番外編 ペリドット侯爵家の名探偵たち

 番外編 ペリドット侯爵家の名探偵たち


 ローズはペリドット侯爵のタウンハウスで働くメイドである。

 彼女は14歳のときに親元を離れて王都に一人で暮らしている裕福な叔母おばのところへと預けられ、文学や数学を教わり16歳になってメイドの職を得た。

 実家の両親からは《き遅れ》とからかわれたり溜息を吐かれたりしているが、ローズ自身は何とも思っていない。こういう生き方が自分のしょうにあっていると思う。それはつまり、働いてお給金をもらいタウンハウスのメイド部屋で寝起きしつつ、つつましやかに自分のらしを立てていくことだ。

 ペリドット侯爵家にはほかにメイドが3人おり、マーガレット、ヴィオラ、ミモザという。いずれも本名ではなくメイドとしての名前である。彼女たちはいずれも十年以上ペリドット侯爵家につかえる大ベテランである。

 四人の中ではローズがいちばんの新参者しんざんものだった。

 さて、侯爵家に仕えるメイドには、洗濯や掃除といった仕事のほかに自分たちでした習慣があった。それは日々の生活を少しだけ華やかにするために代々のメイドたちで受け継がれた伝統といってよかった。


 すなわち、賭けである。


 といっても、それほど派手な賭け事ではない。

 勝負に勝ったとしても、次の外出日にティールームで紅茶と焼き菓子を楽しむくらいのささやかな賞金が得られるだけである。

 だがメイドたちはこの賭けがはじまると、もてる知恵と経験を総動員してに当たる。ときには寝食しんしょくを忘れて没頭ぼっとうすることもある。

 勝利者に与えられる金額はわずかでも、賭けに勝利することは名誉だと思われているからだ。


 その賭けの内容はずばり、ペリドット侯爵家に逗留とうりゅうする客人の《好みのジャム》を当てることである。


 ペリドット侯爵家の主人、ジェイネル・ペリドットは言わずと知れた探偵術の使い手である。ジェイネルの奇特きとくなところは、その類まれな知の力を使用人たちにも与えたところにある。

 だから侯爵家の使用人たちには全員、大なり小なり探偵術の心得こころえがある。

 メイドたちはこの探偵術を駆使くしして、客の要望にこたえる。そしてタウンハウスの客人に、その人が一番好む果実のジャムをきょうすることは、メイドたちのひそかなほまれになっているのである。


「あたしはオレンジだと思うね」


 ミモザは昼食の後片づけで忙しないキッチンで、やぶからぼうにそう言った。

 ミモザはメイド四人組のなかで、いちばんふくよかで、それでいてせっかちなところがある。


「ラト坊ちゃんのお友達だって聞いたから、どうせなまちろい貴族のボンボンか変わり者の頭でっかちだと思ってたが、あの見てくれはどうも貴族じゃないね。持ち物や服装も地味だ。庶民しょみんなら、食べなれた果物オレンジが一番いいに決まってる」

「あらぁ、ミモザさん。身なりが地味だからって庶民出とは限りませんよ」


 一番年上のヴィオラがおっとりとした口調でそう言う。


「あの方、派手さはありませんでしたけれど、昼食のテーブルを見たところ、貴族のテーブルマナーをまったく知らないって風じゃありませんでしたよ。あれは教育を受けた殿方とのがたの振る舞いです。本当はちゃんとした身分があるのに、理由があって隠していらっしゃるのではないかしらね。高貴な方は食事の好みも複雑ですよ。季節の花のジャムも候補に入れたほうがいいかもしれませんね」


 メイドとして年季が入っているだけあって、ヴィオラの言葉にはせた体から出たものとは思えぬほどの説得力がある。

 

「でも、いまは冒険者仕事をしているんでしょう? だとしたら、そう大した家柄でもないんじゃないかしら。本当に高貴な家柄なら、たとえすえの男子でも冒険者稼業に出すのは恥ってものだわ。もしかして著名な騎士の家系ってことはない? それなら、いかにも探偵騎士の相棒って感じだしね」


 商家の出身のマーガレットの推理はいつも現実的だ。明るい茶色の髪やそばかす顔はやんちゃな印象を与えるが、実際の彼女はかしこくあらゆる計算に強い。


「好奇心の強さで冒険者をしているのだとしたら南国の果物を使ったジャムもいいかもね。物珍しさで喜んでくれるかもしれないわ。ローズ、どう思う?」


 マーガレットにたずねられ、ローズは首をかしげた。

 どの意見も、ある程度は的を射ているような気がする。

 ジェイネルの養子であるラト・クリスタルが友人を連れてきたことは、ペリドット侯爵家にとって一大ニュースであった。

 もちろん良い知らせだ。

 ラトはエメリーンを失って以来、灯火ともしびが消えたようだった侯爵家にたくされた希望の光であった。ラトに自分の探偵術を教え込むという使命があったからこそ、ジェイネルは喪失そうしつの悲しみから立ち直ることができたのだ。

 しかしラトが探偵としての資質や才覚を輝かせるほど、ラトの周囲からは友人や理解者といった人々が離れていった。

 その点についてはジェイネルも常に気にんでいた。探偵にとって一番大切だと言われる相棒が見つからないのでは、とひそかに心配していたのだ。

 使用人たちはもしもラトが自らの力で相棒を見つけられなかったときのために、それとなく候補を探してもいた。

 しかし、すべては杞憂きゆうというものだったようだ。

 ラトはクリフ・アキシナイトという青年を迷宮街から連れ帰って来た。

 見たところクリフ・アキシナイトは打てばひびかねのように賢いというわけでもなく、少なくとも見た目はさほど機敏きびんそうでもなかったものの、誠実でまじめそうではあった。

 どうやら侯爵家の資産をめあてに近づいてきたわけではない、というのが一目でわかったため、家人たちはほっと胸をでおろしていたところなのである。

 

「うーん……。どの推理も説得力があるように思えるけれど、なんとなく決め手に欠けるのよね」


 ローズが困惑しているのも無理はなかった。

 当初は簡単に結着がつくと思われた恒例こうれいのジャム・レースであったが、いざ取り掛かってみると、クリフの好みを当てるのはひどく難しかった。


「ねえ、マーベル。いい加減、クリフさんの正体を教えてくれない? 出身地だけでもいいからさあ」


 辛抱しんぼうたまらない、というようにミモザが言う。

 家宰かさいのマーベルはそのとき、執事しつじのハーケンと共に使用した銀食器をみがいていた。マーベルは首を横に振った。


「旦那様より、クリフ様の身の上に関する事柄についてはいかなることも口外無用こうがいむようと命じられております」


 メイドたちは大きなため息を吐いた。

 これが賭けを難しくしている最大の要因よういんであった。

 クリフ・アキシナイトがどういった経歴の持ち主かについては「いっさい詮索せんさくしてはならぬ」というお達しが、他ならぬジェイネルから出されているのだった。

 たいていの客人は出身地や身分を調べれば食の好みをすぐに割り出せるものだ。

 しかしジェイネルが「秘密」と言えば、それは例外なく絶対の秘密なのである。


「口外無用にしなくちゃいけないような身の上ってこと? 犯罪者とか?」

「手前が旦那様より、クリフ殿の身の上に関する話を聞いたかどうかでさえ、話してはならないとのことです。そうであれば、水責みずぜめされたとしても、一言もらすつもりはありませんとも」


 マーベルはてこでも口を開くつもりはないらしい。

 クリフがどのような身の上で、どうして冒険者になり、そしてラトと行動を共にしているかは、直接本人から聞くか探偵術でかすしかない。もちろん、探偵術を仕込まれたペリドット侯爵家のメイドにとって、直接客人から聞き出すなどという行為はずべきおこないである。

 第一、ジェイネルの命令をやぶれば、ローズたちは使用人である資格を失うことになるだろう。賭けのために最高の職場を手放すつもりは誰にもない。


「だけど、そうなると、お料理のほうもさぞかし苦労しているでしょうね」


 ローズが気遣きづかわしげに言うと、ハーケンはため息で答えた。

 ただいま、ペリドット侯爵家の料理人は休憩に出ているが、まさしく同じ苦悩にさいなまれていることは間違いなかった。

 この家においては料理人も、もちろん探偵術の使い手である。

 腹をかした客が無言で玄関をくぐったとしても、その客人が最高と思う料理をきょうするのがその使命だ。

 しかし今回の客はいかなる前情報もない。

 ただただ顔色をうかがいながら、使う食材から塩の量、スパイスまで何もかもを決定しなければならなかった。


「クリフ様は、肉も魚も野菜も出されたものはなんでも口にされます。どちらかといえば肉料理のほうが食が進むようです」


 ハーケンが食事の風景を思い出しながら言うと、マーガレットはくちびるを曲げて言った。


「なんですってハーケン。若い男性が肉料理を好むだなんてことは、辞書の一ページ目に書いてあることよ。それも大文字でね」


 あからさまな悪口に、ハーケンは居心地いごこちが悪そうに視線をせる。


「外見や身なりの質素しっそさからすると、食のこのみもさほど複雑とは思えませんな」

「まさか、辛党からとう甘味かんみこのまない、なんてことはないだろうね。それだったら大変なことだよ。賭けが成立しなくなっちまう」

「まあ、だったら3時のおやつはどうするの? ジャガイモのパイでも焼く? 戦時中でもあるまいし……」

「いいえ、あの方はけっこうな甘党でしょう。食後の紅茶にえた砂糖菓子をおいしそうにがっておられました」


 片付けがほどほどに終わった頃あいを見計らい、ローズはそれぞれが熱心に意見をわすキッチンから抜け出て、自分の持ち場である洗濯場せんたくばへと向かった。

 もしもこれがジェイネルやラトであったら、きっとたちどころに好みのジャムの味を見抜いてしまったことだろう。しかし、まだ探偵術を習い始めて日が浅いローズにとっては、クリフの味の好みを知るのは難しいことのように思えた。

 洗い終わった洗濯物を手に客室に向かうと、ちょうどいいタイミングでクリフが廊下に現れた。

 見たところ、それほど背は高くない。田舎おなかの弟より低いだろう。ぱっと見は小柄に見える。それでいて服の下はしっかりきたえられているところは、さすが冒険者といったところか。手のひらは分厚くて頼もしい。労働をいとわない性格だ。赤錆色の髪の色や髪型は南方を思わせる。

 南方の男性は若い女性に対してぞんざいに振る舞うとよく言われるが、クリフがローズを見つめる目は優しげであった。

 たたんだ肌着はだぎや下着を手渡すと、客人はローズに丁寧ていねいに礼を言い、受け取った。


「わざわざ洗濯に出すのも恥ずかしいような襤褸着ぼろぎなのに、丁寧にアイロンまでかけてくれているな。もしかして、取れていたボタンまで付け直してくれたのか? どうもありがとう」


 そう言って屈託くったくのない笑顔をみせる。

 こまかい手仕事までめられてついうれしくなるが、ローズははっとしてゆるんだ気を引き締めた。

 メイドにも親しげに話しかけてくるのは、貴人の客にはなかなか無いことだ。

 しかしヴィオラの言う通り、まったくの庶民というのも違う気がした。

 これくらいの年の若者が、メイドの働きに対してこうした声の掛け方をするとは思えなかったからだ。


「当然のことをしたまでですわ。ご用があれば何なりとお申しつけくださいませ」

「そうか。さっそくちょっとした頼みごとがあるんだが」

「はい、なんでしょう?」

「洗濯をしてくれてるのは君かな」

「はい、私です」

「仕事に不満があるわけじゃないんだが、その、リネンや衣類についた甘い香りが……気になって」


 クリフは実に申し訳なさそうな、言いにくそうな様子である。


「あっ」


 ローズは声を上げた。

 ペリドット侯爵家では、ジェイネルやラトの衣服やリネン類を洗うときは無香料の洗剤で仕上げるという決まりがある。夜会服など社交の場で用いるもの、客人のものは例外だったが、しかし。


「それは気がつかず、大変申し訳ありませんでした。クリフ様はラト様の助手でいらっしゃいますのに……」


 ローズが平身低頭へいしんていとう謝ると、クリフは不思議そうな顔つきになる。


「ん? 洗濯に使う香料こうりょうと、何の関係があるんだ?」


 今度はローズが不思議がる番だった。


「ラト様や旦那様からは、衣類のにおいが推理のさわりになるので香料は使わないようにときびしくめいじられているのです」


 そう答えると、クリフは納得なっとくしたようだった。


「なるほど。そういえばあいつ、貴族の出身なのに香水や何やらとはとんと無縁むえんだったのはそういうわけか……。いや、俺の場合は、単に苦手なにおいってだけだよ。ほら、この家のリネン類からは花のにおいがするだろう? 俺の実家は貧乏だったから、腹をかせていた子ども時代を思い出すんだ」

「どうして花のにおいで子ども時代のことを思い出されるのでしょうか?」

「花は、甘ったるい香りがるするのに食べられないか、食べても不味まずいか、腹の足しにならないからだ」

「まあ……、もしかすると私を笑わせようとしていらっしゃいますのね」

「いやいや、本当のことだ。良い香りがするものは好きだよ。とくに浴室よくしつ石鹸せっけんこのみの香りだから、そのままにしておいてくれると嬉しい」

「はい。確かにうけたまわりました」


 それじゃあ、と言ってクリフは客室に引っ込んだ。

 ローズは深々とお辞儀じぎをする。

 頭を下げながら、やはりと確信していた。

 あの気さくな態度たいどを考えるとミモザやマーガレットの言う通り、高い位の出身というわけではなさそうだ。

 しかしメイドに要望を伝えるときも、ローズが気分を害さないようにという配慮はいりょがあった。

 伝え方にも思慮深しりょぶかさがある。洗濯の担当は誰かとあらかじめ訊ねたのは、直接伝えなければ洗濯担当のメイドが怒られると思ったからだろう。ましてや、ラトやジェイネルの耳に入ることになれば、使用人の立場が悪くなるのは間違いない。

 こうした気遣いができるのは、自分自身が似たような仕事をしていたか、それとも人を使う立場にあったか、そのどちらかだ。

 ローズは考える。自分が手にしたヒントの中に、何か答えにたどりけそうなものはなかっただろうか。

 たとえばクリフの服にはところどころ補修したあとがあった。

 裁縫さいほうをしたのは誰だろう。もしもクリフ自身がしたのだとすると、針や糸の扱いをどこで覚えたのか。

 騎士階級の出身であれば、そうした細々した手仕事は従士じゅうしがしそうなものだ。

 もしかすると、軍隊にいた経験があるのかもしれない。


 とすると、爵位しゃくいのない武門ぶもんの出……。


 いや、決めつけるには確証がない。

 そこまで考えて、ローズは自分の思考がジャムから離れていっていることに気がついた。


「いけない。出身がわかったからといって、必ずしも好きなジャムの味にたどりつけるとは限らないんだったわ」


 ローズが独り言をもらしながら、客用の浴室の前を通りがかったときだった。

 クリフの言葉がふいに舞い戻ってきた。


『浴室の石鹸は好みの香りだから、そのままにしておいてくれると嬉しい……』

 

 おかしい、とローズは思った。

 というのも、タウンハウスで用いられている香料は、とくにリクエストがないかぎり王都の高級店で調香ちょうこうさせた花のかおりのものを使っているからだ。

 リネンやタオルやガウン、下着や肌着、洗剤や石鹸など、それぞれまったく別の香りを使っていたら、においがじって大変な悪臭あくしゅうになってしまう。だから、タウンハウスで香りをあつかう必要がある場合、基本的には系統けいとうの同じ花の香りを使うことになっていた。

 ローズは周囲に気をくばりながら、浴室に入り、ストックされている石鹸の棚をあけた。ひとつ取り出して香りをぐ。

 あまやかでありながら酸味さんみのあるさわやかな香りが鼻孔びこうを突いた。


「これは……アーモンドの花だわ……」


 アーモンドは春から初夏にかけて満開になる桃色の花だ。

 やはり石鹸もほかの香料と同じく、花の香りでそろえられている。

 しかしクリフは花のにおいはきらいだと言った。

 空腹を思い出すからだ、と。


「アーモンドは実をつけるから例外なのかしら。あ、いえ、もしかして……」


 そのとき、ローズの脳裏のうりにひらめくものがあった。





 翌朝、朝食の席には、焼き立てのパンと共に四種類のジャムが並んだ。

 ローズやマーガレット、ヴィオラ、ミモザの四名のメイドたちは、クリフがどのジャムを選ぶのか、ひそかに監視かんししている。

 メイドたちのジャム・レースが行われていることは、ジェイネルやラトにはお見通しだろうが、口うるさくは言われなかった。これも探偵術をよりすぐれたものにするためのまなびだと思われているのだろう。

 クリフはまず紅茶を飲み、ジェイネルの世間話につきあい、ハムを何枚か食べた。

 そして、とうとうパンを取り、つけあわせのジャムを選ぶ。


 今日のジャムは、ミモザが選んだオレンジ、マーガレットが選んだ鳳梨ほうり、ヴィオラが選んだなしとベルガモット、そして……。


 給仕きゅうじをしているヴィオラの説明を受けて、クリフはなやみ、そしてとうとうひとつを選んだ。

 それは、ローズが選んだジャムだった。

 白い陶器とうきの皿に輝くオレンジ色のジャムが選ばれた途端とたん、ローズは使用人用の通路で思わず小躍こおどりをした。


「あんず! あんずあんずあんず、あんずよ~っ!」


 そう小声でさけぶと、キッチンまでけていく。

 クリフが選んだのは、ローズが選んだアンズのジャムだ。

 みごとに正解を引き当てたローズをヴィオラがむかえてくれた。


「よく正解がわかりましたね、ローズさん」

「どうしてアンズだとわかったの?」


 マーガレットが答えを知りたくてたまらないといった様子で身を乗り出してきた。

 給仕をえたミモザもワゴンを押しながらもどってくる。

 ローズがアンズのジャムを選んだのは、クリフが《アーモンドの花の香り》を好んだこと、間違いなくその一件がきっかけになっていた。


「クリフ様は花の香りがお嫌いなのよ。でも浴室の石鹸はそのままでいいとおっしゃったの」

無香料むこうりょうの石鹸は少し油くさいわ。だからじゃなくて?」

「ちがうの。クリフ様は、浴室の石鹸の香りがアーモンドの花の香りだとは思っていないのよ」


 不思議そうなマーガレットのために、ローズは説明をつけくわえる。


「ほら、香りって時にはあいまいなものじゃない? たとえば同じラベンダーの香水こうすいでも、香水店が違えば、雰囲気がまるでちがうことがあるでしょう」

「確かに。前にミオレ香水店で試した新作は最悪だったわ。まるであせのにおいみたいだった。ほんとうにラベンダーなの? って感じ」

「私たちにとってはいつも見慣れた石鹸だし、包装紙ほうそうしにアーモンドの花がいてあるから間違わないけれど、石鹸ケースに入れた状態しか見たことのないお客様は、この香りが具体的に何なのかまでははっきりとわからないのよ。クリフ様は、きっとご自分の記憶のなかの好ましいものとむすびつけたにちがいないわ。アーモンドの花とていて、それでいて花でないもの。空腹のつらい思い出とはまるで正反対のものよ」


 ヴィオラは微笑ほほえんでローズの推理を聞いていた。


「それで、アンズ……ということだったのですね」

「確かに、アンズの香りはアーモンドの花とよく似てるからね。でも、似ているといえば、ももだってよく似ているよ。どうしてアンズだとわかったんだい」


 ミモザに問われ、ローズは答えた。


「あら、桃は育てにくくて高級な果物くだものでしょう。子どものおやつにするなら、やっぱりアンズだと思ったの」

「なるほどねえ。この勝負は、たしかにローズの勝ちだよ。精進しょうじんしたね」


 ローズは執事のハーケンや家宰のマーベルからもめられ、賞金を手にした。

 ミモザは新入りに負けたことがよほどくやしかったらしく、ディナーの後のデザートでもレースをやろうとした。しかし、その後すぐにクリフは探偵騎士団に招聘しょうへいされていき、満身創痍まんしんそういどころか瀕死ひんしていでもどってきた。

 いためつけられた胃は固形物をまったく受け付けず、残念ながらデザート・レースはまたの機会に持ち越しとなってしまったのである。



『ペリドット侯爵家の名探偵たち』

おしまい

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