La piece manquante ―― 欠落した男

 確かにそうなのだ。


「それだけじゃない、よく考えれば僕は何か多くのことを欠落させたまま、今この学園に居るような気がするんだ。この学園を志望した理由だけじゃない、僕はいつの間にかここの学生になって、今の家に一人で住んでいて、いつの間にか〝計算に愛された女〟に出逢った」


 僕の話を聞いているうちに、〝博覧強姫〟は少しずつ僕に向かって前のめりに姿勢を変えて行く。


「……まさか何もかも忘れたわけではあるまい。例えば家族の名前は?」

「それは、覚えている。ただ……本当に覚えていないんだ。覚えているように感じている記憶もかなり曖昧で、全体的にもやが掛かっているような。そんな感じなんだ」


 その表現も、本来はつまびらかではない。


「今の今までそのことに気付かんとは……本当に特別級の学生は自分の専門にしか興味がない者が多過ぎるのは良くあることじゃが、ぬしほど(自分にも無関心だった学生)は初めて逢うたぞよ。何とまぁ、ぬしは暢気なもんじゃの」


 〝博覧強姫〟は最早嘆息を洩らしていた。


「『思い出せない』ことは結局『知らない』ことと等価だ。それを『知っている』ことが当たり前の人間と交流を持たなければ、それらの疑問は生じない。汎化された人間の像の中に組み込まれようとしなければ、それが異質であることだとわからないように」


 つまり僕は知らなかった。僕は真の意味で〝数学に囚われた男〟だったと言うことを。でもそれは一方で、もしかしたら僕が望んだ結果だったのかも知れない。その部分に理事会が付け込んで、僕をこの学園に特別級として入学させたとだとしたら。


 僕は大きな見当違いをしていた可能性が浮上する。


「理事会は霜田葉月の〝特権〟を剥奪しなければならない事態に陥った。そのことを誘発したのが、あの夏の〝時計塔〟事件だった。だから理事会はその脅威を湮滅いんめつする為に、霜田葉月から〝計算に愛された女〟を、エイダ・ラブレスを奪った。僕はそう思っていたんだ、今の今まで。でもそうじゃなかったんだ。解るだろう〝博覧強姫〟」


 気が付けば、僕はいつの間にかソファから立ち上がっていた。


「理事会はあくまで〝時計塔〟の完成を阻止しただけに過ぎない。しかしそのタイミングが悪く、霜田葉月はその時点でまだ〝時計塔〟の腹腔にいたんだ。きっと霜田葉月はこう思ったんだろう、前提条件が誤っていたために物理限界を生じ、その中で彼女は敗北を悟った。理事会が霜田先輩から〝計算に愛された女〟を奪ったんじゃない、〝計算に愛された女〟はその役目を終えたことで自らを封じたんだ」

「……そうじゃな。〝計算に愛された女〟の能力は、そもそも彼女が元々有していた非凡な能力を動力機関であると見做せば、そこに理事会が燃料をぶち込んだことによって開花し、そのことを受容するための器として人格が構築されたと考えるほうが妥当よの」

「つまり理事会は単に能力へブーストを掛けただけだと? だとしても、〝計算に愛された女〟としての霜田葉月と、そのブーストがカットされた霜田先輩は、人格に違いが大き過ぎる。それ以外にも何かあるんじゃないのか。例えば――」


 言い掛けた僕の言葉を〝博覧強姫〟は再び掌で制する。


「人間などと言うものは、そんなもんじゃよ。或る領域に於いて天才的に秀でた人間の人格が、尊大になったり、時に狂気にも似た情熱的な性格を有したり、そんなことは別に珍しいことじゃなかろう。天才と言うものは、そういうものじゃ。何かを欠落させることによって、或いは欠落しているからこそ、より強い才覚を得る。天は時に二物も三物も与え給うことはあろうが、ヒューマニティの空間から観察すれば、必ず何かが欠落しておる。ぬしの場合、それがたまたま過去の記憶じゃったと言えなくもなかろう。まぁ、断定はできぬがの」


 しかし、と僕が彼女に向かって強く迫ると、彼女はそれをやはり軽く手で制した。


「ぬしの申したきことはうに存じておる。つまり、ぬしはこう思っておるのであろう。余もそう確信しておる。解りやすく言えば――」


 〝博覧強姫〟は、不意に天を仰いだ。


「――理事会は霜田葉月にも、ぬしにも、明らかに何か細工をしたのじゃ」

「やっぱり……理事会は僕の記憶を操作したのか」

「いや、具体的には調べてみないことにはわからぬ。それと仮にじゃ。ぬしの記憶を理事会が細工したと言うことが明白になったとき、ぬしはどうするつもりじゃ。乗り込んで一暴れせんとでも思うておるのか?」


 どうするって、具体的なことは考えてやしない。だから僕は、彼女から向けられた問いについて、単に困惑する。


「理事会はぬしの記憶に細工を施してまでこの学園に連れて来た可能性がここで示された。しかしぬしは、ここの学園生活に何の不満もなかった筈ではないのか。余はあまり細工の正体を調べることに積極的にはなれぬ。何となれば、敢えてぬしの平穏に保たれていた精神に変調を来すことは、決して勧められた話たりえんじゃろう」


 確かに彼女の言う通りだった。文字通りの知らぬが仏、ここで僕が何も見なかったふりをし続けさえいれば、それだけで僕は今まで通りの生活を送ることができるだろう。だが実際にはどうだろうか。


「……遅いよ、もう」


 僕は今後、何も見なかったふりをしているだけで、根本的な疑問点から意識的に目を背け続けることを必然的に要請されるのだ。それは果たして彼女が言うような「平穏に保たれていた精神」と言えるだろうか?


「僕はもうこの学園の深部に触れてしまったんだ、望むと望まざるとに関わらず。今さらここから時間を巻き戻すことができない以上は、引き返すこともできないし今まで通りの平穏なんて取り戻せない。だから僕は旗幟きしを鮮明にして、今より前進することを選択しようと思う。恐らく霜田先輩もその選択肢を選ぶだろう。そのことに問題はあるかい、〝博覧強姫〟」

「然様か――――」


 彼女はソファに深く背中を靠れたまま腕を組み、そっと目を伏せた。年端も行かぬ頃の体躯のまま〝博覧強姫〟となった野宮和子の表情は、明らかに気の進まないことをこれからしようとしている、そんな捨鉢な諦念を漂わせている。


「――――然らば已む無し、余が見て進ぜよう」


 さて、と彼女は一言言うとソファから降り、制服の――そう、現行のデザインの冬服の内ポケットから一本の万年筆を取り出した。


「そう言えば、制服は昔のものではないのだね」

「そもそも余が入門した頃に制服など制定されておらぬわ。まぁ、一応これでも学籍の有る身での。学年にもクラスにも配属されてはおらぬが、本校の一生徒としては変わりがないからの。学費も払わぬし、それどころか学園施設に勝手に寄宿し上げ膳据え膳で幾らでも書物も読み放題、思索もし放題と言うわけじゃ。ぬしらと同様、やはり紀要だけは出さねばならぬのじゃが……」


 そんなことはどうでも良い、と言い足し、彼女はまだ少し不機嫌な表情を浮かべながら、万年筆のキャップを外した。


「これから余がぬしにすることは、簡単に言えば催眠術じゃ。世間ではどうも眉唾物の印象が強いようじゃが、これは歴とした脳科学であり、同時に心理学上の現象問題でもあると言う点について、まずように心得よ」


 催眠術、なるほどね。確かに素朴に信頼できるか、と言われると疑問符が付くのだけれども、実際心理療法の一種として応用されていると言うことは僕も知っている。まさか、自分がその被験体になるとは予想だにしなかったのだけれども。


「催眠状態と言うのは、謂わば意識の狭窄状態に等しい。つまり『奔流』が為すベクトル場は、形而下としての顕在意識と、形而上としての潜在意識に別れる。主として余らは、この顕在意識の場に於いて物事を判断し、見極め、その結果として対象たる精神状態を遷移しておるわけじゃが、その顕在意識側を意図的に塞ぐと言うわけじゃな。良いか、この立てた万年筆のペン先をじっと見据えよ。馬鹿馬鹿しいと思っておると、いつまでも顕在意識場に引き寄せられて、催眠状態に遷移できぬぞ」


 いちいち痛いところをちゃんと突いて来るところが〝博覧強姫〟らしいと言えば言えようか。冷静に考えたらすごくおかしな構図だと世界中の誰もが思う格好じゃないか。とは言え僕はあくまでクランケであって、ドクトルは彼女である。


「では、良いか。余計なことは考えるでないぞ。ぬしが見ておるこのペン先が、ぬしの視野より消失すると同時に、ぬしの顕在意識は閉塞する。じっと見ておれ、何も考えずにペン先だけにぬしの意識を集中するんじゃ。このペン先がぬしの目の前から消えると、ぬしはすうっと顕在意識が閉塞する。ように見ておれ、消えると閉じるぞ。消えると閉じる。消えると閉じる。消えると閉じる。消えると閉じる。消えると閉じる。消えると閉じる。消えると閉じる。良いか、消えると閉じるのじゃ――――」


……………………


 ――――頭の中でゲシュタルト崩壊を起こすかと思うほど幾度も繰り返された〝博覧強姫〟の催眠暗示は、どうやら的確に僕を催眠状態に落とし込んだように思われた。


 気が付くと僕は、あの青白いぼんやりとした光に包まれていた幻想的な旧図書館ではなく、形容し難い場所に一人ぽつねんと立っている。転寝の際に見るような曖昧な夢にも似たような不思議な感覚だが、僕には意識が有り自我が有る。本当に顕在意識場は閉じているのか、少々不安になっていた。


「……ふう。性格的に掛からぬかと思うて不安じゃったぞよ」


 後ろからした少女の声、その時代掛かった言い廻し、確かにそれは〝博覧強姫〟野宮和子その物である。振り返ると、確かにそこに彼女は立っていた。右手にはさっきの万年筆を持って。


「説明、してくれるかな」


 明らかにこれは僕が想像していた催眠術じゃない。


「ここはぬしの潜在意識場の描像じゃよ。つまり、ぬしは今確かに催眠状態にある。余は現在、ぬしの潜在意識場に直截働き掛けることによって存在しておる、謂わば映し身かの。まぁ、ここに連れてくることが目的ではなく、ぬしの記憶状態を見ることが目的じゃ」

「……と言うことは、君も今催眠状態に入っていると言うことなのかい?」

「察しが良くて助かる。余らの顕現は今、あのソファセットにだらしなく寝転がっておると言うことじゃ。ま、余は意識空間への接続切り替えが出来るでの。要はぬしが催眠状態に入ってくれるかどうかが鍵だった、と言うわけじゃ」


 なるほどね。流石は〝博覧強姫〟、そんなことまで自在に操ることができるのか。だとしたら、これは確かに旧図書館にでも幽閉しておかねば、世界が混乱に陥ることは想像に容易い。


「ああ、それとじゃな」

「なんだい?」

「ぬしの思考も、潜在意識場同士が直結しておるから、余に丸見えだと言うことは前以て申しておかねばと思うての」

「じゃあ催眠に掛ける前に言ってくれないか!」


 僕の反応を見て〝博覧強姫〟はけらけらとあまり品の良くない笑い方をする。どうもこういうことは元々好きな手合らしい。まったく、あまり人をからかわないで欲しいものだ。推定百五十歳は生きているくせに――とは言え五十年ほど人工冬眠の中にいたようではあるが――変なところだけ子供らしい。


「さて、まずは少しずつ遡ってみるかの。ぬしの記憶時間を遡る」


 そう言って彼女は少し辺りをきょろきょろと見回すと、方角がわかったらしく足向きを揃えて歩き出したので、僕は黙ってその後ろを付いて行く。


「しかしそれにしても、ぬしは変わっておるのう」

「そんなに変わってるかな」

「ぬしは他人に興味がない様に見えて、そのくせ人間の感情やら意識やらに関心がある。寧ろそこら辺の人間などよりも鋭く他人を観察し、それを一般化することを数学に結び付けて考えるなど、普通は哲学者の仕事じゃろうに。なぜそんなことを?」


 彼女の疑問は確かにもっともだ。一個人に対しいちいち関心を払った覚えはないし、第一誰も僕の要求を満たしてはくれない。その癖矢鱈と所謂「負の感情」と言う意識には敏感で、何かにつけて不満を持ちながら、自らを引き上げようとする努力を払わない。畢竟つまるところ良い印象を他者に持ったことなどない。


「……いや、だからだ」

「口を利くのを面倒臭がりおって。こんな環境に普通に順応するぬしはやはり天才かも知れんのう」

「そうかい、そりゃどうも。それはそうと〝博覧強姫〟、シモーヌ・ヴェイユの "La Pesanteur et la grace" のことは?」

「原書で読んだが、それが何じゃ」

「どう思ったか、訊きたい」


 僕には、シモーヌが『重力』――しかし原語との対訳としては本来「重力加速度」と言うのが正しいのだが――と比喩した、他者を必要としない気分の重りこそが、無学にして無垢で、愚かなる民衆の暴力の根源だと思っているが、シモーヌはきっとそう考えて対立概念としての『恩寵』と言う概念を持ち出したわけじゃない。


 だが、それ以上にシモーヌは詩的だった。確かにそれは美と魂のテーゼとして提示するだけの根拠を持っているだろうが、僕はシモーヌの定性的に問うたテーゼに対して肯定的証明を与えたいと思った。例えその身が汚泥となろうとも何も穢さずにあらんとし、総ての意味からの脱創造decreationによって「無」を構成することに、彼女の論理体系としての基礎を為していた。


 では重力pesanteurとは何か。それは抑圧oppressionから魂を救済するために人の魂――つまり精神に括り付けられた重しである。抑圧に拠って押し下げられるのではなく、あくまで重力の思し召しとして引きずり降ろされているのだとすることで、抑圧と言う他者からの暴力を緩和しているのだ。


 故にその対偶としての恩寵graceとは、他者と共にあることを受容せんとする際に起きる高揚感だとした。従って本質的に魂を高めることとは恩寵を受けることであり、それは自らの中へと深く没入時間することによって見出される自らの欲求する事象に辿り着くのだと。言うなれば、抑圧の無効化が恩寵なのではなく、抑圧をも受容せよと講じせしめたのだ。


「それ故ぬしはシモーヌ・ヴェイユに魅せられたと言うのか。愚かなる他者の嫉妬や偏屈を許すことで『恩寵』を待望するがために『重力』と言う支配者を受容することでしか、最終的に『感情』と言うものは理解し得ぬものじゃと」

「仮説だよ、もしくは予想。僕はそれらを最終的に自身の論理体系として解決したいと言う目論見だ」


 それがたとえば、後世に於いて歴史に名を遺すものじゃなかろうと、僕が数学によって解決したいことは、数学と同じくらい純粋で、純粋だからこそけがれを見通さねばならないから、穢れと向き合うのだ。


「……っと、ざっとこんなもんなんだけど、そんなに僕はおかしいかな?」


 〝博覧強姫〟は笑う。


「ふふ、人は天才に生まれるのではなく、天才になるのじゃ。天才とは、闇夜を超える力の異名。のう〝数学に囚われた男〟よ、ぬしは確かに天才に違いない。じゃが、気を付けよ――」


 シモーヌの箴言しんげんを引用して見せた彼女は、そう言って再び笑う。


「――才覚とは、人に評価されて初めて造形を成すのじゃ。ぬしはそのために、わざわざフランスまで征くのだと言うことを肝に命ぜよ。それと」

「……なんだい?」

「名前で呼べ。ぬしに〝博覧強姫〟などと呼ばれると、何やら馬鹿にされている気分になる」


 但し、と彼女は付け加えた。


「真名で呼ぶことを許したのは、家族以外ではぬしだけじゃ」


……………………


 それで、だ。


「で、はく……じゃなかった。野宮はどう思ったのか。質問に答えていないよね」


 そう、結局まだ〝博覧強姫〟――もとえ、野宮和子は僕の質問に答えを出してくれていない。


「姓で呼ぶのか、まぁ良いわい。読むには読んだのじゃが、欧州人ならではの考え方だと思うたかの。何せ彼らの世界観は一神教をその基礎付けに置いておる。ヴェイユ女史の〝神〟の捉え方はかなり拗れておって、一般的な基督教徒とは随分と乖離した物の考え方をしておることに、彼女の哲学者としての矜持が有ったんじゃろう。ただ……」


 ただ、と前置きしながらすぐに言葉を継がないと言うことは、それがディスコースマーカーだとするならば明確に、和子はこの一件に対して否定の意を表明していると言うことだ。


「……ヴェイユ女史の思想に通底しておったのは自己否定じゃ。それは確かに現実的で科学的であったろうとは思うが、ぬしが感じたように自らの中へ没入することは、同時に自己否定をも受容せねばならぬことに等しい。故にヴェイユ女史は考えたのであろうのう。真実の愛とは、美とは、魂とは。正に哲学者かくあるべしじゃのう。何処ぞのおかしな数学徒とは大違いじゃ」


 地味に僕のことをコケにしやがったな?


「もし夭折せず戦後まで存命であれば、シモーヌ・ヴェイユの名はそれこそ中等教育程度でも教わるほどの著名な哲学者に成り得たかも知れぬし、彼女の思想自体も幾らか変節したかも知れぬが、逆説するならばヴェイユ女史はその立場に有ったが故に『重力と恩寵』に辿り着いたとも言える。ぬしよ、彼女は幸福で有ったと思うか?」


 ――――問題。


 欧州諸国は一部を除いて一般的に、長くキリスト教文化圏の傘下にある。その宗教教的倫理観に基づけば、一方的な殺人行為として忌避されるべきものであるとされた「人工中絶」を合法化することで女性解放の推進役を果たし、結果として現代フランス人女性から最も敬愛される存在となった政治家と、図らずも同姓同名ではあるものの、ほぼ無名のままドーバーを挟んだ異国の地にて若くして客死した哲学者、シモーヌ・ヴェイユは幸福で有ったか。


 あはははははは!


「何が可笑しい!?」

「だって誰もそんな質問答えられるわけないだろ、仮に幸福であったとしても不幸であったとしても。それは他人が決めることじゃないし、判断して良いことでもない。ただ、問題としてはとても面白いよ。いっそ普通級の入試問題にでも出してやれば良い、『tan 1°は有理数か』と問うより余程面白いよ、それも社会科でね。採点者も相当悩むだろうな、日本の受験業界が揃って腰を抜かす様が目に浮かぶよ!」


 そう言って僕は手を叩きながら快哉をあげる。


 そう、正直なところ、シモーヌ・ヴェイユの生涯が幸福か不幸かなどと言う議論に僕は興味がない。他人の人生――いや、本人にしか判らないどころか、本人でさえも答えを出すことが出来ないかも知れないこと――に興味はないが、その人生が足跡として遺した思想と論理には興味が有る。


 その点に於いてシモーヌの考えを延引したフロランス・アンリエット・ベルティエが何を一般化し、どのように幾何的性質を見出したのか。僕の興味は其処にこそあって、彼女の生涯が幸福だったかどうかなどと言うことは、僕の興味の埒外だ。


「いや、笑って悪かったよ。野宮は〝博覧強記〟でありながら、ちゃんと人の心を持っているんだな。僕のほうが人間性として問題があるのはわかってる」

「別に気にしてなどおらぬ、それにぬしの人間的な側面に問題があることも――っと」


 それまでスタスタと脇目も振らずに、但しどこに向かってかはわからないが歩いていた和子が、その足を止める。


「どうした?」

「これはこれは……細工などと言う可愛気の有る代物ではないぞえ。カテゴリーⅢ、最低でも強度Aクラスの遡及防壁じゃ。理事会もとんでもないことをしおったものじゃが、これに気付かずに普通に暮らしておったぬしも相当じゃ」


 褒められてるのか、貶されてるのか。


「その、カテゴリーとか強度とかって?」

「そもそも遡及防壁と言うのは、脳内に存在する記憶情報に対して『記録』としての入出力を抑止するのがカテゴリーⅠ、『記憶』としての入出力に制約するのがカテゴリーⅡ、その上の『元来存在しなかったものと見做す』ために被覆したものがカテゴリーⅢと分類されておる。強度はその防壁によって防護される、情報量の常用対数量を基準として定められておるのじゃが、通常なら強度はCクラスも有ればその人間の記憶は抹消されたに等しいと言われておる。Bクラス以上など通常は必要とせんのじゃが……」


 なるほど、可能な限り最強の防壁を仕込みやがった、ってことか。


 もっとも、目的は明白だ。僕の記憶を封じる、その一点に尽きる。推測するにこの防壁の時間長は、凡そ三年。つまり僕の中学時代の記憶は、今僕の脳の上では存在しないことになっている。だから僕の次元から見た場合、その部分の記憶は存在しないことになっているのだ。僕が思い出せない記憶の時間領域からの逆算だが。そんな大仰な真似が出来るのは、この学園の理事会くらいしか有り得まい。


 だが、そうなると問題は。


「……理事会の動機じゃな」

「野宮はどう思う。僕はそもそもこの防壁に気付いていなかった。思い出せない記憶は知らないのと一緒、だから恐らくこの問題は、僕一人では解決しようがないってことだ」

「欠落を補いたいと思うのなら、ぬしの記憶を構成する他者の意識の奔流を捕捉することによって、擬似的な潜在意識場を構築することは可能じゃ。じゃが、そのための基礎理論は……」


 ああ、わかってる。そんなものはまだこの世に存在しない。


 だが、そもそもp-進体単純系幾何構造を対象とし、本来同一の論理体系の派生でしかない単純系と複雑系を対象とする自己同型の射を以て成るConscience圏と関手を定義することが出来れば、確かに僕の潜在意識内に構築された遡及防壁を突破するのではなく、遡及防壁を正系としてそのままにした状態で新たに構築したConscience圏と、ruissauを対象とする「意識空間」の圏間に於ける可換図式を描くことは理論上可能だ。


「やはり、僕の手で構築しなければならないんだ。その最初の被験体は、僕でなければならない」

「正気か。しくじれば廃人となるリスクさえ負うことになるのじゃぞ」

「構わないよ。どうせ僕らはそもそも天才でなくなれば、人間性に欠陥を抱えたただの穀潰しだ。霜田先輩のように、特殊な環境下によって芽生えた新たな人格が生えて来る以外にはね」

「……なるほど、どうせ紀要として研究結果は理事会には送らなければならぬ。ただ、その裏に潜む目的が理事会に悟られてはならぬぞ。ぬしはその点について周到に進めなければならぬ……が、どうせその覚悟は当初から持っておったのじゃろう」


 そうだよ。でも、僕の本当の目的は違う。


「僕の最終目的は、悪いけど野宮にも秘密だ。別に理事会を顛覆てんぷくさせようなんて思ってやしないし、僕の記憶に掛かった遡及防壁を解除したいのは、遡及できない記憶の中にどうしても必要な記憶が有るからじゃない。それでも協力してくれないだろうか。この問題を解決するためには〝博覧強姫〟、野宮和子の知識が必要なことはわかっているだろう」

「……よかろう、余もそろそろ三食昼寝付きの読書三昧には飽きたわい。余も乗るぞ、ぬしのその馬鹿げた企みに!」


 野宮はそう言って、僕の目に刺さりそうな勢いで万年筆のペン先を僕に向けた。その瞬間、彼女はきっと事前にそう言った暗示を掛け続けていたのだろう。僕の意識、それが潜在なのか顕在なのかどちらかはわからないが、僕の中の感触は緩慢な微睡まどろみに墜ちていく羽毛のように浮薄だった。


……………………


「――ぬし、起きんか。これ。催眠状態からそのまま寝こける奴がおるか」


 僕が最後に見たのは、野宮が持っていた万年筆のペン先だった。それが見えてから視界がゆっくりと暗転して、普通ならそのまま催眠状態が解けて、通常の覚醒状態になるはずだと言うのだが。野宮は僕の肩を揺さぶって起きることを要請している。


「ちょっと色々有り過ぎて疲れていたんだよ……」


 だらしなく家のベッドのように横たわっていたソファから身体を起こす。


「ぬしの催眠状態を開放して潜在意識場との接続を切ったところで、ぬしが寝ておるから驚いたぞよ。催眠から解放されたら普通に寝てる人間なんて信じられんわ。逆によく催眠状態で潜在意識まで落ちなかったものだと、感心するやら呆れるやらじゃよ」


 ……それは、御迷惑をお掛けして申し訳ない。

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