Definition 3. 恋愛空間Lを与える。L内の素系l∈Lの冪集合P(l)が任意のp-進体上の環を為さないとき、Lを「複雑系」と呼ぶ。

〝計算に愛された女〟は僕が思っていた以上に奇妙な人間だった。僕らが通称〝時計塔〟と呼び習わしていた建物は一般生徒の立ち入りを厳重に禁じられており、唯一の入り口には厳重なセキュリティが施されている。そのような奇怪な建物が、まさか所詮中等教育の場でしかない高等学校に存在することの奇異は、つとに学園の七不思議化扱いされてもおかしくはないだろう。些か俗な物言いにはなってしまうが。


 だが、彼女はそんな防壁を物ともせずに汎ゆる暗号を復号し、一つまた一つと扉を開いていく。何枚かの扉を開けると、その中は大きな伽藍がらんのような造りをした文字通りの塔と、その中身を埋め尽くさんばかりの不可思議な機械たちが不気味なアンサンブルを奏でている。


「この学園が普通の学校とは明らかに違う、と言うことに君は当然気付いているだろうね」


 僕は彼女の先導で、外壁に設えられた螺旋らせん状の階段を登り始めた。そこから幾分、無言の時間が流れた後に彼女は取って付けたようにそんな質問をしたのだ。


「わからない。僕はこの学校しか知らないから、ほかの学校がどんなところなのかも知らないし、興味はない」

「この〝時計塔〟のこともかい?」

「存在は知っていた。教室で時々話題になっているのを、聞いたことがある。でも僕はどこにも時計なんてついていないのになぜ〝時計塔〟と呼ばれているのか、と気になった程度だ」

「そうかなるほど、つまり君はあまり同級生と馴染なじめていないようだね」


 そう言って彼女はからからと笑った。冗談じゃない、何で僕があんな連中と話を合わせなければならないと言うんだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。もちろんそれが社会的に見れば我儘わがままであることは重々承知していることだが、ならばそれは社会に出てから実行すれば良い。勿論社会などと言うわずらわしさの象徴にかかずらう必要が今後一切生じないと言うのなら、どれほど幸福であろうことかと思わずに居れないが、その一方で学生のうちに学問以外のことを身に付ける必要性があるような程度の低い人間と、僕は同じ扱いをされたくない。


「確かにそうだ、だがそれは貴方もそうだろう」

「うん、まぁね。馴染もうとするのは確かにつまらないし面倒だし、それ以上にボクの先見性を認めない連中とつるんでいるのは退屈の極致だね。ジャン‐イヴ・ジラルドとジョン・チャールズ・レイノルズがかつて互いに独立してSystem Fを構築したように、いや、もっと言えばチャールズ・バベッジが解析機関を構築しようとしたように、ボクらにはまだ未解決の問題としてすら明るみになっていない、広大な未知の宇宙が広がっていると思うと、そっちのほうが幾らも面白い。彼らは彼らで青春時代を謳歌おうかしているつもりなんだろうし、少なくともこの学舎まなびに潜り込んで来たと言うことは、世間では相応に秀才なのだろう。だが、ボクらにはちゃんちゃらおかしいことだ。ボクもそれなりの期待を抱いてこの学校に来たけれど、そんなボクみたいに希望を持った連中であってもいずれは必ず失望する。いわんや君をや、だ。君の意思、意欲、意識に関わらず、それは早晩だろうね。だからボクはボクなりのやり方を見つけたし、君も結局そうなる。いや、現在進行形でなっていると言うべきかな」


 ふむ。だがそれはそれでまた、僕よりもさらに傲岸不遜ごうがんふそんなようにも思えるけれど、確かに彼女は〝計算に愛された女〟としての現在の状況を楽しみ、また同時に受容しているようにも見える。それが彼女の真実の側面かどうかは不明だが。


「それにしても、君は頑なだな」


 登り続けていた階段の途中で、不意に彼女が振り返った。その表情は、本校舎の廊下で出会したときと同じような、悪戯を仕掛けたあとの子供のような笑顔だ。さらに言えば僕のことを『頑な』だと表現したことも興味深い。


「ああ、そうだね。そろそろ答え合わせをお願いしようと思っていたところだよ。まず一つ、今この学校の在校生の中で、この〝時計塔〟の内部に入ることを許されているのは貴方だけだ。二つ目、更に言えば〝時計塔〟の中で動いているこの奇怪で無骨で、そのくせ異常なほど繊細な機械を作ったのも貴方だ。最後に三つ目」


 言いながら僕は、彼女の瞳孔を見つめた。大きくはっきりとした双眸は、早く早くと次の言葉を待っているように見える。だがこの結論は、正直口にするのははばかられるような事柄でもあった。


「これは、計算機だ。つまり〝時計塔〟と呼ばれるこの建物は巨大な機械式の計算機であり、貴方はその設計者であり製造者だ。違うかい」


 僕はそのとき極度に不安を感じていたように思うが、それは予想が的外れであることではない。なぜならこの予想は、ここまでのエヴィデンスが揃えば誰にだってできる、ごく当たり前の結論でしかないからだ。つまり僕が怯懦きょうだにならざるを得なかったのは、その結果が正しいことによって引き起こされる全く不可測の事態に、僕が巻き込まれることが決定事項である点なのだ。


「流石だ、ご明答だよ。コンピュータではなくて『計算機』だと言い当てたところまでも完璧だとは、いやはや、ボクでも畏れ入ったよ。でも君は一つも嬉しそうじゃないね、ああそうか、ボク程度の女に褒めそやされたからと言って暢気のんき喜悦きえつするような人間じゃあないと。それもまた素晴らしい、だがボクにはどうも引っ掛かるんだよね。君は寧ろ、何かを憂虞ゆうぐしているようにさえ見えるのだけれど、これはボクの気のせいなのかな」

「僕は人より多少数学ができるだけの、普通の人間なんだ。『数学に囚われた男』などと呼ばれることさえ汚らわしく思うような人間に、この状況が歓迎できると思うほうが、僕から見れば遥かにどうかしている。だからはっきり問うことにしよう、〝計算に愛された女〟。貴方の目的はなんだ」


 鍵になる言葉は渡したつもりだったのだがなぁ、と彼女は少し残念そうに天を仰ぎ見る。それからまた、一歩ずつ少し重た気な足取りで外壁の螺旋階段を登り始めた。


「ボクの目的は、バベッジが果たせなかったエイダ・ラブレスの『夢』を取り戻すことだ。なぜなら『私』は誰あろうラブレス男爵夫人オーガスタ・エイダ・キングであることに他ならないからね」


 しまった、と思った。僕はとんでもない人間に見初められ、恐るべき人間に興味を抱いている。これは憂虞などと悠長なことを言っていられる話ではない、もはや戦慄せんりつの域だ。

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