第一章 今後の話をしようか②
「え、まじで? Wi-Fiは?」
「……無いと思ってほしい」
この現代で、Wi-Fiが届かない環境があるということがそもそも想像もできなくて、紬はしばらくその内容を頭の中で反芻した。何度噛み砕いても想像もつかなくて、冗談だろうとしか言えなくなる。だが俊一の表情を見る限り冗談とは思えなくて、生まれて初めてインターネットがない世界というものに直面するのだと思い知るしかなかった。その世界がどれだけ不便なのか、今まで考えたこともないので予測すらできない。
だがこれだけは確実に言える。
「……みんなと連絡取れなくなるってこと?」
通信環境さえあれば困ったときに相談もできるし、 時間を合わせたらビデオ通話で画面越しに会えると思っていた。たとえ知り合いが一人もいない場所に行っても、それほど疎外感を感じることもないだろうとも。それなのに、Wi-Fiどころか電気も通っていないなんて。大切な友人達との連絡手段も断たれてしまった。
「人間嫌いの妖精の中で、友達とも連絡とれないでひとりで過ごせっていうの」
あまりにも酷だ。
俊一がなにか言う前に、横から裕子が怒ったように口を挟む。
「こら。人間嫌いかどうかは会ってみないとわからないでしょう。勝手なことを言わない」
「教科書読んだんだよ、人間が信仰しなくなってキレて鎖国したんでしょ⁉︎ 鎖国やめた今でも関わって来ないし、人間嫌いじゃなかったらなんなの? 好きだったら出てくるに決まってんじゃん!」
「そりゃ人間嫌いな妖精もいるかもしれないけど、そうじゃない妖精だっているんじゃないの。会ってもないのに思い込むのは良くないと思うよ」
「どっちにしても、私が妖精と仲良くなれるなんて思えない!」
ばん! とテーブルを叩くと俊一がぴくりと眉をあげた。叩きつけた掌と同じくらいに顔が熱い。睨みつけた母親の目が吊り上がって、きっと自分もこんな目をしているのだろうと頭の片隅の冷静な部分でふと思った。くるくるとよく動く紬の瞳は母親譲りだ。
「先入観で話をするのをやめなさい!」
「ママはいいよね、学校も行かなくていいし仕事もないし! 友達なんかいなくても平気じゃん! 家にいるだけでいいんだもんね!」
あ、と思ったときには裕子の顔は引き攣ったまま固まっていて、これは言いすぎたと気がつくには手遅れだった。
「……ごめん」
咄嗟に出た謝罪の言葉だけでは母親の怒りを鎮める役目を持たない。そもそも怒らせた紬が悪いのだが、こうなると落ち着かせるのは俊一に丸投げするしかなくて、紬は気弱な父親に目を向けた。
「ママだって、今の仕事もやめないといけないし不安なんだよ、それをわざわざ言わないのは、パパの仕事のために我慢してくれているからだ。口に出さないからって平気なわけじゃない。それはわかるね?」
「——うん」
「相手の我慢に乗っかって自分だけが辛いんだって主張するのは、感心しないね」
「——ごめんなさい」
当たり前だ、もともと交友関係の広いタイプの裕子は、自治会の集まりで作った近所の友人達や、紬が幼少時からのママ友とランチや飲みに行くことも多い。今の仕事もパートとはいえ、好きなことを仕事にしていたことも知っている。
母親だって不安なのだと気づけるほど、紬には余裕がなかったといえばそれまでだ。しかし勢いで言っていいことにも限界がある。
「見えてるものだけが全てじゃないからね」
「はい」
俊一の落ち着いた声は静かな部屋にじんわりと広がって、ストーブの吐き出した熱と混ざり合い紬を包む。頭にのぼった熱がそこに滲み出していくように冷静になっていく。
ちらとリビングに目を向けると、部屋の隅にCMでよく見る引越し業者のロゴが大きく描かれたダンボールの束が置かれている。きっと裕子が仕事から帰ってきてすぐに引っ越すための手配をしたのだろう、三月のこの時期は引っ越し業者の予約が取りづらいことはさすがの紬でも知っている。責めるのも八つ当たりするのも間違っているのだと思い知る。紬は引っ越しを告げられてから、家族のことなんてひとつも考えていなかったのだから。ただそれを子供だからという理由で黙認されていたということに気が付けないほど、子供すぎるわけではない。
ダイニングに充満した沈黙は、裕子の小さなため息で破られた。
「まあ、いいわ。とにかく引っ越したら人間は私たち家族しかいないんだから、どうにかやってくしかないのよ」
「うん」
「何言ったって避けられないんだから、なるべく楽むしかないのよ」
裕子の言うことは正しい。どう足掻いても行くことは決まっていて、どうしようが覆ることなどないのだ。けれど今日、部室で友人達と読んだ歴史や情報がどうしても脳裏をよぎってしまって、どうしようもなく不安だった。
楽しむなんて、到底できそうもない。
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