夜の戦争 中編 1 「勤務入り」
私がオペレーターポット内に横たわって目を閉じていると、自動でオペレーターポットの蓋が閉まる音がネオリンガー液を伝わって来る。蓋の開閉は内側の右手の横やポット外部に付いている開閉ボタンでも行えるが、現在は午後5時に閉まり午前10時に開くデフォルト設定となっている。
蓋が閉まり出したということは午後5時になったのだ。
1分弱で蓋は完全に閉まった。
少しづつネオリンガー液が循環して行き、38℃でぬるま湯の温度だった水温が少しづつ私の体温と同じ温度までゆっくりと下がっていく。
体温と一緒の温度のネオリンガー液がバイオフィルムスーツを浸し、私の全身の肌もネオリンガー液に完全に浸った状態で暫く目を閉じていると、段々と自分の体がネオリンガー液に溶けて広がっている感覚になっていく。
ネオリンガー液は輸液に使われる酢酸リンゲル液の組成に数種類の体内物質と多量の酸素を混ぜ込んだもの。オペレーターポット内の幾つかの電気信号送受信端末と私の体に纏ったバイオフィルムスーツの間で微弱な電気信号を遣り取りする役割も担っている。
ネオリンガー液に含まれる何らかの成分が影響するのか、徐々に私たちは半覚醒状態となって眠っているのか起きているのか、自分でも判別つかなくなってくる。
半覚醒状態の私は休日に一緒にランチに行った時に同僚で隣の棟の介護士の飯田さんが言っていた”気になること”を少し考える。
飯田さんも「人格転移型介護用端末システム」を使って夜勤をしているが、夜勤中に利用者さんの居室で利用者さん以外の人影を見たというのだ。
「人影がじっと女性利用者さんの山口さんの寝ている顔を覗き込んでたの。微動だにせず、ずっと。
私、居室入り口の小窓から部屋の中を何気に見た時に気づいて。
居室内の天井や床に巡っている光学センサーや振動センサーは何にも反応してないのよ? でも私の『はなちゃん』の光学センサーにだけ見えてるの。
私怖くなったんだけど、でも考えてみたら襲われても『はなちゃん』が襲われるだけで私の体は大丈夫か、と思ってね、思い切って居室の中に入ったの。
そしたら人影なんてなくてね。『はなちゃん』の光学センサーにも全く反応なくなったのよ。覗き込まれていた山口さんにも触れて確認してみたけど血圧、脈拍、酸素飽和度も変化なく良く寝てるだけ。同じ部屋の利用者さんも誰も気付いてないみたいだったから、一体なんだったのかなって」
と飯田さんは話していた。
飯田さんによれば介護ロボット端末を通じて利用者状況とケア内容、光学センサーの動画記録がLIFE(科学的介護情報システム)には記録されている筈なのに、その日居室入り口小窓から居室内を見た映像には不審な人影なぞ映っておらず、「はなちゃん」の素体の影が避難誘導灯の緑の明かりに照らし出されて窓に映っているだけだったという。
もちろん一介護職員が厚生労働省内に設置されたLIFE(科学的介護情報システム)のデータを勝手に見られる訳ではない。夜勤が明けてから日勤で出勤してきた看護科長に報告し、確認して貰った上でのことだ。
「看護科長はさ、窓に映った介護ロボット端末の素体の影を見間違えたんじゃないの、昔から怖がってると柳も幽霊って言うから、って私の勘違いだって言うんだけどね……
でも私の働いてる棟の夜勤者には同じようなことがあったって人が何人かいるわよ」
飯田さん以外にも何人か同じような経験をした人がいるのだという。
「ちょっと飯田さん、私怖がりなんだからやめてよ! そうゆう幽霊みたいな話、ホントダメだから。YouTubeでもそれ系がサムネに出ただけで閉じちゃうくらいだから」
私は小さい頃から人一倍怖がりだったが、霊感じみたものは全くなく、それは本当に良かったと思っている。
「でも、飯田さんと同じような経験した人って、飯田さんと同じ『きぼう棟』の人だけなの? 同じ端末使ってたんだったら端末に何か不具合あるかも知れないじゃない」
私たちの老人保健施設は利用者入居棟は3つの棟に別れている。それぞれの棟の入所定員は50人なので3棟合計で150人。各棟夜勤職員は2名づつ。1名の夜勤看護師を加え7名で夜勤を回す。「人格転移型介護用端末システム」の夜勤室は管理棟と呼ばれる利用者入居棟とは別棟になっている。
「そうね、太田さんと中島さんは一緒の棟。でも端末は№02『はなちゃん』だけじゃなくて№01『みっちゃん』使ってる時にも見たって中島さんは言ってた。
あと他の棟だと島田さんは『ひかり棟』だから№06『まーちゃん』か№07『じゅんちゃん』のどっちかね。みんな一応看護科長に報告してLIFEの映像データ確認してもらったみたいだけど、やっぱり不審な人や影は映ってなかったって。
TOUWAの人に来てもらって介護ロボット端末も点検してもらったけど、故障や不具合はなかったみたいだしね」
でも絶対あれは見間違いなんかじゃないんだから、と飯田さんは言ってたが、他の人が他の話題を出してそちらに話題が移ったためその話はそれで終わった。
心霊現象なんてない、と私は信じているが怖いものは怖い。
私の働く「のぞみ棟」で使っている介護ロボット端末№03「ひさちゃん」と№05「みよちゃん」を使った職員の間では、そんな話は今のところ聞いたことが無い。
それだけは私にとって安心できる材料だ……
気にする必要はない……
厚生労働省内のLIFE(科学的介護情報システム)からのデータがネオリンガー液を通して私に伝わってくるため思考を中断する。
今日新たに入った短期入所者の情報、他の棟の利用者も含めた全ての利用者の生活状況、リハビリ実施状況など。
特に意識せずとも頭に入ってくる。
夜勤が終わった後でもずっと覚えていられればこれほど便利なことは無いのだが、夜勤終了後に睡眠を取ってしまうと脳が不要なデータを処分してしまうのか、夜勤中に自分が介護ロボット端末で直接ケアに入った利用者さんのこと以外は綺麗さっぱり忘れてしまうのだ。
一通りの利用者データを受け取った私は目を開ける。
そこは介護ロボット端末の格納庫の中だ。
実際の私の体はオペレーターポットの中で目を閉じている筈だが、ネオリンガー液を介した電気信号の遣り取りによって、介護ロボット端末№03「ひさちゃん」の光学センサー、音感センサー、振動センサー、温度センサー、が感知したものが私の五感に直接感じ取れる感覚となっている。
私が「ひさちゃん」に乗り移った状態になっているのだ。
「ひさちゃん」に私が乗り移った瞬間、「ひさちゃん」のデフォルトで設定されているホログラムが「ひさちゃん」の素体を包み込む。
「ひさちゃん」はタレ目で福笑いのような目鼻配置の、親しみやすい姿になっている。
私の隣には介護ロボット端末№05「みよちゃん」の素体が、ホログラムを纏わずそのままの姿をして充電スタンドにもたれかかっている。
「みよちゃん」の素体はポリウレタンのつるっとした表面をもつマペットのようだ。足底から頭頂まで160cm。全ての介護ロボット端末は同じ全高。だいたい昔の背の高い女性と一緒くらいになっている。顔の部分に2つの光学センサーと音声出力用のサーモホンスピーカーが付いている。
両足首から下が全個体型電池になっていて、所定の位置に足を置くことで充電できるようになっている。
大手自動車メーカーのTOUWAがこの「人格転移型介護用端末システム」を製造しているのも、この全個体型電池の技術を持ち、様々な用途に応用している実績があるためだ。元々全個体電池は電気自動車用に開発していたものだが、リチウムイオン電池に比べ小型化し長時間使用に耐えられる充電池は、人型の介護ロボット端末を実現するのに必要不可欠だったらしい。大元のシステムを作った企業の端末は車輪で動く、介助動作の用途が限られたものだったそうだ。
「みよちゃん」を使う原田さんはまだ「みよちゃん」に意識が移ってきていないらしい。原田さん、彼氏のことでも考えてたのかな。飯田さんに言われたこと考えてた私よりも遅れるなんてね。
そう思った時、「みよちゃん」の素体を薄っすら光るホログラムが包み込んだ。
原田さんも「みよちゃん」になったようだ。
「みよちゃん」は丸顔で親しみやすい顔。某製菓企業のマスコットキャラクターを人にしたような顔だ。
介護ロボット端末のデフォルトのホログラムは、全て親しみやすさを優先した容姿になっている。
”原田さん、大丈夫? 彼氏のことでも考えてた?”
介護ロボット端末同士は音声を出さなくとも「人格転移型介護用端末システム」を介して意思疎通できる。これも特段の操作をしなくても、会話しようと考えるだけで行える。これのおかげで他の棟の夜勤者や、介護ロボット端末№4「けいちゃん」が割り当てられた看護師にすぐに連絡できる。
全員との意思疎通も瞬時に可能だ。
ただ、施設サーバー内に会話のログが残るため、あまり無駄なおしゃべりをしていると看護科長や施設長には次の日バレてしまうけれど。
”彼氏のことなんか考えてないですよ~。今更そんな甘々な関係じゃないですって。石川さんだってわかってるくせに、も~。揶揄うのナシ”
”ゴメンゴメン、独り身の僻みだから気にしないで。じゃ、行きますか。遅番の上田くん首を長くして待ってるわよきっと”
”ですね~。何だかんだで記録、面倒ですもんね”
そう会話しつつ、介護用ロボット端末格納時の転倒防止用ベルトを外し、格納庫の手動の扉を開けて外に出る。
格納庫の外は私たちの働く「のぞみ棟」のデイルームだ。
原田さんが乗り移った「みよちゃん」が格納庫の扉の電子ロックをかける。
認知症の利用者さんが誤って迷い込んだりしないようにロックは必ずしておかないといけない。
デイルームは午後6時からの夕食に備えて、自分で歩ける利用者さんが少しづつ集まり始め、自席についてTVの大相撲中継を眺めている。
「おう、今日もひさちゃんとみよちゃんが夜の当番か。毎日大変だな」
先日入所された比較的軽度の認知症の男性利用者さんの中川さんが私たちを見つけて声をかけてくる。
「中川さんも体調良さそうで何よりです。リハビリ大変でしたか?」
私「ひさちゃん」がそう返事を返す。
この中川さんはずっと農業をやってこられた方で、地区の役員などで人を纏める地位にいたためか、自分主導の意識をずっと持っておられる方。
脳梗塞により右半身に軽度の麻痺と、認知面の衰えが出るようになってから、物忘れで物を紛失したり時間を忘れていたりを全て同居の奥様の責任と言って叱責するようになり奥様の精神的な負担が増してしまった。
右半身麻痺のためズボンの上げ下げや立ち座りなどの介助が必要だが、それも同居の長男夫婦には頼まず全て奥様にやらせていた。
農家を継いだ息子さんが農繁期で忙しくなることと、奥様に少し休める時間を、ということでうちの老人保健施設に入所している。
「立ち上がりも段々動きづらい右足に体重を乗せるのが上手になってきたって
LIFE(科学的介護情報システム)から得た本日の中川さんのリハビリ記録を参照して会話をする。リハビリは15時半までに終わるから
「ああ、
私は記録に残しておくべき、と考える。
この介護ロボット端末を操作している間は、記録に残しておくべき、と考えれば自動的に今のやりとりと、介護員の考察として「家長の地位を息子に奪われたように感じているために出た言動ではないか」という部分がLIFEに記録される。
この機能があるだけでも本当に有難い。記録は意外に時間を取られる部分だったから。
「またまた、息子さん何だかんだで中川さんのこと心配されてるみたいですよ。息子さんの仕事手伝えるくらい元気になって息子さんを驚かせてあげましょうよ。
じゃあ、私たちは他の方を起こしに行ってきますので、夕食までしばらくお待ち下さいね」
「あいよ。これから相撲、三役の取組だから、ゆっくり見て待ってるわ」
中川さんはそう言ってTVに目をやった。
私たちは遅番の上田くんを探す。
上田くんは丁度車いすの利用者さんをデイルームにお連れしたところだ。
「お疲れ様です」と「みよちゃん」の原田さんが上田くんに声をかける。
「お疲れ様です、上田くん。何か記録してない事項で申し送り必要なことってある?」と私が尋ねる。
「ああ、お疲れ様です。今日は石川さんが『ひさちゃん』で、原田さんが『みよちゃん』ですね。
今のところ日勤者が記録した内容と変わりないかなと思いますよ。体調特変者はいません。
ああ、そうだ、さっき203号室の長江さんがトイレにリハビリパンツ流して詰まらせていたので、新しいリハビリパンツを履いていただいてから詰まり解消しておきました」
昨年専門学校を卒業して入職した上田くんは、のんびりした人柄を滲ませた話し方でそう申し送る。
「じゃあそれ記録しとくね。確か長江さん一応今までって替えのリハパントイレに持ってって汚れたの備え付けの屑入れに捨ててたもんね。時間はいつ?」
原田さんがそう言って確認する。
「えーっと、16時55分です」
「はい了解っと」
そう言う間に記録は終わっている。
私も情報を共有しているのでわかるのだ。
「いやー、『人格転移型介護用端末システム』、本当に有難いっすわ。
日勤帯でも使わせてくれても良さそうなもんなのに。
介護ロボット端末の充電、急速充電ならそんなに時間かかんないんでしょ? 確か」
上田くんが呑気にそう言う。
「30分くらいってことみたいだけどね。でも介護ロボット端末の充電だけじゃなくてネオリンガー液の循環システムとか、システム全体を動かすのにけっこうな電気代かかるらしいから仕方ないわよ。
理事長なんて、深夜電気料金の安い時間帯だけ使えばいいって言い張ってたみたいだから。施設長と看護科長が
「うーん、世知辛いっすねー。世の中進歩しても結局先立つモノが必要ってことなんですもんね」
「まあ仕方ないわよ。人間誰も霞を食べて生きていける訳じゃないんだから。
ちょっと便利になるにはそれ相応の対価が必要ってことなのよ。
じゃあ私は201号室の利用者さんから離床とトイレ誘導始めてくわね」
そう上田くんに伝えて私は201号室に向かった。
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