Remark 4. 霜田葉月はラブレス男爵夫人オーガスタ・エイダ・キングではない。

 エイダ・ラブレスの名は、計算機科学の領域では特別な意味を持つと言う。曰く人類史上最初のソフトウェア・プログラマとして、彼女はそう長くもない計算機科学の歴史の原点に近い場所に君臨する象徴的な存在であった。だが、しかしだ。僕の記憶が定かならば、エイダ・ラブレスは十九世紀中にその生涯を閉じている。となれば彼女――エイダ・ラブレスではない、霜田葉月は何を思って自らをエイダだと言うのか。その理由は一つしか有り得ず、かつ極めて否定的な収束を見せる。


「貴方がまさか前世などと言う非科学的なものを信じる人だとは思わなかった」

「ああ、ごめん、言い方が悪かったね。いや、確かにボクは霜田葉月だし、本当のエイダ・ラブレスは歴史の通り死んでいるし、君の言う通り前世などと言うものは存在しない。霊魂も転生輪廻てんせいりんねも、全ては宗教や一部のオカルトとしての存在でしかない。だがボクはそれでも、霜田葉月であると同時にエイダ・ラブレスなんだ」


 いや、だからどうしてそういう話になるんだ。どうしてそこまでしてもなお貴方は、自らがエイダ・ラブレスであると言い続けるんだ。


「君は専門が違うから興味はないだろうけれど、エイダはチャールズ・バベッジが終生追い求めた結果、完成することのなかった機械式計算機である解析機関に対する完全なる理解者だった。解析機関が完成を見なかった理由は様々だけれども、一番根底に存在するのは技術的な問題と同時に、それほどの計算機を必要とされなかったと言うのが大きいのだろうね。確かに理論的にはすごい、けれどそんなものは別にいらないと言うわけだ。恐らく君なら、こうしたお話の結末は理に適っていると思うだろう」


 反駁はんばくする要素はなかった。十九世紀のヨーロッパにおいて、工学と言う概念は明確ではなかったし、巨大な機械式計算機は当時としてはハイスペックに過ぎた、と言う点は容易に想像できる。


「本で読んだことがある。"Difference Engine"だから、題名的には『階差機関』かな」

「君は専門以外の本を読んでいるのか。すごいな、ボクとは大違いだ」


 父の本棚に有ったのを、子供の頃に読んだだけだ。その頃は英文に触れるのが楽しかったんだ。当時の僕にとっては、内容まではさっぱりわからなかったけれど。


「計算機とコンピュータの違いは、プログラムを書き換えることが可能か否かに掛かっている。そう言った意味の上に於いても、解析機関は間違いなく原始的なコンピュータだったと言えるだろうね。ただ、現代のコンピュータが満たすべき要件を満たしているわけではない。ボクがそんな前時代的なメカニズムに興味を抱いたのは、勿論ボク自身がこれまで幼少期から積み上げてきた情報科学の知見の賜物だと思っているよ。バベッジの挫折から百年以上経った今、実は解析機関そのものを作ろうとするプロジェクトが始まっていることを知った時に、ボクはようやく気付いたんだ。なぜボクはコンピュータに興味を持ったのだろう、なぜボクはこれほどまでに『計算』と言うことに執着をいだき続けるのだろう。そうした積年の疑問が氷解したのは、確かにあの瞬間だった」


 彼女はまるで独り言のように誰もいない階段の先に向かって話し続けるが、それは勿論僕に向かって話しているのだろう。今なら僕は回れ右をして階段を駆け下りることができる。運動には自信が有るとは言えないが、彼女との体格差や生物学的性差に於ける運動能力の単純比較を考慮したとして、彼女に捕捉されるとも思えない。しかし、僕の足は動けなかった。確かに僕らは伽藍の階段を登っているが、それと同じような速度で〝計算に愛された女〟の深淵に向かって沈み込んでいるようにも感じた。


「〝時計塔〟は君が述べた通り、予め与えられた手順で計算を自動実行するだけの計算機だ。但しその結果の出力はなにもパンチカードに出力されるわけじゃない。ただ、〝時計塔〟はこれまでの機械式計算機が持とうともしなかった、いや、当時――つまり、チャールズ・バベッジの頃の時代的には持ち得なかったと言うべき、る二点の特徴を備えている」


「どういうこと?」

「そのまず一つ目を、これからお目に掛けようと思う。ただ、この特徴は君を連れて来た理由とは関連性こそあれ、求めるものとは違うものだ。まぁ、言うなれば前座と言ったところだろうか」


 霜田葉月はそう言うと、ある階段の一段でしゃがみ込むと階段に隠されていた小さな扉を開けた。扉の奥には八桁のダイヤルと鍵穴が用意されている。彼女は幾分複雑な手順でダイヤルを操作し、最後に鍵穴に一本の鍵を挿し込んだ。

 すると、その機械のすぐ傍からガチャガチャと言う機械音が高速で鳴り響き始め、それと同時に二メートルほどの『道』が〝時計塔〟の中枢部に向かって伸びて行く。


「この橋を架けるのが特徴なのかい」

「まさか。これは単に〝時計塔〟の中に入るための自動架橋に過ぎないよ。ただ、つねに同じ位置から中に入られるとは限らないから、普段は格納されているだけさ。耐荷重には問題がないけれど、安全のための柵までは付けられなかった。是非とも落ちないようにだけ気を付けて欲しい」


 普通に真っ直ぐ歩けるのであればそうそう落下はしなさそうな橋では有ったが、橋の道筋を外れようものならあっという間に奈落の底への一人旅だ。概観で底まで三〇メートルはあろうかと言う空中回廊を散歩するのは、景色の見映えこそ悪くはないが心臓には悪影響が有りそうだった。


 やがてその回廊も中枢部と結合し、僕らは〝時計塔〟の内側に作られた機械の高閣へと立ち入る。その隙間はまるで、予め人を通すために適した大きさになるように誂えたかのように口を開き、恐らく天井部から差し込んでいるのであろう光が、薄暗い機械の腸へと送り届けてられている。内部は想像を絶するほどの数でひしめき合った、細かな部品が奏でる鈍い音で満ち溢れていた。


「この辺りを見てくれると良いかな」


 彼女が指さした辺りは微妙に光が届いておらず薄暗かったが、僅かに反射する光の影響で部品が生き物のようにうごめいていることだけは大凡確認できる。その中では、一定の速度で金属板が送られ、一定の長さでカットされ、また別のラインへと自動的に送られると、そこでは歯車やぜんまい、シャフトやパイプと言った機械を構成する部品を作り、更に複雑なラインへと送られて行く。


「……これは?」

「〝時計塔〟は自らに予め内蔵されたプログラム、と言うよりはメカニズムによって、自己の構成を成長させる仕組みが備わっている。こうすることによって、〝時計塔〟は自らの内部に幾つもの主構成と隷属れいぞくする複数の副構成の組を互いに持ち合い、一方では共有メモリとも言えるだろう共通のクランクシャフトに対して、各主構成による演算結果の出力を接続する。こうした演算を反復することによって〝時計塔〟は理論上無限に成長することができるんだ。いや、当然物理限界は超越できないのだけれどね。それはともかくとして、これがボクが君に見せたかった〝時計塔〟の一つ目、つまり自己増殖する計算機の特徴だ。ああ、原材料だけは外部から投入されているのだけどね」


 開いた口が塞がらない。自らを構成する部品も自らの部品を形作る工具も作り出し、全てを機械の仕掛けに置き換えながら自己成長し、そのうえ並列駆動する『計算機』なんて聞いたことがない。


「動力はどうなっている。こんな巨大な仕組みを動かすのに、そのエネルギーが莫大でない保証は一つもない」

「その推論は正しいよ。機械式計算機が主流であった当時、もっとも大きな動力源に君臨していたのは蒸気機関だったことは当然知っているだろう。無論〝時計塔〟のエネルギーアーキテクチャも、当時の時代背景になるべく沿った形で踏襲とうしゅうしたいと思っている。しかしながら、その全てを化石燃料で賄うのは非常に難しいんだね。その集積自体の難易度もあるけれど、それよりも燃焼と言う現象そのものが不可逆で制御し難い性質の化学反応であることも含めてね。もちろん現代の科学力を持ってすれば、核分裂による原子力エネルギーを利用することも可能だが、そうでなくとも危なっかしい代物の下敷きに核爆弾を置くのは、流石にどうかと感ずるだろう?」


 そう言って彼女は話をはぐらかしながら、僕を伴って〝時計塔〟の更に中心部へと潜り込む。時折壁面を構成する部品に制服や腕を引っ掛けてしまうが、それで部品が外れてしまうようなことはなかったし、そう言った虞のあるものはこうした人道の壁面に配置しないようにプログラムされているようだ。


 ただ、確実に言えるのは、霜田葉月とさっき初めて出会ったときの煤け具合と言うものが、間違いなく〝時計塔〟によって生み出されているのだと言うことだった。

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