夜の戦争
桁くとん
夜の戦争 前編 「出勤」
今日は夜勤だ。
月に六回もある夜勤の日。
今日午後5時から翌日の午前10時までの長い夜勤が始まるのだ。
なにも起こらなければいいのだが……
同僚の飯田さんの言葉を思い出し、少し私は不安になる。
とにかく、明日には無事自宅のベッドへ帰還したいものだ。
そういうわけで、今日もまた、何が起こるかわからない夜勤へ向かうことにする。
何も起こらなければいい。
そう願って向かった職場がいままでにないほどの戦場となることを知らずに私はいつもの道のりを通勤していった。
私の職場は、移動の足に車が必需品の、地方都市郊外にある老人保健施設。
短期入所の出入りがあり、欠ける日はあるものの150名のお年寄りが入所している。
老人保健施設は皆様ご存じの通り、3カ月間を目安に自宅に帰ることが前提のお年寄りが入所し、自宅で生活するために必要な機能訓練をし生活するという目的の入所施設だ。
とはいっても殆ど特別養護老人ホームと一緒に考えている家族も多い。
相談員が退所の相談を家族にすると「家に戻されても困る」とゴネる家族も多いんだとか。
私は自転車で通勤している。
雨の日は流石にバスを使うけれど、今日は秋晴れでペダルを漕ぐたびに頬に当たる風が心地いい。
郊外とは言えここ数年で国道沿いには大型の商業施設が立ち並ぶようになり、車での買い物客向けに電気自動車の充電ステーションも増えた。
私が介護福祉士専門学校を卒業して今の職場に入職したばかりの10年前はまだこの辺りは開けておらず、畑と納屋と所々林が広がる場所だったのだが。
そんなことを考えつつ電動アシストママチャリを漕いで20分、私の職場に到着する。
時間は午後4時30分。
まずトイレに行きスッキリ絞っておく。
この後は明日朝10時まではトイレには行けない。正確には行けないこともないが、わざわざ行く必要はない。
更衣室に入り、併設してあるシャワーで汗を流したあと、下着を着けずに全身をぴったり包む夜勤の制服、濃紺のバイオフィルムスーツを着用する。足の先から頭の天辺までぴったりの全身スーツ。
足を入れ腕を通した後、前部の股間から頭の額部分までのファスナーを首の下まで閉じ、頭部分をパーカーのフードの様に後ろに垂らして頭以外の全身をすっぽり覆う。
バイオフイルムスーツは呼吸できる素材だ。これから私たちが入るオペレーターポット内は人間の体液に似た成分のネオリンガー液で満たされる。このスーツはその中で呼吸が出来るようにしてくれるのだ。
初めてバイオフィルムスーツを見た時の私の感想は、顔まで覆うスピードスケートのレーシングスーツみたいだな、だった。
時間は午後4時50分。
一度「きぼう棟」のステーションに行き、一応引継ぎに顔を出さないといけない。
その後管理棟にある夜勤室に戻らないといけないので二度手間なのだが、そういうことになっている。
バイオフィルムスーツは体のラインにピッタリ密着しているため、上から一枚膝元まで長さのあるグレーのガウン状の上着を羽織る。
日勤帯の勤務者は通常の制服だし男性職員だっている。さすがに自分の体のラインを見せびらかす訳にはいかない。私も30歳は過ぎたけれど、まだ恥じらいはある。
私が「きぼう棟」のステーションへ行くと、記録をしている日勤帯の勤務者の他に、私と同じくバイオフィルムスーツの上にガウンを羽織った夜勤者が6名と、看護主任の門倉さんが揃っていた。
「今日の夜勤者7名、揃ったね。OK。じゃあ利用者データ等はいつも通りポット内での脳内データバイパス開通後に確認して。日勤者が午後5時までにはLIFE(科学的介護情報システム)に記録入力しておくから。
あと、週末の親睦会の参加確認今日までらしいから、張り出してある出欠票に〇×付けといてください」
今日の日勤帯責任者である看護主任の門倉さんからの引継ぎは至って簡単に終了する。
私も含めた介護士6名看護師1名の夜勤者7名も、誰もメモを取ろうとはしない。
「人格転移型介護用端末システム」のオペレーターポットに入れば、日勤帯の最新の介護記録やリハビリ実施記録の他、厚生労働省のホストサーバーのLIFE(科学的介護情報システム)に接続されたこの施設の利用者情報は全てオペレーターの脳内で直接確認できるようになっている。
便利になったものだ。
2021年の介護報酬改定で、新たに「科学的介護推進体制加算ⅰ、ⅱ」というものが新設された。
この加算を介護施設が受ける要件として、
・入所者ごとの
・必要に応じて施設サービス計画を見直すなど、サービスの提供に当たって、上記の情報、その他サービスを適切かつ有効に提供するために必要な情報を活用していること
となっており、導入当初は利用者一人につき1か月60単位(600円)の加算を利用者から頂けるようになっていた。
2024年の介護報酬改定では新たに「科学的介護推進体制加算ⅲ」が新設された。
これは2021年改定の「科学的介護推進体制加算ⅱ」の要件を2年間以上満たしていた施設が利用者1人につき1か月80単位(800円)の加算をⅱの単位に上乗せして利用者から頂くか、厚生労働省からLIFEと完全にリンクしている「人格転移型介護用端末システム」の貸与を受けられるか、どちらかを選べるものだった。
うちの施設はこの加算要件を満たしており、法人理事長の鶴の一声で「人格転移型介護用端末システム」の貸与を申請することに決まった。
月間約20万円弱の売り上げ増よりは、自己資本で導入すればウン億円のシステムを借り受けられる日本で最も評価される僅か10施設のうちの一つに選ばれた方が良い、という野心だろう。
職員には働く職員の負担減を計りたいから、と説明された。
正直私達職員も処遇改善加算とは違って施設が「科学的介護推進体制加算」を取ったところで給与への反映はない。だから「人格転移型介護用端末システム」を借りて貰った方が有難いと思っていたが、厚生労働省の審査結果は有難いことに貸与決定。そのような経緯で導入が決まった。
理事長は主に利用者家族向けの施設広報誌に、厚生労働省の厳正な審査に通り「人格転移型介護用端末システム」を借り受けられた全国10施設のうちの一つとして今後も身を引き締め介護に邁進していく、というフグの刺身よりも裏側が薄く透けて見える謙虚さで文章を綴っていた。本音は自施設の優秀さをアピールしてるのだが。
「人格転移型介護用端末システム」は北欧のノキア系列の企業が大元のシステムを開発した介護システムだ。日本では大手自動車メーカーTOUWAが一部ライセンスを借り受け、独自の技術を組み込み製造している。厚生労働省が採用しているのはTOUWA製のものだ。
施設に貸与されている「人格転移型介護用端末システム」の内訳は、介護ロボット端末7体と施設内サーバー、職員の入るオペレーターポット、オペレーターポット内のネオリンガー液を循環させ酸素供給と老廃物の除去を行う循環システム、となっている。その他運用に必要な居室や棟内のセンサー類や介護ロボット端末に電波信号を送る送信機も貸与されているが、工事費用は施設持ちだった。
使い方は単純。
私たち介護、看護職員がオペレーターポットに入り、施設内サーバーと繋がった厚生労働省内のLIFE(科学的介護情報システム)と常に交信しながら介護ロボット端末を操り介護をする、それだけだ。
介護ロボット端末を操作する感覚も、私たち一人一人が介護ロボット端末に乗り移り、介護ロボット端末を自分の体のように意識し動く感覚で操作できるのだ。
昔大ヒットし、長年かけて映画で完結したアニメのロボットの操縦と一緒の感覚だろう。
「じゃあそろそろ時間だね。夜勤者の皆さん今日もよろしく。途中の休憩はいつも通り『みっちゃん』、『はなちゃん』『ひさちゃん』『けいちゃん』『みよちゃん』『まーちゃん』『じゅんちゃん』の順で適宜取ってください」
日勤帯の責任者の門倉さんの声で、私たち夜勤者はオペレーターポットの設置された夜勤室へと移動した。
夜勤室の中は7つのオペレーターポットの周囲を一つ一つ安いベニヤで覆って、まるでネットカフェの個室のようになっている。
夜勤に入る職員は女性ばかりではなく男性もいるための措置だ。
導入の際に男性と女性のオペレーターポットを設置する部屋は完全に分けた方が良いのではないかという話が出たが、ネオリンガー液の循環システムのパイプの延長限界の関係上と、毎日の夜勤を男女比が同数になるようにシフトを組むことが職員人数的に難しいということで、こんな安っぽい形式になった。
№03とペンキで雑に書かれたベニヤの開き戸を開けて中に入る。
今日の私は介護ロボット端末№03、通称「ひさちゃん」の担当だ。
ベニヤの開き戸を閉めて鍵をかけ、羽織っていたタオル地のガウン状の上着をフックに掛ける。
さて、いよいよだ。
私は開いているオペレーターポットの中に入り、バイオフィルムスーツの頭部を被り額までファスナーを閉め顔をすっぽり覆うと、ネオリンガー液にゆっくりと体を浸して横たわった。
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