第一章 彼女達の作戦会議①

 由佳が広げた教科書を覗き込んで、彼女達はめいめいが好き勝手に喋り始めた。

「いや教科書かい」

「これくらいならみんな知ってるよ」

「なんか他にないの?」

「ウィキのほうが役に立つんじゃん?」

 非難の声を一身に受ける由佳は怒ったように眉を釣り上げて、「だからぁ」と教科書を軽くポンと叩いた。驚くほど綺麗に使われているその教科書には、パステルカラーのマーカーが所々ひかれて丁寧な字で書き込みがされている。

「ウィキも見たんだけど、教科書とほとんど変わらなかったんだもん」

 結局、わかりやすく綺麗にまとまっていたのが世界史の教科書だったのだという由佳の主張に、「うっそぉー」とすぐさまスマートフォンを取り出した伊織が何度か画面をタップしてしばらく黙り込む。そしてあはは! と乾いた笑いを発した。

「ほんまや!」

「だから言ったでしょぉ」

 ごめんごめん、と次々にさほど心のこもっていない謝罪を口にしながら、改めて一冊の教科書に頭を寄せる。昼休憩のざわめきからも遠い小さな部室内で、彼女達の会話は漏れ聞こえる心配もなくて紬は密かに安堵していた。

 きっと夜の間に由佳から情報が回って、既に仲の良い友人達の中で退学の話が広がっているだろうと思っていたが、実際登校してみると知っているのは由佳ひとりのまま変わっていなくて、友人達は普段通りの挨拶を紬に返した。昨夜話したばかりの幼馴染に視線だけで問うと、軽く首を横に振る。本当に知らせていないらしいことに驚く紬のポケットが震えて、取り出した液晶画面には『ツムツムが自分で言いたいかなと思って』というメッセージが光っていた。普段から温厚で掴みどころがないのに、こういった気遣いに関しては人一倍長けているのを忘れていた。少しでも彼女が喋ったのではないかと思ったことが恥ずかしくなって、ごめん、と口元だけで伝えるとゆるくカールした髪を揺らしながら由佳は軽く頷いた。

 すぐに友人達へ言いたかったが、朝の短い時間に他クラスの友人も集めて話すには時間が足りない。焦れる心を抱えながら、午前授業をほとんど集中できずに過ごした。どうせ期末試験を待たずにやめてしまうのだ、という気の緩みが無かったとは言えないが。昼休憩が始まると同時に購買へ駆け込み、軽音同好会の部室に飛び込んだのだった。

「私、学校やめる」

 そう伝えたときの反応はさまざまだったが、

「妖精自治区に引っ越すんだって」

 と言った時には友人達は揃って「ええっ⁉︎」と驚嘆の声をあげた。

「妖精自治区って……あの妖精自治区?」

「どの妖精自治区があるのよ」

「いやだって……あの?」

「地方はどこぉ?」

「コーンウォール地方だったと思う……たぶん」

「イギリスかよ! 日本ですらないじゃん!」

「妖精本場じゃんうける」

「うけない」

「いつから?」

「二十一日からって言ってたから、よく分かんないけどその前には引っ越すんじゃないの」

「前任の人どこいったのかな」

「知らない、消えたんじゃない」

 そこまで答えたところで、伊織が怪訝そうに眉を顰めた。

「なんか全部曖昧じゃん?」

「仕方ないでしょ、昨日それでパパと喧嘩してそのまんまだから。あんまり聞いてない」

 友人達の「ああー」という納得ともため息ともつかない声に紬は黙り込む。朝目覚めると父親は既に不在だったし、母親もパートの早番だからと家はすっかり無人になっていた。昨夜のことを考えると両親に会わないで済むのは正直気が楽だったけれど、そのかわり今後について詳しく聞く機会を逃したのは否定できない。今夜ちゃんと話をしなくては、と思うが気は重い。

「紬ちゃんは、妖精見たことある?」

「さすがに……いるのは知ってても見たことはないな」

「うち、妖精いるよ」

 当たり前のように手をあげた莉子に、質問をしたさくらは目を剥いた。本来ほとんど目撃することもない妖精を、見たことがあるどころか家に住ませている人が身近にいたことが信じられなかった。

「うそ、まじ?」

「知らなかったんだけど!」

 非難に近いその声に莉子は肩をすくめる。別にそんな珍しいことでもないといった口調で、

「だって言ってなかったし。ばあちゃんにあんまり口外すんなって言われてて」

「何がいるの? エルフ的なやつ?」

 ほぼ接することがない生き物なだけに、得られる情報は貰っておきたいのが正直なところだ。紬は莉子に顔を寄せた。廊下をばたばたと駆けていく足音と笑い声が近づいてすぐに遠ざかっていった。

「違う違う、妖精ってくくりになってるけどいわゆる妖怪だよ。櫛の付喪神で、ひいばあちゃんがそのばあちゃんに貰った櫛が付喪神化しちゃって」

 紬の食いつきにまずいと思ったのか、慌てて莉子が訂正するように謝った。妖精といっても地域差が大きく、日本に多いのは元来妖怪と呼ばれていた者達だ。『人外』でありながら人間とコミュニケーションを取るための言語を操り、しかし人が持たざる能力を持つ、ある程度の知能のある生き物を総称して『妖精』と呼んでいる。能力や見た目、人との関わり方も地域によって違いが大きいので自治区を分ける必要があるのだ。

「なぁんだ、日本自治区の妖精か」

「ウチのはおとなしくて、大切にした結果出てきた子だから、もうペットみたいになってるかな」

「えー、そういうもん?」

「そういうもんだよ。朝に髪といてくれる子なんだけど、ウチこれじゃん?」

 ワックスによって重力を無視している、ベリーショートの髪を指さす。

「無理じゃん? だからばあちゃんと母さんの世話してるかな。あとゴン」

「ゴンってアンタんの犬じゃん」

「長毛種だから毛が絡まるんだよね。めっちゃ助かる。ブラッシングいらず」

「ひでえ」

 四畳半の部室内にかしましい笑い声が満ちる。由佳と同じようにそれほど重い空気にしないようにしてくれているのが、彼女達の優しさだということはよく分かっていた。だから同じように深刻ぶらないようにしなくてはならない。紬は全く口をつけていなかった焼きそばパンを口に含んだ。入学した五年前には既に指摘されていたのに全く改善される気配のない、濃すぎるソースの味が広がる。

「——やだな、やめるの」

 喉に詰まりそうなそれを飲み下すと同時に、ぽろりと飲み込めなかった言葉が口から零れ落ちた。言葉に出すと現実味が突然押し寄せて、言葉じゃなくて涙がこぼれ落ちて、

「やだぁ」

 繰り返すたびに止まらなくなって膝に顔を埋めた。鼻を啜る音が少しずつ増えて、昼休憩終わりのチャイムが鳴りはじめても誰も動かなかった。

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