第9話 現場
9-1 現場までの旅
「貴様、こんなことで、大東亜共栄圏と皇国防衛を担えると思っているのか!」
なだらかな満蒙国境地帯の平原に橋田の怒声が響き、それは塹壕内の空気をも震わせるかのようであった。壕内にいた芳江は思わず、身体を震わせた。塹壕は深さ3メートル程であり、身長160センチ強の芳江はこの壕内に完全におさまってはいたものの、橋田の怒声はよく響いた。
誰かが何かのミスをしたのであろう。芳江は壕内から首を出して、様子を見る気にはなれなかった。きっと、誰かが、
「大東亜共栄圏と皇国の正しさ」
を自己陶酔的に語る橋田の体罰を受けているに違いなかった。零戦製造工場にて、平手打ちを受けたこともある芳江ではあるものの、ここでのそれは、その数倍ひどい。とても見るに堪えないものであった。
しかし、芳江の周囲でそれを気に留める者は特にいなかった。それが、ここでの日常の風景なのである。
ここには、朝鮮人、満州人、蒙古人等、日本以外の様々な民族の兵がいる。そうした兵の中には、日本語があまり上手いとも言えず、日本人の上官との意志疎通に苦しみ、その結果、立腹した日系軍官に体罰を受けるものが多かった。
芳江がここに「赴任」して来てから、約1か月ほどが経っていた。大連から関東軍のトラックに乗せられて、ここに運ばれて来たのである。
アナスタシアによって、赤軍中尉に任官せられ、その後、ホテル〇〇にて待機していた数日の後、朝鮮人・キム(日本名、金本久雄)が迎えに来た。キムは若い少年兵であった。
キムは、ソ連側に寝返った、満州国軍兵士であり、同時に、アナスタシアが言ったように、芳江への目付け役であった。このことは、アナスタシアとの別れ際に聞いたとおりである。
赤軍准尉のキムは、芳江の部下であると同時に、彼自身も橋田を殺し、外郭要塞を攪乱せよとの任務は与えられていたものの、要塞内では、橋田から離れた部署が持ち場であり、又、満州国軍内では、一兵卒なので、橋田に近づくには少々、困難があった。
キムは、ホテル〇〇の芳江の部屋にて、芳江を迎えに行った時、満州国前線部隊への入隊関係の書類の謄写を見せた上で、静かに、しかし、はっきりと言った。
「同志中尉、もし、貴女が心変わりするようでしたら、私は確実に貴女を始末しま
す」
そして、キムに連れられる形で、関東軍のトラックに載せられ、現在の現場まで来たのであった。かつて、最強精鋭を謳われた関東軍であったものの、大東亜共栄圏各地への援軍として、東南アジア各方面へと配転になっていった部隊が多いので、満州国の前線の防衛等は満州国軍が担うようになっていた。満州国軍は地元の各民族との混成軍であるので、ソ連側には、反乱を焚きつける条件が調いつつあった、とのキムの説明を芳江は受けていた。
旅の途中、芳江は勿論、脱走等はできるはずもなかった。脱走を試みれば、表面上は満州国軍兵士であるキムに射殺されるであろうし、其の他の日系軍官に処刑されるかもしれなかった。恐らく、今回の作戦の露見を恐れるキムによって殺害される可能性が一番高いであろう。たとえ、脱走できたとしても、言葉もろくに通じない場所にいるのである。脱走は、野垂れ死にへの道へと自身を追い込むようなものであった。
芳江は、藤倉妙子宛の手紙にて、
「これから、私はどこかへ流れて行きます」
と書いた。しかし、現実は、自身を抑圧して来た大日本帝国の最前線へと流されて来たのである。
芳江は、大日本帝国とソ連邦という体制の2つの体制の狭間に置かれていた。自身がかつて、黒龍丸の甲板上で聞いた
「いまだ連合国とわが大日本帝国はにらみ合いを続けております」
という言葉を身を以て知らされることになったのである。自身の嫌いな体制から逃れたつもりが、逆の結果となってしまった。
到着後、数日して、外郭要塞に着任した芳江は、キムから、司令部付け秘書となる旨を告げられ、中校の橋田を紹介された。
橋田は
「女だてらに、よくこの要塞に来てくれた」
「今や、皇国は女でも戦力として必要としている」
「秘書にふさわしい女だ」
等々の台詞を口にした。橋田としては、芳江を
「手厚い言葉」
でもてなしたつもりであったらしい。
しかし、芳江は、この男が、アナスタシアの言うように、男尊女卑の男であり、又、自身の権力に何やら、絶大なる自信を持っているらしいことは直ぐに分かった。
芳江は、任官したての赤軍中尉であった。既にソ連邦という日本とは敵対する体制の一員である。半ば、自分の意志とは無関係にそうした立場に置かれていた。ソ連という、芳江にとっての新たな体制が、芳江をどのように評価するのかは分からない。そこには目に見えない恐怖のようなものがあった。新たな恐怖であった。その恐怖から逃れたければ、橋田に自身の正体を告白し、作戦を露見させるしかなかったものの、アナスタシアが言ったように、死体遺棄等に関わってしまった芳江にとっては、それはできない話であろう。
加えて、何よりも、この橋田に取り入ることに、何よりの嫌悪感を感じずにはいられなかった。
「女だてらに?とっくの昔に、私達、婦女子たちだって、『戦力』にさせられて、十分、苦しんできたのさ!」
内心、芳江は橋田を激しく罵った。しかし、橋田は芳江の内心での罵倒には気付かなかったようである。勿論、言葉に出していなかったからであるものの、芳江の表情が変わっていなかったからであろう。
芳江は、零戦製造工場にて、班長等から体罰を受けても、いつの間にか、表情を変えない習慣、というより、習性のようなものが身についていた。
「不満」
を顔に出すと、さらにひどい目に遭わされる可能性から、身に着いた習性であろう。内心が表情に出ない、ということでは、既に謀略将校にふさわしい能力を身に着けていたとも言えた。
芳江は塹壕内で、そういったことを回想していた。橋田の怒声が、芳江にフラッシュバックを起こさせたようであった。
そこに、顔を赤く腫らした兵が塹壕内に降りて来た。先程の橋田の体罰を受けた兵であったようである。芳江は、地元の民族出身の兵と思った。
9-2 武勇伝
しかし、橋田の体罰を受けた兵は、日本人兵士であった。顔を腫らしている上に、唇を切れているらしい。血も流れていた。
芳江は、その兵を以前にも要塞内にて、見かけたことがある。吉村輝雄というまだ童顔の10代の少年兵であった。続いて、橋田も塹壕内に降りて来た。
「どいつもこいつも、皇国と大東亜共栄圏を守る精神がなっとらなん。俺が昭和1
7年頃、南方戦線で戦っていた頃には・・・・・」
相変わらずの武勇伝自慢である。そして、橋田は自身が傷つけた輝雄にも言った。
「この俺がお前のことを思って、特別に厳しく指導してやったんっだ、感謝し
ろ!」
そして、橋田は要塞内の一隅にある指令室に入って行き、芳江を呼んだ。
先の回想から、現場は暴力と不快の連続である。橋田付き合わされることは極めつけの不快であったものの、要塞内では、橋田の下に行かざるを得なかった。それがこの外郭要塞という体制の絶対的現実だった。
指令室に入った芳江に、橋田は2人分の湯呑と日本酒の一升瓶を持って来させた。芳江にお酌をさせ、まずは一杯を一気に飲み干した。
吉村を傷つけた橋田は、一仕事終えた、と言わんばかりの態度である。橋田は、芳江をあたかも自分の妾のように傍らに置き、芳江に語り掛けた。
「久しぶりに、俺の実力が発揮できる大舞台だ。南方での皇国の大東亜戦争の勝利
を聞いて以来、東京の女学校で女学生どもをしごいてやったが、俺には役不足だっ
た。赤軍将兵どもと戦って、俺の強さを見せつけてやりたいものだ」
と先程の怒声での表情はどこへやら、倉本芳江赤軍中尉に向かって、上機嫌で語った。
芳江は思った。
「なるほど、自分の『強さ』を見せつけたいがために、体罰まで使って、部下をし
ごいているわけか。この男には、周囲の人間は単なる『強さ』のための将棋の駒で
しかないんだ」
芳江は、心中にて怒っていたものの、表情は変えないのであった。
橋田は、「皇国」、「大東亜共栄圏」という言葉を盛んに使うものの、結局は自分の勝利のために行動しているのである。大日本帝国や大東亜共栄圏が、もはや、昭和30年の今日、勝利のための勝利でしかないような状況であり、橋田はその象徴のように思えた。
飲酒によって、上機嫌になった橋田は更に
「ロシア女には、良い女が多いようだ。俺は大連にいた時、白系ロシア人の女ども
を見た。赤軍に良い女が大勢いることだろう」
と女性赤軍中尉の傍らで続けた。女性差別的言動で得意になる橋田は、一方で、芳江に酒を勧めた。
芳江は、こんな男の御相伴は不快なのだが、要塞指令の「命令」を拒否するわけにもいかず、また、ここで橋田の機嫌を損ねると、後々の橋田暗殺作戦に支障をきたす可能性もあった。芳江はやむなく、御相伴せざるを得なかった。
橋田は言った。
「最近の若い者は、皇国防衛と大東亜共栄圏への忠誠が足りぬ。さっきの吉村もそ
ういった奴だ」
橋田は、芳江に同意を求めるような表情である。芳江は答えた。
「ええ、吉村君は、本当に男らしくないですわね。大東亜戦争に勝利した昭和17
年には、17歳の私も本当に、皇軍の武運長久を祈って、婦女子でさえ、全力で戦
ったというのに」
かつての零戦製造工場での標語等をそのまま、返答にしたものであった。無論、本心ではない。しかし、これもまた、芳江が身に着けた習性が具体化したものであった。芳江は、いよいよ、本格的謀略将校となって来たようであった。
自分の意見に同調されたからか、橋田は機嫌よく言った。
「女だてらに、お前はよく分かっている。役立たずが多い中、久々に、良い気分に
なった」
橋田は更に続けた。
「お前はまだ飲むか?」
「言え、もう充分です。今後も中校殿の武勇に期待しています。私からも、意気地
なしの彼に厳しく言ってやりましょう」
橋田の
「お前はいい女だ」
という言葉を聞くと、芳江は指令室を出た。
橋田と飲んだ日本酒は強い酒だったらしい。歩きながら、芳江は少々、ふらついた。
芳江が指令室を出たのは、このまま、御相伴していると、山村家や篠原家で体験したように、今度は、橋田のおもちゃにされかねなかったからである。
芳江は、輝雄の下に向かった。
9-3 少年兵
芳江は、酔いながらも、「厳しい言葉」ではなく、「優しい言葉」をかける必要があると考えていた。それが、作戦遂行までは、自分が自分の意志で主体的にできることであった。しかし、何と言えば良いのか。
「橋田中校は、皇国防衛と大東亜共栄圏についての自覚の足りないあなたのためを
思っての愛の鞭だったのよ」
等とは、間違っても言いたくない。橋田の自分勝手な勝利欲の正当化でしかないし、そんな役は真っ平御免なのである。輝雄を更に傷つけるのみならず、芳江自身までもがさらに傷つくだろうことは間違いなかった。
そんなことを考えつつ、芳江は更に思った。
「女の私に優しい言葉をかけられて、さらに男の誇りとやらが傷つかないだろう
か」
輝雄自身にもそれなりのプライドがあるだろう。それを傷つければ、やさしさでも何でもない。
そうは思いつつも、輝雄への声掛けを理由に、橋田から逃れ得た芳江である。何らかの声掛けをしておかないと、後から橋田に訝られるかもしれなかった。
芳江は、要塞内で輝雄を見かけると、声をかけた。
「お疲れ様、大変だったわね」
輝雄の顔面は、とりあえず、出血は止まっていたものの、腫れはまだ残っていた。輝雄は言った。
「橋田中校の秘書の倉本芳江さんですね。どうしたんですか」
芳江は逆に、
「どうしたんですか」
と逆に問われ、一瞬、何と言ったらよいか分からなくなってしまったものの、
「大丈夫?」
と声掛けをした。
「ええ、まあ」
輝雄は曖昧に返答した。
芳江も、神戸でタクシーの運転手に同じように、返答したことがある。輝雄は、触れて欲しくないのかもしれない。
輝雄はきっと、本心では、
「橋田の野郎、ぶっ殺してやりたい!」
と叫んでいるに違いなかった。零戦製造工場時代の芳江も同じだった。しかし、絶対の存在たる上官に反逆などできるものではない。
あるいは、橋田が言ったように、
「大東亜共栄圏と皇国防衛」
への自覚が足りないと
「自覚」
していることから、曖昧な返答になったのかもしれない。
芳江は、どのように続けて良いか、分からなかったものの、
「怪我は大丈夫?」
と問うた。
輝雄は答えた。
「大丈夫です。ここではしょっちゅうですから」
いかにも、そのようである。
「確かに、そうみたいね」
芳江は、輝雄に同情しつつ、言った。
聞くところによると、輝雄も内地の貧しい農家の出身だった。内地では食べていけなくて、「新天地」を思い、渡満し、満州国軍に入隊したものであった。そして、この要塞に配属され、要塞付戦車隊に配属になったものの、不器用な彼は、97式チハ戦車の扱いに間違いを起こし、橋田の体罰を受けたのであった。
男女の性別を問わず、芳江のような人間は結構、多くいるらしい。しかし、「皇国防衛」や「大東亜共栄圏」といった概念は、そうした各自の個性や能力を顧みない概念であった。その象徴的存在が皇軍であった。各自が命令一下、部品にならなければ、軍という組織はその性格を満たし得る存在ではないからである。
満州国軍に入隊したこと自体は、輝雄自身の意志によるものであった。しかし、その背後には、大地主制度による内地の貧しさという、やはり、輝雄自身の意志ではどうにもならない歯車が存在していた。それが、大東亜戦争に勝利した大日本帝国の、昭和30年現在の真の姿であった。
芳江は、9月下旬から、10月初旬に、駐蒙ソ連赤軍が侵攻してくるので、ひょっとしたら、輝雄が現在の苦しみから解放されるかもしれないことを知っていた。
しかし、当然のごとく、そんなことは口にできないのが、芳江の立場であった。
輝雄は、赤軍が侵攻して来た暁にはどのようになるのか。
「戦死」
という未来が待ち受けている可能性も高い。それが、「歯車」の下にいる兵の現実である。そして、戦死の際には、単なる
「兵員一名」
として、書類上で片づけられるだけである。言い換えれば、橋田の勝利欲によって犠牲にされるだけの存在であった。
「なんで、あんな嫌らしい男が『中校』の階級をぶら下げているだけで、貧しい農家の出身者がくるしまねばならないのか」
芳江は、次第に怒りが沸き立ち、それは橋田への本格的な殺意へと変わって行った。
西の地平線へと沈んでいく太陽を見つつも、芳江は、
「橋田の人生も、あの沈んでいく太陽のように終わりにしてやりたい」
この時は、怒りの表情を顕わにしつつ、内心でつぶやいた。
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