第一章 いざ妖精界へ
引越しの準備は滞りなく進んでいった。というよりは、持っていけるもの自体が少なくほとんど荷造りをする必要がなかったというべきか。ただ長期間自宅を留守にするため、持って行くことができない物は外交省が手配した場所で保管される。結局ほぼ全ての物品の許可などおりず、これだけはとどうにか死守したスマートフォン以外は衣類と消耗品がほとんどであった。しかも電波など無いのだから、スマートフォンもただの思い出箱でしかない。充電も使い切ってしまえばそれまでだ。
それでも、人間界とのつながりをかすかに感じられるものが欲しかった。完全に断絶されたと思うのはあまりにも辛い。
気がつけば家の中には大型家具だけが残され、大変だった入学までの期間を考えればあっけないと思えるほど早く退学処理も終わっていた。衣類や日用品はまとめて専門の引越し業者が配送すると言われ、引越し当日ハンドバッグひとつの状態で家を出た。まるで由佳とマックで駄弁る時みたいだなんて思いながら玄関扉に俊一が鍵をかけるのを見ている。残念ながら、今から行くのは駅前のマックでもスタバでもなく、人間が自分達以外存在しない妖精界だ。
「どうやって行くの?」
「迎えが来ることになってるんだけど……」
俊一が答えるとほぼ同時に、車のエンジン音が近づいて家の前で止まった。スーツを着た物々しい雰囲気の男が運転席から降りてきて、一礼する。
「おはようございます。南風野大使、お迎えにあがりました」
「やあ谷田君。おはよう、お休みの日なのにありがとうね」
「お気になさらず」
俊一の部下らしい。お辞儀をしながら紬はその男の顔を見上げる。自宅ではどちらかというと発言権もあまりない柔らかな印象の父親が、こうして上司として扱われているのは純粋に面白い。男は緊張した面持ちの紬を見てやや表情を緩めると、後部座席のドアを開けた。
「では行きましょうか」
「どこまで行くんですか?」
乗り込みながら思わず訊いた紬に、谷田は小さく頷いて答えた。
「山です。いや——野原に近いのかもしれません」
そうして全員が乗り込むと、車は滑るように走り出した。
しばらく車内に沈黙が蔓延していたが、どこに行くのか興味津々で車外を見ている紬になにか思うところがあったのか、矢田が誰に話すともなく話し始めた。
「妖精界との繋がりは、昼と夜の時間が対等になる日に最も強まります。それが今日、春分の日とそれから秋分の日にあたります。ですので、必然的に引っ越しもこの日になってしまって、お嬢様にはご負担をおかけしたのではないかと」
「あ——そっか、なるほど」
中途半端な時期に、と思ってはいたがちゃんとした理由があるらしい。谷田の言うご負担、というものが学校に関するものだろうと判断して紬は頷いた。それならちゃんと説明してくれ、と助手席を睨みつけると、俊一が困ったように眉を下げる。
「ごめんな、なんか言い訳がましくなるかなと思って言いづらかったんだ」
「そういうことは、きちんとお伝えされた方がいいかと思いますが」
「谷田さんの言うとおりだよ。それ必要情報じゃん」
別に訊いたからといって納得できるわけではないが、それでも理由を知っていると知らないとでは気持ちも変わる。あと十日通えば終業式だったのに、とずっと思い続けることもなかったのに。
「彼らは自然を好みますので、このまま山間の指定された場所まで行きます。夜の舞踏会に紛れ込んで、そのまま会場内のサークルから妖精界に入れば問題ありません。私は入ることができませんので、その場でお見送りとなりますこと、ご了承ください」
「ダンス……?」
「春分の日は彼らにとって大切な日でもありますから、祭りのようなものと捉えていただければよろしいかと」
踊る必要はございませんよ、涼しげな瞳とミラー越しに目があって心の内を見透かされたようで紬は下唇を噛んだ。うっかり踊らなければならないのかと思っていた。
「しばらく走りますし、場所もわからなくなると思いますが、サークルの場所は他言無用でお願いいたします」
「あら、そうなのね」
残念そうに呟く裕子に谷田は笑いかけた。
「外交上の問題が起こる可能性がありますので、これだけはお願いいたします」
なあんだ。裕子が手元のスマートフォンを鞄に入れているのを片目で見ながら、母親も同じように手放せなかったのかと思うと少しだけ安心した。
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