から脱走して来た満州国軍兵士がいた。その兵も橋田の体罰を受ける等していた。その兵は蒙古人兵士であった。彼には橋田の体罰を受けてまで、同じ蒙古人の国家である蒙古人民共和国と対決する合理性はなかった。橋田に象徴される前線での絶対権力はその絶対性故に、基底から崩れつつあった。

 その兵を尋問したところ、芳江は橋田に取り入り、軍用拳銃を入手する等、攪乱工作に成功しつつあるらしい、とのことであった。

 しかし、この兵は、或いは、ソ連側を攪乱せんと外郭要塞側から送り込まれたスパイかもしれなかった。

 つまり、外郭要塞側としては、既に、芳江やキムがスパイと知りながら、敢えて放置し、ソ連軍をおびき出す作戦を用意しているのかもしれなかった。そうならば、外郭要塞の背後にあるハイラル要塞でも本格的防禦体制が進み、又、有事の際には、満蒙国境に軍を進めて来るだろう。

 今回の作戦は、ソ連邦にとって、なおも東方に存在する脅威を取り除く第一歩となる重要な作戦である。

 成功しようが、失敗しようが、

 「日ソ中立条約に違約した」

 と日本側から非難されるだろう。しかし、それでも、ソ連側の公式発表では、

 「満州里に樹立された新政権とソ連の外交関係上の問題である」

 ということになるであろう。しかし、日本側としては、更に

 「『赤魔』ソ連の脅威」

 を主張し、ソ連邦への警戒を強めるだろう。

 しかし、アナスタシアが、駐日ソ連大使館等から入って来たとされる情報等によれば、最早、大日本帝国は帝都・東京をはじめ、内地でも物資の窮乏化が進み、社会の不満が高まっていること、闇経済の振興、警察も物資窮乏化から、闇経済を取り締まれず、むしろ、それに依存している傾向があることによる権力内部の腐敗堕落が進んでおり、ますます、権力の側は権威を無くしていること等が言われていた。

 大使館からの情報等によるそれらの状況を踏まえれば、日本政府が

 「『赤魔』ソ連の脅威」

 を叫んでみたところで、日本社会からどれだけの反応があるのだろうか。又、それ故に、窮乏化から逃れようとする日本の内地国民が満州への移住を希望し、日本政府も、それを奨励していた。それは、満州の地元民への圧迫を増し、結果として、ますます、地元民の反日感情を増す、という日本にとっての悪循環への道でもあった。 

 既に、満州国が建国された1930年代には、東北抗日連軍等、抗日活動は起こっていた。しかし、これらは、当時の関東軍や満州国軍によって、掃討されてしまった。しかし、それは、地元民の日本への反発を物語るものでもあった。

 数日前に脱走して来た蒙古人兵士はその当時には、まだこの世に生を受けてはいない若者である。しかし、「大東亜共栄圏」の名の下、勢力圏を拡げすぎた大日本帝国は、それ故に、その勢力圏内において、各地域にて物資が窮乏していた。何処も物資が足りないのである。

 そんな中で、日系軍官等で賄いきれない各軍務のなかで、日本語が上達した「優等生」が満州国軍の将校等の幹部的立場を与えられていた。それは、ある種の懐柔行為であった。言い換えれば、日本語の下手な「劣等生」が死んでも左程、損害ではない、と解釈され、前線に置かれるのである。

 今回、脱走して来た兵は前線の歩哨所配属なので、「劣等生」なのであろう。その意味では、細かい任務を理解できない存在であり、その意味では、スパイの可能性が高いとは思われない、とも考えられた。

 そうした状況の中、今回の作戦が失敗したとしても、満州国民に対して、

 「解放者・ソ連」

 を宣伝できる良い機会になり得るかもしれない。

 アナスタシアは大連にいた時と同様、謀略将校として、心中にてシミュレーションをしていた。しかし、それでもなお、

 「しかし」

 と思うものがあった。

 倉本芳江赤軍中尉のことである。


10-3 作戦

 芳江は、今回の作戦でどうなるのか?場合によっては戦死かもしれない。

 戦闘の中で戦死するか、橋田殺害に失敗し、橋田に処刑される等、いくつかのシナリオが考えられえた。

 しかし、明るい朝や昼であれば、芳江にとっても、橋田を殺しやすくなり、戦死等の可能性は減らせるかもしれない。又、現実の問題として、戦闘が長引けば、後方のハイラル要塞からの援軍が来着する等、ソ連側にとっては不利になることが予測された。

 アナスタシアは、芳江の目付け役であるキムに、

 「橋田殺害成功」

 が明らかになり次第、白旗を掲げる等、ソ連側への降伏、停戦の合図をなすように、あらかじめ指示してあった。これは勿論、昼間の方が分かりやすい。

 アナスタシアは、陣地の中の司令室に向かい、師団長で、赤軍少将のポポフに面談した。

 「同志師団長、失礼します。今回の対満侵攻作戦についてですが」

 椅子に座っていたポポフも、そのことを相談したかったらしかった。アナスタシアが最後まで話すのを待たず、アナスタシアにも椅子に掛けるように促し、

 「うむ、予定通り、9月末頃の作戦発動としたい。中尉に任官し、外郭要塞内に入

 り込ませたヨシエという日本人女性の工作はうまくいっているのか」

 「敵方からの脱走兵の話によると、芳江は上手く要塞指令の橋田に取り入り、軍用

 拳銃を入手して武装に成功したようです。上手くすれば、芳江が橋田殺害に成功

 し、要塞を一挙に陥落させ得るかもしれません」

 同時に、アナスタシアは、キムに与えた先の任務も改めて説明した。

 「勿論、夜間では、白旗は見えませんし、前線の兵にとっても満州国側の障害物等

 が見えにくいでしょうから、昼間攻撃が良いでしょう」

 ポポフは答えた。

 「うむ。しかし、私は夜明け前に攻撃命令を出したい。この時間帯なら、歩哨所の

 哨兵と一部の兵以外は、要塞内で眠っているだろう。攻撃しやすいと思うが、どう

 思う?同志中佐」

 「それでよいと思います。同志師団長」

 この言葉を聞いて、作戦を決定したポポフは、作戦命令書に署名し、アナスタシアにも、師団付政治将校として、副署するように促した。

 アナスタシアは、署名しつつ思った。

 「後は、芳江が上手く立ち回れるかどうか。戦闘経験のない芳江だけど、橋田殺害

 をはじめとして、彼女は自身で戦わなければ、助かりようがない。頑張ってよ、同

 志中尉」

 いつぞやも思ったように、この戦いはソ連邦、そして、アナスタシア自身を、護るための戦いである。芳江は、そのための「駒」にされたのであった。アナスタシアは自身の都合を芳江に押し付けたとも言えた。

 しかし、戦いは始まろうとしている。戦争という巨大な歯車の前には、個人の存在は無力である。だが、最早、日本に帰れない芳江にとっては、その体制を象徴する存在を倒すしか、「解放」の道はないはずである。

 アナスタシアは、そのように考えて、謀略将校としての自身を正当化しつつも、芳江が今回の戦いで生き延びたならば、芳江の今後について、なるべく助力したい、と考えていた。巨大な歯車のなかの一部品とも言えたアナスタシアにとって、しかし、それが人間として、芳江に報い得るギリギリの行為とも言えた。

 署名したアナスタシアに、ポポフが言った。

 「同志中佐、敵の戦車等、戦力の現状はどうか?」

 「97式チハ等、旧式戦車が多いようです。我が赤軍のT34には歯が立たないで

 しょう。歩兵銃も1発打つたびに槓桿を引かねばならないものが多いようです。

 我々、赤軍のカラシニコフ突撃小銃の敵ではないでしょう」

 「うむ、T34は、大祖国戦争でモスクワ防衛をはじめ、大いに活躍した。ナチ戦

 車を撃滅して、ナチを壊滅させて、ソ連邦の勝利に貢献したからな。装備面では、

 我が軍の勝算は高いだろう」

 「ええ、同志師団長」

 そう言うと、アナスタシアは司令室を出た。



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