Proposition 1. (reprint)「恋愛感情」は感情ではない。
proof. 霜田葉月との、ある意味運命的な
その二週間もの時間を使って、僕は霜田葉月から与えられた問題を解いていた。使われている単語が微妙に古めかしく感じられたり、軽微な誤解が有ったりしたところからは、なぜか会ったこともないエイダ・ラブレスの幻影を見ているような気がしたが、どうにか僕はこの稀代の未解決問題に結論を出すことができた。
当日は昼頃になってから、クリーニングから返ってきたままの制服を着て登校した。梅雨明け間近の夏日、儀礼的なネクタイが非常に鬱陶しい。彼女が登校している保証はなかったが、僕には確定めいた予感が有った。どうせ彼女は〝時計塔〟に居るのだし、僕は連絡先を知らないけれど校務職員へは必ず連絡先を持たせているから、会えないと言う可能性は限りなく低いと思っていた。
だがその可能性は、あっさりと崩れ去った。〝時計塔〟はすでにその姿形の一切を失くしていた。慌てて事務棟の校務に話を訊きに行く。ちくしょう、何てことだ。僕の二週間を無駄になんてできるかよ。そんな想いが意識を焦燥させる。思うに任せない足取りで窓口に辿り着き、矢継ぎ早に詰問を浴びせた。
「〝時計塔〟はどこに行ったんですか!?」
しかし校務職員は、全くその名前に聞き覚えがないと言う顔をしていた。
「ほら、西校舎と体育館の間に有った塔状の建物ですよ! いったいここ二週間で何が有ったんですか!?」
「ああ、あの建物は……実は、先週末に崩れちゃったんだよ。特別級の霜田さんって子が管理していたと言うことしか知らなかったんだけど、あれは〝時計塔〟って言ったのかい?」
そうかい、それは僕の想定する中でも最悪の事態だ。僕が結論を出せぬ間に、既に〝時計塔〟は自らの物理的限界に耐えられなかったと言うことなのだろうか。
「……それで、崩れたあとは?」
「中から霜田さんは助け出されたよ、奇跡的に怪我もなくね。その、〝時計塔〟だかの機械の中に包まれて、まるで機械が彼女を護っていたように見えたねぇ。まぁ、その後片付けは何か理事会のほうでやるとか言って、一晩で綺麗さっぱりよ。まぁ、でも霜田さんはやっぱりショックだったのかねぇ」
「彼女に……何かあったんですか?」
「普通級に移ったよ。過去に特別級に認められた能力が、消えちまったらしい。本人にはそもそもの自覚がなかったようで、特別級には置けないと言うか、正直普通級でも難しいらしい。ただ、どうしてもやり残したことが有るから、それまで転校させずに置いてくれ、と言うことだ」
「何年何組ですか!?」
「二のCだよ」
それだけわかれば校務に用はなかった。そもそも霜田葉月が先輩だったことさえ知らなかった僕に、彼女の身の上に起きたことを云々する資格は毛頭ないだろう。だが、僕は確かに人生で初めて、誰かのために何かを為したつもりでいたのだ。それが
「恋」は「愛」に比べれば些か傲慢で打算的で、相手から相応の見返りが生ずることを目的としている感情である。いわば麻疹のようなものであり、精神病質の一種である。そう捉えることによって「恋」と言うものの本質は幾らかぼかされてしまう側面も否定しかねるが、概ね「恋愛」という一つの熟語の中にはそうした排反の事象が組み合わされている、と言うことだけ理解してくれれば良い。
相手に対して「恋」が傲慢なのは当たり前だ。なぜならその方向付けはつねに自分を向いているからだ。それが「愛」と排反する最大の問題だろう、なぜなら「愛」はつねに他者に向いているのだ。これが自分に向いたものを「自己愛」と呼び半ば病気扱いするのは当然の流れなのである。
二年C組の教室は、如何にも普通級らしく賑やかで、ちょうど実力テストが行われていたらしく
「あの、すみません」
扉の近くに立っていた女子の先輩に、なるべく柔らかく話し掛ける。
「こちらに、霜田葉月先輩はいらっしゃいますか。私は一年……確かB組の――――」
そこまで言い掛けると、その先輩は教室の隅でお弁当を食べている女生徒を引っ張ってきた。教室は
そんな思いに
「お久しぶりです、霜田です。わざわざ持ってきてくださったんですね。ありがとうございます」
別人だ。僕は心の中でそう認定した。だがその反面、彼女は別段記憶を失っているようには見えなかった。恐らく少し話し込むだろうと言うことで、僕はかの因縁の〝時計塔〟の跡地に彼女を連れて行った。
「霜田先輩はその、〝時計塔〟のことは?」
「もちろん覚えています。ただ、あの頃の私は今の私ではないんです。もう〝計算に愛された女〟は、存在しないんです」
やはりそうなのか。もはや機械と言う領域さえも凌駕し尽くさんとした、エイダ・ラブレスの偏愛と妄執はすでに地上から解き放たれてしまっていた。いや、もっともそれで良かったのかも知れないのだけれど。
「そうなんですね。それじゃあ、先輩に言っても
「……その?」
「間違ってたんです、エイダの書いた前提条件は。だから目的関数は求まらなかった。僕が二週間も掛けたのは、その前提条件の修正案と、それに基づく目的関数、及びそれに纏わる幾らかの定理の証明だったんですよ」
そう言って僕は文書の格納されたUSBフラッシュメモリを手渡す。まぁ実際に最終的な前提条件を書き記したのが、当時の霜田葉月なのかエイダ・ラブレスなのかはご存知でないのだが。
「そうだったんですか。じゃあ、やっぱり〝時計塔〟は失敗だったんですね」
霜田先輩は本当に普通の女子高生のように微笑んだ。いや、今や普通の女子高生でしかないのだが。
まぁ、そうなんだろうな。現実的な解としては。〝時計塔〟とは名ばかりの、機械仕掛けの計算モンスターみたいなプロジェクトだったけれど。ただ、当時の彼女の
「……私、転校するんです。それまでの力を失くしちゃったから特別級も取り消しになって、普通級でも勉強ついて行けなくて、もっとレベルの低い学校に転校するんです。でも……貴方に託したあの問題の答えだけは、エイダのために…………受け取りたかった」
そう言うと霜田先輩は、双眸から大粒の涙を零して泣きじゃくった。それがなぜ零れ出したのかは、条件が多過ぎて候補が絞り難い。だが、僕には何となく合点が行っていた。
多分、恐らくだけれど。本当にエイダのことを霜田先輩は好きだったのだ。それが憧れからくるものだとしても、その根拠には乏しく十分性を保てないけれども、そうでなければ僕の答えをエイダのために待ったりはしなかっただろうし、できなかっただろう。
彼女が憧れ続けたエイダ・ラブレスは、やがて彼女、つまり霜田葉月自身となることを求めたのである。その結果を受け容れるために、霜田葉月は自らのアイデンティティを「ボク」という一人称に求めた。彼女は確かに〝計算に愛された女〟であり、同時に〝エイダに憧れた女〟だった。そのための触媒が〝時計塔〟だったのだと考えれば、あまり労せずに合点が行かないだろうか。
ゆえに、今僕の目の前で号泣する女子高生は、霜田葉月であると同時に霜田葉月ではないのだ。言うなれば同一の「意識空間」から
なぜなら違いの部分像を結ぶ写像は定義されていなかったからなのだ。平たく言えば、嘗ての霜田葉月と現在の霜田葉月の間に共通した関係性を単純系の圏に見出すことは不可能なのである。
だから霜田先輩は
「霜田先輩、貴方には何一つ非はありません。そんなことを言われても、嬉しくもないでしょうけれど、霜田葉月は確かに〝計算に愛された女〟だったと思います。だから、胸を張ってください」
こんな言葉は、感情から来るものではない。感情と言うのは喜怒哀楽に代表される瞬間の状態であって、精神状態に対する作用素以外の何者でもない。だから、僕は今フラットな精神状態だ。何かに束縛されているように引き込まれていると感じるあの精神状態を、今の霜田先輩から感じ取る事はできようがないのだ。
「じゃ、先輩。僕はこれで。そのUSBメモリは――――」
差し上げますから、と危なく言い掛けた僕は、すぐさまその言葉を飲み込むと、もっと適切な語句を適用することを選んだ。
「――――必ずエイダ・ラブレスと霜田葉月に渡してください。僕からのラブレターですから!」
今現在、僕に恋愛対象は存在しない。ゆえに恋愛感情と称される、浮ついた精神状態では有り得ない。それでも僕は、初夏の陽射しさえ気にならぬほどに、少し浮かれている。 ■
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