上弦の月

 兵庫県豊岡市にある城崎きのさき温泉。柳並木が川を囲み、有名な文豪も小説の舞台として選んだことのある風情ある街で斎藤美鈴さいとうみすずは生まれた。


 美鈴の母、千代は旅館の娘として生まれ、後継として嘱望されていたが、客としてやってきた陶芸家、斎藤仙之助さいとうせんのすけに気に入られ、早々に結婚してしまったため、家業は千代の弟である正忠まさただが継ぐこととなった。


 しかし、正忠が家業を捨てて出て行ってしまったため、千代は旅館の女将と陶芸家の嫁を兼任せざるを得なくなる。


 女性は高等教育など受けるべきではないという時代に生まれたため、千代は学歴こそなかったが、元々聡明で商才のある人だったのだろう、正忠が傾かせた経営状態をすぐに立て直し、仙之助の作った陶器を売ることにも尽力した。


 そして、千代が旅館に戻ってきてから一年後、美鈴の兄である一郎が生まれた。


 一郎は父親譲りの端正ながらも柔和な美男子として成長し、一郎より二年遅れて生まれた美鈴も、母親譲りの長身と透けるような白い肌、涼しげな目元が印象的な少女となった。


 仙之助は千代を溺愛していたため、その風貌そっくりな美鈴をこの上なく大事にし、一郎に対しては、それほどの執心はなかったものの、良好な親子関係を築いた。夫婦仲もよく、世間一般から見れば、何不自由ない幸せな家庭に位置付けられるとも言えた。


 兄の一郎は、若い頃からその眉目秀麗さを武器に、周りの女性から絶大な人気を集めていて、温泉街のある大谿川おおたにがわ沿いを歩く一郎の傍にはいつも別の女性がいたのに対して、美鈴はと言うと、長身と端麗過ぎる容姿のため、周りから敬遠されることが多く、男女ともに友人と呼べる人間がいなかった。


 美鈴は、情緒溢れる城崎きのさきの景色が好きではあったが、そこにいる人間への執着はなく、大学進学を決める際には迷わず東京を選んだ。


 そして、医学部に入学してまもない頃、美鈴にとって生涯に一人の大事な親友となる緑川桃子みどりかわももこと出会うのである。


 桃子は父親が病院長で、母親は財閥の名家出身という噂だったが、本人は令嬢と言うよりは芸術家とでも言ったほうが相応しい、何か人とは違う飛び抜けた感覚の持ち主だった。


「親に結婚相手を決めてもらう人生なんて絶対嫌。私の人生は私が決める」

 はっきり物言う桃子は、華奢な体とやや赤みを帯びた髪、小麦色の肌にはそばかすを纏って、それは例えて言うなら「赤毛のアン」の世界から飛び出してきたような容姿だった。


 ファッションを愛し、男性を弄ぶことに生き甲斐を感じる小悪魔的存在…けれど聡明ゆえに人に恨まれることなど皆無であろう如才ない女性でもあった。


 それに対して美鈴は、小さな頃から空手を習い、中学では剣道部、高校で弓道部に所属した武道の人間で、ファッションに興味はなく、桃子とは一見共通点がないようにも見えたが、二人に共通して言えるのは、容姿端麗であること、成績優秀であること、人に流されず冷淡な側面を持っているということだった。


 そして、唯一共通の趣味とも言える音楽の話では大いに盛り上がった。

 桃子は情操教育の一環として、バイオリン、ピアノ、三味線、琴など様々な楽器の経験があり、音楽好きで自らチェロを弾くことを趣味としていた美鈴の好奇心の的だった。

 

 当時、美鈴の大学生活の人間関係といえば桃子以外にはなく、美鈴は同性愛者ではないかと度々噂されていた。


「美鈴は同性愛者なの?それとも両刀?」

 桃子にすら揶揄われたこともあった。


 多分異性愛者なのだろう…

 性的な映像などを見た時には、そういう事をしてみたくなる。だが、相手は誰でも良かった。特定の誰かを愛することがないという点においては、同性愛者でも異性愛者でもないと美鈴は感じた。


 人を愛せないということを自覚した頃、美鈴は妊婦の薬物治療についての授業を受けていた際に、自分が子どもにも興味がなく、母性を持たないのではないかと思うようになった。


 一般的な女性は愛する人の子どもを欲しいと思うようになるらしい…


 愛と欲望の違いは何なのだろうか…


 誰かを愛することはないだろうが、好奇心を満たすため、とりあえず、性的な関係にだけはなってみようか…。

 桃子に選んでもらった上等な服を着て、唇に紅を引くと、美鈴の黒髪と白い肌が際立った。


 その日の夕暮れ、校内で時々見かける男性に声をかけた。美鈴と並んでも見劣りしない長身に、筋肉質の良い体をしていた。

 左手の薬指には銀色の指輪が光っていたが、見なかったことにしようと美鈴は決めた。


 真紅の唇は、淫靡な気配を美鈴に纏わせた。

 上弦の月に照らされて、青白く一つに重なった肢体は、その月が西の地平線に沈む頃に二つに分かれた。




























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