第5話 出会い
5-1 日本海
黒龍丸は、日本海を航海していた。芳江は再び、甲板に出て見た。日本海は内海とはいえ、瀬戸内海よりははるかに広い。これまで、海外に出たことのない芳江にとって、これもまた、初めて見る風景であった。
芳江以外にも、数人の乗客が甲板に出ていた。日本海に風景を楽しんでいるのだろうか。同じ船室のカズオ君を含め、数人の子供達が、甲板上で騒いでいた。子供たちにとっては、見るものすべてが新鮮であるらしい。
芳江にとっては、無論、そうした経験はなかった。芳江が、初めての大きな旅に出たのは、女学校を中退して、都会の零戦製造工場に働きに出た時が初めてだった。芳江にとっては、甲板上ではしゃぐ子供たちがうらやましくもあったものの、同時に、自分も遅ればせながら、青春を取り戻しつつあるのだ、と思うと、何かしら心が晴れる者があった。
芳江は、黒龍丸の左舷に立っていた。その右隣り、約3メートル程の距離のところだろうか、1人の白人女性が経っている。
彼女は、腰まである長い金髪、ロングスカート姿のブロンド美人であった。
芳江は、今迄、外国人というものを見たことがない。「鬼畜米英」等のスローガンの下、零戦製造工場では、
「白人支配を打破し、大東亜共栄圏建設に邁進せよ」
との掛け声が叫ばれていた。昭和17年の多感な年齢だった頃、芳江は見えぬ白人勢力と戦っていた。否、必ずしも「見えない」ということでもなかったかもしれない。工場内では、米英軍、つまり、白人の軍を小馬鹿にしたポスターが貼られていた。そのポスターを通してのみ、芳江は「白人」を見ることができていた。しかし、本物の白人を見ることができたのはこれが初めてであった。
初めての、ブロンド美人に、芳江は暫く、見とれていた。
彼女は、どんな女性だろうか。上品そうないでたちからして、どこかの良家のお嬢様だろうか。
ブロンド美人は、煙草を取り出し、ライターで火をつけ、喫煙をした。舷側から宙を見つめつつ、紫煙を吐いた。彼女が芳江より船首側にいたからか、多少、紫煙が匂った気がした。芳江は非喫煙者である。応召以降、行方不明になってしまった父を除けば、身内に喫煙者はなかった。
芳江は少し、煙たくなり、少々、顔をしかめた。
ブロンド美人はそのことに気づいたらしく、煙草を指ではじいて海に捨てると、芳江に話しかけて来た。
「あら、失礼。煙草のせいで、迷惑をかけたかしら」
彼女は日本語で詫びを入れて来た。
芳江は、彼女が流暢な日本語で話しかけてきたことに驚いた。
彼女は
「私は、アナスタシア=カトウコフ」
と名乗り、ロシア人であることを明かした。そして、
「1本、どう?」
と芳江に煙草を勧めた。
勿論、非喫煙者の芳江は、煙草については断った。
「満州へは、何の御用?」
芳江は昨日の船内の時と同じく、
「婚約者に会うため」
という意味の返答をした。アナスタシアは言った。
「私は白系ロシア人。幼い頃、パパとロシア革命の時、ロシアから逃れて来て、満
州に住むようになったのよ。今回、親戚の会社の仕事の関係で、日本へ出張した
の」
芳江は言った。
「日本のどちらに出張されたのですか」
「神戸と横浜。それぞれ、昔から港町だったから、今でも、貿易関係の仕事がある
のよ」
芳江は思った
「なるほど」
しかし、芳江にとっては、
「白系ロシア人」
という言葉は耳慣れない言葉である。芳江はアナスタシアに、この言葉の意味を問うた。
「白系ロシア人」とは、ロシア十月革命(1917年11月7日、露暦10月25日)から、ソビエト社会主義共和国連邦成立(1922年12月30日)までの間になされた赤軍(革命派)と白軍(反革命派)の激しい内戦の中で、革命派に敗れ、ロシア国外に逃亡した反革命派やそれを支持する旧体制の支配層たるブルジョワ、地主、貴族等のことである。
アナスタシアもそうした人々の一員だ、と自己紹介した。
アナスタシアは、今夜の夕食を一緒に船内でとることを芳江に提案した。勿論、アナスタシアのおごり、ということである。芳江は同意した。
5-2 船内食堂
その日の夜、船内食堂にて2人がとった夕食はカレーである。芳江にとっては、最早、十数年ぶりの御馳走であろう。幼かった頃、地主家からのおすそ分けによって食することしかできなかった御馳走である。この御馳走はによって、芳江は、今後が前祝されているような気がした。
アナスタシアは言った。
「芳江さんと満州での婚約者との出会いの前祝をしましょう」
アナスタシアは、芳江の表情を見て、芳江の内心を察してくれたのかもしれない。
芳江はアナスタシアが気の許せる友人になったように思われた。後、1日程で、大連着であるものの、旅を共に楽しめる友人が出来たことが嬉しかった、
芳江等を乗せた黒龍丸は、予定通り、大連に向かっている。しかし、
「婚約者云々」
は、勿論、嘘である。大連についても、芳江には行く宛等、あるはずもなかった。
芳江は思った。
「本当は、正直のところ、行く宛なんかない。どうにかして、アナスタシアにど
か、泊る宛だけでも紹介してもらえないかしら」
食べながら、アナスタシアは言った。
「婚約者さんは貴女を大連の港まで、迎えに来るのかしら?」
芳江は思いつくままに言った。
「それがそうもいかないのよ。彼、満州に住んでいるとは言っても、田舎暮らしが
基本だから、大連には不案内なみたいで、何処の宿に一緒に泊まるかも決めてない
らしいし」
アナスタシアは答えた。
「じゃ、私の親戚が経営しているホテル〇〇を紹介してあげる。私の紹介で安く泊
れるわ。このホテルは結構良いホテルなのよ」
芳江は嬉しかった。
「ありがとう」
「いいえ」
芳江にとっては、渡りに船であった。
食後、2人はテーブルをはさんで、茶を楽しんだ。2人は気の合う存在らしかった。
暫く話し込んだ後、アナスタシアが言った。
「さてと、もうそろそろ、ここを出ましょう。私、ちょっとトイレに行ってくる。
良ければ、私の船室に遊びに来ない?1時間ほどで、貴女をお客人として迎えれれ
るようにしておくから」
芳江は答えた。
「うん、行く行く。1時間ほどしたら、行かせてもらうわ」
「それじゃ、待っているから」
2人は食堂を出ると、1時間後の再開を約して別れ、その際、アナスタシアは自身の船室の番号等を書いたメモを渡した。
芳江は、良い気分で自身の船室に戻った。
船室内で芳江の姿を認めた例の母子連れの母氏が言った。
「なんかええことあったん?」
芳江の笑顔を見て、そのように言ったらしい。
「ええ、はい、ちょっと。楽しい時間が過ごせまして」
「それは、ほんま良かったなあ。どないなことがあったん?」
「ひさしぶりに気の置けない友人のようなものができまして」
「そっか、よかったなあ。うちの子も他の子に色々、遊んでもろうて、良い時間を
過ごさせてもろうたわ」
芳江は、昼に甲板に出た時のことを思い出した。そこには楽しげに遊んでいたカズオ君の姿があった。
「カズオ君、お昼、楽しかった?」
「うん、楽しかった。わい、何人かの子と探検ごっこして遊んだんで」
「そう、良かったわね」
母子と話しているうちに、50分ほどが経ったらしい。そろそろ、アナスタシアとの約束の時間である。芳江は
「ちょっと、用事があるので、失礼します」
と言って、船室を出た。
5-3 過去
芳江は船内を歩き、先の別れ際にアナスタシアに教えられた船室にたどり着き、戸を叩いた。
中のアナスタシアが、芳江が来たことに気づいたのか、中から
「どうぞ」
という日本語の声がした。
「失礼します」
と芳江は一言断ると、戸を開いた。アナスタシアは芳江の姿を認めると、
「いらっしゃい」
と言い、
「よく来たわね。場所は迷わずに分かった?」
と芳江を労った。
「ええ、すぐに分かった」
「それは良かった」
アナスタシアの船室は上等船室である。椅子があり、テーブルがあり、カイコ棚ではない個人用というべきベッドがあった。アナスタシアがこのような部屋を使えるのは、会社の経営に関連して、資金が潤沢だからだろうか。
アナスタシアは芳江に椅子に掛けるように促した。芳江は座った。そして、問うた。
「貴女の船室は豪華で上等ね。会社からお金が出てるの?」
「そうよ。経費は会社から出ているのよ」
アナスタシアは続けた。
「今夜はこの部屋で2人だけね。気がねなく話なせるわね」
テーブルをはさんで芳江の正面に座ったアナスタシアは言った。
「私たち、白系ロシア人は色々と大変よ。私も未だ結婚していないけど、とにかく
ソ連の脅威に立ち向かうために、資金稼ぎ等のために会社を経営をして頑張ってい
るのよ」
芳江は思った。
「ソ連の脅威、確か、日本の新聞等で『ソ連(赤魔)の脅威』が言われてもいた
し、零製造工場等でも、『赤魔は我が皇国の脅威をなす一大勢力』だとか、言われ
ていたっけ」
アナスタシアは続けた。
「日本が満州国を建国してくれたおかげで、私達、白系ロシア人も極東に居場所が
あって助かっているのよ」
アナスタシアは更に続けた。
「あのまま、逃げ場がなくて、私たちはロシア領内に居続けたら、私もこのまま、
生きていられたかどうか」
アナスタシアの一家の過去に何があったのだろうか。芳江は問うた。
「何があったの?」
「十月革命の後、混乱期にはね、父は帝政時代には結構、お金のある大きな地主だ
ったけど、赤軍が迫る中で、かつての父に反発した元の小作人に襲われそうになっ
て、銃で何人かを殺す罪を犯してしまったのよ。それから、命からがら満州に逃れ
て来たけど、その時、まだ、私は生まれてなかった。幼かった兄は栄養失調で死ん
だって、聞いた」
その後、アナスタシアの父は、逃走時に逆に銃で撃たれたこともあり、その後遺症が原因でアナスタシアが幼い頃に亡くなったとのことであった。アナスタシアは自分の一家をそのような目に遭わせたソ連を憎んでいる、とのことだった。
祖国が自分を苦しめた、という点では芳江とアナスタシアの立場は同じようであった。祖国から逃げ出した、というのも同じである。
アナスタシアに親近感を覚えていた芳江は言った。
「私もね」
そう前置きして、
「既に父は日華事変で行方不明になっていたし、かつて、東京で山村っていう家の
女中だったけど、主人の太造っていうスケベ男が自分の部下を殴って死なせてしま
ったのよ。その時、私もその死体を捨てる作業を手伝ったことで事件に加担するか
たちで罪を犯してしてしまった」
芳江はかつて、自分が山村太造の指示によるものであったとはいえ、犯罪をなしたことを心中である種、苦しんでいた。今、そのことをアナスタシアに告白したのは、それを誰かに聞いてもらうことで苦しみを吐き出したかったのかもしれない。
更に芳江は、東京の山村家から、近県の篠原家に奉公に出されたこと、そこで女中兼妾であったこと、祖国を脱出するため、篠原夫妻が旅行に行っているすきを見て、印鑑と土地登記書を盗み出すことで旅費をつくり、篠原の土地を軍に寄付することで、自分を苦しめた祖国に報復したこと、勿論、「婚約者」云々は嘘であること等を言った。
以上を、一気に語った芳江であった。やはり、芳江の心中にも苦しいものがあったことが原因だった。
「大変だったわね」
アナスタシアは芳江に同情するように言った。
芳江は言った。
「なんで女って、女に生まれただけで苦労しなければならないのかしら?」
「さて、どうしてかしら」
アナスタシアは答えあぐねたように言った。しかし、続けて、
「しかし、私達は同じ境遇の友ね」
と言った。
話し込んでいる間に、時間が経った。
アナスタシアは
「今夜はこれで解散にしましょうか?」
「そうね、長くお邪魔してしまったわね」
芳江は、そう答えると、
「これからもよろしくね」
と言って、アナスタシアの船室を出た。
芳江が自身の船室に戻ってみると、例の母子は既に床に就いていた。芳江も自分のカイコ棚に入り、就寝した。こうして、今日1日が終わった。
黒龍丸は夜もひたすら、大連に向けて走り続けており、時折、船は大きく揺れるのであった。
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