第14話
光弘は、結局その通りにした。
ただし、総合病院に電話をして予約を入れたのはチームの連中と昼食を取りつつ情報を交換したあとだった。驚くべき体験をした光弘の話を誰もが聞きたがったせいで、早めに退席するタイミングを逸してしまったのだ。また、実際に病院に行く前に、過去の会計データから玉井工務店に関する項目を洗い出し、都内の路上生活者支援施設やNPOの情報を集め、どちらにも聞き取りのアポを取るという仕事があった。
コンピュータの検索機能と、インターネットのおかげで情報収集がたやすい時代になったとはいえ、これまで縁のなかった世界とあって、何から調べれば確実な手掛かりに辿り着くか、いまひとつ確信が持てないまま、プリントアウトしたデータの束を鞄に突っ込んで会社を出た。竹中や仲間に一言挨拶したいところだが、危機管理チーム全員が社外を駆け回っている最中で、本社にいたのは自分一人だった。
総合病院で、予約を入れたにもかかわらず長々と順番を待っている間、プリントアウトしたものに目を通すことにした。
予算のデータから見始めたのだが、設備費とか加工費といった、抽象的な項目に隠れているものの明細の内容に呆気にとられてしまった。
たとえば東棟の建設現場では、神事用装飾費として一千万もの予算が割り当てられていた。どうやら神棚や
祭祀場の設備工事費の全体として、さらに計二千万ほどかかっている。あの裸電球を四隅に取りつけただけの空間を作るのに、二千万もかかるのか? 八十年以上前の工事だと言っていたのに? さらに
東棟が特別なのかと思ったが、都内で行われた過去の「地鎮祭」や「祭祀関連」の費用はどれも目をみはるほど高額で、数字上のミスとも思えなかった。
もしかすると会社の税金対策か何かかもしれない。まさか、公になると困るような金の流れとか? そんな資料をうっかり社外に持ち出してしまったのかと思うと、現金の束を剝き出しで持っているような不安と緊張を抱かされた。光弘は自宅でゆっくり目を通すことにし、全て鞄にしまい込んで胸に抱きかかえるようにした。
早く家に帰って
今は産休中だが、本社の経理部に勤める美世子であれば、こうした経費がどの程度、常識的なものなのか──あるいは文句なく非常識なものなのか──判断がつくだろう。
しばらくして検査を受けたが、喉が腫れていることのほかには目立った異常はないとのことだった。脳のCTも肺のレントゲンも心電図もとってもらえた。ひと足早い健康診断といったところだ。
おかげで予想の倍以上も時間がかかってしまい、薬を処方されて帰路についたときにはすっかり夕方で、まだ雨が降っているせいで薄暗かった。
地下に下りる前に美世子の携帯に電話をかけた。今から帰ることを告げると、娘が「さえちゃんがパパのお好み焼きを焼くからね!」と歓声を上げるのが聞こえて思わず微笑みがこぼれ、一刻も早く家に帰り着きたい気分にさせられた。
いそいそと階段を下りて地下鉄の改札を通過し、ホームに下りたとき、だしぬけに違和感を覚えた。首筋がちりちりし、勝手に心臓が早鐘を打ち始めた。
あの穴がある。すぐ近くに、あの呪わしい穴がある。理屈を通り越した思念に襲われ、気づけば地下鉄トンネルの丸い穴の奥にわだかまる暗闇から目が離せず、額にぶわっと汗が浮かぶのを感じた。
やめろ。恐怖症みたいになっているぞ。光弘は自分に命じて、のろのろとホームの縁から遠ざかり、壁に背を当ててなるべく光を浴びるようにした。どうやらあの穴に下りたことで恐怖のスイッチが頭の中に出来上がってしまったらしい。絆創膏を貼った右手で額を拭いながら、ゆっくりと深呼吸をして自分を落ち着かせた。
お父さんも怖くなったりするの?
子どもの頃に口にした質問がよみがえった。
高い場所や、真っ暗な場所で工事をするとき、怖くなったらどうするの?
数を数えながら、ゆっくり深呼吸をするんだ。父さんの場合、ちょっと落ち着いてきたら、家族の名前を心の中で唱える。それでもう大丈夫だ。
神様とかにお祈りしたりしないんだ?
父さんにとって、母さんやお前の名前がそうなんだよ。神様からもらったお守りみたいなもんなんだ。
明るく朗らかだった頃の父はそう言った。
美世子。
車内に入るとドアのそばでポールをつかみ、それに体を押しつけるようにした。真っ暗闇の中へ入っていくぞ。そう思い、頭の中でまた恐怖のスイッチが押されるのではと身構えた。だが電車が発進しても心臓が早鐘を打つことはなかった。暗いトンネルを列車が猛スピードで進んでいくのを──忌々しい何かが遠ざかっていくのを感じた。
ポールを握りしめていた右手の傷がずきずき痛んだ。ゆっくりと手から力を抜きながら、光弘は深い安堵の溜め息をついた。
5
「はい、どーぞ! おめしあがりください!」
咲恵が、彼女の最新の流行語を発しながら──小学校入学前の春休みに箱根の旅館に泊まったときに覚えたのだ──ソーダの缶を両手で持ち上げ、光弘のグラスに中身を流し込んでいった。
「はい、ありがとう、咲恵ちゃん」
光弘はグラスを掲げ、口をつけて飲む真似をした。すでにソーダは四杯目、腹の中には美世子に手助けされて焼き上げた──咲恵はお腹の大きなママのために自分一人でやったと主張している──お好み焼きという満腹まっしぐらの料理が丸ごと一枚分は詰まっていた。あちこち焦げたり、生焼けだったりもしたが、もちろん文句なく美味だと断言できた。
咲恵が温かな生地にソースで「にっこりマーク」を描き、その周囲にマヨネーズで「おほしさま」を配置し、仕上げに鰹節をかけてそれらがうねうね動くさまを、ムーミンのキャラクターにかけて「ニョロニョロ」と称するのを、美世子とともに見守る間、だいぶ空腹に耐えねばならなかったが、三人で二枚半も平らげたのちは逆に満腹責めだった。
「はい、どーぞ!」
飽くことなき咲恵のおかわり攻撃に、KO寸前の光弘に代わり、美世子が待ったをかけてくれた。
「咲恵ちゃん。パパは、もうお腹いっぱいですよ」
「やだあ、はい、どーぞ!」
「ママよりお腹大きくなっちゃうでしょ」
美世子がそう言うと、咲恵が目をぱちくりさせてソーダの缶を置き、椅子の上で身をよじって光弘のお腹を覗き込もうとした。
光弘は、とっくにスーツとワイシャツを脱いでシャワーを浴び、Tシャツと室内用のズボンに着替えている。椅子の上で体をずり下ろすようにし、
「ほらこんなにお腹いっぱい」
Tシャツの上から腹を叩いてみせると、咲恵がけたけた笑って椅子からぴょんと降りた。
「咲恵ちゃん、お椅子に座って!」
美世子の制止をよそに咲恵は光弘の膝の上に身を投げ出すようにし、一緒に腹を叩くというより、小さな手でぐいぐい押してきた。
「苦しいよ、咲恵ちゃん──」
光弘は耐えられず、大きなげっぷをしてしまった。咲恵がぴたりと手を止め、光弘が何をしでかしたのか、しっかり確かめようというように顔を上げた。
「やだあ、パパ」
美世子が笑った。光弘は人前でやらかしたのが本日二度目だということを思い出しながら、口元を手で押さえ、目をぎょろっと上へ向けて、ばつの悪さを示した。すると咲恵がまたけたけた笑い出し、「やだあ、パパ!」と美世子を真似て一緒に笑った。光弘も口から手をどかして笑いながら咲恵を抱き上げ、「ほら座りなさい」と言いながら椅子の上に乗せた。
そのとき、だしぬけに家族の
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