Bibliotheque ―― 図書館

 Ecole Normale Superieure(パリ高等師範学校)にて学位を取るための準備としての渡仏期間中、僕はその詳細を理事会側に紀要論文として纏めなければならなかった。なぜならその渡航費用も滞在費用も拠出したのは理事会に他ならないからで、彼らは金銭面に関する対処を優先して行う代わりに、こうした文書を提出させるのが習いになっていたのだ。


 久しぶりに訪れた学園は少しも変わってはいなかった。本当は変わっているのだろうけれども、僕にはその変化の勾配を感じ取ることができなかった。外見だけならばごく普通の、多少生徒の学力が高いだけの進学校の日常は、僕の目には少しの移ろいも感じられない。一般に言う「空気が読める」と自称する機微に聡い人間からするならば、僕は確かに〝数学に囚われた男〟なのだろう。だがそれが僕の日常であり、霜田葉月は僕にとっての非日常だった。この僕の意識に於ける形而上的な部分空間で為されている演算の仔細を、懇切丁寧に誰かに説き明かすのは煩瑣極まる。


 閑話休題。報告文書の提出に当たり、一点明確にしておかねばならないことが存在していた。だが僕が明確にすべきそのことに言及している文書は、残念ながら近隣の図書館や大学には存在しないことが判明したのだ。気の進まない通学に僕の足を向かわさしめたのは、そんなつまらない事情によるものである。国中の何処を当たっても存在しない、稀覯本と言うより最早奇書にcategoriserされるかも知れないその書物が、なぜかこの学園の図書館には存在していると言うのだから、来たくなくても来るよりないだろう。


 不可解な学校である。僕やかつての霜田葉月のような、或る意味特殊な人間に好きなことをさせる代わりに、その研究成果を寄越せと言うだけの懐の広さは持ち合わせているが、その内実は正直不可解極まりない。「普通級」に於ける一般的な高等学校の側面が公然面であり光の部分だとするならば、僕ら「特別級」とその生徒と言うのは、明らかに非公然面にして闇の部分だと論じても過言ではないのだ。別の言い方をすれば、僕らは学園によって世俗から隔離されていると表現し得るだろう。


 そんな非公然面の人間であることを、強く意識の描像として刻み付けながら、僕らは僕らなりの生き方を謳歌おうかしているのだし、もっと丁寧に言えば学園によって謳歌「させて貰っている」と言う状態に、僕は一定の満足を抱いていたのだが、霜田葉月の一件がその純粋性に疑問を投げかけた。その疑義の対象目的は間違いなく、この学園の運営を担っている「理事会」と呼ばれる組織、或いは単なる組織を超えた機関足り得る存在である可能性を有したそのものである。


 要は、彼らの目的が見えないのだ。彼らは何のために、決して安からぬ金額を叩いてでも僕らを囲い込み、好きにさせてやる対価としての研究論文を集めているのか、その集大成の向こうに有るものが不明瞭と言うか、一度も具体性の領域に降りてきたことがないと言う点に於いて、至極曖昧な表現を用いることを許容して欲しいのだが、酷く不安感を煽る。


 僕ら「特別級」の生徒は、互いの素性も名前も知らない。謂わば本来、僕らは互いに素な関係性の基底上でこの学園の中で存在している。だからもしかしたら、僕は破戒の存在なのかもしれない。本来交わるはずのない、特別級の生徒同士が互いに素ではない関係性を抱いたことに対し、理事会が危機感を抱いた可能性がゼロではないと誰が言えるだろうか。


 勿論実際には、その疑問に対して明快な答えを導き出すことは現状不可能でもあるし、僕の手によって解決されなければいけない問題でもない。だがそれでも、いつまでも心の中で抜けない棘のように時折、疼痛とうつうを生ずるのは何故だ。それを的確に表現するとすれば、恐らくもっとも近似した言葉はきっと、罪悪感なのだろう。それは真に、あの時点から僕の精神状態に於ける平穏を脅かす、確固として持続的な感情そのものだった。



 初めて利用するこの学校の「図書室」は本館の四階にあった。取り立てて重厚でもない、こんな恐らく極普通であろう図書室に、件の文献が有ると言うのだろうか。そんな佇まいの図書室には、空きコマの間に勉強に勤しんでいる学生の姿を見受けたが、その光景も至って普通の学校の図書室であろうことは想像に難くなかった。この時間はまだ司書教諭らしき女性が勤務に就いているが、彼女は図書室の光景に全く興味を持っている様子はない。


「すみません、先生。閉架書庫の文献について照会したいのですが」


 そう語り掛けるものの、彼女は僕を一瞥もせず如何にも不機嫌な様子で照会用の端末を指差した。かったるい、自分でやれ。そう言いたいのであろう。もっともそれ自体は予想できたことだ。できれば言葉で表現して欲しかったとも思ったが、已むを得ない。システム自体は著者名と文献名さえ入れる程度で検索は可能なようだ。キーボードが日本語配列なのが気に入らないが、それはもっとも僕がUS配列で慣れているからと言う、どうでも良い理由なのだけど。


 著者名、Florence Henriette Berthier

 文献名、Geometrie de "suppression et gravite"


 実在した人物かどうかさえ怪しい、フロランス・アンリエット・ベルティエと自称するフランスの哲学者であり数学者でもある女性は、かのスペイン内戦期にアナーキスト系集団に帯同したシモーヌ・ヴェイユと接触したことをきっかけに、シモーヌがイギリスで客死するまでの間に幾度かの交流を持っていたと言う。


 シモーヌは兄でありブルバキの一員だった数学者、アンドレ・ヴェイユと違い、生前なんら顧みられることのない人物であったが、死後ギュスターブ・ティボンによって拾遺された「重力と恩寵」が出版されたことによって、初めて世界に存在を示したと言える。


 しかしシモーヌが「重力」と称した魂の負の束縛を、フロランスは哲学の場から、より抽象的な数学としての魂の束縛を表現するために、当時まだ先端だった代数幾何学の舞台に引きずり出した。もっともこの試みも、生前のシモーヌ同様顧みられることはなかった。数学としても哲学としてもフロランスの理論は余りにも異端だった。


 この文献の中で、フロランスの研究は、「奔流ほんりゆう」と呼ばれる単位に基づいて「意識」によって構築される位相空間上のファイバー束として捉えるための、謂わば微分幾何学の嚆矢こうしとも言える先進的な研究だったが、実際にファイバー束はジャン=ピエール・セールらによって、ファイバー空間として一般化されるまでの過程の中にフロランスの影響は一つとして認められない。


 そんなフロランス女史の、ある意味では狂気の産物とも言える研究成果は、源流の思想として備え付けられたシモーヌの「抑圧と自由」、さらには「重力と恩寵おんちよう」と言う魂の美学的テーゼを結び付ける代数幾何的遠景の葉層ようそう構造上に於けるtoposであるとまとめられている、のだそうだ。


 そのことの重要性を説明するのは難しい。何故ならこれは予想だとか仮説だとか、そんな理由を伴っていないからだ。フロランスがシモーヌの言葉を借りて「重力」と表現した代数幾何的表現が、僕の仮説である抽象的なConscience圏に対応する可能性が有った。「重力」が圏を成すことの蓋然性は存在したであろうが、当時の水準に於いて実際にはそこまで言及されることはなかったし、必要性もなかったからだ。


 然し乍ら「奔流」は「意識」を対象とした射として考えるならば、その構造に対して射の類が存在し、射の合成を適宜与えるならば結合律と単位律を満たす。従って「奔流」は圏であることが自明なのだが、この奔流の圏からConscience圏に向かって可換である関手が「重力」であるならば、「重力」は有限極限を持ち、かつCartesian閉圏として部分対象分類子が定まるであろう。当てずっぽうだが、逆にそのように「重力」を定義するならば確かに「重力」はConscience圏は部分対象分類子として二点集合を有するため、elementary toposであることが結論付けられるのである。


 その謎が、もしかしたらこのフロランス・アンリエット・ベルティエなる怪しげな人物の遺した文献によって解き明かすことができるかもしれない、そう思ったのだ。

 だが、照会結果として表示された所蔵位置には、重大な特記事項が存在している。


 〝厳重閉架図書〟――――。


 どうやらこの奇書は、確かにここの蔵書として保管されているそうだが、その書架は厳重閉架と題された、えらく仰々しい書架に収められていると言う。こればかりは流石に、先程の不機嫌な司書教諭に御願いするよりないだろう。結果をプリントアウトしたものを司書教諭に手渡すと、彼女のかけた眼鏡のレンズの奥に覗く双眸そうぼうは、それまでの半開きが幻だったかのように見開いた。


「ええと……君は?」

「一B所属ですが、特別級の――」

「ああ、特別級かなるほど……じゃあ良いな」


 何が良いのかはわからないが、彼女は僕の名前を聴くより先に話を打ち切り、僕が手渡した照会結果書類を手にしたまま、幾分小さな声で話し始める。


「この書物は、確かに我が校の図書館の蔵書だ。実はこの学校の図書館は、こうして一般に利用される開架図書、本館の地下一階と二階の書庫に保管されている一般閉架図書、それに旧図書館と通称される厳重閉架図書の三種類が存在する」


 見た目と違い、随分と荒っぽくさばけた言葉で話す司書教諭から漏れた〝旧図書館〟という単語は、その言葉の響きだけでも十分怪しさが増す。


「旧図書館は理事会直属の蔵書部会に管理されていて、一般生徒も職員も当然立入禁止。入館が許されるのは、理事会のメンバーと君のような特別級の生徒だけだ。蔵書目録も公開されていないし、何が有るのかは私らにもわからん。第一、この検索結果が照会できたのも君のIDだからだ」


 つまり僕は、その禁断のオカルティックな図書館の入館もフリーパスだと、老境に差し掛かっているであろうベテラン司書教諭は能弁に答える。


「それで、その旧図書館とやらはどこに有るんです?」


 別に僕は、この学園に関わる闇の部分だとか、そう言ったことに興味はない。用事が有るのは、その厳重閉架に守られたその書物だ。


「このカウンタの裏が書庫だ。中央部にあるエレベータに乗って、地下九階まで降りたところに、厳重閉架書庫の入り口がある」

「地下九階?」

「足して九になるようにフロア指定のボタンを押し、君の学生証をカードリーダに差し込むと、自動的に地下九階に達するようになっているはずだ。私がここの司書として勤務した当初、そう引き継がれた。それ以上は、生憎と司書にはわからん。厳重閉架への入り方も図書の在り処も、君自身が探すんだな。高々司書教諭の身分では、君に同行することは不可能だ」


 まったく、どうなってるんだ。この学校は。


……………………


 本館内に設えられたエレベータは意外にも機械式だった。何かにつけていちいちガチャガチャと鳴き喚くエレベータの中にいると、不意にあの夏休み前に見た〝時計塔〟の中枢部のことを思い出さずにはいられなかった。


 もっとも、仕組みその物は単純だった。どこに通じているのかわからない地上四階から一階へのボタンに、一般閉架書庫が存在すると言う地下一・二階へのボタン。司書教諭の提示した手段が正しければ、地上二・三・四階のボタンを押して学生証を差し込めば良いはずだ。左手で三つのボタン――実際に押してから気付いたが、こいつも当然機械式だった――を押し込みながら、右手でスロットに学生証を差し込むと、エレベータは一際大きな機械音と立てて扉を閉じ、加速度を付けて降下を始めた。


 地下九階。何の意味が有って、理事会はそんなに馬鹿げて深い穴を掘ってまで「厳重閉架書庫」を作り、恐らくは稀覯本だらけの書庫の中に「抑圧と重力の幾何学」を隠匿していたのか。


 ――この「学園」は、いつから存在するのか。


 何の確たる情報もないが、僕の中で一つの予想が導かれていた。この学園の公然面、謂わば単なる難関進学校に過ぎない「普通級」など、世間の耳目を本来の目的から逸らすための、言うなればただの目眩ましだ。


 逆に言えばこの厳重閉架書庫、〝旧図書館〟などと如何にも曰く付きのように一般職員に流布され、危険を示す浮標ブイが秩序と混沌の合間を漂う存在が、この学園の本質を指し示す多様体のアフィン接続だとすれば、少しは僕が霜田葉月に抱いた罪悪感も、学園に抱いた獏とした不安感も、救われたり取り除かれたりすることはあるまいか。


 僕は〝旧図書館〟で何かを見付けることになるだろう。しかしながら、それが僕の抱いている疑問を総て解消してくれるなどとは思っていない。だがこれは、確かに真実に向けて辿っている道の途中であることを信じている。こんなに確証のないことを考えるようになってしまった僕は、何かが欠落してしまったのだろうか。


 迷いか、それとも躊躇ためらいか。迷いを失くしたが故に、僕は真偽確証のない議論に身を投じる。躊躇いを捨てたが故に、僕はそのような美しくない論理を受容する。誰が、何時いつ、何のために。


「……貴方のせいですよ、霜田先輩」


 気が付くとそれは言葉として音になり、狭いエレベータの籠の中に響く。果てし無く落ちて行くように思えたエレベータは、いつの間にか止まっていて、扉が開かれる。薄暗い回廊の先は対して長くなく、程なくして最奥に大きな鉄扉がそびえ立っているのが見えた。さて、この扉はどうすれば開くのか。


 とは言え、それほど複雑な仕組みが用意されている気もしないが、その根拠はない。カードスロット的なものを探してみるが、それは見当たらない。鉄扉は表面が広く錆び付き、取り立てて手を引っ掛けるような部分もない。単純に押しても動く様子はない。鉄扉に見えるが、実はただの壁かも知れない可能性を内包しているようにさえ見える。


 矯めつ眇めつ眺めているうちに、僕は鉄扉が纏う赤錆の奥にうっすらと紋章のようなものを目にした。暗がりに漸く目が慣れたからかも知れないが、ただの錆にしか見えなかった奥に描かれた紋章には見覚えがある。学生証のカードに描き込まれた細かな地紋の一パターンを取り出した形に相似した図形だ。


「まさか、そんなことは……ね」


 ジャケットの胸ポケットにしまった学生証カードを紋章にかざすと、錆色の内側から鉄扉側の紋章が鈍く赤に輝き、天井と床からほぼ同時に重々しい機械音が唸り出した。どうやらそのまさかで正解だったと言うことか。仕組みは確かにシンプルだし、到底厳重とは言い難い。なにせ僕がこの学生証を失くしてしまえば、あのエレベータもこの鉄扉も突破できてしまう程度の緩やかなセキュリティだ。


 鉄扉が荘厳な重みを持った轟音を立てながら、厳重閉架書庫が僕の眼前にその姿を現す。鼻先をかびと埃の臭いがかすめると、エレベータから続く薄暗い回廊よりもいくらか明るいだけの厳重閉架書庫に書架が並んでいた。然し乍らその様子は、グノーシスの集約地と言うには余りにも禍々しく怪し気な雰囲気に満ち溢れている。


 しかし、それ以上に僕を愕然とさせたのは、僕の探している図書がどこに存在するのかの手掛かりが〝厳重書架〟であると言うだけなのに対し、明らかに広大過ぎるのだ。手近に存在した書架に並ぶ図書の背表紙を見て判別し得る限りの範囲だけでも、蔵書番号どころか時代・言語・分野と汎ゆる分類要素が無視されたまま雑然と並んでいる。


「……まるでCatacombesだ」


 そう、ここは図書館Bibliothequeと言うよりは地下墓所Catacombesだ。かつてここが図書館として機能した時代が有ったとしても今は既にその機能を失い、現在の学園に、理事会にとっては情報整理を行う必要性も失われ、結果ただの貯蔵庫としての機能が取り残された。それが〝旧図書館〟の実態と言うことだ。


 一歩深く厳重閉架書庫の奥へと足を伸ばすと、禍々しい書架群の合間からこれまで気付かなかった照明装置のリアクションが起きた。さっきの紋章のセキュリティと言い照明装置の反応と言い電気系統の存在を伺わせるが、エレベータの技術水準から想定するにこの状態からセンサーだとか非接触ICだとかが存在するようには思えない。それもまた不可思議極まる。


 柔らかい橙黄色の灯りはガス灯を思わせるが、館内の照明が一斉に反応したことによって〝旧図書館〟の図書館らしさが顔を覗かせる。僕が入ってきた入口からまだまだ遠くに書架は整然と並び、その向こうには吹き抜けのエントランスと幾層かのフロアが見えた。恐らくは現図書室と一般閉架書庫の総てを足し合わせても、〝旧図書館〟の何割に及ぶことができるだろうか。


「ここで見付けろって……宝探しかよ」


 あの司書教諭め。何も知らないふりをしてやがったが、本当は知っていたんじゃないのか。現図書室の照会端末が吐き出した照会結果票のプリントアウトを握り潰して、床に投げ付けた。やはり、毒づく相手がいないと言うのは、やや寂しいものだ。


………………………


 それから、四日が過ぎた。


 僕は毎日図書室に日参し、真っ直ぐあの司書教諭の天狗台に向かって行き、その奥に存在するエレベータに向かう。時間によっては放課後などになると司書教諭の代わりに図書委員の生徒が立っているため、その都度いちいち説明しなければならない点は面倒だ。


 特に昨日は、厳重閉架書庫に用事が有るから通してくれと頼んだが、その図書委員の彼女は厳重閉架書庫などと言うものは存在しないと言い張り、そもそも閉架書庫には図書委員と司書教諭以外は入室できないと言う。


 もう一度照会端末を操作して照会結果票を提示すると、彼女はその結果に印字された厳重閉架書庫の文字に目を白黒させ、先輩の図書委員であろう人間に改めて結果を確認させた上で、照会端末の異常だからと追い返されたのである。事を荒立てるつもりもなければ一から説明するつもりもないので、昨日の探索は諦めざるを得なかった次第である。


 無知は時として、人を頑迷にする。誰が言った警句だったかは思い出せないが、まさにそんな事態にぴったりと適合するものだな、と感じずにはおられなかった。とにかく、例の司書教諭が天狗台にどっかと居座っているときでないのなら、厳重書架への入室は控えようと言うことを学習したのである。くだらない話だ。


 そんなわけで五日目、件の司書教諭は、僕が彼女に気付くよりも前に僕の姿に気付いたようだった。


「探索、苦労しているようだな」


 その言葉の端には、少し喜悦を感じた。


「当たり前です」


 その喜悦に対して、苛立ちを隠すつもりはなかった、

 入るのは簡単でも、入ってみたら〝旧図書館〟の全容さえわからない。そもそも現在の本館からのエレベータで辿り着けているのは、後から増築されたただの取り付け道路だったのに、そんなところにまで書架が並べられて無秩序に図書が放り込まれている。


 検索結果には収納書架の位置さえ載ってないし、書架がどれだけ有るのかもわからない。それどころか、収蔵図書数のセンサスが最後に実施された形跡が有ったが、そのタイムスタンプは昭和十五年。もう八十年近く実施されていない。当然のことながら、目録の存在もない。


「諦めるのかい、特別級の優等生クン」

「生憎とそんなに諦めの良い優等生じゃありませんのでね。しばらく書庫の探索に専念します」


 そのために僕は一週間分の食料と記録保持用のPC、その動力となる一週間分の交換バッテリーを用意した。総重量は三十kg、腹立たしい程度に重量は有るが、一日二、三時間程度の探索で埒が明くほどの小さな存在ではないことがわかれば、こちらの対応も必然的にそうならざるを得ないだろう。


「そうか。まぁ、そう言うだろうなと思ったがな」


 してやったり、と言った具合に口角だけで笑う司書教諭が、僕に向かって一枚の紙を手渡す。


「君が初めて図書室に来て〝旧図書館〟へ誘導することになった折から、どうにも気になっていてな。〝旧図書館〟の存在意義やら蔵書管理の実態やら、そういうものを何故理事会が職員にさえ直隠しにしているのか。だから調べた。そうしたら一つ、面白い事実に繋がった、と言うわけだ」

「……先生にはそんな権限が有るんですか?」

「権限だって? そんなもの、あるわけなかろうが。組織として始めから職務分掌が定義されていないだから、こっちは好きにやらせて貰っただけだ。問題が有るとすればそれは、この学園の組織体系そのものに有ると言うことだよ」


 やれやれ、この司書教諭、どうやらかなりの食わせ者だ。だが、手渡された紙に書かれている内容には見覚えがある。


「……中央棟の回廊? 恐らく、厳重閉架書庫の」

「そう、別名〝空中回廊〟。これがかつての〝旧図書館〟の本館であり、受付カウンターが有る。ここに棲み着いているヤツがいるのさ」


 あの〝旧図書館〟に、棲み着いている?


「棲み着いていると言うか、理事会に飼われていると言うか……まぁ、拘禁されていると言うのが一番正確なのか。まぁそいつに対して必ず日に三度、東館の学生食堂からエレベータで食事が搬送されていることがわかった。厚生課の中でも極秘中の極秘、その事実を知っているのは歴代の厚生課長のみ」


 つぐつぐ秘密めいたことが好きな連中だな、ここの運営者は。


「だから厚生課長の首根っこを締め上げて、昨日の夕食搬送の際に通信を付けたやったのさ。君の探している文献名と著者名を渡して、探索しておいてくれないか、とね」

「それで、見付かったと言うことですか? この地図が示している地点に、あの図書は存在すると?」

「意味まではわからんよ。まぁ、行ってみればわかることだから、それで良いのではないか? それに〝旧図書館〟に棲み着いた座敷童子の正体も、あたしや厚生課長ではわからんが君なら知ることができる。行って、てめぇの眼でしっかり見て来やがれ、ってことだろう。だから――――」


 そう言って司書教諭は再び席に着くと、さっきまでの食わせ者感の気配を消し、まるで置物のような平穏さを取り戻した。


「――――そのキャンプ装備一式は置いて行け」

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