Lemma 2. 「恋」は事象として単純系である。

proof. 彼女は〝計算に愛された女〟と言われていた。ただそれだけならば、数多いる才気の一人に過ぎなかったろう。ゆえに彼女は、些か変わっていた。〝計算に愛された女〟は俗世の汎ゆる諸問題から乖離かいりし、独立した存在であった。

 僕が彼女の存在を知ったのは入学からしばらくした、あと少しで夏季休業を迎えようかという、そんな時期であったように思う。そもそも僕は他人のことに関心が有るわけではなかったが、少なくとも僕の心の中に於いては前述の命題が重くもたれていた。定期レポートの提出を終えた夕暮れの校舎で、できれば抽象的な議論のまま解決したいと考えていたところに、彼女は忽然と姿を表した。

「君かい、『数学に囚われた男』とは」

 変声期を迎える前の少年のような不躾ぶしつけな声を聞き取った方向を見やると、そこにはすすや油に汚れた浮浪児のような姿だが、確かにこの学校の制服を着た女子生徒が居た。僕は数学に「囚われた」覚えはない。だが、くだんの命題についてのみ言うならば、僕の興味の大半を占めていることは間違いないだろう。恐らくは彼女もまた、何かに偏向した興味を持つ何かであろう存在は、その年頃の少女としてはあまりにも取り繕わない身なり、例えばぼさぼさと雑然な髪型や、そこかしこに付いた黒い染みからも見て取れる。つまり彼女は僕のことを一方的に知っていて、僕は彼女の存在が既知ではなかった。さらに言えば彼女はやけに自信家のようでもある。そのことは、どこか余裕を持っていながらにして人を小馬鹿にしたようなにやけた笑顔と、それでいながらにして僕と言う存在を鋭く射抜くような瞳の奥の銃座に象徴されていた。

「ふぅん、どうやら本物っぽいね。君の論文を読ませてもらった。BSD予想、いや、より正確にBirch and Swinnerton-Dyer予想と言うべきかな。未解決問題に挑むその姿勢は研究者として立派だけれど、どうもボクにはそう見えないんだなぁ」

「あれは別に書こうと思って書いた論文じゃない。楕円関数論はそもそも僕の専門じゃないんだ」

 そうだ、僕は単に今更同級生たちと机を並べて学ぼうとも思わない科目の単位と引き換えに、学校のくだらない虚栄に満ちた名誉のために手を貸しただけに過ぎなかった。

「なるほどね、ならば道理が行く。しかしそれでも、L-seriesの問題は君が着手している大きな研究題材の解決に役に立ちはしないだろうか? そう、君が『単純系p-進体幾何』と呼ぶ、あの理論にね」

 彼女はそう言うと、まるで悪戯を成功させた少年のような顔で笑った。

霜田葉月しもだはづき。聴いたことくらいは有るだろう、『計算に愛された女』とはボクのことだ。ああ、ボクが自分のことを『ボク』と言うのは、別に性的自己同一性の問題ではないよ、単に『私』と言うのが恥ずかしいだけだ。ボクの両親は、あいにくとそのようなことに頓着とんじゃくする人たちではなかったものでね、そうやって育ってきてしまったんだ。更に言えば、ボクが君を探していたのには勿論もちろん理由が有る」

 彼女が僕を探していたと言うだけでも少し驚きだが、彼女の専門は、その忌まわしく汚らわしい「二つ名」に沿えば計算機科学のはずだ。確かに応用数学としての立ち位置は有るが、僕には応用数学の必要性が理解できない。その彼女が、僕を探していたと言うのは瞬時に判じかねる理由だった。

「そもそも君が追い求めている、その『単純系p-進体幾何』と言うのは、随分と難しいんだよね。あれはまだワーキングドラフトの域でしかなかったんだったろうか? 形式意味論の素系より自然演繹で結論を見出だせる論理命題を単純系と呼び、その単純系同士の幾何的構造を任意のp-進体上のかんとして見出す。つまりこれまではシークエント計算で表現されていたものが、単なる多重集合ではない別の数学的構造を持つ、言うなれば単純系の圏からp-進体の圏への関手かんしゅと言うべきなのかな? これが成立するのだとしたら、確かにこれまでの意味論は覆りかねない。そんな内容だったと記憶しているんだけど、誤りがあるなら訂正して欲しい」

 彼女の理解に概ね誤りはなかった。ただ、その後の進展によって現在はもう少し大きな領域で発展を見ているのだけれども、そのことを彼女が知らないのは無理もない。なぜなら僕が実際に校内の学術雑誌に公開しているのはそこまでだったからだ。

「驚いた。そこまで正確に理解している人間が、この学校の中に居ることに、今僕は新鮮な驚きを覚えている」

「そう、それは重畳ちょうじょうだ。ならばボクがやろうとしていることも、君に理解して貰わねばなるまい。少々ご足労そくろうを願えるだろうか? 何、大したことではないよ、どうせこの校内に留まる範囲の問題だし、君の研究時間を大幅に割いてもらうつもりもない、ただし――――」

 そう言って彼女はくるりときびすを返して、僕に背中を見せる。その背中もまた、油や煤に塗れた染みが色濃く彩られていた。

「――――君は確実に、このことに興味を持つだろう。そのことは、期待してくれて構わない」

 彼女がそのときどんな表情をしていたのか僕には窺い知れなかったが、大凡おおよその予測は付いていた。きっとその表情は自信に満ちていて、それでいてまるで悪戯な子兎のように、これから起きることを楽しみに待っているような、きっとそんな表情だったに違いない。

 僕は確かに興味を抱いていた。だが興味があるのは、彼女の研究対象だとは言えない。むしろ僕としては、〝計算に愛された女〟本人への興味のほうが強かったのだ。当然これからの事実によってそれは打ち砕かれる程度のフラジャイルな代物であったとしても、第一手順としての素系から伸びる単純系は、確かに構築されようとしていたのだ。■

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る