第71話 後日談


 一週間ほどクリフは寝たきりで生活することになった。


 最初の三日は寝台の上から動くことができず、気絶するように眠り続けた。

 何度かドラバイト卿が往診おうしんたずねてきたらしいが、それもほとんど記憶にない。

 タウンハウスのメイドたちは流石さすがの観察力で、クリフは引き続き下にも置かぬあつかいを受けてはいた。だが、毒は体の内部を徹底的てっていてきいためつけており、愉快ゆかいらしからは程遠ほどとおいものだった。


 食べるものひとつとっても自由にはならない。

 大量ので薄めた麦粥むぎがゆ上澄うわずみをめるところからはじめ、なんとか三分粥さんぶがゆやペースト状にした野菜や果実を口にできるようになったのが四日目のことだった。


 それでも五日目には自分の足で歩くことができるようになり、六日目には短時間なら散歩に出てもよいということになった。


 このタイミングをクリフはずっと待ち続けていた。


 七日目の朝、ジェイネルは国王陛下へ謁見えっけんする用事があるとかでラトを連れて出て行った。

 朝食にあたたかいミルクがゆを食べた後、クリフは松葉杖まつばづえを突いて散歩に出かけた。

 タウンハウスの周辺は静かで人気がない。

 休み休み、歩きながら女神教会の広場まで行くと、少しはにぎやかな人の気配けはいがあった。

 屋台や通りの店で朝食を食べる労働者たちと、それにじって貴族と思しき男性もいる。

 商品をかかえて彼らの合間あいませわしく行き交っているのは新聞売りだ。

 人々は彼らから新聞を買い、それを話題にあちこちで議論の花を咲かせていた。

 迷宮街にもたような風景はあるが、もっと混沌こんとんとしてあちこちから怒鳴どなり声が聞こえてくるような場所だ。

 こんな街角まちかどにもそこはかとない上品さがただよっているのはさすがに王都だと言えそうだ。


 クリフは広場の階段の端に腰かけた。


 すると、身なりのまずしいせた男が新聞片手に隣にやって来て話しかけてきた。


 紺色こんいろのつばつき帽子ぼうし目深まぶかにかぶっているが、ひたいにはみが浮かび上がり、肝臓かんぞうが悪いのかつめには黄疸おうだんがでているのがみえる。


旦那だんな、けさの一面記事いちめんきじなんですがね、ちょいと面白おもしろい記事が掲載けいさいされているらしいんですよ。どうか文盲ぶんもうのわしのために読んでくださいませんかね」


 男は新聞を見せながら言う。

 汚ならしいコートのポケットには残り四分の一ほどとなった安酒やすざけのびんが入っていた。


 クリフは男が差し出した記事の見出しをちらりと見て、言った。


「悪いが、俺にも学がなくてな」

「はははっ、バカを言っちゃいけませんや」


 男は酒焼さけやけしただみ声で笑い声を立てる。


「新聞を読んでくれと言われたとき、本当の文盲なら見出しなんか見もしませんや。それに今日の一面記事は、アルコール中毒患者の増加にともない酒税しゅぜいすという記事で、そんなものを今まさに酒におぼれている男に読んでやったら面倒めんどうになりかねないでしょうな。それに、答える前に瞳孔どうこうが動いたのは、脳みそが思考した証拠ですぜ、旦那」


 男はそう言って軽快けいかいに指をらしてみせた。


 すると、にぎやかだった広場は急にしん、と静まり返った。


 屋台を開いていた男たち、女たちがすみやかに店じまいを始める。

 新聞を売り歩いていた子供たちも商品を手に足早あしばやに広場を出ていく。


 気がつくと広場には男とクリフだけが取り残されていた。


「——思うに、思考というのは何よりも雄弁ゆうべん沈黙ちんもくなのだ」


 男はもはやだみ声ではなかった。

 深く、怜悧れいりで、思慮深しりょぶかい声つきであった。


「私が誰だか、君も気づいていることと思う」


 彼はひたいに手を当て、化粧けしょうほどこしたゴム製の仮面をがしてみせた。

 その下には、つんとました貴族の青年の顔があった。


 アルタモント卿である。


 みごとな変装だった。

 その出で立ちで以前に見かけたときと同じなのは黒髪くらいなものだろう。

 クリフはおどろき、身を強張こわばらせた。

 本気で息が止まるかと思ったのである。


「…………どうなってるんだ、声や姿だけでなく身長まで違ってるぞ。探偵の館で見かけたときは、確かもっと長身だった。レガリアの力でなければ骨格こっかくは変えようがないはずだ」

「レガリアをもちいたトリックというのは、世間せけんが思うほど素晴すばらしいものではない。我が王国ではレガリアの流通りゅうつう徹底的てっていてきに管理されており、レガリアを所持するということ自体が犯人につながる糸になり得る。もっと最悪なのは処分が難しい点だ。ご存知ぞんじの通り、。永遠に地上に残りる証拠なぞ、犯人にとっては悪夢あくむ以外の何ものでもない。よってレガリアをもちいないシンプルな解決策のほうが優秀である場合というものはいくらでも考えられる。つまりね、やかたでは、もっと厚底あつぞこくついていただけのことなのだよ。ブーツの中に仕込みを入れてね」

「俺をだますためだけにそこまでやるのか?」

「いや、これはいたずらごころだ」

「いたずら心ね……」


 クリフは誰もいない広場をながめ渡した。

 ここに先ほどまでいた人々は何者なのだろう。

 劇団員げきだんいんか、それとも全員に小金こがねをつかませでもしたのか。

 いずれの方法にしろ、いたずらにしてはあまりにも気合きあいはいぎている。


「ジェイネルから話は聞いている。私と一対一いちたいいちで話したいそうだね。復讐ふくしゅうかね?」


 アルタモント卿はそう言った。

 探偵裁判の後、体力が戻りはじめた頃に、クリフは見舞みまいに来たパパ卿にアルタモント卿への伝言でんごんたのんだ。

 ジェイネルはまったく乗り気ではなかったが、クリフがぜひにと頼みこんだのだ。


「……いや、復讐じゃない。俺はあんたと交渉がしたいだけだ」

「私と交渉か……」

「そうだ。対話でもなく、相談でもなく、交渉だ」

「内容は?」

「ラトを自由にしてほしい。この先、あいつがどんな道を進むにしても、好きにさせてやってほしい。たとえ探偵騎士にならなかったとしてもだ」

おどろいたな。君の口からそれが出てきたということが」


 アルタモント卿はどこまでもおだやかな表情で会話を続ける。


「あの探偵裁判で決心けっしんがついたよ。ラトはあそこにいるべきじゃない」

「我々が彼を名探偵にするべく、どれほどの労力をいたか君には想像もできないのだろうな」

さっしはするよ。だからこその交渉だ」

「ほう、いまの君に影の貴族と交渉できる材料があると思えないがね」

「そうだな。毒の影響もまだ完全に抜けきってないんじゃ、あんたも俺なんかの話を聞く気にはならないだろう」

「肉体が万全ばんぜんの状態に戻ったとして、どうするね。アンダリュサイト砦にはもはや王国と対峙たいじする体力は残されていないぞ」

「自分を王国と同一視どういつしするのか?」


 アルタモント卿は軽く首をすくめてみせた。失言しつげんとも思っていないらしい。


「何か間違ったことを言ったかな」

「さあ、俺は宮廷きゅうていのことにはくわしくないから何とも言えない。けど、あんたのことは過剰かじょうに評価はしない。どんな立場の人物でも間近まぢかにすればただの人間だ。そしてそれは俺も同じだと思う……。もしもあんたと交渉ができるとしたら、それは残念なことにということになるだろう」


 クリフはひざの上で組んだ両腕に力を込めた。


「もしも体調が戻ったら、俺はかならずあんたに会いに行く。どんな手段を使っても、そのときは剣と暴力を連れていく。あんたが対面するのは正真正銘しょうしんしょうめいのクリフ・アンダリュサイトだよ」

「わからないな。なぜ、君が私にいまそうした話をけるのか。計画があるなら、心にしまって話さないほうが利口りこうだとは思わないか」


 それはアルタモント卿が言う通りだった。

 暴力をるうと予告しているのに、わざわざその人物を自分のひざ元にまねこうとする人間はいない。いるとしたらよほどのおろものか狂人だけだ。


「それでも会ってもらうぞ。ここで俺は一枚目の切り札を切るからだ。もちろん、パパ卿のことだ」

「……なるほど。それもいくらか困難がつきまとう手段だとは思うが、彼はラトの父親であることを優先するかもしれないな」

「そういのってるよ」

「だが、私の喉元のどもとに剣を突きつけるには数手すうてらないように思うね。君がイエルクのごうを背負って私の前に立ちはだかるというのなら、正義が君をさばくだろう。他の探偵騎士が君の行く手をはばむことになるだろう」

「当然そうなるが、幸いにも全員ではない。デリー夫人とスティルバイト卿は俺の敵にはならないだろう」

「何故だね?」

「たとえば、もしもデリー夫人の身に何らかの危険がせまったとしたら、あんたは大事だいじをとってスティルバイト卿を警護けいごにつかせるという気がするんだ。どうかな」


 アルタモント卿はクリフの表情をじっと覗き込み、再び広場に目を向けた。


「……あながち間違いでもない。レディをお守りするのは王国紳士の宿命しゅくめいだ」

「だから、あんたを守るのはドラバイト卿とロー・カンという二枚のこまだけになる」

「彼らに勝てるかね」

「勝つ必要はない。確実に仕留しとめられる距離に近づけばいいだけだ」


 アルタモント卿とのやり取りはラトのように洗練せんれんされたそれではなかった。しかしアルタモント卿はその頭脳によって、クリフはのろいとともにその身に叩きこまれた暴力によって、二人の思考の合間あいまにひとつの盤面ばんめんつむがれつつあるのも確かだった。


「では、私は自分のテリトリーで君を出迎でむかえよう。場所はオブシディアン家の屋敷だ。大広間を使いたまえ。探偵たんていやかたに置かれた伝統的な円卓えんたく披露ひろうできないのは残念だが二十人は会食ができる長テーブルが悠々ゆうゆうと置かれ、シャンデリアがげられた大空間だ。遠慮えんりょなく飛び跳ねるといい」

「まずはドラバイト卿の足を止めさせてもらう。とにかく問題はドラバイト卿だ。こいつに自由に動かれたら俺に勝ち目はない。ほねが何本か折れたとしても、必ず足はぞ」

「方法は?」

「もしも俺が奴に勝てる点があるとしたら、速度スピードと剣のわざだ。広間に入った瞬間、何を置いても距離を詰める。間近にせまる」

「それほどの距離で剣がさやから抜けるかね」

「俺なら抜けるし、そこかられる。やり方は内緒ないしょだ」


 内緒とは言ったが、大したトリックではない。

 抜くときにももで鞘を外側にはじくだけだ。

 剣を振り切れば鞘走さやばしりで速度も乗る。

 見切られない自信はあるが、初手しょてで決めなければ二度はない技だった。


「おそらくロー・カンが助けに入るだろう」

「やつに簡単に手出しさせないために、ドラバイト卿を相手にする必要があるんだ。俺とドラバイト卿が肉薄にくはくして戦っているかぎり、ロー・カンは引き金を引かないからな」


 銃には跳弾ちょうだん誤射ごしゃというデメリットがある。

 ドラバイト卿を傷つける可能性があるかぎり、ロー・カンは銃のあつかいに慎重しんちょうになる。


「それでもレガリアの効果は無視できまい。たまが当たらなくても、君の剣を取り上げることは可能だ」

承知しょうちのうえだ。やつのレガリアに武器を封じる力があるってのは身にみてるよ」

「つけ加えておくと、ありとあらゆる武術につうじたドラバイト卿だからこそ相棒のレガリアをかせるのだ。きたえ抜かれた彼のこぶしは岩をもくだくぞ。これは比喩ひゆではない」

格上かくうえの相手と戦うときの鉄則てっそくはつねに攻撃を仕掛しかけ続けること、そして有利な立ち位置から決して離れないことのふたつだ。剣を失ったのは痛いが、下半身や怪我けがをした右足に集中して打撃だげきりを加える」

「彼の頑健タフさは肉体の強さ以上に使命感によるものだ。それしきのことで打ち倒されはするまい。必ずや立ち上がり、君を圧倒あっとうするだろう。見たところ君は彼よりもずっと体重が軽くて押しつぶしやすそうだ」

「ロー・カンから鉛弾なまりだまをもらって退場するよりマシだ。だがドラバイト卿が有利だっていうのは確かにその通りだよ。俺がどれだけ攻勢こうせいにでても、根本的な差がめられるわけじゃない。それがパワーってやつだからな。どれだけ有利を取れたように見えてもじりじり押し返されていくだろう」

「どうするね」

「それを利用してわなにかける。急所やダメージは避けながら、じっくりと奴を誘導ゆうどうする。俺は窮地きゅうちに追い込まれたふりをしてテーブルの上に飛び乗る」


 クリフはテーブルの高低差を利用して、打撃だげきが致命傷になりやすい頭部や首、上半身に攻撃をしかけることを考えた。

 しかし、ドラバイト卿はどれも簡単にいなすか、受けたとしてもびくともしないか、そのどちらかだろうと思えた。

 くるまぎれに派手な蹴り技など使おうものなら、体が少しでも浮いた瞬間に足首をつかまれて地面に叩きつけられるに違いない。


さそうのは、テーブルのうえでの攻防こうぼうだ」

せま足場あしばで、負傷ふしょうして動きのわるあし。少しでも有利につこうという魂胆こんたんかね」

「それもある。ここで俺はもうひとつ切り札を切り、ドラバイト卿の拳を

「どうやって」

「ドラバイト卿の拳は強い。だからまともには相手をしない。ひじで受けて破壊はかいする」

関節かんせつによる打撃だげきは拳よりも強いと言われるが、一般人の話だ。ドラバイト卿相手ではこわれるのは君の体のほうかもしれない」

「だから、あらかじめやいばを仕込んでおく。ラトがしていたように布一枚はさんでおけば、武器にさわれないこともないらしいからな」

「じつにハゲワシらしい手法だね」

「俺もそう感じてるよ」


 ここでかたられていることは、いまだ起きていない未来の出来事ではあるが、十分に実現可能な未来のひとつであった。


名誉めいよは失うが確実に拳はつぶせる。おまけに指を何本かもらえるかもしれないな」

「ドラバイト卿がそれでひるむと思ったら大間違いだ。探偵は逆境ぎゃっきょうにこそ輝きをみせるもの。彼はそれでも立ち向かう。おそらく、仕込み刃がなされた君のひじを下から打ち上げ、ガードをかせ、強烈きょうれつ一打いちだを加えるだろうな」

「せいぜい意識いしきを失わないよう善処ぜんしょするさ。ひとつ聞きたいんだが、アルタモント卿。ロー・カンってやつは我慢がまん強い男か?」

「……そうだろうな」

「あんたは奴のことを狙撃手だと紹介したな。やつはおそらく俺とドラバイト卿が戦闘に入った瞬間、距離を取って、俺だけをてるタイミングを辛抱強しんぼうづよねらい続けているはずだ」

「その通りだろう。彼は狩りをするとき一匹の獲物えものを三日も追跡ついせきすることがあると言っていたからね。我慢強く追い、どろの中で獲物を待ち、確実に仕留めるに違いない」

「だったらタイミングはのがさないはずだ」

「何のタイミングだね」

「相棒を助けられるタイミングだよ」


 アルタモント卿の表情は先ほどから少しずつ変化していた。

 笑顔であることは変わらない。しかし瞳に強い光が宿っていた。


「テーブルの上に飛び乗ったのは、ただ追い込まれてのことじゃない。すべてはドラバイト卿を立派なシャンデリアの下に誘い込むためだ」

「シャンデリアを落とすつもりかね。ドラバイト卿の猛攻もうこうをしのぎながら、どうやって?」

「そう思わせれば、それだけでいい。シャンデリアに視線をやりながら、爆薬ばくやくを手に取るだけでいいんだ。ロー・カンはどうする?」


 アルタモント卿は力強い瞳で、ただ前だけを見据みすえていた。

 彼はひざの上にひじをつき、両手を合わせ、その指の先に未来を見ていた。


 その姿は推理をしているときのラトによく似ていた。


 おそらく……いや、きっと。

 ラトがパパ卿から人心掌握術じんしんしょうあくじゅつを、マラカイト博士から科学を、ドラバイト卿やロー・カンから医術を学んだように、アルタモント卿もラトに大切なものをさずけたのだろう。


「…………ドラバイト卿の生命を優先するだろうな」


 そしてそう判断したなら、ロー・カンはすばやく目的達成のために動く。

 探偵裁判のとき、クリフの状態をみて、毒薬を調整すると決めた彼が誰にも相談せずにそうしたように。


「ロー・カンは相棒を救うため、こちらに駆け付ける。テーブルのうえに。そしてドラバイト卿とロー・カン、ふたりの足がテーブルの上に同時に乗ったときがチャンスだ。、オブシディアン家の大広間にあるテーブルには、いつも黒地に銀糸ぎんし刺繍ししゅうほどこされたテーブルランナーがかかっているらしいじゃないか」


 テーブルランナーとは、テーブルの中央を横断おうだんするようにかけられた細長いかざぬののことだ。


「二人の足をランナーにからませて転倒てんとうさせる。そのすき防衛ぼうえいラインを突破とっぱし、ようやくあんたとの一騎打いっきうちだ。待たせたな、アルタモント卿」

「ほんの一瞬のすきだな」

「ナイフ投げには自信があるんだ。避けてみるかい」

「その必要はない。君は……私の駒は二枚だと言ったが、それはまちがいだ。私にも切り札というものがある」


 そのとき、クリフの頭に小石が当たった。

 上を向くと、背後にした建物の屋根に人影が見えた。

 顔や体は見えないものの、赤い髪をひるがえして去っていく。


「ノーヴェ……いたのか……」

「あの子は私を守るよ。それは絶対だ」

制御不能せいぎょふのう手駒てごまが……か?」

「説明は後にまわそう。君の切り札はそれで終わりかね」

「いや、まだある。さっきの爆薬、本当は爆竹ばくちくにするつもりだったんだが、そういうことなら本物に変えさせてもらう」

「前提をくつがえすとは、卑怯だな」

「こればかりは殺されかけたうらみだ。ドラバイト卿やロー・カンに火をつけた導火線どうかせんをどうにかできるか?」

「無理だろう。しかしノーヴェなら何か面白いトリックを考えてくれるだろうね。大広間を吹き飛ばさずにすむように」

「さあ、これであんたの持ち駒はなくなったぞ。どうする」

「私も王国貴族のはしくれだ。君がハゲワシの血統であり、アンダリュサイト砦の後継者であることを認め、真向勝負まっこうしょうぶを受けよう」


 クリフは息を吐いた。

 戦いの最中は止めていた深くて長い呼吸をした。

 それは、アルタモント卿との戦いが終わったことを示していた。


「そうか、ならこれで詰みだチェックメイト。あんたは絶対に俺には勝てない。ドラバイト卿やロー・カン、そしてノーヴェは俺を殺せるだろうが、あんただけは無理だからだ」

「……………その根拠こんきょは?」

「聖女選定の祝辞しゅくじをまだたまわっていないぞ、アルタモント卿」


 クリフは自分でも自分がおそろしいほど、冷徹れいてつな口調でそう言った。


 ——聖女を輩出はいしゅつした家系かけいに対して必ず行わねばならない貴族たちの最上礼さいじょうれいだ。


 それを初めて目にしたのはタウンハウスでパパ卿から礼を受けたときだった。


「この私がそのために武装ぶそうき、いままさに私を殺さんとしている君の前にこうべれるとでも言うのかね」

。お前は絶対にひざまずく。それは間違いなく、絶対ぜったいに、るぎのない必定ひつじょうとしてそうんだ。何故なら、お前には大義たいぎがあるからだ」


 それらの言葉は、クリフが言っているのではなかった。

 クリフの中にあるものが、クリフの体や声を借りて言葉を発している。

 クリフの精神に傷としていまもなお残るのろいそのもの、ディッタイの悪鬼あっきしゃべっているのだ。


「お前は探偵騎士団のおさだ。組織をひきいる者であり、そして王国貴族であり、領地を持ち領民りょうみんみちびく立場にある。そんなお前がおのれの命よりも優先しなければならないものがひとつだけある。それがであり、その名をという。お前は、ゆくゆくは宰相として王国の命運めいうんを両肩に背負う立場だ。だからこそ絶対にからは逃げられない。探偵裁判を行い、人命じんめいもてあそんでなおドラバイト卿やロー・カンたち探偵騎士団がお前を守ろうとするのは、貴様きさまにロンズデーライト王国を守護する者であるという建前たてまえがあるからにほかならない。そうであるからこそ、その横暴おうぼうや、他者を支配するという特権の一切合切いっさいがっさいが認められる。だからこそこれを失った時、影の貴族であるという優位性ゆういせい、そしてオブシディアン家の後継ぎであるという権威けんいはたちまちのうちに失墜しっついする」


 それこそが、クリフが現在もつ最大の切り札だった。

 マラカイト博士が指摘してきした通りである。

 ロンズデーライト王国は王家によって守られ、そして貴族たちによって支配されている。

 その支配の根拠になるものがレガリアの力、ありていに言えば軍事力である。

 王国の民が貴族の支配と特権を認めているのは、彼らが国土と財産を守護してくれるからだ。もしもその前提がなければ、それが誰であっても貴族として認められないのだ。

 それは影の貴族といえど例外ではない。


「聖女を輩出はいしゅつした家系には、王族であってもひざくという慣習かんしゅうは馬鹿馬鹿しくて危険だ。しかし聖女が王国の繁栄はんえいになっている以上、その聖なる力の前に王国貴族が拝跪はいきするというルールは絶対だ。なぜなら貴族は常日頃つねひごろから民にそうするよう強制しているんだからな。自分たちだけ例外だなんて理屈は通らないさ」

「…………いい読みだ、クリフ君。確かに君の言う通りだ。建前たてまえというものは時として本質を上回うわまわる」

「それだけじゃないぞ。探偵裁判でのことを思い返してみると、ラトの推理を聞いているとき、あんたは楽しそうにみえた。違うか?」


 アルタモント卿は探偵の館で対面したときからずっとおだやかであった。

 裁判でラトと舌戦ぜっせんを繰り広げていたときもなんら心をみだすことなく、クリフが毒をられて苦しんでいる姿を見ても笑顔であった。

 そして時間と手間をかけた探偵裁判が台無しになったときでさえ、彼は動揺どうようひとつみせなかった。

 ひとつ不機嫌になった瞬間といえば、ノーヴェがアルタモント卿に無断むだんでタウンハウスで泥棒を働いたと知ったときくらいだ。


「あんたは決してガンバテーザ要塞で散った英雄のために探偵裁判を開催かいさいしたわけじゃない。むしろ、その点に関してはノーヴェのほうが職務しょくむ忠実ちゅうじつだったのかもしれない。」


 クリフには、ラトのように他者の心中を正確に読み取る技があるわけではない。これはすべて生粋きっすいの悪党として生まれついたクリフのかんによるものだった。


「ラトがどんなふうにあの窮地きゅうちを切り抜けるのか……。お前が用意した完璧かんぺきわなをどうやってくだくのか、まるでとっておきの舞台ぶたいながめるように見物けんぶつしてたんじゃないのか?」


 もちろん証拠はない。

 いくらでも言い訳が立つ場面だろうが、アルタモント卿は黙っていた。

 そして目をほそめ、いかにも陽光がまぶしく風が気持ちがいいというような表情でいた。

 それから、ぽつりと言葉をこぼした。


「みごとだ、クリフ君。私は君の前で武装ぶそうを解き、ひざを着いてくびすら差し出すだろう。君はじつにすばらしい、探偵たちの良き好敵手ライバルだ」

「認めるのか? あの裁判を私的してきな目的のために利用していたと知られれば、探偵騎士たちはお前の元を去るかもしれないんだぞ」

「――だから君に頭を下げるのだと思っているなら、それは読みがあまいな。ことはそれほど単純ではない」

「どういうことだ?」

「私が敗北はいぼくを選ぶのは、その場において私の命がもっとも取るにらないものだからだ」

「それは……あんたが死ねば、どれだけあんたの建前や正義心があやしいものであっても、探偵騎士たちは俺をてきとみなすということか?」


 クリフがそういかけたのは、アルタモント卿がクリフの脅迫きょうはくをはねのけるために、そのように言ったのだと思ったからだ。


 しかし、彼はゆっくりと首を横に振った。


「つまりだ。私は探偵騎士ではなく、なんだよ、クリフ君」

「……あんたは探偵騎士団の団長だろう?」

「そうだ。それは確かだ。だが、みずから探偵騎士だと名乗ったことは一度もない。私は子供の頃から、探偵助手になることを夢見ていたんだ」


 アルタモント卿はそう言ってにやりと笑った。

 そして、とんでもない昔話をし始めた。


「探偵騎士団に入ったのも探偵助手になるためだ。助手になるために推理の勉強をし、変装やその他もろもろの技術を学び、やがて探偵そのものだと勘違かんちがいされるまでにいたった。けれど、本当の望みは違う。私はただ、理想の探偵助手となるために自分をはるかにえるほどの才能と魅力をそなえ、正義の心を宿やどした名探偵を生み出そうとしていただけだ」

「まったくもってがたい話だが、続けてくれ」

「理想の探偵騎士を誕生させるために、私はまずジェイネル・ペリドットを見出みいだした」


 しかし、知ってのとおりジェイネルが助手に選んだのはアルタモント卿ではなかった。のちに彼の妻となるエメリーンだ。


「あれはじつにがゆい経験だった。だが、エメリーンとジェイネルは完璧な探偵と助手であり、二人の間に割り込むのはとても考えられない。その後も紆余曲折うよきょくせつがあったが、なかなか理想の助手の席があくことはなかった。デリー夫人はそろそろ引退いんたいするとおっしゃっているし、ドラバイト卿にはロー・カンがいたし、ラトは探偵騎士団そのものを飛び出して行ってしまった。手元に残ったのは結局、問題児もんだいじだけ……。どうしたのだね、クリフ君。はと豆鉄砲まめでっぽうを食ったような顔をしているぞ」


 助手になりたいとはかけらも思ったことのないクリフは終始、微妙な顔つきだ。


「だいたい、君、ちらりとも考えなかったのかね。君たちが王都に来るまでの期間で館の地下室を改装かいそうしたり、ジェイネルをつかまえるための檻を設計したり、毒薬がせり上がってくる机を作り上げたのは誰なのか? ――あれらは全部、私の仕事だ。探偵騎士が活躍する場をととのえることも助手の役目だと思うからこそだ。すっかり、工作ばかりが上手くなってしまったよ」

「つまり、探偵裁判をやるとか言いだしたのは……本当にノーヴェなんだな?」

「その通り。あの子は制御不能な私の手駒などではない。あの子が持つなのだ。私たちはドラバイト卿とロー・カンがそうであるように、互いの生命を守り合う。しかし君が我々に対してきばき、その場にいる誰かひとりの生命を失わなければならないのだとしたら、私は愛する探偵騎士たちの身代みがわりを選ぶだろう」


 どこまでが本気なのかわからない。

 ジェイネル・ペリドットと相対あいたいしたときのように、すべてを煙にまくかのような語り口であり、それでいて真実のみをべているようにも思える。

 アルタモント卿は立ち上がり、誰もいない広場へと歩いていくと、振り返ってみせた。平民の服を着て市井しせいに立つアルタモント・オブシディアンは、これまでの印象をすべて振り捨てたまるで知らない人物のようだった。


「……その上でクリフ君、改めて問おう。なぜ私に計画を打ち明けたのだね? たんに君が私を脅迫きょうはくするつもりであるなら、ここでの話はどう転んでも不利にしかならない。これまで話したことがすべてうそで、本当は闇討やみうちや暗殺あんさつをねらっているのだとしても、やはり不利だ」


 何が真実で、何が間違いなのかクリフには判断することはできない。

 しかし目の前にいるこの男の心を変えることができなければ、求めているものは手に入らない。それだけは確かだ。


 クリフは心を決め、心のうちを話してみせた。



 そう言うと、アルタモント卿は少しおどろいたような顔つきになった。

 全く予想外だと言うような、意表を突かれた顔だった。


「……あんたたちを敵にまわして大立ち回りだなんて、俺はちっともやりたくないんだよ、アルタモント卿。あんたらがイエルクをきらっているように、俺だってイエルクのクソジジイが大嫌いだ。もしもあいつが墓から生き返ってきたんなら、もう一度ぶっ殺して棺桶かんおけに送り返してやりたいってくらいにはな。俺はクリフ・アンダリュサイトには、金輪際こんりんざいもう戻りたくない。それよりもクリフ・アキシナイトとして、セヴェルギン隊長がたくしてくれたものを守り続けて生きていきたい。正しい生き方ってやつがどんなものなのか、本当の仲間がどんなふうなのか、この目で見て知りたいんだ」


 クリフの話を、アルタモント卿は黙って聞いていた。


「あんたに計画を打ち明けたのは、そんなことを俺にからだ。だから、頼むからラトを解放してくれ。あんたがどんな思いでラトにせっしてきたかは想像するしかない。でもあんたたちのやり方が間違っているということだけはわかる」

「ラトのためであれば、君は信念しんねんげ、イエルクの血筋ちすじに戻るというのだね? あの子にその価値があるのかね」

「ラトがどうだとかじゃない。これは性分しょうぶんなんだ。ガンバテーザ要塞でセヴェルギン隊長と共に戦うと決めたみたいに、俺は俺の人生で行き会ったすべてを。そばに助けを必要としている誰かがいるのに、それを見ないふりをして次に行くことはできないんだ」

「だが、君はひとりの力では何ひとつなすことはできない」


 クリフは奥歯おくばみしめる。


 ガンバテーザ要塞で、クリフは仲間を救えなかった。

 砦に残されたキルフェを救うこともできず、去って行くのを止められなかった。


 暴力で、相手を屈服くっぷくさせることはできる。

 謀略ぼうりゃくによって、誰かを地面にひざまずかせ、言いなりにすることはできる。


 しかしこころの中身までは変えられない。


 破滅はめつに向かう人生そのものを立ち止まらせることはできないし、失われたものは何一つ帰ってくることはない。


 クリフは無力だった。


 弱く、おろかなひとりぼっちの人間でしかなかった。


、お前たちの力を貸してほしいと言ってるんだ。アルタモント卿、。ラトを助けたいんだ。あいつを自由にしてやりたいだけなんだ」


 アルタモント卿はまばたきもせずに、クリフを見つめていた。

 クリフが持っているものはそれで全部だった。

 切り札はすべて切り、手持ちの駒は全て使い切った。

 あとは、アルタモント卿が何と言うかだ。


「――もしもそれができないなら、にハゲワシが戻ることになるぞ。王国の歴史のすみに傷をつけるくらいのことはしてみせるつもりだ」


 クリフが何をするとしても関係なくラトを取り戻すと彼が言えば、クリフにできることはもうない。


 もてる力の全てをくし、そして愚かさと弱さのすべてをさらけ出しても、結局できることは他者におのれの運命をゆだねることだけだった。


 アルタモント卿はしかし、「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。

 そして感情の読み取れない顔つきでこう切り出した。


「…………これはオブシディアン家現当主、グラスラーバから聞いた話だが、昔、彼にを言った男がいたそうだ。君の祖父、イエルクのことだよ」

「…………え?」

「もちろんこまかいニュアンスは違うがね」


 言葉の真意はわからないものの、どうやら、アルタモント卿にクリフを拒絶する意志はなさそうだった。


「クリフ君、あらためて私と交渉をしようじゃないか。ぜひ、君にこれを受け取ってもらいたい」


 彼はそう言って、コートの内側にしのばせていた短剣を手にとった。

 銀で飾った黒い鞘。柄にはささやかにレガリアが輝いている。


「そのレガリアは……」


 水晶に金色の針が浮かび上がっているのがはっきり見てとれる。

 探偵裁判の最中、アルタモント卿との対話や、パパ卿の声を封じるのに使っていたレガリアだった。


「これは《音》のレガリア。我ら探偵騎士団がかつてハゲワシのイエルクと対決たいけつした際、やつからうばったレガリアだ」

「!」

「これを君にさずける。受け取りたまえ」

「なぜ……そんなものを俺に……?」

「レガリアとは単なる道具だ。イエルクが死んだいま、このレガリアを誰が手にしたとて、やつがよみがえるはずもない」


 そのかわりラトを自由にしよう、とアルタモント卿は言った。


「もしも君が本当にイエルクの呪いを断ち切るというのなら、このレガリアをおそれる理由もないはずだ」


 彼はこれまでになく真剣しんけんな目をしていた。

 ためされているとクリフは感じた。


 クリフは剣に手を伸ばした。


 レガリアはあやしく輝いている。

 金色の針を揺らしながら、てたはずの過去がその指先をそうと待ち構えている気がした。


 それでも、もう誰のことも手離したくはないとクリフは思った。


 誰ひとり守ることができない無力なままでいるのも、永遠に自分のもとを立ち去る決意を知らぬ間にさせることも、どちらも嫌だった。


 一呼吸ひとこきゅうぶんの勇気で、クリフは差し出された短剣の柄をつかんだ。


 強くにぎりしめ、離さなかった。


「――――もらい受ける」


 アルタモント卿はうなずいた。

 完全に自分の手に渡った短剣は、ずしりと重たい。


「クリフ・アキシナイト。君には力が必要だ。それから、ラトには待つと伝えたまえ。君が創世そうせいなぞを解き明かすのを待つ、と……」


 それは、クリフの望んだ返答だった。

 当初の計画とは違った形ではあるが、ラトは当面とうめんの自由を手に入れたことになる。


「そして、私から君に約束する。探偵騎士団団長としてではなく、私個人としての約束だ」

「約束?」

「針魔獣のレガリアを探し出し、かならず私が、この手で砕いてみせる」

「お前が……?」


 クリフがそう問い返したのは、申し出そのものが意表いひょうを突くものだったのと、あまりにも現実的ではないと思えたからだ。


 アルタモントが最初に述べた通り、レガリアは簡単には砕けない。

 特殊な能力と、条件が必要なのだ。


「そうだ。この剣をきたえ、音のレガリアをかざったのは私だ」

「まさか、祝福細工師ギフトクラフターなのか?」


 アルタモント卿は深くうなずいた。

 レガリアに込められた魔力を操ることのできる才能は、誰にでも与えられるものではない。

 生まれつき、女神の加護がある者だけに与えられるものだ。


「百年前、王国が針魔獣のレガリアをくだかずに封印したのは、祝福細工師の才能が失われるのを恐れたからだと聞いている。レガリアは女神の奇跡だ。だから高位のレガリアを砕いた細工師にはばつくだる」

「命がけの仕事だときいている。たいていは、細工師が死の間際まぎわに行うものだと……」

「それでも、針魔獣のレガリアはこの国にあっていいものではない。私が探偵騎士団団長をやっているのは、決して伊達だて酔狂すいきょうではない。王国守護という大義名分たいぎめいぶんは建前というだけではないのだ」


 うそかどうかはわからない。

 だが、針魔獣のレガリアが砕かれる。

 そう考えると、悲惨ひさんな思い出が少しだけ遠く去って、過去になっていく気配けはいがした。


「それでは、私はもうることにするよ。しかし、いつでも君たちを見ている。隣人りんじん、そして記録者としてね」


 アルタモント卿はクリフに背を向けた。

 広場を横切って行く背中に、クリフは声をかけた。


「アルタモント卿、恩に着る」


 背中ごしに片手を上げるのが見えた。


 アルタモント卿を見送り、クリフはタウンハウスに戻った。

 昼食を食べ、客室に戻ってぐっすりと眠りこんだ。

 ラトたちが帰ってきたのは夕刻ゆうこくぎてからだった。





 クリフは息苦しさで目覚めた。

 眠たさを振り払い、むりやり目を開けると、クリフの胸の上にラトが頭を乗せて目を閉じていた。


「生きてる」


 と、ラトは短くつぶやくように言った。

 心臓の鼓動こどうを聞いていたようだ。


「どけ、じゃまだよ。俺はまだ寝たいんだ」

「ひどいなあ、ご飯の時間だよって呼びに来てあげたのに」

「今日は部屋でうって言っといてくれ」

「一日中、部屋に引きこもっていたらブタになっちゃうよ。それに、ちょっとは散歩でもしないと良くならないよってドラバイトおじさまに言われたのを忘れたの?」

「あのな……」


 文句を言おうとしたのを、あわてて引っ込める。

 もしもひとりで散歩さんぽに出たことを知られたら、いもづる式にアルタモントに会ったことまでばれそうな気がしたからだ。


「それより、王様に会ったんだろ? 探偵騎士にはならないって、ちゃんと話したのか」

「もちろん!」

「どうだった?」


 クリフは何気なにげないふりをしてたずねる。


「国王陛下はふところの広い方だもの。僕がやりたいことをやりくして、そして王都に戻って来るのをって言ってくれたよ」


 その返答でピンときた。

 アルタモント卿はどうやら、約束を果たしてくれたようだ。


「そうか。良かったな」

「うん! これで心置こころおきなく迷宮街に帰れるね。君も、二度寝はほどほどにしなよ」


 ラトはそう言って座っていた椅子いすから飛び降りた。


 クリフも寝返りを打ち、頭から毛布をかぶる。

 そんなふうにして去っていった眠りのはしっこをつかまえようと無駄な努力をしていた、そのときだった。


「クリフくん、ありがとう」


 ラトの声が聞こえた。


 クリフは聞こえないふりをした。

 礼を言わなければいけない相手は別にいる。


 でもそのことも、頭脳明晰ずのうめいせきな名探偵は理解しているに違いない。





《探偵裁判編後日談————おわり》

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