あんだー・うぉーたー・わんだらー
紗水あうら
*
お風呂の蛇口から、女の子が出て来た。
「なにそれ、意味わかんないんだけど」
普通の人なら絶対にそう言うと思うし、多分あたしもそう答える。だけど困ったことにこれは完璧に事実だし、事実だからあたしは実際に困っている。
蛇口から出て来た女の子は、当然のように裸だ。
「あー、よかったぁ。今回は女の子の家だぁ」
蛇口から出てきた女の子は、動揺しているであろうあたしのことを見て一言、満面の笑顔でそう言った。
ただ〝今回は〟と言うことは、もう何度もこの子はそういう経験をしているに違いない。
あたしは思う。それはそれで、どうなんだと。
「なにそれ、普通に意味わかんないんだけど」
翌日の学食。高校からの付き合いである友達であり、恐らくあたしともノーミソの出来は大差ない
ほらみろ、あたしの言った通りだ。誰だってそう思うに違いない。
「あたしだってわかんねーよ。でも実際そうだったんだし、今も多分あの子家に居るから、今日会いに来る?」
「めんどくせーよ、アンタん家遠いし。それにウチは別に証拠が見たいって言ってんじゃねーの。なんで
それには事情がある。あたしはお風呂が広くないと、イヤなのだ。
お風呂こそがあたしにとっての癒やしの場所であり、リビングよりも寝室よりも大事にしなければならないのは、浴室だった。
しかし、東京の家賃は高い。だからあたしの条件に叶う物件はあいにくと、入った学校からも実家からも遠かった。東京からもいくらも離れた。
でもあたしにとっては、ただそれだけのことだ。
「と言うわけで、お風呂は最優先なの」
「そんなこと言ってるから、蛇口から人が出てきたりすんじゃねーの? で、その子は何者なわけ? 妖怪とかお化けとか?」
そこまでは、あたしも良く知らん。
蛇口から出てきた女の子、それ以上のデータはあたしの頭にはインプットされていない。名前も知らないし、生まれも育ちもなにも訊いていない。
だって訊ける?
バスタブにお湯を注ぐ蛇口の栓を開いても、しばらくお湯が出てこないままうんともすんとも言わない。
おっかしーなー、と独り言を言いながら蛇口を叩いたりしてさ。この時間に水道工事の店呼ぶのかぁ、高いだろうなぁ、とか考えたりしていたらね。
文字通り、にゅるり、って感じで水の塊みたいなのが出て来て、それが人の形になっただなんて現象を目の当たりにして、だよ。
その当人に向かって、アンタの名前は、住所は、って訊ける? そんな冷静な人間だったら、もっとあたしは違う人生を歩んでいたと思うよ。
まぁ、名前くらいは訊いておくべきかもだけどさ。
「……はぁ、優花ってホント、そういうとこが呑気って言うか、天然って言うか」
「天然とかじゃねーよ別に」
「天然はみんな自分は天然じゃないって言うんだよ。アンタもそのタイプだからな」
マメにケアされた綾祢の、人差し指のネイルが私の視線に向かって突き立てられる。この会話の一節はこれまであたしたちの間で、何度繰り返してきたか知れないほど同じ問答をしている。つーかお前またスカルプ変えたの? カネ持ってんな。
「いやでもマジで天然とか関係ねーんだよぉ。あーどーしよ、バイト増やさなきゃダメかもしんねーな……」
「なんでさ。アンタ、学校とカテキョーと塾講でパンパンじゃん。そっからバイト増やすとか普通に地獄じゃん」
「だってあの子の分の食費も増えるだろ?」
綾祢は心底憐れむような目で、あたしを見る。
「……ホントお人好しな、優花は」
そうかも知れない。あたしだって高等工科学校進学にあたって、両親に学費を出して貰っている手前、生活費の類いは自分でバイトで稼げと言われている。不承不承その条件は飲んだけれど、ママは本当に困ったときは言ってね、とは言ってくれている。
だがその理由が、浴室の蛇口から女の子が出て来たので、彼女の食費を負担してくれないか、と言うのは果たしてどうだろう。
あたしがママの立場で、娘にそう言われたら?
心配するのは、お金のことより心の病気だと思う。
……………………
「おかえりなさーい」
いつも通りにバイト先から戻り、アパートの扉を開ける。
普段は灯りなど点いておらず、真っ暗な部屋に無言で帰宅するのだが、今日は勝手が違う。
蛇口から出て来た、臨時の同居人がいるからだ。
「……ただいま」
同居人はリビングのソファに、ちょこんと腰掛けてテレビを見ていた。服はとりあえずあたしの部屋着を着せている。背格好はあたしと大差なかったから、その点は問題なかった。
「あの、さ」
どうにも口が重たい。
あたしは少なくとも彼女の――いや、見た目だけで勝手に彼女と呼んでいるだけだが、本当の雌雄はわからない――プロフィールについて、いくつか尋ねておかなければならない。それが彼女との降って湧いた共同生活に先立ち、まずあたしがクリアしなければならないことだ。
「どうしたんですか?」
彼女はテレビから視線を外して、あたしの顔をまじまじと見ている。その目は淀みを感じない、無垢な子供の目のようだった。
「……あなたの、名前は? あ、あたしは優花」
「うーん、特に決まった名前はないですねぇ。なので、優花さんの好きなように呼んでください」
ペットじゃあるまいし、あたしが勝手に付けて良いものなのか?
「うん、じゃあ、名前はちょっと考えとく」
冷蔵庫から作り置きのお茶をコップに注ぎ、あたしはリビングのソファで彼女の横に座る。
「で、あなたは人間なの?」
訊く順番に自信はなかった。
けれども、少なくとも彼女は決まった名前を持っていない、と言った。人間であれば、ほぼ高い確率でそんなことは起こり得ない。もちろんそれは全数に保証されているわけではなく、いくらかの決して少なくない悲惨な例外も起こり得るのだけど。
だから彼女は人間以外の何かだ、と考えておくほうが心の準備はしやすい。そう思ってこの質問をぶつけた。
でもこんな聞き方をしたら、彼女を傷付けてしまうかも知れない、とも思っていた。思っていたのに。
「あはははは!」
彼女は笑い出した。
「優花さんは面白い方ですねぇ。人間が水道の蛇口から出て来られるわけ、ないじゃないですか。あはははは」
笑われて気付く。彼女の論理のほうが正しい。
「じゃあなんなの?」
一頻りソファの上で笑い転げている彼女が落ち着いた頃合いを見計らって、改めて質問をする。
「んーとですねぇ、詳しく説明すると長くなっちゃうんですけど良いですか?」
良いも何も、聞かなければわからないからね。
「元々は私も人間だったんですけど、お風呂に入ってたんですよその日。そしたら私の意識だけが肉体から分離しちゃったんですね。それで、分離した意識はお風呂のお湯に溶けて一体化しちゃいました」
……ええと?
「ごめん。ちょっと意味がわからない」
こめかみの辺りがチクチクと痛い。水に棲む妖怪だとか言ってくれたほうがまだわかりやすい。意識? 肉体と分離? どういうこっちゃ、あたしにはさっぱりだ。
「ですよねぇ。私もそう思うんですけど、起こった現象としてはそういうことなんで、その辺はいったんそういうことなんだって、飲み込んで貰えると助かりますぅ」
彼女は幾分申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、うん。取り敢えず飲み込んだ。続けて?」
「はい、それで分離した私の意識はお風呂のお湯と共に流されちゃったんだと思います。いろんなこと忘れちゃったんですけど、その瞬間はよく覚えてるんですよぉ。お湯と一緒にすーっと流れて行ってるなー、って言う感覚があって」
「ちょっと待って。その、残った肉体って言うのは?」
「うーん、たぶん生きてはいると思います。私がこうやって水を経由して存在できるのは、恐らく本来の依代であるところの肉体が残っているからかと。ただ、意識は今ここに居ますから、肉体のほうは恐らく植物人間でしょうねぇ」
なんだかもう、くらくらしてきた。
どうしてこの子はそんな大事なことを、他人事のように言えてしまうのだろう。
……………………
彼女とはその後、夜を徹して話し合った。
いや、話し合った、と言うのは少し実際と反する。
あたしは一方的に彼女を質問攻めにして、しかし彼女はそこから逃れようともせず、ありのままの事実を語った。
だから話し合いと言うよりは、尋問だ。テレビドラマとかで、刑事さんが容疑者に自白を迫るみたいに。
彼女との対話の中で浮かび上がった現象や経緯は、あたしが今まであまりにも平凡に生きて来すぎたからだろう、少しも現実味を感じることはできない。
だが実際の現実として「肉体」と「意識」とが分離を起こし、その「意識」は湯船のお湯に溶けるように水と一体化したまま下水に流され、浄水場から上水道を経由して突然誰かの家の水道を通って彼女として顕在化するのだと言う。
この一連の経緯が素直に「ああ、そうなの」と言える人間がいるのなら、出て来てくれ。たぶん彼女といい友達になれるだろうから。
ただ、少なくとも水に溶けたままになっている間は確かに水の部分に過ぎないが、現在の彼女のように人の形をしているときは、ほぼ人間と変わりがない。
つまり、お腹も空くし眠くもなる。だから彼女は今、あたしのベッドで眠っている。
あたしは到底眠れる気もしなくて、たまたま冷蔵庫の中に眠っていた缶チューハイを飲みながら、彼女との対話の内容を整理していた。買った記憶はないので、たぶんコンビニのくじかなんかで当たった景品だと思う。お酒はホントは、あまり好きじゃない。
それはともかくとして、彼女の核となる「意識」が持っている記憶は、ところどころで欠落している。しかもそれが自分の名前であったり、親の名前や家族構成、自分の年齢、数え上げればキリがない。
でもあたしはそれで、あーなるほどな、と思ったことがある。彼女は自分のことを語るとき、まるで当事者意識がないと言うか、はっきり言うと自分のことなのに他人事のように語ることがあるのだ。
難しく言うならば自己同一性が欠如している。
一応これでもあたしは――世間様には所詮高工生だと嘲笑われても!――高等工科学生であって、専攻以外にもそれなりの学識は有ることを自負しているのだけど、それもまた自己同一性の上に成り立っている。あたしがあたしであることの同一性を保っているから、そういう自負が生まれる。
しかし彼女にはそれがない。彼女が言うには、「意識」が水に溶け合って同化している間にそう言った部分的な記憶が希釈されてしまい、だから彼女から見れば単に忘れてしまったのだと言うんだけども、なんか引っ掛かる。
それはもはや疑問と言っていい。彼女は、水に流されると表現した以前の「自分」を、そもそも捨てたがっていたんじゃないのか、と言う疑問。
元々「意識」と「肉体」を紐付けていた一つの情報の形が自己同一性であり、それを捨てたいと思っていたから、何かを契機にして互いが分離した。
そこに事件性が有る可能性も捨てきれないが、単純に思春期によくある自分嫌いを拗らせただけかも知れない。
分離した当初はわからないし、恐らく彼女もそんなことは覚えていないだろうが、かつては恐らくもう一度「肉体」と再結合されることを望んでいたと思う。
でも、今の彼女にはそれがない。別に彼女はこのままずっと都市の下水道網の中を彷徨する存在であることに、不自由も感じてはいないようだ。
このまま行けば、いつか彼女の短期的な記憶も、核となっている記憶も下水とともに水に希釈され、浄水場で選別されていくだろう。
彼女を彼女たらしめている「意識」と言うものの核心が希薄化すれば、彼女と言う存在自体が消失する。
翻って「肉体」のほうは、寝たきりが続けばいずれは衰弱するだし、もう存在していない可能性だってある。彼女がそのことを観測して連動しているとは到底考えられない。
ただ、これだけははっきりした。
彼女は私にとって危険な存在ではないと言うことだ。
いつまでも「あなた」と呼ぶのも煩わしいので、彼女には「
水から生まれた水生は、いずれまた水に帰って行くだろう。あのときバスタブの蛇口から出て来たように突然と現れて、排水口から流されるように消えて行くのだ。もう一度水生の「意識」を「肉体」に結合できない限り、水生はずっと下水道の旅人で在り続けたまま、いつか希薄化して「意識」の形を無くす。
そう思ったから、そんな名前を与えた。
水生は簡単な漢字だからうれしい、と言った。
……………………
水生と言う同居人が現れてから、あたしの生活は一変したかと言うと、別にそういうわけでもない。
水生はそもそも割と賢い子だが、意識が水になってから時間がそこそこ経過している模様で、普通なら覚えているだろうことも割と覚えていなかった。その割には言葉は達者なので、存外もとの年齢はあたしとそう変わらないのかも知れない。
食費は確かに多少増えたが、倍になることもなかった。水生は少食だったし、食材の保存や使い道なんかは、自分でネットで調べたりして知識を得ているようだった。合鍵を作ったし生活費の大半は彼女に持たせた携帯端末に紐付けしてあるから、彼女は毎日スーパーに買い物に行ってご飯を作ってくれる。
古いジェンダーロールを持ち出すのは癪に障るが、ぶっちゃけ現状は同居人と言うより「いい嫁」だ。炊事に洗濯、掃除と家事に必要なことを通り一遍教えただけで、水生はそれらのタスクを完璧にこなしてみせたし、私のランチになるお弁当まで持たせてくれるようになった。
水生が言うには、こうして短期的に得た記憶ほど、また水に戻ると希薄化しやすく定着しづらいのだそうだ。これまではどうしていたのだろうと心配になるが、もちろん水生はそのことを覚えていない。
一度水に流れてしまえば、それまでのことがチャラにできる。リセットボタン付きの人生のようなものだ。
問題は、そのボタンがいつ押されるのかわからないことと、記憶ごとリセットされるから「やり直し」と言うことにはならないことか。
水生の難点を言うならば、あたしの古いくたくたの部屋着と突っ掛けで出掛けて歩くことくらいだ。
サイズ的にはあたしと大差ないのだから、あたしのクローゼットを勝手に使ってくれて良いと言っているのだが、あたしのワードローブは水生のお好みではないのか、着て出掛けた形跡を見たことがない。
仕方ない、いつか服を買いに行こう。
そう約束はするものの、学業とバイトで文字通りぱっつんぱっつんのあたしのスケジュールには、なかなか休日のお出掛けと言う時間は取れなかった。完全オフの日は、泥のように眠る習慣が身に付いたあたしに、休日のお出掛けは荷が重すぎる。
そこでふと思い出したのだ。
別にあたしが水生を連れ出す必要はない。実家通いで経済的にも余裕があり、ファッション情報にも抜け目なく、あたしと違い誰からも愛されやすい華やかな性格――と、裏腹の腹黒い打算がもたらすバランス感覚――を持った友人がいるじゃないか。
「……で、ウチに連れてけ、って言うの?」
キャンパスからはそれほど離れていないファミレスの喫煙席で、綾祢はやたらと細いメンソールのタバコを人差し指と中指で器用に挟み、投げ遣り気味に言った。
「頼むよ。水生を預けられるのは、綾祢くらいしかいないんだ。知ってるだろ、あたしの交友範囲の狭さ」
「知ってっけど……てか、まずアンタがそこを改善するつもりはないわけ?」
「ねーな。あたしは別に一人で生きて一人で死んで行くことに、なんのためらいもないしね」
綾祢が深くタバコの煙を吸い込み、深い溜息とともに紫煙を吐き出す。高校のときから優等生で鳴らした綾祢だが、その陰でこっそりいわゆる「非行」をしていたことを、あたしは知っている。なぜそんなことをするのか、と言う点に興味はないので触れなかったことが、あたしと綾祢を引き寄せる要因になったのだから、世の中面白いものだ。
「わーったよ、連れてってやるよ。アンタの地元で良いの? できれば渋谷まで出てきて欲しいんだけど?」
「待ち合わせは地元で頼むよ。そこからどこに連れて行くのかは、綾祢に任せる。あたしにできるのは、水生を綾祢に引き合わせることと、水生に財布を持たせることだけなんでね」
綾祢は傍から見てもわかりやすい合理主義者だ。
自分の利益にならないことは、どんな口実を付けてでも絶対に手を引く。損をすることがわかっている取引には絶対に応じない計算高さこそが、他者から見れば鼻につくかも知れない綾祢の魅力だとあたしは評価している。
綾祢は眉を顰め、眉間に何本もの皺を作って考えている。いや、計算をしていると言ったほうが正しいだろうか。このディールが自分にとって得か損かを、汎ゆるケースを想定しながら必死に脳内の電卓を叩いている。
「……しゃーねぇな。良いよ」
「ありがとー綾祢ぇー、やっぱ君ならそう言ってくれるってあたし信じてたわー」
「あのさぁ……」
綾祢は若干の苛立ちを隠そうともせずに、荒々しい手付きで灰皿にタバコを押し付けてぐりぐりと揉み消しながら言った。
「頼むから、他の友達も作れ。アンタはウチが居なかったらどうするつもりだったんだよ?」
「そうしたら……ちょっとギャンブルになるけど、通販で好きに買えって言うかな」
綾祢はまた深々と溜息をついた。
……………………
綾祢との約束の日、彼女は片道一時間以上掛けてあたしの住む地元までやってきた。
「相変わらず、遠いよ!」
改札の外であたしの姿を見付けるなり、綾祢が吐き捨てた。無理もないが、あたしは毎日この時間掛けて学校通ってんだよ、ほっといてくれ。
「水生、こいつがあたしのほぼ唯一と言っていい友人で、ファッションセンスも高く男子からモテモテの綾祢だ」
「おかしな紹介してんじゃねぇ!」
おかしかねーだろ、お前の良いところだけ掻い摘んで紹介してやってんだ、ちったぁありがたく思いやがれ。
この日、水生にはさすがに部屋着はやめてくれ、好みには合わないかも知れないが、私の服を着てくれ、と頼み込んでようやく水色のワンピースを着てくれた。あたしが着るといかにも垢抜けてないイメージが全面に溢れ出すので、自分でもクローゼットの肥やしにしていた服だが、水生が着るとなぜかそう見えない。
素材の差かっ、これが素材の違いかっ。
そう言いながら手近にあった縫い包みに何度も腹パンを繰り返していた様子を、水生が見ていたかどうかは知らない。できれば見ていないことを望む。
「綾祢さんはじめまして、水生と言います。今日はよろしくお願いします」
恭しく挨拶をする水生に毒気を抜かれたのか、綾祢は特に何かを取り繕うでもなく、軽めによろしくね、と言うだけだった。
「じゃあ綾祢、悪いけどあたしはここで」
「あいよ。帰りの頃合いはウチから連絡すっから。じゃあ行こうか、水生ちゃん」
綾祢は第一印象で水生のことを気に入ったようだった。それが証拠に、綾祢はしっかりと水生の手を引いて、二人で揃って改札を抜けて行ったからだ。
綾祢は華やかな人間だから方々でちやほやされるが、本当はそんなにちやほやされたいとは思っていないし、誰彼なくフラットに付き合いがあるように見えて、近付けたくない人間は絶対に近付けない。あたしに向けてのポーズとして、水生を受け容れたように見せ掛けることもしないだろう。それならばもっと綾祢のことは透けて見える。
一方水生はと言うと、人見知りもしなければ物怖じもしない。恐らく対人恐怖みたいなのは有るはずなのだが、普段はそういった側面を見せることはない。
初めて水生が浴室の蛇口から素っ裸で出て来たとき、確かに彼女は「今回は女の子の家だ」と言ったことから、前回かそう遠くない過去の中で男性の家に出現してしまい、想像したくないがかなり怖い目に逢っていることは想像に難くない。
水生の意識が水と一体になっている間にも、希釈されずに残っている情報としての記憶が有るならば、その実体は彼女にとっての〝傷痕〟だと言っても差し支えないと思う。逆に言えば、そのレベルにならなければ彼女の失われる一方の記憶を、繋ぎ留めて置くことさえ出来ないのだろう。
何でもかんでも水に流してしまうことは、やっぱり良いことばかりじゃねーんだよな、と言うことだ。
そんな二人の背中がコンコースから消えたのを見届けて、二人が乗ったであろう新交通システムの車両が発車するのを確かめてから、あたしは一人駅の改札を通過した。アルバイト先でも学校でもない、別のところに出掛ける用事を予め仕組んでおいたのである。
何もあたしは、ずっと薄ぼんやりと水生との生活が続くのだろうな、などと呑気に構えてはいなかった。
水生の「意識」が「肉体」から離れて「意識」が水に溶けたと言う現象についての、答え合わせをせずには居れない性格なのである。
だって、そんな馬鹿なことが生じ得ると、普通の人間が考えるだろうか? まっとうな科学教育を受けて育ってくれば、人間における「意識」などと言うものは所詮脳神経の働きによるパルス電流の送受で生まれる仕組みだ、と言うことは通常理解しているものだと思っている。
端的に言えば、脳が存在しないところに「意識」は存在しない。
だがまずは、いったん水生の主張を無批判に受容してしまうとする。ならば「意識」と言う存在は脳を介在しない何かと言うことになる。
それがどんな構造で出来ていて、どんな仕組みであたしたちに影響を及ぼしているのか、気にならないわけがない。
なぜなら、あたしはこれでも理系学徒だからだ。まぁ、綾祢もそうなんだけどもな。
結論がすぐに出るとは限らない。それでもだ。もし水生の「肉体」がまだ生命徴候と恒常性を保っていると言うのであれば、やはりその「意識」は元の器に戻されて然るべきだとあたしは考える。
東京方面に向かう休日の電車は乗客の数もまばらだった。まだ二人も県境まで達してはいないだろう。綾祢と水生がどこへ行くのかは知らないが、二人にはあたしの用向きの一切を伝えてはいなかった。
自分でもなぜそんな判断をしたのかよくわからないが、もしこのことを水生に知られたならば、あたしは今でも水生を疑って掛かっている。そう思われるのは、同居する上ではやはり避けたかったのだろうと思う。
……………………
あたしが訪れたのは、あたしが通っているような高等工科学校よりもっと上の「大学」なのだが、休日であろうと普通に行き交う学生たちは自らが名門のオーラを放っているように見えて、多少の劣等感を覚えずにはいられない。
場違いなところにいるなぁ、と我ながら思いつつ指定された建物の門をくぐる。随分と古い建物で、聞いたところによれば第三次大戦前から残っている数少ない建物だと言う。戦前の建物はそれだけで重要文化財に指定されるそうだが、この建物も類に漏れない。
さすがに他大学の先生に会うと言うのに、普段みたいなラフな格好をするわけにも行かず、まるで就活生みたいなコーディネートをしてきたから、人気の少ない建物の廊下に靴のヒールが立てる音が高く響く。
エレベーターで八階まで上がって「第八〇二研究室」と言う部屋を探すが、特に探すと言うほどのこともなく、その部屋は呆気なく見つかった。
建物は古いが、セキュリティは最近のもののようだ。携帯端末を開いて今日その話を訊く先生にコールを入れると、扉は見た目よりもすうっと開いて部屋の中へと促される。
建物全体の何となくの黴臭さを思うと、もっとギシギシと建付けの悪い音がしてもおかしくないと思っていたから、そのことは多少なりとも意外だったのである。
研究室の中はいくつもの机がオフィスの様に整然と並び、その一番奥に大きな机が設えられている。その立派なデスクの向こうに、あたしが面会を申し出た先生だ。
「やぁ、いらっしゃい。二高工の松原優花さんで良かったかな」
「はい。こちらこそ、休日にお時間をいただき申し訳ありません、竹河教授」
あたしは残念ながら分子生物学専攻であって、本来であればまるで畑違いの先生なのだが、水生の件を調べている間に行き当たったのがここの研究室だった。
日本が誇る碩学と評判の先生だが、見た感じは普通の好々爺みたいな、言うなれば「良いお爺ちゃん」くらいにしか見えない。
柔和な表情を崩すことはなく、もしかしたらあたしのことを会いに来た孫娘くらいにしか思っていないのではないかとさえ思う。
そのくらい、妙な圧迫感を感じない。
「さすが二高工に通っておられるだけのことはある、とても良くまとまったレポートだったよ。確かにこれは不思議なことだね」
気を使ってくれているのか、本心からなのかはわからない。なぜならその意図は、表情からはさっぱり読み取れないからだ。
「水生の――あ、えっと、その蛇口から出て来た少女の仮名なんですけど、彼女の証言がすべて事実であると言う仮定付きで言うならば、脳と言う臓器なしに意識と言うものが存在することになるんです。そんなことが在り得るとすれば、これまでの脳生理学研究のすべてが文字通り吹っ飛びます」
堰を切ったように、これまで水生に対して感じていた不安定な感触を余すところなく語って聞かせたところ、竹河教授はやはり好々爺のようにただ、うんうん、と頷きながら聞いているだけだった。
「それが吹っ飛ぶ可能性があるとすれば、キーポイントは情報物理学にある。この認識に誤りがあるならば、先生は私との面会を許諾されることはなかったと思うのですが。違いますか?」
「ああ、まぁ、松原さんね。ちょっと汚くて申し訳ないんだけど、その辺の適当な椅子に座っちゃってくれるかな。立ち話もなんだしね。ちょっと待っててくれるかな、お茶くらいは出させてちょうだいよ」
前のめりになるあたしを竹河教授はいとも簡単に制すると、部屋の隅の電気ポットでお湯を沸かし始める。
仕方なくあたしは、教授の座る席に一番近い椅子に腰掛けて、お茶が出て来るのを待つことにした。
……………………
大丈夫、ちゃんと消毒してありますよ、と言われた湯呑みは馥郁とした香りを放つ緑茶が注がれていた。恐らくこの香りは合成茶ではなく、本物のチャノキを栽培して収穫した天然茶に違いない。普通に買えば、べらぼうな値段がする。
あたしに出されたのは湯呑みだが、竹河教授はなんとプラスチックコップだった。そのことに疑問を抱いたことを伝えると、そそっかしいので割っちゃうんだよ、女房にすごく怒られるんだ、と笑って答えていただいた。
随分と茶目っ気の多い先生で、傍から見ている分には本当に気のいいお爺ちゃんにしか見えない。
「さて、ね」
竹河教授が恭しく席に戻ると、先生の細い目が僅かに見開く。
「まず、松原さんが心配しているような、脳生理学が吹っ飛ぶようなことを、情報物理学では研究していない。だからその不安はまずいったん、取り除いておこうかね。大丈夫、あなたの知っている通り、我々人間の『意識』と言うものを司っているのは、間違いなく脳だ。だが……水生さんと言ったかね、その彼女の様に『意識』と『肉体』が分離する、と言う現象は非常に稀ながら起き得るんだ」
「……どういうことです?」
「うん、ここから少し長くなる。なるべく噛み砕いて喋るように努力はするけれど、僕も些か歳を取って頑陋な物言いをしかねないから、遠慮なくわからないところがあれば、割って入ってくれるかな」
はぁ、と答えるしかない。なぜなら、そもそもの問題として先生ほどの頭脳が語る言葉をどれだけ平易に、あたしでもわかるレベルまでブレイクダウンしてくれるとしても、恐らくそれには限界が有って、その限界は遠からずやってくるからだ。
「ええとだね。まず水生さんが言っている『意識』、つまり自分の中の判断基準であるとか記憶だとか、これらは外部から与えられた情報に作用するものだと考えられるのだけども……例えば記憶。これなんかはコンピュータが、電気的な信号として処理できる」
確かにその通りだ。記憶と言うものも含めて「意識」を構成するのだとするならば、間違いなく記憶は情報そのものであり、電算機で処理が可能だ。あたしたちが日常的に使っている携帯端末もその一つである。
「でも判断基準、つまり思考の部分を司るアルゴリズム……ああ、アルゴリズムって計算方法だね。わかるよね、中等学校の情報科でやってるよねたぶん。まぁ、煎じ詰めれば、データとしての記憶と、アルゴリズムとしての判断基準ね。これを合体させたものって、松原さんはなんだと思う?」
「……プログラムです。初等的には、情報と算法を組み合わせることによってできるものは、プログラムそのものです」
ご明答、と竹河教授はうれしそうに微笑む。二高工を卒業したらウチにおいでよ、などと軽くおっしゃってくれるが、冗談ではない。大学なんてのは、人生を何段階飛び級したら辿り着けるかわからない、文字通りの「象牙の塔」だ。
「つまり、乱暴に言ってしまえば『意識』と言うのはプログラムみたいなものなんだよ。人間の脳味噌の上で動いているプログラム、もっと大きく言えばソフトウェアと言ったところかね。だから『肉体』としての脳がハードウェアならば、『意識』はソフトウェアだと考えると、少し見通しが良くなる」
……そうか、なるほど。
「……実行するには『肉体』が必要だけれども、ソフトウェアとしての『意識』自体は別のメディアに移植された形で、個別に存在し得ると言うことでしょうか?」
「松原さんは本当に、物分かりの良い学生さんだね」
自分の学校の教官にも言われたことのないことを、或る種の学問の頂点に立っている人から言われると言うのも、それはそれで面映いものである。
「ただね、脳で動いているソフトウェアを何でもかんでも、移植できるわけではないんだよね。まぁ、もしかしたら脳と脳の間では可能性としてできてしまうかも知れないんだけども、現実の僕らの世界の中で単独に『意識』を取り出すことはできないね。でも僕らは『意識』から得られた情報を元にして、『意識』を
意識を象る、と言う物言いはいかにも学者らしい、と言える気がする。あたしは必死で携帯端末に録音をしながら、先生の言葉をメモし続けていた。もう少しゆっくり喋ったほうが良いかな、と先生は気遣ってくださるが、そのままで結構ですと答える。
「情報にしろ『意識』にしろ、細胞や原子、素粒子のように形が有るものではないから、情報そのものを捉えることはできないんだね。だから、あくまで情報が残した痕跡から情報を逆算する。そうすることで初めて、情報と言う実体のないものに対して物理的な意味、つまりパラメータとしての物理量なんかをだね、そういったものを与えることで、情報を物理的に扱うことができると言う主張が、僕らのやっている情報物理学なんだね」
目に見えない、手に取れない。そんなものを一つの物理的対象とするために、彼らが用意した論理と言うものは、果たしてどんなものなのだろうか。
それを思ったとき、寒気がしたのを覚えている。
……………………
あたしが大学から家まで帰って来る頃になっても、水生と綾祢は帰るとの連絡は入ってこない。
普段ほとんど家の周りしか出歩かないし、あたしはあいにくとそれほどオシャレなわけでもない。
綾祢のように多方面に様々な情報を持ち、彼女なりの価値観でアクティブに動くほうが、水生には楽しいかも知れない。
あたしが竹河教授から、いろいろととんでもないお話を聞かされている間にも、綾祢は割と頻繁にあたしにメールを送ってくれていたが、その大半は帰宅してから見返すことになった。
綾祢の見立てた服を着てフィッティングルームに立っている水生の写真は、確かに今まで見たことのない水生の一面を切り開いてくれている。
あたしのだっさい水色のワンピースだって、水生が着れば十分可愛らしい。
水生がそういったものを必要としているかどうかは知らないが、写真の一枚一枚から感ずるその表情を見るに、水生にとっては良い娯楽になったようだ。
だが、その一方であたしは、一人で勝手にどうでも良い問題を大きくしてしまった。
それは、水生と言う存在そのものに起因する。
これから水生にどう向き合って行けば良いのか。
そんな不安を抱えながら、バスルームの回線に携帯端末を接続し、竹河教授の言葉を繰り返し再生する。
一つだけ、明確にわかっていることが有る。
水生はいずれ、あたしの前から消えてしまうのだ。
あたしや綾祢の中に、水生と言う女の子がいたことを刻み付けておきながら、水生はいずれもとの水に戻ってしまい、再び下水道の旅人へと帰るのだ。
そのときあたしは、ペットロス症候群的喪失感を味わうに違いない。水生をペット扱いするのかは問題だが。
そんなことをバスタブの中で考えていた。
蛇口がちゃんと閉まっていなかったらしく、滴がぽたぽたと一定間隔でバスタブに落ちる音がする。
それに連れて、ぼうっとした眠気が意識に纏わる。今日は目一杯頭も使ったし、元より疲れもあるのだろう。
脳はシャットダウンしようとしているのに、考える意識だけが別の所にあるような感覚を覚えた。
そこであたしは、はたと気付いたのだ。
――元々は私も人間だったんですけど、お風呂に入ってたんですよその日。
そしたら私の意識だけが肉体から分離しちゃったんですね。それで、分離した意識はお風呂のお湯に溶けて一体化しちゃいました――
衝撃の出会いの翌日、水生は確かにそう言った。
そう言ってたじゃんか。
「……そういうことかっ!!」
バスタブであたしは突然立ち上がって、そう叫ぶ。アルキメデスがエウレカと二度叫んだかのように、あたしは突然閃いた。普通のアパートに比べたら広い浴室だが、高が知れていて当然よく響く。
そのときちょうどタイミング良く、家のインターホンが鳴らされた。回線接続をインターホンに切り替えると、そこには綾祢と水生が映っている。
……………………
二人はえらく上機嫌であった。
どうも買い物を一通り終えて、お腹が空いたからと言うことでトラットリアで軽く食事をし、その際にワインも引っ掛けてきたらしい。
水生にお酒を飲ませたことはないのだが、そこそこいける口のようだ。綾祢が言うにはだが。
「それにしてもまた、随分買ってきたなぁ……」
リビングに広げられた紙袋の数はそこそこの数だ。
あたしが高等工科学校に通い出してから購入した服の量に、十分匹敵するかも知れないほどの量がある。
「いやー、水生ちゃんは服の着せ甲斐あるわー、アンタと違ってな!」
酒が入って上機嫌の綾祢が、高らかに放言した。
「そう思ってたし、そう思うからこそお前に頼んだ。どーだ、あたしの人選に間違いはなかっただろー」
「アンタはそれ以前に友達いねーだろ!」
風呂上がりでバスローブ姿のあたしをビシッと指差して、綾祢がツッコむ。うん、そうだお前が正しい。
「優花さん、お友達いないの?」
二人の会話を聞いていた水生が言い出した。
綾祢はそれを聞いて何とも言えない、恐らく笑いを堪えながら真顔を作って返す。
「優花はね、昔からあんまり人とつるまねーし、なんせ頭が良いんだよ優花は。だから大親友はいないけど、友達と呼んで差し支えないような人間はいっぱいいるよ。もっとも――」
そこまで言って、綾祢はとうとう笑いが堪えられなくなったようだ。
「――優花がそいつのことを友達だと思ってるかどーかは、知らねーけどさ!」
そう言って、綾祢はゲラゲラと笑う。気を許した相手の前でしか見せない、素の笑い方である。それを聞いてなぜか水生も笑っている。笑っているなら、まぁ良いやそれで。
それを見て思ったのは、少なくとも綾祢にとって水生は、あたし同様気の置けない友人として見てくれていると言うことであって、それは一つ安心材料ではある。
それは同時に、綾祢もまた水生がいなくなれば、それだけ心の傷を負わせてしまうこととも等しい。
綾祢は水生の出自を知っている。
水道の蛇口からにゅるりと出て来た水の塊が、みるみるうちに人の形を成し、普通に喋る人間になった。
それが水生の正体だと、彼女も知っている。
ただ、それを気にしている様子は窺えなかった。少なくとも、ごく普通の同世代の友人と言う形で付き合えている。
――だからこそ、いずれは。
そのときが来ることが避けられないのなら、綾祢にはちゃんと真実を告げておくべきなのかも知れない。
だが、買ってきた服を広げては、水生を着せ替え人形よろしく着替えさせて、まるでファッションショーのように楽しんでいる綾祢に、このことを告げるのは恐らく酷だと思わざるを得なかった。
結論として、言わなかった。
綾祢には、その時が来るまで知らせる必要もない。
それを知ることで、綾祢と水生の関係性がぎくしゃくしてしまうくらいなら、何も言わず何も知らせない。
そのほうが、今のあたしたちに大切だと思った。
それでもなお、真実はあたしの心の中で、深い闇を携えてゆっくりとその頭を擡げてくるのである。
……………………
――ここからは、回想録とでも言おうか。
竹河教授はとても丁寧に、紳士的に、今回の現象に纏わる問題点を指摘してくれた。だがその内容はあまりに茫漠だ。
だから様々なものを端折って、シンプルに水生に纏わる現象について言うならば、それは非常に稀では有るが起こり得るものだ、と言う結論なのである。
「〝情報世界仮説〟と言ってね、まぁあまりにも荒唐無稽な話で、到底『仮説』などと言う文言は使えないような、御伽話かSF小説みたいな荒っぽい仮説なんだけどね」
そう言って竹河教授は席を立ち、研究室に設えられた電子黒板に図を描き始める。御伽話? そんな物騒なフェアリーテイル、どこの世界でも聞いたことがない。と言うことは間違いない、これはSFと言うヤツだ。しかもそこそこにハードめの。
「この世界は、一つの無限チューリング・マシンと『神託機械』でできている、と言う仮説なんだね……ああ、チューリング・マシンって知ってるかな、まぁ仮想的なコンピュータでね、二十世紀にアラン・チューリングと言う学者が考え出した、計算モデルの一つなんだけど。昔は電磁式の記憶装置なんてもんはなかったから、代わりに〝無限の〟長さを持った、紙テープを使うんだね。この紙テープがデータであり同時にアルゴリズムでもある。さっき松原さんは言ったね、データとアルゴリズムを結合したものがプログラムだ。その通り、つまりこの〝無限の〟紙テープは、チューリング・マシンにとってのプログラムそのものなんだね」
確かに、〝無限の〟紙テープと言う時点でそれは実現不可能だが、仮想機械としての論理からは外れていない。チューリング・マシン自体が仮説であり、思考実験としての存在であるならば、同時に〝無限の〟紙テープは存在を許される。
「つまり世界は時間を一方向に経過して、現象を得る。逆の言い方をするならば、世界を構築している情報すべてに演算を行うことで、時間が動く。こうした無為のチューリング・マシンの営みに『神託機械』と呼ばれるオプションを付け加えるわけ。『神託機械』なんて大げさな訳語が付いてるけど、単に判断して決定をするだけの機械なんだね。僕らの『肉体』としての脳に接続されている『意識』によって判断された結果は、『神託機械』が取り込む。僕らは、意識的か無意識的かはともかく、常にこうした意思決定の連続を行っている。これによって得られる情報の空間を『算術空間』と呼ぶんだ。まぁ、空間と言ってはいるけども、大いに空想的、思考実験的な存在でね」
さて、厳しくなってきた。知らない用語が爆発的に増えだす頃合いだろうか。
「だから僕ら情報物理学者は、こうした『意識』による意思決定……まぁ、これには実のところ脊髄反射のような本能的行動によって獲得された意思も含むのだけど、とりあえずこのことを『演算』と定義しているわけだね。世界の到るところにチューリング・マシンと神託機械が有って、僕らは『算術空間』を通じて神託機械に対して『意識』下で行われた演算の結果を送っている。これで次の単位時間後の情報を、チューリング・マシンが返す。こうした目に見えない情報の量に、無次元のポテンシャル・エネルギーを仮想的に与えることで、情報と言うものに物理量を導いて行く。それによって構築された『算術空間』の中に幾何的な構造を見出して、その法則性を導く。これが、情報物理学のあらまし。ね、ひどい話でしょう?」
そう言って竹河教授は快活にお笑いになられたが、確かに荒唐無稽も甚だしい。この世界の時間が進む理由は、その背後に仮想的な存在である計算機が有って、あたしたちの『意識』は常に演算を行っていることを理由に、『算術空間』と呼ばれる仮想空間にリンクしている。
「つまり脳の上で動くプログラムであるところの『意識』とは、『算術空間』にリンクするための一種のデバイスに過ぎない、そういうことですか?」
「僕らの世界では、そう言うことになっているよ。もちろん、これが一般的に受け入れられる理論になるまでには、まだ幾らも反証可能性が足りていないけどね。ただ、少なくともさっき僕が言ったようにね、情報と言うものは形を持たないけれども、情報を生み出した『演算』の結果としての意思は、明らかに僕らにとって直接の痕跡を残す。その程度は様々だけど、大なり小なりそう言った痕跡を対象として、算術空間の更に奥にある『情報空間』を認識することはどうもできそうだ、と言うところまで来てはいる。取り敢えずまだそこまで確証には至っていないけども、どうやらそう言うことはできる」
だけど、それと水生について起こっている現象は、どうつながると言うのか?
これまでの説明では、あくまで『意識』と言うのは脳の上で動くソフトウェアに過ぎず、脳の存在なしに『意識』は存在し得ないと言ったはずだ。
しかし、その〝世界情報仮説〟によれば、偏在する『意識』下において行われた演算結果は常に情報として、世界の核をなす計算機の入力として扱われると言うことになる。
と、そこまで反芻したところで、何かが見えてきた。
「……つまり情報を元に『意識』は再構築可能だと?」
「君は本当にすごいね。僕が推薦状を書くから、是非僕か女房の研究室に入ってくれないだろうか? これだけの情報量からその推察ができる学生に、僕は会ったことがない。いや、多分にそれは松原さんが水生さんを見てきたからわかったのだろうけどね」
先生、それは買い被り過ぎです。
……………………
「だから〝情報世界仮説〟も幾分の修正を迫られたんだね。当初は世界の中心に仮想計算機が有る、と考えられていたのだけれども、一つ問題が有ったんだね。それは一般相対性理論と理論的に合致しない点なんだ。
アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論のことを形容して『宇宙のすべてのあらゆるところに時計を置いた』と言った。だから同じ様に〝情報世界仮説〟に基づく仮想計算機は世界の汎ゆる場所に存在していて、それが『情報空間』と『算術空間』と言う、情報によって物理的な対象で構成された層で接続されている、より厳密には集合と写像の関係にある、と考えるほうが自然だと考えられるようになった。
そうすることで固有の場所に偏在する情報と言う存在を、許容できることになった。これは一般相対性理論とも、超弦理論とも相反しない結論を導ける。これまで物理的には観測できないとされていた、カラビ=ヤウ多様体の中で繰り込まれている微小次元の存在も、同時に許容される……この辺は専攻が違うとちょっと難しいね、だからあんまり気にしないでね。まぁ雑に言っちゃうとね、情報は水と言う流体に溶け込むこともできると言うわけなんだ」
なんでそうなるの? 今の話から、どうして急にそこに飛べて落着できてしまうの? 先生、それはさすがに論理の飛躍が大き過ぎです。
「ああ、ごめんね。ちょっと一足飛びが過ぎたかな。さっき『情報空間』は結局集合だと位置付けたわけなんだけども、普通の写像と言うのは『算術空間』から『情報空間』に向かう写像なんだね。でも、単に情報単位で時間を持つことが許容されるものになら、『情報空間』からなにか、例えばわかりやすい物理対象への写像を取ることも、不可能ではないんだね理論的には。
ただ、それを確実に起こす条件はわかってない。そういうことが起こり得る、と言うことまでしかね。特に人間の『意識』を単に情報の塊だとして、それが何か別の空間への写像が発生する原因はね。そうした現象が起こり易いとされる現象が、今注目を浴びているんだ」
「……その現象とは?」
「催眠術だよ。催眠状態と言うのは、脳と言うデバイスが活性化していながら、擬似的に眠っている。つまり人の『眠り』と言うものを突き詰めると、それは脳の状態とは無関係に生じせしめることができるんだね。催眠作用の主な理論は心理学と脳生理学に基づくものだと言うことははっきりしているけれども、それによって一時的に『意識』が生きている脳と分化する、つまり一時的に接続が切れて『情報空間』上に存在する情報の塊としての『意識』が直接、催眠術師の言葉に反応する。それも無批判にね。
これを意図して行うことの危険性は随分前から指摘されているのだけども、逆に効能も有る。例えば心理的抑圧を受け続けている子供、第三次大戦の前線で戦った兵士たち、そうした重いPTSDを持った人たちの抑圧感を、情報として意図的に脳上の『意識』から切り離す。こうしたサイコセラピーは、どこの心療内科でも普通に行われていることを、松原さんも知っていると思う」
確かに聞いたことは有る。
昔は催眠術なんてものはインチキだ似非科学だと言われ続けてきたそうなのだが、近年では科学的反証可能性を備えたサイエンスとして認知されていて、心理学域に於いては必須とも言える知見となってきたことを。
「だから水生さんは、恐らくそう言った施術を行われている可能性が高いんだね。催眠作用によって『意識』の実体と情報の結合度が下がっている。
そこに別の意図しない催眠作用が加わったことで、彼女の『意識』は脳と言う『肉体』を離れた。けれども、そこで『意識』が情報空間だけに存在するようになると、こちらからはアクセスができないんだね」
そう言いながら竹河教授は、机の上に放置していたお茶を一口飲んで、喉を潤された。電子黒板の上には、新しい図が描かれ、新しい――残念ながら、この時点でのあたしには全く意味不明の――数式が書き加えられる。
「そこで算術空間に繋がる写像を張る。この働きは自然に起こるんだけど、そのメカニズムはまだわからない――この辺は女房の研究領域でね。ただ湯船も経年変化はするだろうけれども、水と言う流体に比べれば熱運動量が低い。大気は熱運動量が大き過ぎる。これを情報物理学では『対時間ボラティリティが小さい』とか『大きい』なんて表現をするんだけど、まぁ水のほうが情報として捉えられる周波数帯で、時間変化しやすいんだね。だからボラティリティの比較的大きい水の情報空間にマッピングされようとした。実体として『意識』が水に溶け込んでいるわけではないけれども、情報は対時間ボラティリティと言う尺度の元で同期している。従って情報から『意識』は再構築できるし、『意識』として実世界たる物理空間上に置かれた仮想計算機と接続するために、『肉体』を構成することもできる」
つまり「意識」としての情報が存在すれば、「肉体」は任意に再構成できる……?
「それってつまり、クローン人間……?」
「ああいや、それはクローン人間と言うほど完全な元のコピーにはなり得ないんだね。あくまで結合エネルギーの強い情報、つまり長期記憶やPTSDとして生じ得る〝痕跡〟によって作られている。だから水生さんは、自分の名前も家族構成も覚えていないし、松原さんと会う前に何が起きていたのかもほとんど覚えていないにも関わらず、目の前に立っていた人間が女性だったことで安心した、などと言うのは情報に対するポテンシャル・エネルギーと言う一見架空の物理量を想定すれば、ごく自然なことで、そのエネルギー源はもしかしたら家庭内虐待であったり、性的虐待であったりするかも知れない。しかし、そもそも物理量としては存在しないものだから、このパラメータを扱うことはあくまで仮説とすることがごく自然なんだね」
それがごく自然だ、と受け止められるようになるのに、いったいどのくらいの時間と能力が必要なのか。
「だが本来は催眠状態に近い『意識』が『肉体』を維持するためには、情報空間内で『意識』を構成する情報同士の結合エネルギーも、情報自身のポテンシャル・エネルギーも消費されていく。だからいずれ水生さんは……松原さんには酷なことだけども、水に戻ってしまう。本来の水生さんに『意識』を戻す、と言うのは、水生さんの『肉体』を催眠状態から覚醒させることで可能になるんだね」
……………………
――それから、と言うには割と月日は流れた。
いつ消失してもおかしくないと言われた水生は、実は一年が経過した現在でも元の水に戻っていない。
今でも家を空けることが多いあたしの、身の回りの世話を焼いてくれている。
綾祢ともすっかり仲良くなり、出不精のあたしを放っておいてどこかに遊びに出掛けることも多くなった。
少なくとも水生は今の生活に馴染んでいて、敢えて元の「肉体」に戻りたいと言う気持ちは持ち合わせていないように見える。もしかしたら、心の奥底で望んでいるのかも知れないけれども、それが表に出ることはない。
あたしも正直、どうしたものか長く考えあぐねた。
戻すのか、戻るのか。
水生をいつまでも下水道の旅人とすることを、あたしは受け容れるべきなのか。それともどこかで、その催眠から彼女を解き放たなければならないのか。
あたしが水生に出会ってから、あたしはこの問答を何度となく繰り返し、今でも自分に問い続けている。
その中で、あたしが見付けた〝もう一つの答え〟。
「教授、件の単純時間膜の弾性衝突に関する実験データと、その考察レポートです」
「おお、いつも仕事が早いね松原くんは」
結局あたしは、竹河教授の「御推薦」と言う形で、大学の受験資格を得た。
入試問題は目が眩むほど難解なものばかりだと思っていたが、実のところそうでもなかった。
ちゃんと高等実科学校のカリキュラムを無難にこなしていれば理解できるものだったのは幸いだった。
あたしが選んだ答え。
――水生を今の水生のまま、実空間に固定する。
水生を構成する「意識」が情報の塊であり、それがたまたま水と言う時間流体を選んでマッピングされたものが、一時的な偏在を経て実体としての人間となったと言うのなら、あたしは今の水生を水生として、できる限り保存したい。
水生を構成していた本来の「肉体」はどこかに存在するのかも知れん。だが、何となく墓掘りにも似たようなことをするのは、ちょっと気が引けた。
かと言って放っておけば、水生はいつか水に戻ってしまう。だから、今の実空間に構成し続けられるために、情報のポテンシャル・エネルギーを維持するために、何が必要になってくるのか。
竹河教授は、そのことに一つの方法を投げ掛けてくれた。それが「単純時間膜」。情報空間に存在すると考えられる情報痕跡における、一連の偏微分方程式で表現された関数のことだ。
現状では高々二次元だと考えられているため、模式的に曲面を為すと考えられているため、便宜上「膜」と呼ばれている。だが、情報空間自体は本来無次元であり、無次元の構成要素の上にどうやって「次元」を建て込むのか、そうした問題について研究するワーキンググループの一員になった。
この「単純時間膜」を操作することで、水生の「意識」を構成する情報のエネルギーを維持する。
つまり時間によって失われていくだけのエネルギーを時間ごと戻すことは、恐らく可能なのだ。
そこまでして、水生を「保存」しなければならない理由もある。最終的な結果として、彼女自身がどう有りたいのか。そのことを決めるのはあたしではなくて、水生でなければならない。
だからこそ、その決定が下せるまでのモラトリアムを用意したい。そういう理由なのである。
「……ごめん、さっぱわかんねーわ」
高等工科学校の頃、二人で何かと寄り集まっていたあのファミレスの喫煙席で、綾祢は相変わらず深い溜息とともに紫煙を吐き出している。
「わかれよ、お前だって化学科出てんだろーが」
「化学はわかるけど、哲学の話はわかんねーよ!」
「哲学じゃねーよ、物理だよ!」
「形の無いものの物理ってなんなんだよ!」
綾祢は学校を出たあとは、全く化学とは無関係の仕事をしている。あたしなんかはケチな性分だから、もったいねぇなと思ったりするのだが、そういう進路を選ぶのもまた彼女らしいとは言えるが。
学生時代モテにモテまくっていた綾祢だが、昔から一つ謎なのは、彼氏が居たと言う時期がないことだ。
あたし自身はあまり恋愛に対して興味がないし、なにせ人間的に無愛想にできているから仕方がないとして、綾祢に彼氏がいないと言うのは少々の驚きを持って迎えられても、不思議ではない。
だがその答えは、意外なところに転がっていた。
「でも水生ちゃん可愛いよねー、やっぱウチ水生ちゃん好き過ぎるわー、お前と立場変わりたいわー」
「イヤだ。あたしはあの浴室が気に入って借りてんだ、交換条件にもっと良い風呂が付いて家賃が安くて、大学に近い物件紹介してくれんなら考えてやらんでもない」
「じゃあウチも一緒に住んでいい?」
「どこにベッド置くんだ」
「水生ちゃんと同じベッドで良いよぅ、ベッドなんて二人の間には一つで足りるよぅ」
「あたしが住み辛いわ! なんであたしが二人の愛の巣に乱入した人間みたいにならなきゃなんねーんだ!」
――まぁ、もしかしたら。
近いウチに同居人は、増えるかも知れんな。
あんだー・うぉーたー・わんだらー 紗水あうら @samizaura
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