Demoiselle ―― 少女
僕が実際に〝旧図書館〟の探索で潰せた範囲は、仮に僕が「取り付け道路」と呼んだ長い回廊の区画に並べられた書架の半分に過ぎなかった。確かにその奥には、先程司書教諭から受け取った地図に有るように、回廊として見受けられる構造物が目に入っていたのだが、そこまで辿り着くには今のペースではあと一週間ほどを要すると言う目算が、僕の持ち込んだ装備の量目を推定させる所以だった。
もっとも、今となってはその見積も関係なくなってしまった。それは良かったと感ずるのだが、どうもここにはかつてより住人が居ると言う新情報は、良い情報とも悪い情報とも言えない微妙なものであったことは確かだ。
その住人が、既に僕のお目当てであるところのフロランス女史の文献を発見していた、と言うのなら本来の話はそれだけだが、どうもそれだけでは済みそうにない。この〝旧図書館〟の成り立ち、これまでの経緯、その住人がここに幽閉された理由。訊いて有り余るほどの情報が僕には不足しているのだから。
残念ながら、わかりやすい生命徴候は感じられない。橙黄色の灯りは相変わらず自動的に点灯するが、その向こうにはいくら目を凝らしても人影を見ることはない。それどころか、肝心の〝空中回廊〟でさえその姿は朧気だ。言うなれば、室内の非常灯だけが点いている状態の中、響くのは僕の靴音と呼吸音ばかりなのである。普通なら、否が応でも不安だけが高まるはずだろう。
やがて初めて僕は、聳え立つ〝空中回廊〟の根本部分に辿り着いた。淡く光る橙黄色の灯りは取り付け道路の部分までで、そこから先は照明と言うには自然だが、自然現象と言うには説明根拠が見当たらない、不思議な光で包まれていた。螺旋状の階段は上に五階分伸びているが、どうやらここは更に下のフロアが存在するようだった。そう言えば、螺旋階段と言うヤツに纏わる過去の記憶が鬱陶しい。
司書教諭の言う〝空中回廊〟の一階部分には書架が存在せず、その上はここから見る限りでも明らかに大量の書架が並んでいる。湿気とか虫干しとか、その他図書に関わる保存状態の管理について、些かの疑問を差し挟みたくなる気持ちを抱かずにはいられない。
「……で、どうすりゃ良いんだ」
先程司書教諭から渡された紙片にマーキングされている位置まで来たつもりだが、そこになにかがあるわけではなかった。実際の色が何かはわからないが、そんな状況でさえ美しいとわかる年代物の
「――これ、其処なる
突然背中から、明瞭に女の子の声がする。だが、その語り口はあまりにも時代掛っていた。思わず慌てて振り返ると、僕と同じ目線に顔は映り込まない。本能的に
「ぬしか、余に捜し物の依頼を差し向けて寄越しおったのは」
「……えっと、貴方は?」
「質問に質問で答えるとは、礼儀知らずな童じゃのう。まぁ良いわ、余は〝
話し方も古風だが、その名前も負けず劣らず古風だった。しかしそれ以前に、自ら名乗った二つ名と全く不釣り合いな幼い容姿には、驚き以上の感情は反映できない。
「まったく、まさか
どうもこの少女は、自分をこの〝旧図書館〟の司書扱いされたことに腹を立てているばかりか、その依頼主である僕自身が訪ねて来なかったことについて甚く業腹なご様子だ。そうは言っても、僕があの司書教諭にそうしてくれと頼んだわけではない。
「ええと、野宮さんだっけ? その、僕は別に学園の図書課にそうしてくれと頼んだわけではなくて、司書の先生が取り計らってくれただけなんだ。あまり悪く言わないでくれないかな」
何故僕が彼らのフォローをしなければならないのかも、彼女の機嫌を取らねばならないのかもよくわからないが、多少理不尽でもここは我慢するよりない。
「然様か。ほれ、これがぬしの探していた書籍じゃ――」
そう言いながら彼女は、胸元にしまいこんだ本を取り出す。保存状態は思いの外良かったが、書籍としてはかなり古いことは言うまでもない。〝博覧強姫〟は相変わらず不機嫌なようで、僕に突き出すように本を差し出した。そのとき、彼女は僕が予想もしなかった一言を付け加えたのだ。
「――これで良いのか、〝数学に囚われた男〟よ」
……………………
「なぜその異名を?」
本を受け取りながら僕が問うと、彼女は相変わらずの不機嫌な表情のまま言った。
「知らぬとでも思うたか。先程より余は申しておるじゃろう、余は〝博覧強姫〟ぞ。知らぬことなど在らぬ」
そうか、なるほど確かに彼女は「博覧強記」の名に足り得る才覚を持っているように感じられる。論理的な説得力と言うよりは、現在の彼女が置かれている立場に有って、通常の学園生活を送っている者でも知らないことを、彼女が知っていたと言うその一点の事実に於いて信頼されるものでしかない。
「で、その本で間違いないか?」
彼女に促されるように表紙を見ると、そこには日本語で「拘束ト重力ノ幾何學/F・H・ベルチヱ」と書かれている。出版社も訳者も書かれていないばかりか、奥付も存在しないし検印もないことが、正規の商用出版ルートからこの書物が外れていることを雄弁に物語っている。ぱらぱらとページを捲る限り明らかにこの訳文は文語体と正字体で書かれている。だが出版された時期は明らかに戦後と見て間違いない。根拠はそもそも「重力と恩寵」が原語版で出版されたのは戦後である。
仮にベルティエ女史が実在し、シモーヌ・ヴェイユからその理論を既に説き明かされていたとして、戦時中に連合国に属した――正確に言えば開戦後、
「和訳書と言うことで良いのかな。もしかして僕がフランス語を読めないかも知れないと思って、気を遣ってくれたのかい?」
「否。ぬしが探していたGeometrie de "oppression et pesanteur"なる書物は、この図書館の中には存在せぬ。蔵書データベースには、多分別名としてリンクでも張られておったんじゃろう。それにしても変なところに有った、なぜフランス現代思想と同じ棚に有るのか首を傾いだものじゃったが、シモーヌ・ヴェイユのパクリなのじゃな、その者の述べ立てるところは」
古風な言葉遣いの中に「パクリ」と言うとても似つかわしくない現代語が現れると、僕の中の語彙辞書がひっくり返りそうになるからやめて欲しいのだけど。
「じゃあ、原書はこの世に存在しないってこと?」
「それはわからぬ。仮に原書が存在せずに、和訳書だけが存在する理由はなかろう。もっともその書物自体が、誰かの空想や妄想の産物であるとしたならば話は別じゃがの。とまれ、この図書館内に原書は存在せん。どうしても原書でなければならぬと言うことであれば、ぬしが高等師範学校に通うことになってから
そんなことまでお見通しだとは恐るべし〝博覧強姫〟だが、君が知らないと言うことは原書は存在しない可能性もゼロではないと言うことじゃないのか。
「しかし、ぬしは珍しい奴じゃな。特別級の生徒は自分のことにしか興味のない連中ばかりじゃが、ぬしはどうも様子が違っておる。例えばぬしがこの学園に、乃至は理事会に懐いておる不信感とかのう」
「……そのことは、もしかして理事会が暗に諜報でもしているのかい?」
「そんなつまらぬことをするほど、理事会は暇ではなかろう。少しばかりだが、余はぬしの思考を記録として刻まれた形から読み取る力が有るのじゃ。特別級の紀要雑誌とかの。あれはなぜか新図書室ではなくて毎号必ずこちらに寄越される。普通級の生徒どもにこそ読ませるべきじゃろうに、よくわからんことをするものじゃ」
どういうことだろう、と一瞬考えてから僕は漸く自分の研究分野に対する奇妙な整合性に気が付いた。
「……それは『記憶と記録』の合間に潜在する意識の『奔流』の捕捉に拠るものだと?」
「流石専門家じゃな。従前は所謂『意識空間』は可微分多様体上の至る所で滑らかなC∞級関数に於ける不変点の幾何学として捉えられておったのじゃが、ぬしはそれを新たにマックレーン由来の圏論を延引することで、微分幾何学お得意の葉層構造上に於けるトポスの圏として読み替えることが可能にしたわけじゃな。そこから『意識空間』を対象とする射としての『感情』が関手によって組み付けられた、代数的構造上の不動点をY-Combinatorとして表現できることに気付いた者があったのじゃよ」
驚きはしないが、〝博覧強姫〟は本当に僕の研究分野をしっかりと読み込んだ上で解釈を明確にしている。しかしだ。
「君がそこまで理解していると言うことは今更驚かないさ。しかし、Y-Combinator表現は明らかに数学と言うより計算機科学だ。いったい誰がそこまで高度な理論化を施したと言うんだ?」
「ぬしも知っておろう、それが〝計算に愛された女〟、嘗ての霜田葉月ぞ」
……霜田先輩、いや、霜田葉月。本当にお前と言う奴はどこまで人を飛び越えたら気が済んだんだ。
「〝時計塔〟はあくまで自己成長型機械式計算機としてのテストケースに過ぎんかったのじゃが、実はそれが理事会にとっては、彼らの想像を超える事態を
「……つまり〝時計塔〟は物理限界を超えた為に自壊したのではなく、理事会によって破壊させられたのだと? 可能性?」
「そうじゃ。その一つが、ぬしの手掛けておったp-進体単純系幾何とruisseauによる意識空間の、台集合的構造の基礎付けに対する数値解析的影響じゃな。何せ多項式時間によってNP困難に
つまり理由はどうあれ、〝時計塔〟計画を中断させ、霜田葉月の特別級としての能力を意図的に封印することが、理事会の連中は可能だと言うことか? しかしそれがどう具体的に、彼らに対してネガティヴな事象を惹き起こすと言うのだろうか。その部分も、この〝博覧強姫〟は既に御存知でありながら、セキュリティを理由の盾としながら敢えて明々白々としないつもりなのか。
「で、ぬしはどうしたいと考えておるのじゃ。ぬしはこの学園が抱える、闇の部分を潰そうと考えておるのか?」
そんなつもりはない。僕は僕なりに好きにやらせて貰っているこの環境に、何の不満もない。ただ、あまりにもこの学園が普通の学校には存在しない不可思議な混沌を内包していることに対して、僕は少なからぬ興味を抱いている。
「僕はただ、真実が知りたい。それだけだよ」
僕がそう言うと、彼女は初めて少しだけ表情を軟化させた。
「なるほど〝数学に囚われた男〟よ、ぬしはなかなかの食わせ者じゃの」
そう言って彼女は笑う。冗談じゃない、僕は君どころか図書室の司書教諭にも敵わない、ただの嘴の黄色い小僧だ。
「良かろう、ぬしには教えておかねばなるまい。ぬしの感じている疑問に余は答えを持っておるのじゃから、知っておいて損はあるまい。じゃが、その後のことは余に関係のないことじゃ。それを受けてぬしがどんな行動を起こすのか、それは余の関するところではないし、ぬしが如何なる判断を下したとしても、余はその判断を受け容れよう。いや、静観とでも申したほうが正しいかのう」
彼女は〝空中回廊〟の螺旋階段を下って行く。僕は黙って、彼女の後ろを付いて行く。
「ふふ、〝時計塔〟の逆じゃな。まぁ、安心致せ。〝時計塔〟は理事会によって破壊されたが、この施設は理事会の所有物じゃ。ここに真実が眠っている可能性は、ゼロではないが限りなく低い。じゃが運が良ければ、ぬしが探し求めておった『抑圧と重力の幾何学』以上の何かを、得られる可能性も含んでいる」
そう、ならば僕が今、彼女の先導に従うことは無駄ではないだろう。その先に、本来僕が求めていた以上の何かを得られる可能性があるのなら、僕は〝博覧強姫〟の膨大な知識と理解力に賭けてみても良いのかも知れない。ノーリスクだが、リターンは有ったら儲けもの程度でもある。
……………………
その威容溢れる意欲的な構造から〝空中回廊〟と呼び習わされたと言う、旧図書館本館の地上部分に別れを告げ、僕は〝博覧強姫〟野宮和子の後ろを歩く。取り付け道路部分とは異なる青白いような幻想的な光は、地下に降り立った今でもまだ続いているが、その光源となるべきものはいまでも特定できない。
「気になっていることが、幾つもある。〝博覧強姫〟、君ならすべてを知っているんだろう?」
「そうじゃ。余に知らぬことなどない……そう申したいところじゃがその域にはまだまだ遠いのう。先に申した通り、余には理事会が中枢に秘匿している情報に達する術を持たぬ。真の〝博覧強姫〟への道は
いと愉しげに〝博覧強姫〟はからからと笑う。ここで
「で、何を問う。申してみよ」
「……その、君の歳は幾つなんだい?」
きっと〝博覧強姫〟は、もっと僕が高尚なことを質問してくるのだろうと思って期待していたのかも知れない。螺旋階段の途中で僕に振り向いて見せた顔は、あまり機嫌の良さそうな表情とは言い難かった。
「つまらんことを訊くのう。齢に直せば数えで十二歳じゃが、正確に言えば既に百五十歳ほどになろうかの。じゃが、余の肉体は十二歳から先の時を刻み成長することもなく、その時を止められておる。それがぬしらの住まう現代に於いても、この〝旧図書館〟がこのままの形態で保存されておる理由じゃ」
そんな気はしていた。彼女は確かに見てくれこそ年端も行かぬ少女その物だが、その物腰も弁舌も頭脳に格納された学識も、明らかに彼女の肉体年齢を凌駕していると言ったらそれは過言だろうか。
「なるほど、つまりここは嘗ての図書館であり、尚且つ君の生命維持装置と言うわけか」
「御名答。この建物が無くなれば、余は一瞬にしてこれまで止められていた時を一身に受け、極普通に死ぬじゃろう」
螺旋階段を三周は下ったであろう先のフロアに、〝博覧強姫〟は降り立った。
「ここが本来の〝空中回廊〟の入口じゃ。そこに大きな扉が見えるであろう? あの扉は嘗ての地上への出口なのじゃ」
「では、さっきの中央ロビーは?」
「後から設えられた。この三階分は単に地中に沈んだ……否、沈めたのじゃ」
「何のために?」
「理由はいろいろある。直截原因としては或る実験の失敗によって沈んだのじゃが、それは単なるエクスキューズに過ぎん。本来この建物は図書館ではなく、かつては学舎そのものだったんじゃが、明治新政府と対立してのう」
ロビーの中央部には、最早骨董品レベルであろう革張りのソファセットが置かれている。元々ここに有ったものとは考え難く、恐らくはこの部分が地下に沈んで地上から隔離された後に、幽閉された彼女が何処ぞから引っ張り出してきたのであろう。テーブルの上には、彼女が厳重書架内から引っ張り出してきたのだろう書籍が数十冊積み上げられていた。
しかしどうやら明治維新期と直に関係する頃から、この奇妙な学園は存在したらしい。その割には世の中から蔑視もされずに、こんな風変わりな連中を束ねる組織がよく耐え続けられたものだ。
「余は当時、その優れた学識を認められこの学園に
講釈師見てきたように嘘をつき、とは言うが、困ったことに彼女がまるで昨日のことのように覚えているこのエピソードは間違いなく真実であり、恐らくはこの講釈を垂れている彼女自身が体験してきた事実なのだから、手に負えない。
「まぁそれから帝大ができるまでの間に、この学園が先頭を切って新日本の高等教育の旗印にでもなれば良かったんじゃろうが、当時の理事会の連中はそんなことは御首にも出さぬ。余計な対立を煽ることによって、却って新政府の言いなりを押し付けられることを嫌った、まぁ進取の気取りがあったんじゃよ」
進取の気取りと言う趣からは、随分と対向にあるようにも思えるが、彼女の講釈には当時の人々の気概のようなものが透けて見える気がした。
「それで余らは、文字通り地下に潜った。この御一新の最中の混乱に紛れて、余らはその身を
クイズなど出されても。こいつ、完全に
「……
「流石賢いのう、その通りじゃ。そのために外気温の影響を最低限にするために、当時の学園棟ごと地下に埋没させたのじゃ。しかしその実験は、残念なことに僅か一例を除いて、失敗に終わったのじゃよ」
「ははぁん、なるほど……ね」
僕は漸くと言うか、ほぼ忘れ掛けていた司書教諭の証言を思い出していたのだ。棲み着いていると言うか、理事会に飼われていると言うか、拘禁されていると言うのが一番正確だと司書教諭が陳述した彼女の実態と、この建物そのものが彼女の生命維持装置であると言うことが、一本の線で連続を為す事象として捉えられた瞬間だ。
それに対して〝博覧強姫〟は、特に何も言わなかった。寧ろ今頃わかったのかとでも言いたげな、若干稚気を感じさせる目をしている。最早事実上「知の妖怪」と成り果てた現在も、彼女にはまだ数えで十二歳の頃の精神性は残っていたのだ。
「目が覚めた、正確には理事会をして人工冬眠を解除せしめたのは、大正十二年九月一日」
「…………関東大震災」
「うむ。下町ほど酷い被害を
「それで理事会によってここに拘禁されている、と?」
だいぶ核心に迫りつつあるが、〝博覧強姫〟が何かに臆する様子は
「確かに拘禁されておると言う表現も間違いではないが、余は望んで此処に飼われておる。先に申した通り、余はこの中にいるから生きられる。此処を離れるとき、それは余の死時じゃ。余はそれを望まぬ。何故なら、余は真に〝博覧強姫〟となるためにこの学園におるのじゃ」
だろうと思った、と答えると〝博覧強姫〟は些か不満気だった。
「ならば、ぬしは何故この学園に来たのじゃ?」
彼女にそう問われてから、僕は言葉を飲み込んだ。
「……改めて訊かれると、覚えてないな」
「覚えてない、じゃと?」
そうなんだ。僕が何故この学園に来たのか、その記憶が欠落している。
――――いや、欠落はそれだけではない気がする。
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