夜の戦争 後編 1 「人影」
「きぼう棟」から、目覚めて動き出した利用者さん達の対応の応援要請を受けて、原田さんの介護ロボット端末№5「みよちゃん」が応援に向かった。
私は少し状況が気になって「きぼう棟」の様子を確認してみると、101号室と106号室に動く点が2つづつ。多分これが混乱した利用者さんと対応している職員の介護ロボット端末だろう。
他に101号室で離れて動いている点が一つと、102号室、107号室にそれぞれゆっくり動いている点がある。
見ている間に106号室にも動く点が現れた。
なるほど、これは人手が欲しいだろう。
「のぞみ棟」と「きぼう棟」の連絡通路から一つの点が107号室に近づいて行くが、これは多分原田さんの「みよちゃん」だ。
「ひかり棟」と「きぼう棟」の連絡通路からも、点が2つ近づいている。看護師の「けいちゃん」と、「ひかり棟」の「まーちゃん」か「じゅんちゃん」のどちらかだろう。
各棟を完全に空けてしまう訳にはいかないので私と「ひかり棟」職員1人は自分の担当する棟に残っている。
現状で出せる戦力は全て決戦場につぎ込んでいるという訳だ。
多分これで大丈夫だろう。
実際「人格転移型介護用端末システム」を使用するようになって以来、一度も夜間の転倒事故は起こしていないのだから。
午前3時になったので、定時の見回りを始める。
”原田さん、先に201号室から見回りしておくから、そっちが落ち着いたら来てね。でもそっちを落ち着かせるの優先してくれていいから焦らないでね。こっちは今のところ皆さん落ち着いて寝て下さってるから安心して”
”わかりました。よろしくお願いします”
原田さんに伝えて201号室から回っていく。
どこの居室の利用者さんも、皆さん驚くほど良く休まれている。
1人1人の体温、酸素飽和度を計測し体位交換が必要な方の体位交換も行いながら回っているが、体位交換をしても目を覚まされる方もなく、バイタル値を測っていなければ皆さん本当に生きているのだろうかと疑いたくなるくらいにゆったり落ち着いて眠っておられる。
驚くほどに順調に回り、最後に214号室を残すだけとなった。
時刻は意識せずとも記録される。午前3時12分。巡視に大した時間はかかっていない。順調そのもの。
214号室に近づく。
214号室の小窓に、私の「ひさちゃん」のホログラムを纏った姿が映っている。
私は214号室の扉に手をかけた。
その時何か違和感を感じた。
違和感は扉の取手に感じたのではない。小窓だ。
小窓に映った「ひさちゃん」の姿の向こう側に大沢さんが眠っているベッドが見える。
その枕元の横に、人影が立っている。
人影は大沢さんを覗き込んではおらず、私に背を向けるように居室の窓の方向を向いて立っているように見える。
それに気づいた瞬間、私は「ぅひっ!」っと小さな悲鳴を上げ、全身が震え腰を抜かしてへたり込んだ。
そして「キャああああーっ」と悲鳴を上げて「誰か、誰か来てえーっ!」と助けを呼んだ。
そうしたつもりだったが、何故か「ひさちゃん」は最初に扉に手をかけた姿勢のまま動いていなかったし、音声も発さず通信もせず、ずっと変わらずに部屋の中を光学センサーで見ていることに「ひさちゃん」の中の意識の私は気づいた。
部屋の中の人影も、一切動きがなく、ずっと同じ姿勢で佇んでいる。
まったく「ひさちゃん」を動かすことが出来なくなっている。
そのことに気づいた私は更にパニックになり「きゃあああああー、何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何でなのよおー!」と全身をジタバタさせ、その場からどうにか逃げようとした。
なのにやっぱり「ひさちゃん」は動かない。私は焦れて「ああああああああああああああああああああ!」と声を上げ続けた。
「ひさちゃん」が出力できる最大の音量でだ。誰でもいい、誰かとにかく来て!
どれだけそうしていたのかわからないが、喚き疲れて徐々に最初の恐怖の波が少し収まって来た私は「ひさちゃん」からまったく音声も出力されておらず、最初の姿勢のまま一切動いていない、そんな状況を改めて認めなければならなかった。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。
私は念仏のようにそう繰り返し唱え続ける。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け、あれは幽霊じゃない幽霊じゃない幽霊じゃない幽霊じゃない!
ずっと同じ姿勢で静止している「ひさちゃん」の中の私は、相変わらず小窓越しに人影を見つめながら必死で自分自身を落ち着かせる。
原田さんがそう言っていた、幽霊なんかである筈がない、そうじゃないとおかしい、幽霊だったら何で「ひさちゃん」の光学センサーに見えるんだ、それはおかしい、おかしい、おかしい、おかしい。
何度もそう唱えて、徐々に落ち着きを取り戻してきた私は、一緒にランチした時に飯田さんが言っていた言葉を思い出した。
「でも考えてみたら襲われても『はなちゃん』が襲われるだけで私の体は大丈夫か、と思ってね」
そうだ、万が一あの人影に襲われたって、「ひさちゃん」の介護ロボット端末が襲われるだけだ。
取り憑かれたとしても、取り憑くって体を乗っ取る訳だから、それも「ひさちゃん」の介護ロボット端末が乗っ取られるだけだ。
私がオペレーターポットの中の自分の右手をちょっと外側に動かせば、開閉ボタンを押してオペレーターポットの蓋を開いて私の意識を私の体に戻せる。
何だ、危なくないではないか。
そう考えることで、何とか自分の心を静める。
そうそう、パニックになったら、自分が出来る事を落ち着いて一つ一つ行っていけば段々いつも通りの落ち着きを取り戻せるんだ。そういうものだ。
まずは……時刻の確認。
午前3時13分。
随分と長い時間喚いてパニックになっていたと思っていたが、実際には殆ど時間は経っていない。
次に、状況の確認。
「ひさちゃん」は214号室の扉の取手に手を掛けたままの姿勢で一切最初に人影を見つけた時から動いていない。人影もこの間一切動いていない。
214号室の室内センサーの反応は……熱感知センサーには利用者の大沢さんの体温が感知できているが、人影がいる場所に熱源は感知できない。光学センサーも、ベッドで休んでいる大沢さんは確認できるが、人影の位置は何もない。振動センサーも室内で動いている物体は感知していない。最も人影は微動だにしていないのだから振動なんて起こしていないだろうが。
次、状況の記録。
現在の状況を記録する。
「午前3時12分、214号室大沢様の居室にて、居室扉の小窓越しに介護ロボット端末№3「ひさちゃん」の光学センサーが室内に人影を感知する。人影は大沢様の枕頭の横辺りの位置に入り口に背を向けて立っており、性別、人相や表情は不明、大沢様に危害を加えようとする動きは確認できない。室内のセンサー類は利用者の大沢様を感知しているものの、人影は感知できていない」
やはり状況を整理して記録すると、大分落ち着くことができる。
さて、次……通信。
”原田さん、聞こえる?”
”石川さん、聞こえる、なんてどうしたんですか? 繋がってますよ。すいません、見回りに間に合わなくて”
”それは大丈夫。こちらの利用者さんは皆さん落ち着いて休まれてるわ。ところでさっき私から変な通信入らなかった?”
”え? 入ってないですよ? 変な通信って何ですか?”
”実は今、見回りの最後に214号室の前に来てるんだけど、例の人影、私見ちゃったの。それで私パニックになっちゃって大声で悲鳴上げてたんだけど、聞こえなかった?”
”ええーっ、何ですかそれー! 私応援に来なきゃ良かったー! 見れてたかも知れないのに!”
原田さん、私の心配なんて全然してないじゃない。
何だか呆れて、益々私は冷静になってきた。
原田さんの反応だと、私の悲鳴はLIFE(科学的介護情報システム)を介した通信にはやっぱり乗ってなかったようだ。
”原田さん、まだ人影見えてるわよ。こっち戻って来たら原田さんにも見えるかも”
”ええっ、本当ですか? 今対応してる利用者さんベッドに誘導したら、すぐ戻ります!”
何なのよ原田さんったら。
そんなに不思議な現象が好きだなんて。ちょっとは私の心配もして欲しい。
これ、意地の悪い人だったら「介護の仕事中に利用者のこと放っぽらかして何やってんの!」と怒るパターンだ。
よし、こう考えることが出来ている私は、大分落ち着いてきているはず。
214号室内の人影はずっと見えているが、だから何?
見つけてから一切動いていない。単なる影。
正体はわからないけれど、今のところ214号室の利用者さん、大沢さんにも私にも危害は加えられていない。
そう考えないと、一瞬でも怪奇現象だなんて思ってしまうと、とても自分を奮い立たせることが出来なくなる。
とにかく観察してみよう。
今の私は介護ロボット端末№3「ひさちゃん」なのだから、もしあの影がこちらに気づいて瞬時に襲い掛かってきたとしても、天井と床の電磁石を使ってリニアのように高速で逃げることだってできる。
事務長が電気代のことで怒るだろうけど、襲われたらやむを得ない。
光学センサーの映像が記録されていなくたって、介護記録に残しておけば……
私はゆっくりと214号室の扉を開けた。
扉の小窓も一緒に動き、一瞬人影から光学センサーの目線が切れたが、扉を開いた先にはまだ大沢さんのベッドの枕頭横に人影が佇んでいる。
今、私はきちんといつも通り「ひさちゃん」を動かせている。
さっき恐怖でパニックになった時に「ひさちゃん」が一切反応しなかったのは、介護ロボット端末に「乗り移って」操作している介護者が、操作中に突然あんなに心理的に動揺することは想定されておらず操作が効かなくなったのだろう。
オペレーターポット内の介護者は、穏やかな半覚醒状態で常時いることが前提となった設計なのだろうから。
今の落ち着きを取り戻した私は、いつも通りの操作を取り戻すことができている。
「ひさちゃん」の光学センサーは人影を認めているが、「ひさちゃん」の熱感知センサーは人影の位置に熱源を感知していない。
やはり直接的に何かされるようなことは無さそうだ。
原田さんが言っていたように、理屈はわからないけれど今そこで眠っている大沢さんの見ている夢か何かの映像なのだろうか?
大沢さんは午前1時の巡視の時と同じようによく眠っている。
体位交換しなくては、と思い、でも何かあった時に備えて214号室の扉は開け放ったまま部屋の中に入る。
ゆっくりと音を立てないように室内に入ると、それまで動かなかった人影がゆっくりこちらを振り向く動きをした。
身長は「ひさちゃん」と同じくらい。
女性のようだ。
室内の避難誘導灯に照らされて少しづつこちらを向くその顔は……「ひさちゃん」。
「え、どういうこと? 何で? 何なの!」
私はまた取り乱して大声を発してしまった。
次の瞬間。
私は真っ暗な闇の中にいた。
さっきまでの214号室ではない。
ただただ真っ暗な闇。
私は入って来た入り口の方を振り返った。
そこには見慣れた居室の入り口はなく、少し離れた遠くに光を打ち上げ周囲を照らしている場所と、その光が影を作る、南洋風のヤシみたいな木の無数の影。
私は真っ暗な南洋風の木の密林の中にいるようだが……何でこんな場所に!
待て待て待て待て待て待て待て待て……落ち着いてる落ち着いてる私は落ち着いてるはず……
原田さんが言っていたように、これが大沢さんが見ている頭の中の景色なら大沢さんを探せば……
私は大沢さんが寝ているベッドのあった位置を見る。
「ひさちゃん」のホログラムが発する僅かな光に照らされたその位置にはベッドなど無く、名も知らぬ植物の草叢だ。
見えないだけで実際には存在しているんじゃないかと思い「ひさちゃん」の手をベッドのあった位置に伸ばしてみるが、ベッドに触れる事なく、「ひさちゃん」の手は名も判らぬ植物に触れる。
……だったら入り口があった方に行ってみよう。
214号室に入ったが、ベッド近くまで2m程度しか入っていない。もしかしたらこの景色は幻で、運良く幻で隠されている入り口から出られるかも知れない。
というより、ここが大沢さんの見ている幻影ではなく現実だとしたら、何で介護ロボット端末の「ひさちゃん」を私が操れているんだろう? 「ひさちゃん」自体は内蔵している全個体電池が切れなければ動くことはできるが、私の意識が乗り移ったように動かせていたのは「人格転移型介護用端末システム」の送受信機が施設天井に無数に組み込まれていて、介護ロボット端末と常に通信を絶やしていないためなんだから、こんな密林の中で「乗り移ったように」動かせているのはおかしい。
やっぱりこれは幻影なんだ。
そうじゃなきゃこうして「ひさちゃん」のままになっている筈がない。
見えないけど入り口があって出られるはずだ。
ここは施設の中なんだ。
私は入り口があった方向に草をかき分けてゆっくり歩き出した。
ベッド脇だった場所からだいたい2m。歩いているうちに幻影が晴れて元の施設のデイルームに出る。
平静を装いつつそう願い歩いていた私だが、20歩以上進んでも、景色が変わって施設デイルームに戻れる気配は一向に無い。
とっくに2mなんて超えていて、5m以上歩いている。
どうしよう、どうしたらこの幻影の中から元の施設に戻れるのだろう……
私は静かに湧き上がる恐怖を抑えながら、努めて冷静になろうと必死に考える。
大沢さんの幻影の中の、まったく知らない場所に何故か巻き込まれて来てしまっているのだとしても、少なくともあれだけ明かりを打ち上げて照らしている場所なら、誰か人がいる筈だ。
そこには大沢さんも居るかも知れないじゃないか。
私はとにかく明るいところへ早く行って誰か人に会いたいと思い、前方に見える明かりを打ち上げている場所に向かって走り出そうとした。
「止まれ」
突然私の背後から押し殺した男の声がしたので、驚いた私は飛び上がるようにして立ち止まった。
怖いが恐る恐る振り向こうとすると「動くな!」と更に同じ人物の声が私を制止する。
「手を頭の後ろで組んで膝まづけ!」
どうしよう、介護ロボット端末だから何をされても死なないとは思うけど、走って明かりを打ち上げているところに逃げ込んだ方がいいだろうか?
でもここが本当に見知らぬ密林の中なら今の「ひさちゃん」は施設内の電磁石のアシストを受けられず、人間よりも早く走ることは難しい。
あの明かりを打ち上げている場所に辿り着く前に取り押さえられるのがオチだ。
抵抗しようにも、介護ロボット端末の内臓モーターの力だけでは単純な力比べなら一般人男性と互角程度。相手に格闘経験があったりしたら勝てる訳がない。
私は結局指示通りにするしかなかった。
頭の後ろで手を組む格好をし、凸凹で湿った地面に膝まづく。
「貴様の名は何だ! 何故こんなところに居る!」
そんなの、ここが何処か私だってわからないのに、答えられる筈がない。
そうだ、一度オペレーターポットに戻ればいいんだ!
そうしたら、この状況から抜け出られるかも知れない。
そう思った私は何度かオペレーターポットの中にいるつもりで右手の横の開閉スイッチを押そうとしていたが、そのたびに「ひさちゃん」の右手が動くだけだった。
「何を怪しい動きをしている? 見たところチャモロ人ではないな? 邦人か? だが邦人ならこんな夜襲前の前線に居る筈がない! しかも女の身で! うっすら光っているなんぞ怪しい! 貴様米軍のスパイか!」
「名前はひさ、日本人です!」
染み付いた習慣で、つい介護ロボット端末の愛称を名乗ってしまう。
だけど米軍? スパイ? 一体何を言っているのだ。
「何⁉ 貴様同胞女子とは思えん面妖な格好ではないか!」
言葉遣いも随分と時代がかっている。
私の後ろの男はきっと、髭モジャで大柄な野蛮な男なんだ。
「どうした、大沢一等兵」他の誰かの声がする。
大沢一等兵?
「は、上田軍曹殿、怪しい女を捕えまして」
「わかっとる。薄っすら光る女など怪しい以外の何物でもないからな。だが放っておけ。例えスパイだとしてもこの期に及んで何もできん」
「しかし軍曹殿、我々の動きを米軍陣地に知らされでもしたら……」
「もう攻撃開始までは5分を切っとる。我々は助攻だが、敵の第3陣地を攻める主攻の戦車第9連隊を楽にするためにも時間に遅れる訳にはいかん。
それに実のところこの夜襲は末永連隊長殿の意地だけで行うようなものだからな……師団司令部からは中止を勧告されとるという噂だ。
……いや、大沢一等兵、その女をマンガン山の憲兵隊に引き渡しに行け。スパイだとしても一般人だとしても憲兵隊が何とかするだろう」
「そんな! 斬り込みを目前にして戻るなどできません!」
「大沢一等兵! 命令だ! その女を一刻も早く憲兵隊に引き渡してこい!」
「私だけおめおめと女を連行して生き残りでもしたら、臆病者の誹りを受けてしまいます!」
「ばかもん!」
ドカッ バサッ
私はその音を聞いて身震いした。
私の後ろで行われている遣り取りだからよくわからないが、私の後ろの野蛮な男が命令に反抗して殴られでもしたのだろう。
直接的な暴力なんて、30年間で一度も身近に感じたことがないから怖い。
「貴様はまだ若い! それに第29師団が壊滅したわけではない! 貴様の命をここで無駄に散らすよりは後日の反攻作戦のために取っておくのだ! わかったか、大沢一等兵! 行けっ!」
「は、大沢一等兵、身元不詳の女を憲兵隊に引き渡す任務、拝命いたします……」
理解出来ない状況の中で、落ち着こうと空を見上げると、無数の星々が見える。
月は新月なのだろうか、出ていない。
遠く前方で打ち上げている光がなかったら、星明りだけの真っ暗闇なんだろうな、と何故かそんなことを思った。
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