第4話 船の旅
4-1 瀬戸内海
出航から何時間か経った頃、芳江は目を覚ました。かなり長い間、眠っていたようである。芳江は甲板に出て見た。
外は、日が暮れかけていた。船は瀬戸内海を走っていた。瀬戸内海は多くの島々が浮かぶ海である。芳江にとっては、初めて見る光景であった。
瀬戸内海は南北に本州と四国の両岸に挟まれた狭い内海である。その海を様々な船が往来している。漁船と思われる船等も多い。その他に海軍の軍艦も目立つ。その中には、艦載機を載せた航空母艦の姿もあった。
芳江は勿論、軍事専門家ではないので、各艦の艦種等のことは分からない。しかし、母艦の姿を見て、海軍の零戦製造工場に勤めていた時のことを思い出した。
芳江は勿論、日本から去ろうとしている今、零戦製造工場のことは思い出したくないし、捨ててしまいたい思い出ではあるものの、それは芳江自身の脳裏に焼き付いて離れてくれない過去であった。
いつでもドジな彼女のことである。勿論、彼女に限ったことではなかったものの、仕事上のミスがあると、班長に怒声を浴びせられ、時にはビンタまで見舞われた。それが日常の、換言すれば、「非常時」という名の、正に普通の生活状況であった。芳江は常々、言われたものであった。
「お前のような奴は皇軍兵士と皇国日本にとって、恥ずかしい限りだ」
そして、その後、零戦製造工場を辞めた、というより辞めさせられた。大東亜戦争に勝利して以降、大東亜共栄圏の完成を見たこともあり、以前よりは、海軍からの零戦増産要求も減ったらしかった。ドジな芳江に待っていたのは人員整理による解雇であった。
その後、行く宛のなかった芳江は山村家に拾われ、更にその後は、篠原家へと移されて来たのであった。なんだか、目に見えない巨大な歯車によって、芳江の人生は、芳江自身の意志とは無関係に回転させられて来た感があった。
自分の人生でありながら、自分の意志と無関係に進んでいく時間。芳江にとっては、これまでは、それが半ば当然であった。しかし、その辛さが篠原家にていよいよ具体化し、これ以上は耐えられそうにはなかった。
だから、篠原の家で、預金と印鑑等を半ば強奪したのであった。
女学校を中退して以来、生まれて初めて、自分の人生を生きるための自身の意思表示をなしたのであった。目に見えない巨大な歯車への反逆であった。そして、それは篠原の土地を軍に寄付してやった、という形で、篠原に害をなしたという意味では、目に見えない巨大な歯車の下で、自分に対して加害者となった者に対する復讐であり、巨大な歯車の構造を逆利用した報復でもあった。
零戦製造工場で同じく苦労していたかつての同僚は今、どうしているのだろう。「女」というだけで、自分と同じように、その後も苦労した、あるいは、今現在も苦労しているのだろうか。
思えば思う程、女性だというだけで苦労を強いられるこの日本という国の現実が、芳江の中で沸き立って来た。そう思うと、この国と別れて、別天地に行こうととする自身の選択は間違っていないように思われた。
「お客様」
ふと、背後から声がかかった。それまで、自身の世界にふけっていた芳江は驚いて振り返った。
「お客様、瀬戸内海付近では、甲板に出るのはお控えください。海軍から軍機保持
のため、指導を受けておりますので」
芳江は、自身が未だに、自身が皇国日本の束縛にあるという現実に引き戻された。
「分かりました。色々、厳しいものがあるのね」
「はい。未だ連合国と我が大日本帝国はにらみ合いを続けていますので」
芳江は指示に従い、船内に戻った。
自身の船室に戻ると、先程の親子が夕食を始めていた。芳江も空腹を感じ始めた。
「さて、どうしようか。ここでは自炊もできないし」
困ったことである。船内には食堂があるらしいものの、持参の現金で何とかなるだろうか。親戚等もいないはずの大連に着いたら、ある程度の現金も要るだろう。そのためには、今、ここで元気を使うのもどうかと思われた。
そのように芳江が迷っていると、母子連れの母氏から、
「お1つ如何?」
と握り飯が差し出された。
4-2 船内の庶民
握り飯とは、意外な心遣いであった。芳江は礼を言いつつも、受け取った。いつでも食は何にも替え難い。母氏は芳江に話しかけて来た。
「あんた、満州の何処へ行かはるん?」
芳江は、
「満州で婚約者が待っているんです。私は満州への旅は初めてなんです。勝手がわ
からないので、彼が大連で待っているんです」
と答えた。勿論、嘘である。
母氏は更に続けた。
「内地の何処から来はったん?」
芳江は東北の適当な地名を答えた。
母氏は言った。
「そうなんや。うちらは京都に近い大阪の出身なんや。うちの親戚が満州で農場を経営してはって、この船で訪れるところなんよ」
芳江は以前、篠原の家近く等に貼ってあった「満蒙開拓団募集」のポスターを思い出した。皆、-勿論、芳江が半ば崩壊させたであろう篠原のような大地主は別だろうが-ことに農民は生活が苦しい。この母子も、内地で苦労していたのだろうか。
答えは母氏の口から出た。
「みんな、内地での生活は苦しいからな、そとに新天地を求めよう、言うて、親戚が誘ってくれはったんよ」
芳江は思った。
「やはり、そうだったのね」
日本は昭和17年、事実上、大東亜戦争に勝利し、太平洋の覇権を握った。しかし、庶民の生活苦は何も解消されない。
昭和17年まで、内地では、度々、
「欲シガリマセン、勝ツマデハ」
という標語が強調された。しかし、事実上の戦勝後も庶民は欲しがることは出来ないのである。それが大日本帝国に生きる多くの庶民の現実であった。
そうした現実から逃れたのであれば、正に日本を脱出するしかないようであった。故に芳江は黒龍丸に乗っているのであり、この母子も事情はある意味、同じであった。
男児が口をはさんだ。
「お姉ちゃんの結婚相手って、どんな人なん?かっこええん?」
母氏は、すかさず
「これ、カズオ!」
と叱ったものの、芳江は時に気にもせず
「ええ、格好良い人よ」
と答えた。
このように返事しつつも、芳江は今まで、ロクに付き合えた男性もおらず、山村や篠原の家で、半ば、戸主のおもちゃにされてきた現実があった。これらはつらい現実であったものの、そんなことはこの男児に話しても分かることでもなかろう。そうである以上、話しても仕方のないことだった。
とにかく、芳江は自分自身を自己演出して格好をつけた。勿論、自分の正体を知られまいという計算も無意識に働いたからであろう。
母氏は
「これ、カズオ、お姉ちゃんに失礼なこと、言うたら、アカンやろ!きちんと姉ち
ゃんに謝り!」
芳江は、
「いいんです、いいんです」
と受け流した。
「いいんです」
という台詞には、格好をつけることで「格好良い」自分を作ることを楽しもうとしたのかもしれない。これまで、自分自身の人生を半ば生きられなかった芳江にとっては、格好をつけることで、少しく自分の意志による自身の人生を生きることができたとも言えた。
更に芳江は、カズオ君がうらやましくもあった。芳江は思った。
「自分も、もう少し、母に甘えて見たかった」
しかし、それは最早、かなわぬのが現実である。カズオの発言をもとに、格好をつけるという自己演出を楽しみつつも、同時に改めて現実を思い知らされた芳江である。
母氏が、息子に代わって、芳江に詫びた。
「えらい、すんません。この子がいきなり、失礼なことを申しまして。堪忍したってな。ほな、おやすみ」
夜も遅くなっていた。芳江も
「おやすみなさい。ごはん、ありがとうございました」
と挨拶した。
芳江は、自身のカイコ棚で眠りにつき、遠のく意識の中で思った。
零戦製造工場、山村家、篠原家等、嫌な人々に出会い続けて来たものの、良い人もいる者だ、と。
こうして、その日、1日は終わった。翌日、黒龍丸は門司に立ち寄った後、日本海方面に出、大連に向かった。
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