Oppression et Pesanteur ―― 抑圧と重力
一週間後、僕は「抑圧ト重力ノ幾何學」を読み込み終えた。もっとも〝厳重閉架書庫〟で管理される図書は総て帯出禁止であり、ではどうやって読み込んだのかと言うと僕があの日〝博覧強姫〟野宮和子によるヒプノセラピーを受けた後に寝転けている間、野宮が撮影済みのマイクロフィルムを焼き込んでUSBメモリに入れたものを用意してくれていたからに他ならない。
「……で。手掛かりくらいは掴めたのかの?」
相変わらずあのソファの上で、野宮は如何にも退屈そうにペットボトルの紅茶を飲んでいた。まぁ差し入れとしてはいまいち気が利かないかも知れないが、それ以外に何も手土産がないのにわざわざ、旧図書館くんだりまで来たりするわけがない。
それとあの司書教諭は旧図書館の主の正体、即ち野宮自身のことについて気になるらしく、今日も頻りに訊ねられたのだが適当にあしらった。興味が有るなら自分で赴いては如何ですか、と。それに対する返答が「それが出来るなら苦労はせんさ」と言う捨て台詞と正反対の意味を含んだ微笑だ。大した曲者である。
まぁ、その読解には、随分と難儀した。
まずフロランス・アンリエット・ベルティエと言う原著者とされた人物は、本当にシモーヌ・ヴェイユと交流が有ったかどころか、最早実在性さえ揺らいでいる。F・H・ベルティエは確かに存在したようだが、それが日本人かフランス人かは、ギュスターブ・ティボンのように明確に哲学史上に名を遺した人物でない以上特定は出来ない。そのくせ文語体で正字体にカタカナで書かれていて、戦後社会にどっぷり頭の天辺まで浸ってしまった僕にはスラスラと頭に入ってはこない。
更にはどうにも歴史上辻褄の合わない研究成果が顔を出している。ファイバー束もそうだが、シモーヌ・ヴェイユの薫陶を受けたと言う設定に対する明らかな矛盾点は、明確にクライスリトリプルによる可換図式を用いている点。それらの矛盾が「抑圧ト重力ノ幾何學」と言う書籍の難解さを増していた。
いったいこの本は何時、誰が、何の目的で世に放った。数学の理論として破綻していないところが謎を加速させる。これがもっと荒唐無稽の出鱈目三昧だったら、性質の悪い悪戯だと言い捨てるしかないが、そうではないところが腹が立つ。これが竹内文書や東日流外三郡誌並みのいい加減さだったらどれだけ良いことか。
「……ふむ。随分と怪しいのは間違いなかろう。して『抑圧と重力』の幾何学とは、何を
具体的に言えば、フロランスの言う「抑圧と重力の幾何学」とは、シモーヌ・ヴェイユが個別に理論化した「抑圧と自由」に「重力と恩寵」、その互いの対概念である自由と恩寵と言う救済手段を、現代の言葉で言うならば導来圏として二つの関手の合成と見做すことで構築される高次圏間の随伴関手だと言う程度のことでしかない。だが、その前提と定義、そこから自然と導出される公理系は、定理として多くの豊穣を齎すだろう。
だが、フロランスはその点については言及していなかった。
つまり彼女の――フロランスのことを指して言っているが、その名前から女性だと仮定しているだけだ――数学的学識の中に、まだ明確な形で圏論は存在していなかったにも関わらず、彼女は恐らくソーンダース・マックレーンも腰を抜かすほどの大胆さで、未完成の圏論を自在に駆使した上で「抑圧と重力」と「自由と恩寵」の合成はモナドであると述べている。
「いったい誰なんだろうな、フロランスって言うのは。確かにマックレーンは、ライプニッツが哲学のコンテキストで定義した〝モナド〟と言う用語を借用した。エウジェニオ・モッジは圏論から〝モナド〟の概念を計算機科学に借用し、フィリップ・ワドラーはプログラミング言語Haskellによって計算機科学と数学、そこから哲学までリーチを掛けた」
ふんと一つ鼻を鳴らして、野宮がペットボトルを口から離す。
「つまり『意識』とその『奔流』とは、抑圧と重力を基底としたConscience圏と、その自己同型を保存する反変関手であり、その反変関手こそが『感情』じゃと言うのであれば、確かに解析学としてのパースペクティブに於ける葉層構造上の、シンプレックス多様体の加群が成すコホモロジーの圏に辿り着けるかのう」
しかし、と野宮が一言間を置くと、彼女はソファから立ち上がった。
「問題は記憶じゃ。厳密に言えば『記憶と記録』、それは『抽象と具体』の対概念だと言うこともできようことはぬしも知っておろう。じゃが、問題は『抑圧と重力』をどうやって紐付けるか、同じ多様体上が基底するベクトル空間でもあるまいし、どうやって変換すると?」
そう、問題はそこに集約する。まぁ、だから最初の手掛かりは確かに得られた、しかしその真上を見上げれば絶望するほどの高さで屹立する岩壁である、と言うことが判明しただけであって、その道程はまだまだ僕らの遥か高見に存在する。遠くて、見えない。
……………………
「……思えば、そうじゃのう」
野宮は溜息を吐きながら、青白い虚空を仰ぎ見た。
「ぬしよ。これは余のただの戯言じゃと思うて聴いておけ。聴きながら、余に付いて参れ」
そう言って彼女は、乱暴に制服のジャケットを脱ぎ捨てた。
「よせよ、野宮。幼女のストリップなんてヨーロッパの人権団体が飛んできたら、僕は火刑に処される」
「誰が幼女じゃ、それにぬしにわざわざこの玉体を見せようなどと思うておらん。ブラウスは汚れてもクリーニングに安く出せるが、ジャケットはちと高い。汚したくないだけじゃ。あと、ぬしの冗談は些か性格が悪いし笑えん。アグネス・チャンでも口封じしてから
口では不機嫌だが、
「思えば余らは――いや、あの日人工冬眠から覚醒した時より余は、ずっと抑圧と重力の中におった。気が付けば、そこから脱出することさえ考えることを止めた。それは一種の思考停止であったことは認めざるを得ん、じゃが余はここに与えられた知識だけで事足りておった。それで余は〝博覧強姫〟になれる、そう思い込んでおったのじゃ」
野宮がゆっくりとローファーの歩みを進める先は、旧図書館全体を薄っすらと覆っている普段の青白い空気の色が薄く、視界として薄暗い影を落とすカウンターの奥だった。
「じゃが、そろそろ余も恩寵を受け容れて良いのではないか、そう思うた」
「恩寵だって? そんなもの、本当に実在すると思っているのかい?」
「思っておらなんだよ。じゃが、実在したのじゃから否定はできまいて。ぬしよ、ぬしこそが余に与えられ給うた恩寵そのものと言うて差し支えないのじゃ」
僕が野宮にとっての恩寵だと言うのは多少筋違いだと感じたが、なぜそう思ったのか、そう感じたのかを訊くのは流石に憚られるし、彼女も恐らくまともに返答を寄越さないことは想像に難くない。
「余はここにただ生きておれば、肉体的に老化することもない。栄養さえ供給されれば、余は死ぬこともない。勿論、この長きに渡って余は死ぬことを選べたが、それは出来なんだ。余はまだ真の〝博覧強姫〟足り得ぬ、余の知らぬことはまだまだ数多い。余が知り得ることは、凡人のそれとは比較にもならなんだが、学識の全体から見れば寸分の
カウンターの奥に、重厚な鎹を伴った鉄扉が有る。野宮はそこに自分のIDカードを当てると、僕がいつも新図書館からエレベータで降りて来て、最初に目にする鉄扉の反応のように、ただ色は仄かに赤みを帯びた桜色のような色で、一つも錆の浮いていない鉄扉表面に紋章が浮かんだ。
「――本当の〝厳重閉架書庫〟の扉が開くぞ。注意しておれ、何が起こるかは余にも解らぬ」
「そんな危険な領域になぜ踏み込もうとするんだ〝博覧強姫〟!」
「真実は暗闇の向こうにしかないからじゃよ――離れよ!」
野宮が僕の胸を強く突き飛ばした。もんどり打って鉄扉より後方に投げ出されると同時に、野宮も文字通り僕のほうへ跳んで来て、嘗てのカウンターを支え棒にして寄り掛かる。
「いったい何が起きようとしているんだ!」
「ここは学園の
――瞬間、鉄扉は全体から唸りを上げたかと思うと、僕らがさっき立っていた方向に向かって高速で押し開かれた。旧図書館全体が、いや、もしかしたら上の本館ところかキャンパス全体が揺れるほどの強い衝撃が、僕らの身体を一瞬で包み込む。
「……ふう、認証が通らなかったのかと思うたわ。それにしても聞きしに勝る乱暴な開き方じゃ、あのまま彼処に突っ立っておったら、今頃余らは扉と壁に不細工なサンドウィッチにでもされておったのう」
流石に些か動揺していたらしい野宮は、先程の衝撃波をもろに食ったせいか、少々足を震わせながら立ち上がる。重い足取りではあるが、確実に先程開いた扉の向こうへと歩を進めていた。僕も立ち上がろうとしたが、思いの外身体が重い。
「まさか……重力?」
「御明察。つまりこの〝禁忌書庫〟は、文字通り『重力』さえもその腹腔に収めながら、悠久の時を過ごしてきた学識の墓場じゃ。恐らくこの先には、辿り着くべき真実が存在する。己が目でしかと見よ、闇夜の向こうに灯明を照らせ、〝数学に囚われた男〟よ。ぬしは囚われてはならぬぞ、この向こうに存在する具体性に」
立とうとすると上から物凄い押圧が圧し掛かる。まるで自分の体重が一瞬で何倍にもなったように、思うに任せない。野宮はなぜ平気なんだ、いや平気ではないとしても耐えられるんだ。鉄扉が開け放たれてからすぐに、多くの紙片が長い時間を経て劣化した埃の匂いが鼻を掠めるが、少しも黴臭さを覚えない。
「そうか、窒素ガス充填……」
「然様じゃ。空気が、と言うか酸素濃度が薄く、気圧も低い。心して掛かれ、勝負は一瞬じゃ。その間にぬしは、遡及防壁に関する具体的な資料を探せ。あれは理事会が自分たちで見つけたものではない、何かしら外部から与えられた智慧を使うておる筈じゃ。抽象性の手掛かりと具体性の成果を突き合わせ、その真の作用機序を探る」
ふらふらとよろめきながら、漸く僕も立ち上がった。膝が震え、顎の先から汗が滴となって零れ落ちる。野宮も決して軽いとは言えない足取りで、埃塗れの〝禁忌書庫〟に向かって行く。原題はRetroactivity、Retroactif、Ruckwirkend、どれで来る。別にどっからでも構わない。恐らくそのどこかに存在する具体性のキーワードが有るならば、僕らはこの勝負のジョーカーを握ることになる。
「……それが、ここに存在する『抑圧と重力の幾何学』以上の何かに辿り着く可能性だと?」
「そう申したではないか。総ての事象が一本の縦糸のように美しく揃う、その切っ掛けに手が届くのじゃ」
朦朧とする意識の果てで、僕が最早本能で握り締めた羊皮紙張りのその本には、厳然としたその目的を明確に現す単語の並びが有った。
―――― "Mind control" と。
……………………
「……ふ、ふふっ、ふははははは!!」
野宮が床に伏せながら、笑った。
這々の体で〝禁忌書庫〟を抜け出し、野宮が再びその禁忌を封印すると、僕らは倒れ込むように床と一体になる。体中が痛い、酸欠気味で意識も薄い。けれど僕は確かに、僕の記憶に仕掛けられた遡及防壁への対抗策を持ち得る可能性を秘めたその図書を探り当てた。
「ぬしよ、やはりやり果せるのはぬしじゃと思うた。もしかしたら余らは、あのまま重力負荷と酸欠で朽ち果てておったかも知れぬのに、やはりやりおったわ! ふはははは! これであの因業な理事会に一泡吹かせられるやも知れぬ、痛快至極じゃ!」
そうかい、痛快至極なのは取り敢えずこの図書を読み込むまで結論は出せないと思うがね。僕は野宮に、"Mind control of Memory access" と題された謎の図書を手渡した。
「協力する、と言ったはずだな。〝博覧強姫〟」
「……ふん、余に読み込んでおけと言うのか。よかろう、次に来るときには理解した上で和訳でもしておくぞよ。ただ、余が何日後にまともに立てるか、その保証はないがの」
汗みずくの野宮は、それでも必死に残された体力を振り絞る。旧図書館の天鵞絨の絨毯に、人形の汗染みをこしらえて、肌に張り付いたブラウスは〝禁忌書庫〟内で付けたのであろう埃に塗れて、確かに汚れていた。
「それと、野宮」
「何じゃ、納期の短縮は無理じゃぞ」
そんなことを今更訊きたいんじゃない。
「……君は試していたね、僕のことを。思えば、僕が〝空中回廊〟に辿り着いて君と出会い、〝禁忌書庫〟からこいつをサルベージするまでずっと。試していた、と言う言葉は強過ぎると言うのなら、確かめていた。〝数学に囚われた男〟は旧図書館に、〝禁忌書庫〟にその身を突っ込ませるに相応しい人間かを。ついでに言えば僕が君に賭けている、信頼を寄せているかをね!」
野宮は僕の質問に、小さく頷くと仰向けになる。
「ぬしを試すじゃと? 余がその器にあるとでも?」
野宮が口角だけで微笑すると、その後に続くであろう笑い声は出ずに寝息が漏れ始めた。しかし〝博覧強姫〟よ。
それは謙遜だとしても、余りに傲岸だ。
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