夜の戦争 中編 3 「穏やかな時間」




 一通り食事が終わり、食器を配膳車に下げた後は利用者さんの口腔ケアをして居室に誘導する。

 まだ居室に戻らずTVを見たいという方も、口腔ケアだけはしていただく。

 この時間、職員の誘導の手が少ないので昔は転倒事故が起きやすい時間帯だった。


 今でもそれは変わらないと言えば変わらない。


 ただ、介護ロボット端末導入に伴って、施設の床には振動センサー、天井には光学センサーと温度センサーが取り付けられているため、利用者の移動は介護ロボット端末を使用している私たち夜勤者は常時把握できるのが有難い。

 遅番の上田くんも、タブレット端末で「のぞみ棟」の利用者の動きは見ることが出来ているが、私たちの様に介護ロボット端末に意識が同調していて瞬時に棟内のセンサー情報が把握できるという訳ではないので、居室に戻ったりトイレに長い時間入っている利用者さんがナースコールを鳴らさず動き出した時には私「ひさちゃん」と原田さん「みよちゃん」が対応する方が早いし安全だ。


 一通り利用者さんに居室ベッドに戻っていただき、ひと段落ついたところで、テーブルと椅子、床を次亜塩素酸ナトリウム水溶液で拭く。これは流石に介護ロボット端末には内蔵されていない。普通に台布巾を次亜塩素酸ナトリウム水溶液に付けて絞り、それで拭いて行く。

 テーブルと椅子が終わったら床拭きのためモップ絞りバケツに次亜塩素酸ナトリウム水溶液を移し、モップで床拭きする。


 そうしているうちに午後7時を過ぎた。

 遅番の勤務は午後7時30分までだ。

 そろそろ上田くんは上がって貰って記録に入ってもらってもいいだろう。


 「上田くん、そろそろ記録に入ってもらっていいわよ。あとはナースコールあったら対応するくらいで、皆さん落ち着いてるみたいだから」


 今のところ他の棟からの応援要請もないから大丈夫だろう。


 「有難うございます。記録入らせてもらいますけど、夕食中の中川さんの誤嚥の件の記録って、看護師の山下さんがしてくれてますよね?」


 「うん、山下さんが記録してるわよ。中川さんの性格的な傾向とかもね」


 「わかりました。見守りしてた利用者さんの様子中心に記録しときますね」


 「あ、上田くん、明日夜勤?」


 原田さんの「みよちゃん」が上田くんにそう話しかける。

 うちの施設のシフトは大抵遅番の次の日が夜勤入りになっている。


 「明日夜勤ですね」


 「上田くん、夜勤の前は女言葉の練習してるの?」


 「いやー、特にはしてないっす。とりあえずその日使う介護ロボット端末の名前だけは間違えないようにするってのと、一人称で俺、とか僕、とかは言わないように気を付けてますけど。 わたしですね、わ・た・し。それだけは夜勤入りの時に車の中で繰り返して口に馴染ませてます」


 「うひゃー、ウケる!」


 「仕方ないじゃないですか、うちの棟の2体はデフォルトで女性設定ですから。『ひかり棟』の二体みたいに完全に男女2つのデフォルトパターンにしてくれれば良かったのに」


 「まあ仕方ないよ、『ひかり棟』の方が男性職員多いんだもの。来年あたり男性のデフォルトパターンも作ってくれるんじゃない? 『みよたろう』とか『ひさのしん』とか。

 でも上田くんはうちの棟で貴重な男性だから、綺麗どころのお姉さんたちに頼られて嬉しいでしょ?」


 「彼氏持ちや既婚の方に頼られても……って言いたいところですけど、皆さんそうやってフランクに接して下さってるから、変に勘違いしなくて良かったなって思いますね」


 「でしょー? この仕事って結構道ならぬ恋とかに走っちゃう人多いんだからね、上田くんはそこのところ弁えてるから偉い! 駄目だよ略奪愛とか! 口説くんなら石川さんだからね」


 「上田くん、原田さんの冗談真に受けないでね。まだ勤務時間中だから、貴重な記録の時間無くなっちゃうわよ」と私が口を挟む。


 「すみません。じゃあ記録に入らせてもらいますね」


 そう言って上田くんは職員机のPCに向かった。


 ”原田さん、冗談過ぎるわよ”


 ”えー、石川さん、上田くん結構優良物件だと思いますよー。他の棟の入職年数少ない女子職員が結構狙ってるって聞きますし、だったら石川さんとくっついてもらいたいなって思いますよ。お似合いなカンジしますし”


 ”年の差考えてよ。もう簡単に惚れた腫れたの年じゃないんだから”


 ”石川さん、真面目過ぎますよ。まあ仕事ができるいい女ってカッコいいですけど”


 ”今度は茶化すの止めて。早く床拭いちゃうわよ”


 ”はーい、すいませんでした”


 原田さんはあまり悪びれた様子がない。

 さっぱりしたいい人なんだけど、ちょっと無意識におせっかいなところがある。

 私は床をモップ掛けしながら少しうんざりした。





 午後7時30分になって上田くんが上り、私「ひさちゃん」と「みよちゃん」はデイルームに残っている数名の利用者さんの対応をし、ナースコールも比較的少ない穏やかな時間を過ごした後、午後8時半にデイルームに残った利用者さん達をトイレ誘導し、臥床して貰った流れでそのまま排泄介助に入った。

 この時間の排泄介助はトイレやポータブルトイレで排泄して貰った後寝間着に着替えてもらいオムツに替える介助が多い。日中はできるだけ自力で排泄したいが、夜間は時間を掛けてトイレに行くよりも安眠を優先したいという利用者さんも多いためだ。

 この辺りは介護ロボット端末とは言え基本2人で50人の利用者さんの対応は難しいという事情もある。

 オムツ交換は利用者さんの協力動作、例えば体の向きを自分で変えるなどしてもらえれば介護者の体の負担は少ない。だが利用者さんが眠ってしまっていれば協力動作はほぼ無いので、ボディメカニクスに基づいた介助を行っても、何人も行っていると腰にだるさが生じる。介護に必要な介助は介助者が中腰姿勢を取る必要が多いため、介護従事者が腰を傷めるのはこれが大きな要因だ。

 介護ロボット端末の場合はそうした身体的負担をまったく受けないため、負担と感じることはないが、一人一人の移乗介助をして、トイレ誘導をして、だと時間がかかってしまうし順番を待ちきれない利用者さんが自分でトイレに行こうとして転倒、という事故も起こりやすくなってしまうので、必然的にオムツにしてもらう方が多くなる。


 排泄介助も午後9時半前には全て終了し、後は夜間のコール対応の時間だ。全ての利用者さんが朝の6時くらいまでしっかり眠ってくれていれば、午後11時、午前1時、午前3時の定時安否確認の見回り以外朝の排泄介助の午前5時までは特にすることはなくなる。

 しかし、そんなに上手く事が運んだのは私の10年の勤務歴の中でも2回か3回しかない。

 大体午後11時頃から午前2時頃にかけて早く眠ってしまった認知症状のある利用者さんが起き出して来たりするので、その対応をしくじると他の眠りの浅い利用者さんも起き出して騒ぎになってしまい、あちこち落ち着かせるのにてんやわんやの戦争状態になってしまう。その中で転倒事故などが起こったりしようものなら収拾がつかなくなってしまうのだ。


 とはいえ、現時点では利用者の皆様は落ち着いてベッドで過ごされている。

 あまり先のことを心配しても仕方がない。


 私と原田さんは記録に残すまでもないような利用者さんの情報交換という名目の雑談をしながら清拭用のタオルを畳む。

 もう周囲に利用者さんはいないので、ホログラムは切っている。

 利用者が周囲に居ない時はホログラムを切るようにと事務長からは言われている。実に事務長は細かい。


 「そうそう、214号室に今日入った大沢さん、オムツ交換の時に見えたんですけど、左足の太腿のところ、すごく大きな古い傷ありましたよ。どうして怪我したのかお聞きしたんですけど、口をムッと閉じて教えて貰えませんでした」


 「あら、そうなの? 大沢さん割と人当たりが良いと思ったけど。怪我のこと余程聞かれたくないことなのかな」


 「いや、大沢さん多分『ひさちゃん』が気に入ったんだと思いますよ。私の『みよちゃん』が居室に入ったら何か残念そうな表情でしたもん。『ひさちゃん』になら話してくれるんじゃないですかね」


 「そうなの? 確かに私が離床介助に入った時はずーっと『ひさちゃん』のこと見つめてたけど。奥さんに似てたとかかなあ」


 「人格転移型介護用端末システム」を介した意思疎通だとログが残るため、音量をかなり絞った音声での会話だ。雑談のログが残っても、あまり長時間に渡ったり居室内の各種センサーが反応しているのに雑談を続けていたりしなければ特に問題視はされないが、何となく気の許せる介護士同士は音声で雑談するのが定番になっている。

 あまり仲が良好と言えない介護士同士だと、後日のいざこざがあった場合に備えて音声のやりとりではなく、あえてログを残すシステムを介した意思疎通をすることが多い。

 音声同士のやりとりも記録はできるが、意思疎通のログと音声同士のやりとりを記録する介護記録は別物だ。介護記録に残せば相手も共有するのでわかってしまう。会話の一部分だけを切り取られては敵わないのでこちらも前後の会話まで記録する、という介護記録編集合戦を「人格転移型介護用端末システム」導入直後に起こした人たちがいたのだ。結果二人とも譴責けんせき処分され紆余曲折の末退職した。

 科学技術が進んでも、人間は急には変わらないのだ。


 「そう言えば、夜勤中に人影見たって話、最近結構噂になってますよね」


 「ねえ、原田さん、私そういう話題は本当に苦手なんだけど……」


 「いやいや、絶対石川さんが思ってるような幽霊とかじゃないですって。多分」


 「えっと原田さん、何か知ってるの?」


 「いやー、私経験した訳じゃないですけど、噂話を聞く中で思った推理ですけどね。夜勤中に見た人影って、多分その部屋の利用者さんの見てる夢とか妄想とか、とにかくその利用者さんの頭の中の人物の映像なんですよ、きっと」


 「何でそう思ったの?」


 「だって人影とか怪しい影とかって、皆利用者さんの居室の中で見てますよね? 救急搬送されて亡くなった利用者さんの空きベッドとかトイレとか、通路の暗がりとか、そういう怪談話で定番の場所では誰も見てないんです。

 共通して利用者さんの居室の扉の小窓から室内を見たら利用者さんのベッドの脇に人影がいた、なんですよ」


 確かにランチした時の飯田さんの話もそのパターンだった。


 「だから、多分利用者さんがその時夢とか思考の中で見ている人、会いたいと思っている人、が見えているんだと思うんです。そう考えたら怖くないでしょう? 石川さん」


 「いやいや、いくら何でも飛躍しすぎよ。確かに怖くはないけど、流石にそれって有り得ないでしょう」


 「でも『人格転移型介護用端末システム』を使うようになってからそうゆう話出て来てますからね。何か利用者さんの居室の天井や床にもセンサーとか色々入れてるじゃないですか。そういうのが複雑に絡み合って、利用者さんの頭の中の映像が見えるようになってるんですよ、きっと」


 「なる程ね。もしその仕組みが解ったら大発見ね。そのためには原田さんも一度体験しないといけないわね。私はカンベンしてほしいけど」


 「私も一度見てみたいんですよね。その話が良く出る『きぼう棟』から応援要請来ないかなあ」


 「もうすぐ『きぼう棟』の『みっちゃん』が仮眠時間に入るから、仮眠するか聞いて。仮眠するなら『きぼう棟』に応援に行ってもいいわよ。こっちで何かあったらすぐ呼ぶから」


 原田さんは「人格転移型介護用端末システム」を通して「きぼう棟」の夜勤者に一瞬で確認を取る。


 「……残念、『きぼう棟』の夜勤者2人とも仮眠に入らないそうです。こっちが仮眠取りたいなら取ってもいいってことですけど、石川さんどうします?」


 「私もいいかな。別にわざわざオペレーターポットから一度出るのも面倒だし。原田さん仮眠休憩取りたいなら看護師の『けいちゃん』に聞いて、先に休んでいいって言われたら11時の見回りの後仮眠取っていいわよ」


 「……看護師の山下さんも仮眠取らないそうです。

 じゃあ私、見回りのあとでちょっと仮眠取らせていただきますね」


 そろそろ11時になる。

 私「ひさちゃん」は201号室から、原田さんの「みよちゃん」は214号室から、それぞれ利用者さんの様子の見回りに入った。


 今夜は皆さんよく眠っている。日中あまり臥床しっぱなしだった方がいなかったおかげだろうか。

 いつもなら眠りが浅く、この時間に起きてしまうような202号室の中川さんもよく眠っている。呼吸音も異常はなく普通に戻っており、夕食時の誤嚥の影響はないようだ。

 207号室で原田さんと合流し、最後に207号室の利用者さんの様子を一人一人見て異常が無いのを確認し、見回りを終える。


 ”じゃあ私、仮眠に行ってきますね。1時の見回りには戻りますから”


 原田さんがそう私に伝えてくると、「みよちゃん」が格納庫の電子ロックを開けて中に入っていった。


 夜勤者は途中2時間の仮眠が認められている。

 だけど「人格転移型介護用端末システム」を使い出すようになってから、夜勤休憩を取らない人が増えた。私もその一人だ。

 オペレーターポットに入っている私たちは半覚醒状態で介護ロボット端末に乗り移るようにして操作している。体を使うことがないため疲労は蓄積していないし、半覚醒状態だから介護ロボット端末側で何もすることが無ければ眠った状態に近くなる。

 何か利用者さんが動き出したりして居室内のセンサーが反応すれば、自身の体とは違ってすぐに動ける状態になるので、わざわざ仮眠する必要がないのだ。

 それに、オペレーターポットから出て仮眠するには一度濡れたバイオフィルムスーツを脱いで服を着替えなければならない。2時間後にまた濡れたバイオフィルムスーツを着るのはちょっと……新しいバイオフィルムスーツを着てもいいのだが、施設で提携している洗濯業者に出さないといけないのでクリーニング代が2着分かかる。上から羽織るタオル地ガウンもそうだ。

 要は面倒なのだ。

 原田さんは仮眠を取ると言っていたが、実際は彼氏とスマホでメッセージの遣り取りでもするのだろう。働く棟内へのスマホの持ち込みは禁止されている。

 わざわざそこまでしてスマホをいじるのは、やはり若さだ。


 私「ひさちゃん」は「のぞみ棟」のデイルーム職員机の椅子に掛け、時折居室内センサーに反応があった時に様子を見に行き、寝ぼけた状態の利用者さんが帰宅願望を起こさないように注意しながら対応しつつ休んでいた。


 やがて1時になり、原田さんの「みよちゃん」も格納庫から出て来た。


 「仮眠ありがとうございました」


 「どういたしまして。彼氏と仲良くやってるみたいじゃない」


 「いやいや、腐れ縁ですから。夜勤中でも一度は連絡入れとかないと変に勘ぐるんですよ。面倒くさいんですけど」


 「はいはい。じゃあ見回りしちゃいますか」


 11時の時とは逆に私は214号室から、原田さんは201号室から見回りをする。


 214号室の大沢さんは、良く眠っている。

 初めて過ごす場所なのに大したものだ。

 「ひさちゃん」を気にしているって原田さんが言っていたが、そうなのだろうか。

 大沢さんが起きていれば聞いてみようと思っていたが、良く眠っているので体温と酸素飽和度だけ測り、体位交換後に布団をかけ直して居室を後にした。


 207号室で原田さんと合流した。

 原田さんが巡回した部屋の利用者さんも皆さん穏やかに眠っていたそうだ。

 今日は本当に驚くほど穏やかに流れている。

 いつもなら2,3人は目を覚まして動き出す利用者さんがいるものなのに。


 「何だかいつも以上に穏やかですね」


 原田さんも同じ感想だったようでそう口にした。 


 午前1時の見回りから午前2時半までの間も、驚くほど「のぞみ棟」の利用者さんは落ち着いて休んでいた。

 私と原田さんは、会話はせずに休んでいた。原田さんも仮眠時間とは名ばかりの、彼氏とのメッセージ交換時間だったから、何もない穏やかな時に少し休みたかったようだ。


 ”ごめん、ちょっと手伝いに来てくれる? 何人か起き出して、どこに居るのか混乱しちゃってる人が2人出ちゃってるのよ。混乱してる2人は私たちが対応してるけど、もう一人来てもらって起きてる利用者さんのトイレ誘導とかやって欲しいの”


 午前2時45分頃、隣の「きぼう棟」から介護ロボット端末全てに応援の依頼が来た。


 ”石川さん、私行ってきますよ。ちょっと例の人影見かけるチャンスかも知れないし”


 好奇心旺盛なことだ。わざわざ得体の知れないことに遭遇したいだなんて。でもここはお言葉に甘えておくか。


 ”うん、じゃあお願いね。原田さんの溢れるバイタリティに任せるわ”


 ”はい。じゃあちょっと行ってきます”


 そう言って原田さんは連絡通路を通り「きぼう棟」へ向かった。


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