南風野紬はおとぎ話を信じない

久慈川栞

第一章 溶けたアイスと学校生活①

 辞令

 

 三月二十一日付けで、貴殿を外交省人外局局長の任から解き、同日付けをもって、コーンウォール妖精自治区大使館大使へと任命する。

 今後のますますの活躍を期待する。

 

 

 ひらり。と目の前に突如提示された一枚の紙をちらと見やり、すぐに手元のバンホーテンアイスに目を落とした。まだ寒さの残る三月初旬だというのにショートパンツを履き、熱風を吐き出すストーブの前で三角座りをしてアイスが最適な硬さになるまで溶けるのを待っているので、それどころではなかったのだ。彼女にとっては最高の状態でアイスを食べることが今一番大切なことで、帰宅したばかりの、あまり家庭内で発言権があるとは思えない父親が提示した一枚の紙の価値はそれを大幅に下回っていた。


つむぎ、これなんだけどな、」


 南風野はえの俊一しゅんいちは垂れぎみの眉をさらに八の字に歪めて、ひどく遠慮がちに話し始めた。そのまま数拍、黙ったまま待っていたが、自身の娘に顔をあげる気がないことを確信して、小さく肩を落とす。しかし年頃の娘のその態度はいつものことである程度諦めていたし、だからといってこの事を伝えない訳にもいかない。息を吸って、吐いた。この後、自身の娘がどんな反応をするのか考えただけでも、胃がキリキリ痛んでトイレに駆け込みたい。


「ここに書いてあるとおり、二十一日から妖精自治区に異動になったから」

「ふうん」


 いまだ。紬はアイスにスプーンを差し込んだ。程よい柔らかさと抵抗があって、今こそ食べるべきタイミングで間違いない。完璧だ。思わず口元が綻ぶ。この、固体と液体のちょうど真ん中にいる魅惑の食べ物を掬い上げて口に含むまでの時間が一番好きなのだ。ここからは時間勝負になるけれど。とろりとしたそれを持ち上げて、そして——


「だから、紬は今週で今の学校を辞めることになるからね」

「はぁッ⁉︎」


 想定外すぎる父親のその一言で、アイスはぼたりと床に落下したのだった。ここでようやく顔を上げた紬に、俊一は困ったように笑った。


「あのね、うちは妖精の国に引っ越すことになったんだ」

「ちょっと待ってよ! そんなん聞いてないんだけど!」

「そりゃあパパも今日聞いたんだもん。引越しまであんまり時間がないから、しばらく忙しくなるけど……頑張ろうね」


 だもん、じゃない。五十路のオッサンが「だもん」とか使うな。

 言われた事をうまく脳内で処理できず、手に持っていたカップをストーブの上に置き立ち上がって、紬は父親の持つ白い紙をひったくるように奪い目を走らせた。先ほどまではなんの価値もなかったその紙切れに、人生計画をすっかり変えかねない内容が書かれているとは信じがたく、ただ何度読んでもその内容は変わらず紬の学校生活の終わりを告げていた。


「わ、私がどれだけ頑張ってあの学校入ったと思ってるの」


 それなりの進学校で、小学生の頃から必死に勉強して中学受験を乗り越え入学したのだ。授業のレベルも高く入学後も気は抜けなくて、少しでも油断すると授業に置いていかれる。友人達に遅れを取らないよう、でも飛び抜けて周囲から浮かない程度に努力してきたというのに。たった二行の文章によって、あっという間にそれら全てが泡となって消えてしまうなんて。

 そうだよなあ、俊一の声に申し訳なさそうな色が混じって一瞬後悔したけれど、ただこれは紬も当事者になるわけで、なかなか「はいそうですか」なんて言えるわけもない。妖精自治区に引っ越すということは容易に戻ってくることもなくなるということで、交友関係もほぼゼロからだ。中学から一緒の友人達と簡単に会うことは今後できなくなるだろう。抵抗しても結果が変わることはないのは分かっていたが、それでもできる限りの抗議の声をあげたくなるのは仕方ない。

 困ったように黙りこくった俊一に、追い討ちをかけようと口を開いたところで、風呂上がりの母親がリビングに顔を出した。タオルドライしただけの髪から水滴がおち、肩に染みを作っている。


「紬、友達のこともあるし、寂しいのもわかるけど。でも前から言っていたことでしょう、パパにあんまり言わない。パパだって初めての場所だし不安なんだから」

「そんっ……わかってるよっ、それくらい……」


 確かに、父親が外交省人外局局長に就任した時点で、いずれこの時が来るだろうとは両親から耳にタコができるほど聞かされていた。それはわかっていた、はずだ。それでも実際、それが現実となって降りかかると冷静に受け入れることは難しい。それに前おきが欲しい。ある程度、いや今が前置きなのかもしれないけれど。あと二週間で引っ越しだなんて、あまりにも急すぎる。

 紬は下唇を強く噛んで俯いた。バニラアイスが液化して床に白く伸びている。ストーブの熱風を受け続けた足が熱くてじんわりと痛んだ。


「わかってるけど、さあ、私も、そんな、だって、」


 続きがうまく出てこなくて、でもすぐに納得することもできず、頭の中を仲の良い友人達が浮かんでは消える。顔をあげるとぼやけた視界に父親の困惑した顔が歪んで見えて、今泣くところなんて見せたくない。父親が困るからというわけではなく、プライドが許さない。どうしようもなくて、でも何も言えなくて、紬はリビングを飛び出し階段を駆け上った。頬が冷たくて、それは濡れているからか飛び込んだ自室の空気が冷えているからなのか、紬にはわからなかった。

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