Axiom 5. 霜田葉月は「概ね」エイダ・ラブレスである、と認識することに論理的な矛盾は生じない。

 ここからが本筋だ、と霜田葉月は語り出す。それまで彼女が浮かべていた微笑めいた表情は変わらないが、その語気にはこれまでよりも確かに意識的な強さを感じ取ることができた。


「チャールズ・バベッジの『解析機関』を完全に理解していた『私』は、実際には『解析機関』のためのプログラムは書いておらず、その実態はバベッジが書いたプログラムのデバッグをしていただけだと言うのが、歴史上の定説だ。だから『私』が歴史上最初のソフトウェア・プログラマだと言うのは誤謬ごびゅうだとね。それはそれで良いじゃないかと思うのだけれど、どうもボクはその点が引っ掛かるんだね」


 ちょっと待てよ、霜田葉月。


「その、さっきから一人称が『私』になったり『ボク』になったりするのは、どういうことなんだ。それも急に、今このときになって突然」

「ああ、失敬。『私』はエイダ・ラブレスで『ボク』は霜田葉月だ。これから話すことは主に『私』のことだから、こうしてご登場願っている。混乱させてしまって悪かったね」


 余計に混乱する。彼女は二つの人格を一人称で認識した上で、同一平面上に像を結ぼうとしているのだ。具体化しようとする意識さえ阻まれる精神的な圧迫感に、僕は少々吐き気さえ覚えていた。


「エイダ・ラブレスは貴族だ、そんな野卑やひな喋り方はしないだろう」

「『私』は『私』が本来生きていた時のエイダではなく、ボクに寄託されたエイダだからね。まぁ、あまりそんなところで混乱されることはボクの本意じゃない。問題は『私』はなぜ『解析機関』の全容を知り得たのか、本来それだけの才能を『私』は持っていたのか、その答えは今の『私』にはわからないのでボクが思考するのだけれど、どうも『私』は本来、解析機関に対して誇大評価をしていたんだ。解析機関という、事実上はコンピュータでさえない計算機だとされた機械に対してね」


 周囲をほぼ金属的な機械音で満たされた空間の中で、相変わらず『私』と『ボク』の間を自在に飛び回る彼女の告白に付いていくことは困難を極める。だがここで僕がストップを掛けたとしたら、その結果として僕はこのどうしようもない好奇心を留めることができるだろうか。不可能だろう、なぜなら僕はあの螺旋階段の時点で逃げることができたことを知っていながら、こうしておめおめと〝時計塔〟の内部まで侵入してしまったのだから、この推移律は正しく単純系で構成されている。


 ならばこれはもう、「恋」なのだ。その対象が霜田葉月なのか〝時計塔〟なのか、はたまた実はエイダ・ラブレスなのかはわからないが。


「解析機関の万能性は一部に於いて正しいと言われている。但しそれは当時の科学水準に照らせばであって、例えばENIACが実質的には世界最初の完全電気式コンピュータではなかったように、歴史の奥底に潜まれた真実を日の下に暴露すると言うのは、時として人を鼻白はなじらませるだろう。でも『私』は解析機関の万能性を信じていたんだ。まだ日の当たらない未知の深淵に辿たどり着くための鍵を手に入れることができる、『私』はそう思っていたのだろう。それもかなり本気でそう考えていたようにボクは思うね。君になら、バベッジの解析機関がその用途に足るほどのものではないことを端的に理解できるだろう?」


 そんなもの誰だってできるだろう。現代でさえ数学はコンピュータの手に余る存在だと言うことを、知らずに生きている人間がこの世界に居るなんてことは、僕には到底受け入れられないことだ。


「だから『私』はボクの力を借りて、君の力も借りて、バベッジの理論が完全であったことを証明する。『私』の、つまりエイダの妄執もうしゅうにも似たその想いであるところの、ボクを依り代とした『私』の使命が、結果としてボクが偏愛して止まない機械式計算機の技術と最新の情報科学を以って〝時計塔〟を生み出した。だが〝時計塔〟はノイマン型コンピュータとしての実装を放棄したために、専用計算機としての役割しか果たさない。その『役割』が君に伝えたい第二の特徴だ」

「何をするつもりだ。時間旅行か、それとも人類絶滅か」

「君はボクや『私』を何だと思っているんだろうね。そんな物騒なものではないが、これが実現して公開されれば、確かに世界中に混乱を引き起こすことは間違いないだろう。でも、『私』の目的は決してそんな復讐めいたものではなくて、これはれっきとした科学的な興味から成り立っているんだ。安心してくれ」


 待てよ、と僕の心のシグナルを脳が受信した。物騒なものではない、と言っているのだから高エネルギー兵器の類ではない、だが公開されれば世界が混乱を来す科学的興味とは。

 ――――あれだ。


「……素因数分解」

「ご明答。流石は『数学に囚われた男』の面目躍如めんぼくやくじょと言ったところだな」


 褒めそやすな。それは確かに公開されれば世界中の情報セキュリティが一瞬で崩壊しかねない、まさに核兵器を作って撃つよりも恐ろしい状況さえ現出しかねない最悪の『夢』であり、その部分に拘り続けていたと言うのなら正にそれは偏愛であり妄執に他ならない。


「量子コンピュータは確かに0と1の重ね合わせ状態を、ブラケット・ベクトルを応用してスピンとして持つことができると言う点に於いて、現在のコンピュータにはない並列度を誇るけれど、所詮扱えるのは量子ビットに過ぎないんだ。だからボクは『私』にこう言ったんだ、ディジタルに拘る理由などない、機械式計算機であれば定量的にアナログ量を扱えるじゃないかとね。しかしどの程度の計算機資源があれば量子コンピュータを凌ぐ性能を出せるのかは、結局荒っぽい仮説の状態でしかないんだ。そこで、君の出番と言うわけだよ」


 もしこの企みが本気なのだとしたら、僕は断るべきだったろう。『あの一件』が有ったからこそ、僕には今、そう思える。


「前提条件は与えてある。恐らくこの前提条件の部分に、間違いはないはずだ。ボクも君ほどではないが数学の素養は持っているからね。従って君にお願いしたいのは、この非線形最適化問題を解いて欲しい。恐らく、世界中を探しても君にしか頼めないことだ」

「なぜ、そう言い切れる?」

「君はいつでもこの場から降りることはできたはずだ。あの仮橋かりはしを渡り終えるまではね」


 そう言うと彼女――それが霜田葉月かエイダ・ラブレスかはわからない――が紙束を渡して寄越した。


「なるべく早く解決してくれれば嬉しいけれど、君でも簡単な問題ではないはずだから、答えは急がないよ。いや、もっともボクが死んでしまう直前とか言うのは、困るのだけれどね」


 紙束はレポート用紙で、全体的に多少の文法乱れは――その中には前時代的な表現が混ざっていることも含む――あるものの、概ね綺麗に書かれた英文ベースの文書だった。

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