第一章 溶けたアイスと学校生活②

 パーカーの袖口でぐいと目元を拭うと、ひりりとした痛みが走る。そのままベッドへダイブして、躊躇いもなくスマートフォンを取り出しアプリを起動した。通話ボタンを押してスピーカーをオン。枕にそれを放り投げた。機械的なコール音が三回聞こえて、それから「はぁーい」とやや気の抜けた声。たった数時間前まで聞いていた声が耳に届くだけで、さっきまでの事が嘘だったように思える。紬は鼻を啜りながら少しだけ口元を緩めた。


「えっなに? ツムツム泣いてんの」

「だからその呼び方、やめてって言ってるじゃんかぁ」


 慌てたようなクラスメイトの声に涙まじりの声で答えながら、枕元のティッシュを取り鼻をかむ。「うわ汚っ」電話口の抗議の声は聞かなかったことにした。一呼吸おいて、少し気持ちも落ち着く。


「あのさ由佳」

「なにぃーどうしたの」

「私、学校辞めるわ」


 一瞬の沈黙。もしかして由佳も泣くのでは? と紬が不安になったタイミングで、ええーともうわーともつかない声が漏れ聞こえてくる。


「なに? いきなり冗談言うのやめてよ。転校じゃなくて辞めるって、芸人にでもなる気?」


 そうだった、この友人はこういう人だった。涙が一気に引いていくのを感じて、思わず漏れたため息は隠す暇もなくスマートフォンに吸い込まれていった。


「冗談じゃないし、芸人にもならない」

「ツムツムは芸人より歌手の方が向いてると思うんだぁ。あっ、もしかしてユーチューバーになって歌い手としてやってくの? すぐ有名になりそうだしそっちの方が向いてるよ。でも学校は出ておいた方が良いと思うんだよねぇうちの学校、けっこう入るの大変じゃん? せっかく入学したんだし、卒業まであと一年ちょっとくらいは我慢したほうがいいよぉ。大学にも行っといた方がいいと思うけど、こればっかりはツムツムの進路のことだし私が口出すことでもないよね」

「由佳、聞いて」

「ていうかご両親はそれオッケー出したの? ツムツムのご両親、優しいけどそこまでは緩くないっていうか……最近の親ってそういうの気にしないのかなぁ、うちはたぶん、大反対されるだろうなぁ頭固いんだもん」

「由佳!」

「えっなにビックリした」


 びっくりしたのはこっちだ。何も聞かないまま想像だけで芸人から歌手を経て歌い手YouTuberになる話でまとまるとは流石に想像していなかったし、おまけにそのどれも当たっていない。それでも紬の気持ちは随分軽くなっていて、友人の突拍子のない会話が今いちばん欲しかったのだとようやく実感する。


「あのさ、パパの転勤で学校辞める。で、妖精の国に引っ越すらしい」

「えっ……まじ?」

「まじ」


 なんて言われるだろうか、随分と昔に国交を断ちようやく最近になって人間と再び交流を始めたばかりの国に引っ越すことを、彼女はどう捉えるのだろうか。息をするのも忘れて由佳の返事を待つ。顔をあげるとカーテンが開きっぱなしの窓越しに夜空が見える。住宅地なのでそれほど星は多くないが、それでも小さな光がちらほらと散っている。妖精の国の夜空は、同じように見えるのだろうか。


「あのさ、」

「うん」


 由佳の声に応える。紬は無意識に袖を握り込んだ。


「妖精の国ってWi-Fi 飛んでんの?」

「……あは、わかんない」

「ちょっとなんで笑うのよ」

「いや、なんか思ってたのと違った」

「いやだってさぁ、連絡取れなくなっちゃったら寂しいもん」


 その言葉にうん、と返しながら現実味のない寂しさにふいに囚われる。こうしてすぐに連絡がとれるなら、なんとかやっていける。でも、もしWi-Fi どころかネット環境もなかったら? 誰とも連絡が取れなくなるということだ。こうして悩んだときに相談する相手もいなくなる。そんなこと考えたこともないし、想像もつかない。


「数世紀前の価値観っていうけど、ネットくらいあるでしょ」


 言い聞かせるように返すと、そうだよねぇと安堵したような声が返ってきた。彼女なりの、寂しさを紛らわせる方法だったのかもしれないなと思う。


「ちょっと私も調べてみるねぇ。歌い手とか芸人じゃなくて、ほんとよかったぁ」

「だからなんで」


 芸人と歌手と歌い手YouTuberになるのと、妖精の国に行くことは由佳にとっては前者のほうが大事件らしい。判断基準が全く分からない。ひとしきり二人で笑った後、お互い「また明日」と言って通話を切った。


 いつの間にか日付が変わっていて、話し声のしなくなった部屋はいやに静かに思える。それでも電話をかける前に比べると気分はいくらか良くなっていて、転校や引っ越しの不安も、どうにかなるかと思える程度に落ち着いていた。


 一階の様子を伺うと両親は既に就寝しているようで、音を立てないように階段を降りてリビングを通り抜け洗面所に滑り込む。床に垂らしたアイスは拭き取られ、ストーブの上にも何も置かれていなかった。全て元通り。

 紬はミント味の歯磨き粉を捻り出しながら頷いた。大丈夫、多分思っているより生活は変わらないはずだ。

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