Lemma 2. 「恋」は事象として単純系である。
proof. 彼女は〝計算に愛された女〟と言われていた。ただそれだけならば、数多いる才気の一人に過ぎなかったろう。ゆえに彼女は、些か変わっていた。〝計算に愛された女〟は俗世の汎ゆる諸問題から
僕が彼女の存在を知ったのは入学からしばらくした、あと少しで夏季休業を迎えようかという、そんな時期であったように思う。そもそも僕は他人のことに関心が有るわけではなかったが、少なくとも僕の心の中に於いては前述の命題が重く
「君かい、『数学に囚われた男』とは」
変声期を迎える前の少年のような
「ふぅん、どうやら本物っぽいね。君の論文を読ませてもらった。BSD予想、いや、より正確にBirch and Swinnerton-Dyer予想と言うべきかな。未解決問題に挑むその姿勢は研究者として立派だけれど、どうもボクにはそう見えないんだなぁ」
「あれは別に書こうと思って書いた論文じゃない。楕円関数論はそもそも僕の専門じゃないんだ」
そうだ、僕は単に今更同級生たちと机を並べて学ぼうとも思わない科目の単位と引き換えに、学校のくだらない虚栄に満ちた名誉のために手を貸しただけに過ぎなかった。
「なるほどね、ならば道理が行く。しかしそれでも、L-seriesの問題は君が着手している大きな研究題材の解決に役に立ちはしないだろうか? そう、君が『単純系p-進体幾何』と呼ぶ、あの理論にね」
彼女はそう言うと、まるで悪戯を成功させた少年のような顔で笑った。
「
彼女が僕を探していたと言うだけでも少し驚きだが、彼女の専門は、その忌まわしく汚らわしい「二つ名」に沿えば計算機科学のはずだ。確かに応用数学としての立ち位置は有るが、僕には応用数学の必要性が理解できない。その彼女が、僕を探していたと言うのは瞬時に判じかねる理由だった。
「そもそも君が追い求めている、その『単純系p-進体幾何』と言うのは、随分と難しいんだよね。あれはまだワーキングドラフトの域でしかなかったんだったろうか? 形式意味論の素系より自然演繹で結論を見出だせる論理命題を単純系と呼び、その単純系同士の幾何的構造を任意のp-進体上の
彼女の理解に概ね誤りはなかった。ただ、その後の進展によって現在はもう少し大きな領域で発展を見ているのだけれども、そのことを彼女が知らないのは無理もない。なぜなら僕が実際に校内の学術雑誌に公開しているのはそこまでだったからだ。
「驚いた。そこまで正確に理解している人間が、この学校の中に居ることに、今僕は新鮮な驚きを覚えている」
「そう、それは
そう言って彼女はくるりと
「――――君は確実に、このことに興味を持つだろう。そのことは、期待してくれて構わない」
彼女がそのときどんな表情をしていたのか僕には窺い知れなかったが、
僕は確かに興味を抱いていた。だが興味があるのは、彼女の研究対象だとは言えない。
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