第26話


「はい。わかりました」

 芳夫を先頭に全員ドアをくぐった。芳夫がドアを閉めると自動的に施錠された。そうするのが習慣であることが窺える所作だ。彼らが、東棟の地下に出入りしているのなら、ドアを開きっぱなしにしたのは意図的なことだったのだろうと漠然と思いながら、

「では参りましょう」

 芳夫に言われ、薄暗い階段を下りていった。

 行って来い階段である。十段ほど下りると右に折れてまた下りるということを何度か繰り返した。

 東棟の地下での体験がよみがえりそうで不安だったが、思ったよりずっと早く地下フロアに辿り着いていた。深さは東棟の地下の三分の一ほどだろう。

 下りたそこは、地下のガレージといった様子だった。蛍光灯で明るく照らされ、棚や水道が設置されている。棚には、大型のフラッシュ・ライトがいくつか、バケツや雑巾、はたきやちり取りなどの掃除用具のほか、なわの束が置かれている。

 壁の一角には、ドアの付いていない出入り口があった。灯りを備えていないのかオフにしているのか、真っ暗だった。今いる場所が明るいせいで、壁に空いた真っ暗な穴に思われ、光弘はぞっとなった。

 恐怖症はまずいぞ。光弘は目立たぬよう深呼吸をして恐れを退けようとした。やはり東棟の地下を体験して以来、暗い洞のようなものにはなんであれ恐怖心を感じるようになっているらしい。シマオカ本社の危機管理チームの一員として、早々に克服する必要があった。この先、繰り返し建設現場に出入りしなければならないのだ。いちいち怯えていたら、そのうち上司やチームから精神的に弱い人間だと思われ、重要な仕事から外されてしまうかもしれない。

「ちょっと暗いんで、気をつけて下さい」

 芳夫たちがフラッシュ・ライトを手に取り、暗い出入り口を照らした。

 光弘は目を丸くした。やけに長い通路が奥へと続いているらしかったが、その床が特殊だった。板敷きなのだ。まるで旅館の玄関と廊下だ。

 事実、靴が一足、きちんとこちらを向いて置かれていた。

 明るい光のおかげで、恐怖心がすっと消えてくれた。つい鞄の中に水の入ったペットボトル以外にも、懐中電灯を常備しておこうかと本気で考えてしまった。

「この先が祭祀場です。ほら、お浄めの印がありますでしょう」

 芳夫が通路を照らしながら、出入り口の左右の壁を、交互に指さした。

 光弘は眉をひそめて、うっすらと記されたそれを見た。

『鎭』

 と右側に、

『祓』

 と左側に、灰か何かをこすりつけて書いたような字がある。

しぶの東棟の地下で、この字を見ました」

 光弘は、右側を指さして言った。

「ええ。お鎮めが必要だった祭祀場であることを示しているんです。無事に鎮められているので、入ったり触ったりしてはいけない、ということをね」

 そう言われて、自分がまさにそうしてしまったことを、いつ話すべきかと光弘は考えつつ、「はい」とだけ返した。

「あ、ここで靴を脱いで下さい」

 芳夫に言われ、素直に従った。

 通路へ入ると、靴下越しにひんやりと心地よい冷たさを感じた。湿気がまりやすい地下に板を敷き詰めるというのは意外だが、わずかにきしむくらいで、板が腐食している様子もなく、漆塗りのつややかな床が、フラッシュ・ライトの強い光を鏡のように反射した。

 三人が礼儀正しく、通路で一礼してから進んだ。光弘もそれに倣った。

 長々と通路を進み、突き当たりに来た。

 通路は右へ折れており、三人がまた進行方向へ一礼し、光弘も続いた。そこも同じ板敷きの通路である。しばらく進み、また突き当たりに来た。

 三人が右へ折れ、一礼して進んだ。

 光弘は三人についていきながら、自然と眉間にしわが刻まれるのを覚えた。

 また突き当たりに出くわした。

 みたび右へ折れ、三人が頭を下げた。

「ぐるぐる回っているんですか?」

 思わず口に出して訊いた。三回も右へ曲がったらもとの通路へ真っ直ぐ向かうことになる。

 芳夫が足を進めながら、肩越しに振り返って言った。

「ええ。廊下というやつです。さざえの殻の中みたいに渦を巻くように通路を作っているんですね。ぐるり、ぐるり、と回りながら、祭祀場に入るわけです。結界と出入り口の作り方は様々にありまして、もとの構造どおりに新調するんです」

「もともとあった空間なんですか」

「以前は、ずっと浅いところにありました。二〇〇六年だったかな。前のビルが解体されるとき、工事と管理を請け負った先代が、さらに地下へ移すよう勧めたんです。たいてい、お鎮めが必要になると浄い場所へ移すしかなくなるので」

「地下が、浄い場所なんですか?」

「それが一番簡単なんです。こつぱいが染み込んでない場所は、東京では少ないですからね。ほぼないといっていい」

「こっぱい?」

 とつになんのことかわからず聞き返した。

「はい」

 芳夫のほうは、知っていて当然というようにうなずき、右へ曲がって二人とともに一礼して進んだ。

 こっぱい? 光弘も一礼してついていき、なんですかそれは、と尋ねようとしたが、立て続けに右へ曲がり、そのたびに全員で黙礼するせいで訊き損ねた。

 当然ながら、どんどん通路が短くなっているのだ。

「次で到着です」

 芳夫が言った。右へ折れた回数を数えていたのだろう。

 果たして、その曲がり角が最後だった。

 そしてそこへ辿り着いたとたん、

 ──座敷牢?

 その言葉が光弘の脳裏に、ぽんと浮かび上がった。

 座敷牢など見たこともないのに、反射的に連想したのだ。いや、時代劇か何かで見たことがある気もする。なんにせよ、それは太くて染みだらけの木の格子に閉ざされた、八畳ほどの薄暗い部屋だった。

 木の格子の一部にちようつがいと錠がついており、屈んでくぐるような背の低い戸になっていた。そしてその戸から、フラッシュ・ライトとほうきを持った男性が出てきて、ぞろぞろと現れた芳夫たちとまぶしい光を向け合いながら、ぎょっとした声を上げた。

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