残酷な名画

「暑かったでしょうし、冷たいお茶でも飲む?冷蔵庫の中に何か入っていたと思うけれど…」

 養母が話を止めてお茶を勧めてきた。


 冷蔵庫の中には数種類の飲み物が入っていて、僕はその中からほうじ茶を取り出した。


 養母の初めての男が、興味本位で誘った既婚の大学講師であったことにはあまり驚かなかったが、それを育ての息子である僕に話したことは意外だった。

 彼女が過去の恋愛話など、この場でするとは思っていなかったからだ。


 元々養母はあまり自分のことを話さない人で、僕自身あまり詮索してはいけないと思っていた。


 僕の実母は、子連れで養母の兄と結婚した。その後、彼との間には双子の娘ができたので、僕の異父妹にあたる彼女らは、養母にとって血の繋がった姪っ子に当たる。

 彼女らのことを引き取るのは頷けるが、母の連れ子で血のつながりのない僕のことも一緒に引き取ってくれた。

 その恩もあって、引き取られた時にまだ乳児だった異父妹の世話は自分がすると決めて、医師である忙しい養母の負担を軽減することに尽くした。


「里中先生と出会っていなければ、全然違う人生だったように思うの…」

「直樹さんは、サロメ事件って呼ばれている殺人事件のことをご存知?」


 養母の問いに対して、僕は少々緊張した。

 その事件をきっかけに養母と養父が知り合ったという話は聞いていたが、養母が事件に関与していたというのではあるまいか…


 サロメ事件…そう呼ばれた理由は、見つかった死体と一緒に袋に入っていた写真にある。


 見つかった遺体は男性の頭部のみだった。

 一緒に入っていた写真は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオによって描かれた絵画『サロメ』を真似ていて、女性が盆に乗せた男性の生首を掲げているものだった。

 1555年頃に描かれたその残酷な名画は、現在はスペインのプラド美術館にあり、1世紀頃に実在した王族の姫君をモチーフにして描かれた作品である。新約聖書にも登場するサロメを描いた作品は数多くあるが、サロメ事件で送られてきた写真は、ティツィアーノの絵画に似せられていた。


「私があの日、里中先生と出会わなければ、サロメ事件は起こらなかったと思うのよ…」


「その里中先生という人が殺されたのですか?」

「いいえ。里中先生は今もご健在かと思いますよ」


 一瞬の沈黙があり、養母の表情が変化するのを感じた。


 昔感じた影のある笑顔、そして、それはどこか人間を超越した凄みを感じさせるもので、その表情に今は近い…



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サロメの冷笑 Kikujiro @kikujiro

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