第一章 いざ妖精界へ②

「あっ、ちょっとそのへんで停めてもらえますか」

 車が駅前通りに入るタイミングで、紬は谷田に声をかけた。

「お忘れものですか?」

「買いたいものがあって。すぐ終わります」

 車が路肩に停まると同時に車を降りて、目当ての店に飛び込む。数分もかからず目的のものを持ち車に戻ると、裕子が呆れたように紬の手元に目をやった。

「こんな時に買いたいって言うからなにかと思えば……」

「なんでよ。こういう時だから飲みたくなるんじゃんl

「だいたい、あなたそんなにタピオカ好きだった?」

 紬は黒い水玉が泳ぐミルクティーをストローで吸い込んだ。久しぶりに飲むそれは、やたらと甘くて胸焼けしそうだ。

「……別に。でもしばらく飲めないのかなって思ったら、なんとなく」

 車は再び走り出した。

 

 次第にビルが減り視界が開けて、そうこうしているうちに住宅よりも田畑の割合が増えてくる。そのまま走り続ければ、鉄筋コンクリートではなく山々が車を囲い始めてきた。調子に乗って一番大きなサイズを買った結果、完飲できないままドアポケットに入っているタピオカミルクティーの容器についていた水滴がすっかりなくなってしまう頃、谷田の運転する車は県道を外れて脇道にはいった。

 車一台通るのがやっとといった幅のその道は、舗装もされておらず微かに残った車輪の轍だけが行き先をかすかに示している。

「しばらく道が荒れますので、気分が悪くなったら早めにお伝えください」

 それだけ告げた谷田は運転に集中したいのか黙り込んでしまい、紬は立ち並ぶ木々を眺めながら激しい揺れに身を任せていた。もし気分が悪くなったと伝えたらどうしてくれるのだろう、とぼんやり思ったが、まず引き返すことはないだろうしビニール袋を支給されるのがオチだろう。乗り物酔いしない体質に感謝するしかない。

 そのまま悪路を進み続けることしばらく。薄闇が世界を包み込み、ただでさえ見づらい進路を認識するのが難しくなり、そして隣で裕子が「う、」と辛そうな声をあげ始めた時、突然視界が開けた。

「……着きました」

 流石に疲れたのだろう、谷田の声に安堵の感情がうかがえる。

「お疲れ様、助かったよ」

 俊一が労うように谷田の肩を叩いて助手席を降りた。続いてよろめきながら裕子が出て、その後を紬が追って、そして目の前に広がる光景に息を呑んだ。

「わあ、」

 柔らかな光の珠が漂う広場で、この世のものとは思えないほど美しい男女が踊っている。纏っているのは薄衣のような布のみだが肌は発光しているように眩く輝いて裸体が見えることもない。スピーカーらしいものは見当たらないのに、どこからかアイリッシュ音楽が聴こえてくる。見慣れない光景に圧倒されているのに、頭の片隅で無印にいるみたいだ、なんて考えていた。あまりにも現実味がなさすぎるのだ。

「こちらです」

 踊る妖精たちは踊っている彼等の間を縫いながら進む紬達を意にも介さない。その代わり配慮もしてくれないので、ぶつからないよう避けながら進むのが思いのほか大変だった。もう少し気を遣ってくれてもいいんじゃないの、と多少の不満を感じながら紬は裕子の後ろをついていくので精一杯で、次第に周囲に散らばる幻想的な光と妖精達のダンスを見る余裕もなくなっていった。相変わらずどこから流れてくるのかわからない音楽を聴きながら広場の中央あたりまで進むと、足元の感触が少し変わった。見ると小さな花が密集して咲いている。

「サークルを踏まないように気をつけてください」

 そう言われて目を凝らせば、なるほど細く伸びた花の集合体はおおきな円を地面に描いていて、紬は慌てて右足を浮かせた。今、少し踏んでいた気もする。

「このまま跨いでください、私はこれ以上は行けませんので、向こうに案内役の妖精を一人待たせていますのでこの後はその方を頼っていただくよう、お願いいたします」

 谷田は一歩後ろに下がって頭を下げた。少し気弱ではあるがいざというときには頼りになるこの上司は、前任の大使が姿を消したと発表があった際に動揺することもなく大使館への任務を受け入れた。ご家族はどうするんですかと問えば「僕の家族ならやっていけるから」と言いきる。それほど信頼される家族はどういうものなのかと思っていれば、どこにでもいそうな普通の女子高生が現れるものだから拍子抜けした。これが親バカフィルターか? と正直思ったがしかし決まったものは今更覆らない。自分の仕事はとにかくリングまで全員を運び切ることで、それ以上の干渉や心配は不要なものだ。しかも自信を持って言い切ったわりには、必要事項も伝えていないようでこの人らしいと呆れる。

「それでは。何かありましたら使いを出すようお願いいたします。ご家族の方も、どうぞお元気で。不明な点は南風野大使にお聞きになるか、あるいは向こうでの案内役へお願いします」

 頭を下げれば不安そうに目の前の少女の瞳が揺れる。大丈夫だと大使は言ったがやはり子供だ。見知らぬ土地で、友人との関係も断たれて不安になるのは当たり前だろう。

「お困りなことがありましたら、お父様にご相談くださいね」

 そう伝えれば小さく頷いて、そうして彼らはリングに足を踏み入れた。淡い光が三人を包んで、そして夜の闇に溶けてしまうときにはそこには誰もいなくなっていた。

 妖精達のダンスはまだ続いている。

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