第66話 ガンバテーザに星のさやけく


 ドラバイト卿の手によって法廷ほうていに多数の資料が運び込まれた。


 これまで探偵騎士団が裁判のどころにしていた数々の証拠品が提示ていじされたのである。


 それらの多くはおもに報告書という体裁ていさいを取っていた。


 部隊長であったセヴェルギン・アキシナイト隊長が書いたもの、オビサの街の衛兵隊が書き残したもの、検死けんしをした医師が残した診断書……。


 それらのすべてがアルタモント卿の推理を裏付うらづけ、要塞で何が起きたのかを明らかにする材料になっていた。


 ひとつによるとセヴェルギン・アキシナイトは針魔獣が要塞を襲撃しゅうげきすることを予見よけんし、伝令を出したことがわかっている。


 彼が伝令に渡した書簡には針魔獣の襲来にそなえて街の門を閉めるようにせよという警告けいこくがあり、さらには伝令の兵を気遣きづかって、要塞にはかえさずに街にとどいてくれるようにと書かれていた。


 衛兵隊は指示にしたがい、街の門を閉めて夜警やけいに当たった。


 日がしずんでしばらくすると、要塞の方角ほうがくからはげしい地響じひびきのような音と振動しんどうが響いてきた。

 それからもなくがるのも見えた。


 大砲たいほうつような音が――実際にほうを撃ったのであるが――鳴り響き、オビサの街の住民は眠れぬ夜を過ごした。


 要塞がやぶれたならば、悪食あくじきで有名な伝説の針魔獣はまずまちがいなく、その目と鼻の先にあるオビサを目指めざすだろう。

 それに対抗たいこうすべく王国も軍を出すに違いないが、増援ぞうえんが到着するまで何日かかるかわからない。

 大軍をあつめて反撃するとなると、ひと月はかかるかもしれない。

 それまでに餓死者がししゃが出るだろうし、何よりも街の防壁ぼうへき無事ぶじだという保障ほしょうもなかった。


 しかし、どのようななやみと不安をいだいたとしても朝は来る。

 必ずやって来る。

 ただひとつ言える確かなことは、翌朝よくあさも変わらずに日がのぼったということと、オビサの街の外に針魔獣の姿はなかったということだ。


 そして、いつの間にか伝令兵の姿も消えていたのである。


「伝令は名乗らなかったそうだ。衛兵隊も混乱していてめることはなかった。しかし、街にいた者が伝令の容姿ようしを覚えていた」


 まるで当時のことをそのふたつの黒いひとみで見ていたかのように、アルタモント卿はかたる。


赤錆色あかさびいろの髪をした若者だったそうだ。それは君のことだね、クリフ君。君は針魔獣の襲来しゅうらいそなえて、兵士の姿に変装へんそうし要塞を脱出したのだ」

「異議あり。クリフ君がたずさえていたのは、セヴェルギン隊長の自署自筆じしょじひつによるほんものの書簡ですよ、アルタモント卿。セヴェルギン隊長が信頼のおけない人物に書簡をわたしたとは思えません」


 ラトは伝令がたずさえていたという書簡の実物を示して反論する。

 二人は数々の証拠を手に、事件のながれ――ガンバテーザ要塞で何が起きていたのかについてを時系列順に追っていた。

 セヴェルギンやサヴィアスといったなつかしい名前が耳にはいたび、クリフの意識は苦しめられた。


 それは毒の作用さようなどではなかった。


「伝令はひとりだった。書簡とともに装備そうびうばって兵士をよそおうことなど容易たやすいことだ。しかもセヴェルギン隊長は伝令が街に残ることを見越みこして、あらかじめ除隊じょたいさせたと書きしるしている。伝令役が誰だったのか今となっては知るすべはない」

「すべてが憶測おくそくいきを出ません」

「それでは当人とうにんかたらせたまえ。真実を知る当事者とうじしゃがそこにいるのだから」


 水を向けられたクリフは、どうにかして過去の妄想もうそうからのがれ、現実にとどまろうとつとめた。

 しかし当時の書簡にしるされたセヴェルギン隊長のサインを見ると、胸が押しつぶされたようにつらい。


「その書簡をとどけたのはたしかに俺だ。セヴェルギン隊長に命じられて……」

「クリフ君。セヴェルギン隊長は君とレガリアを盗んだ一味いちみかかわりはないと判断して、君に伝令役をまかせたんだよね。そうなんだよね?」

「そうだ……」

「そして、君は書簡を届けた後、どうしたのかな」


 クリフに対して矢継やつばやに質問をかさねるラトの姿は何重にもぶれ、ゆがんで見えた。

 出血したせいか真冬まふゆのようにさむく、全身がこごえてふるえている。

 知らないうちにクリフの両肩にはラトの上着うわぎがかけられていた。


「クリフ君。僕が思うに、君は要塞にいた兵士たちを殺していない。何よりもまず理由がない。君の性格からすると、君は周囲の人間と友好的な関係をむすぼうとしたはずだ。それが誰であっても……捕虜ほりょと監視役という立場であったとしても、変わったりしない」


 ラトがクリフをかばおうとするのをいて、アルタモント卿がせせらわらう。


「だが……ラト、君はクリフ君が元王国兵だと推理をしたのだよ。それは長く要塞にとどまり、兵士たちのらしを観察しなければ身につかなかっただ。クリフ君はどこにでもはいみ、まるでほんとうの仲間のように振舞ふるまって、そこにいた人物をき込むのが上手じょうずな人物のように思える。君にったのと同じことだ」


 何気なにげなく使われた演技という言葉が、ひどく自尊心じそんしんを傷つけるのを感じた。

 ただでさえ過去の幻影げんえいかれるような思いがしているのに、心はまだ傷つく余白よはくを残しているのだと感動すら覚える。


「演技なんかじゃない……!」


 クリフは喘鳴ぜんめいを上げながらも必死にうったえる。


「俺は……んだ……! セヴェルギン隊長の部下になりたかった……サヴィアスと肩を並べて戦いたかった。あいつらと本当の仲間になりたかった。それが、あの場所でいのちとすことができるなら、俺はなんだって……!」


 感情的にそこまでを語ってから、クリフははっとしてラトを見つめた。


「クリフ君……だったんだい?」


 それが失言しつげんであることに、クリフはようやく気がついた。

 そして、どれだけ心がいたんだとしてもアルタモント卿やラトに対しては決して真実を伝えることはできないという現実にも直面する。


「何故、彼らはあの場所で全滅ぜんめつしなければならなかったの?」


 クリフは奥歯をみしめる。


 何故なぜ……。


 それは、とてもではないがこの場において言葉にすることができない事柄だった。

 彼らが要塞に残り、針魔獣と戦おうとしたのはエリオットのためだった。

 エリオットを悪の道からすくいだすため……。セヴェルギン隊長の本当の息子を助けるために彼らはガンバテーザ要塞にとどまったのだ。


 真実を話したら、もしかしたらクリフだけは助かるかもしれない。


 いや、確実に、命だけはすくわれるだろう。

 ラトがかならず、クリフの証言を裏付ける何かを、この場にあるあらゆるものから見つけ出してくれるだろう。

 だが、そうなればセヴェルギン隊長はおのれのために王国からあずかった兵団へいだんを動かし、王国に損害そんがいを与えた人物になってしまう。それは王国軍人としては大罪たいざいだった。


「では、話を少し戻そうか」


 アルタモント卿は落ち着いた声音こわねで、裁判をすすめていく。


「クリフ君は伝令として書簡をオビサの街にとどけた。それは確かだ。問題はその後、何があったかだ。私たちの調しらべによると、その当時、街には君の仲間が潜伏せんぷくしており、君はその人物と合流をはかったと結論けつろんを出した」


 ラトはクリフを見る。

 クリフは咄嗟とっさに視線をらした。

 まったく身におぼえのないことで、何と答えればいいかわからなかったのだ。


「それというのも伝令兵は要塞にもどろうとした直後、何者かにおそわれて負傷ふしょうしたという記録が残っているのだ。きたならしい身なりの男と伝令兵がめているところを街の人間が目撃もくげきしている。衛兵隊の記録によると君はあたまから血を流してその場にたおれ、衛兵隊がたすけに入り一命いちめいをとりとめたとある」


 もちろん、それはクリフの記憶にもある事実だ。

 探偵騎士団が調べたかどうかはわからないが、いきなり「裏切者うらぎりもの」と呼ばれ、なぐりかかられたのだ。

 そのせいで、クリフは要塞へ帰還きかんすることができなかった。

 だが、そもそもクリフを殴りつけた人物が誰だったのかについては、ついぞ思い当たることがなかった。それはまったく知らない人物だった。

 今この時もだ。


「この伝令兵がクリフ君だとすると、それを襲撃しゅうげきした人物と無関係であることは考えにくい」

「誰なんだ? 知っているなら教えてくれ」

「ナズリンという名前におぼえはないかね」


 覚えていないと答えようとして、記憶にまつわる奇妙きみょうとびらひらきかけるのをクリフは感じていた。


「まさか……山賊さんぞく仲間の……?」


 クリフと共に輜重隊しちょうたいおそった男のうち、ひとりはオビサに兄弟きょうだいんでいるという話を小耳にはさんだ気がした。そのときは仕事仲間に興味きょうみがもてず聞き流してしまったのだが、なぜか強くそうだという確信があった。


「思い出したようだね……。どうしてトラブルになったのかはさだかでないが、君が兵士の服装をしていたことにかかわりがあるのかもしれない」


 クリフにもそうだろうと思えた。

 兄弟きょうだいが殺され、山賊仲間であったクリフが伝令役として王国兵の格好かっこうあらわれたとしたら、あれは王国軍のスパイだったのだと思いこむのも無理もない。

 あのとき、いきなり攻撃をくわえられたのはそういう理由だったのだ。

 事情がわかると何もかもがちる。


「その後、君は衛兵隊のしょから姿を消した。街を出たことは確認したが、その先の目撃者もくげきしゃはいない。追跡ついせきは我々でも困難だった。君はどこへ行った?」


 アルタモントに問われ、クリフの記憶は再び過去へと戻っていく。


要塞ようさいへ……」


 そうクリフは口にした。


 目覚めた後、クリフは一刻いっこくもはやく要塞へと帰ることしか考えていなかった。


 オビサの街を出て、ガンバテーザへといそいだ。

 襲撃しゅうげきを受けて何時間が経過けいかしたか、考えると動悸どうきはげしくなった。

 まさか、と、もしかしたら、という言葉が同時に脳内のうないめぐっていた。


 限界まで馬をはしらせると、じきに要塞が見えてきた。


 ガンバテーザ要塞はあちこちからけむりがっていた。

 しずかで、人の声はしない。

 けものや鳥もしんといきをひそめている。


 門はざされていた。

 クリフが呼びかけても返事がない。

 防壁ぼうへきをぐるりとまわると、西の面が大きくくずれ、大穴が開いていた。


 クリフはそこから要塞の内部に入り込んだ。


 そこで見たものはあまりにも悲惨ひさんな光景だった。


 あちこちに兵士たちの遺体があった。


 彼らはかさなるように死んでいた。


 その全身にはがね光沢こうたく宿やどした太いはりさっている。


 金属鎧をもつらぬふとく長い針で、刺された者たちのはだ土気色つちけいろに変色し、肉がくさりかけていた。

 それがまさに針魔獣の魔力の恐ろしさというものなのだろう。

 夏のさかりでもあるまいに、こんなにも早く遺体が腐ることはない。


 伝説によれば針魔獣は腐肉ふにくであってもらいつくという。

 よくみると腕や足など体の一部を食いちぎられた者たちが大半だった。


 魔獣がはなったと思われる針はかべや地面をも貫き、要塞のあちこちに刺さっていた。まるで要塞全体が針山はりやまになったかのようだ。

 それなのに、近くに針魔獣と思われる魔物の姿は無く、獣臭じゅうしゅう気配けはいもしなかった。


 クリフは針をけながら要塞の奥へと急いだ。

 あたりは腐臭ふしゅうと煙のにおいで満ちていた。


「何のために要塞に?」とラトがたずねる。


 もちろん、生存者をさがすためだった。

 だが、のぞみはないように思えた。


「誰も答えない……。昨日までみんな生きていたのに」

「みんな死んでいたんだね?」


 クリフはくちごもった。

 わかっていても、みとめるのがつらかった。


 亡骸なきがらえるようにして、過去のクリフは中庭の入口の手前までを進んだ。


 そしてとうとう、したしい者のわりてた姿を見つけてしまった。


 遺体いたいもれるようにして倒れていたが、顔の真一文字まいちもんじきずわすれようがない。


 サヴィアスだった。


「ひとりだけ生きていた」


 おどろくべきことに、そのときサヴィアスにはまだいきがあった。

 周囲の者はもうこと切れているが、彼だけは何とか持ちこたえてくれていたのだ。

 って声をかけると、かすれ声が聞こえてくる。

 クリフか、と言った気がした。


「俺の名前をんでくれたような気がした」


 助けられるかもしれないと、ほんの一瞬だけ期待する。


 しかし下腹したばらに無視できないほどの大穴がいているのが見えて、絶望はさらにふかくなった。


 いかなる辞書にもっていない暗闇が心の中心に現れて、その場所がもう二度と取りのぞけないきずになっていくのをまざまざと感じる。


 クリフがセヴェルギン隊長のゆくえをくと、サヴィアスは中庭だと答えた。


 はっきりとした生命の兆候ちょうこうを感じたのは、それが最後だった。

 クリフは力の入らないサヴィアスの体をきあげようとした。


検視官けんしかんの報告によると、サヴィアス副隊長の遺体には、誰かが移動させたような形跡けいせきがみられた。君かね」


 アルタモント卿の問いに、クリフは「そうだ」と答えたものの、なぜそんなことをしたのかについては自分でもうまく説明できなかった。


 ただ、腕の中でサヴィアスのたましいが永遠にろうとしているのを感じ、そして二度と取り戻せないのだと思ったとき、何もしないではいられなかったのだ。


 せめて敬愛けいあいするセヴェルギン隊長のそばで死なせてやりたいと考えたのかもしれない。


 ただし、ほんの一瞬でそれは意味のないことだとさとった。


「行ってほしくなかった……。だが、サヴィアスは去った」


 何故だかわからないが、はっきりとそれを感じ取った。


 彼のたましいがクリフのうでの中からのがれ、どこか遠くへ去ったのを確かに感じたのだ。


 沈黙したサヴィアスの亡骸なきがらをその場に横たえた。

 せめてもと剣を持たせてやり、クリフは中庭に向かった。


 何ひとつ希望はないことはわかっていた。


 この先を進んだとしても、クリフがのぞんだ何ものもちはしない。

 だが、セヴェルギン隊長がどうなったのかをこの目で見るまでは、この要塞を出ることはできないと覚悟かくごを決めた。


 かくして、セヴェルギン隊長はそこでクリフを待っていた。


「セヴェルギン隊長の遺体を確認したのかね?」とアルタモント卿がいかける。


 クリフはうなずき、まぶたをとじる。


 そこに……あの日の光景こうけいがすべて


 悲嘆ひたん悲痛ひつうのすべてが、このくるしみのすべてが。

 そこにあり、いまもなおクリフをかまえている。

 わすれたくても忘れようがない。


 セヴェルギン隊長は中庭の真ん中に立っていた。


 比喩ひゆでもなんでもない。

 錯覚さっかくでも妄想もうそうでもなかった。

 彼はみずからの二本の足で、地面に直立ちょくりつしていたのである。


 しかしサヴィアスのときとは違い、そこにはいかなる生命の兆候しるしもみられなかった。


 セヴェルギン隊長は金属鎧きんぞくよろいに、アキシナイト家の紋章もんしょうい取られたサーコートを身につけた姿であった。


 左の足には毒針が刺さっていたが、直接の死因はそれではなかろうと思われた。

 セヴェルギンの体にはべつの剣が突き立てられていたのだ。


 兵士の剣だった。


 鎧の隙間すきまを縫うように正確に打ち込まれている。


 誰のものかはわからないが、誰に殺されたかは明らかだった。


 セヴェルギン隊長の足もとにはエリオットの死体があった。

 エリオットもまた、むねかれて死んでいた。

 こちらはセヴェルギンの剣によるものと思われた。


 何が起きたのか、クリフは一瞬で理解した。


 針魔獣におそわれて要塞がただならぬ混乱こんらんおちいる中、セヴェルギンはレガリアの所有者であるエリオットに決闘をいどんだのだ。そしてセヴェルギンはエリオットを殺し、所有者をうしなったレガリアもまた効力を失った。


 その戦いでセヴェルギン隊長も致命傷ちめいしょうを負った。


 だが、彼は敗北してなお地面にたおされることはなかった。

 彼はくしたまま、息子の死を見届みとどけた後に絶命ぜつめいしたのである。


「弱いくせに」とクリフはつぶやいた。


 練習試合でも、結局一度もクリフにてず、負けに負けを重ねたセヴェルギンが勝てないことなど最初からわかりきっていた。


 しかし、彼は最後まで戦い抜いた。


 敵が誰であろうともげることなく……。


 セヴェルギンの表情は不思議とおだやかだった。

 ジャガイモのように武骨ぶこつな顔に、いつもきざみこまれていたしわは消えていた。

 エリオットを見つめるひとみかなしげであった。

 クリフを見つめるまなざしと同じであった。



 ――クリフよ。

 幾千幾万いくせんいくまんの敵に囲まれ、退路たいろたれたとき、お前さんはどうする?



 セヴェルギン隊長のたましいり、彼が地上に残した言葉だけが戻ってくる。


 その言葉がげかけられたとき、クリフは答えを持たなかった。

 どれほど強くとも中身はわが身が可愛いだけの、いやしい人間だったからだ。


 セヴェルギン隊長は弱かったが、しかし窮地きゅうちにあって決して引けぬとき、その心をささえるものが何かを知っていた。


 れることのない心の持ち主だった。


 彼は正しく人と向き合い、剣をにぎり続け、最期さいごのときまで仲間とともにあった。


 誰がなんと言おうと、彼は、彼らは、みずからのせいまっとうした。


 誇りとともに生き、一歩も引かず、そしてった。


「セヴェルギン・アキシナイトは死んだ」とクリフはげた。


 クリフはラトを見つめた。

 ラトもまたクリフを見つめている。

 クリフはジェイネル・ペリドットに心から感謝した。

 もしもパパ卿のレガリアの力がなければ、クリフはおのれの役目をまっとうすることはできなかっただろう。


「――俺が殺した。弁解べんかいするつもりはない。さっさと四杯目を寄越よこせ」


 クリフはそれだけを口にした。

 ラトは何かを読み取っただろうか。

 それとも、ラトもクリフのことをうたがっているのだろうか。

 ガンバテーザ要塞で兵士たちを皆殺みなごろしにしたのはクリフなのではないのかと。

 しかし、それならそれでかまわなかった。

 テーブルに二つの杯が現れる。


「クリフ・アンダリュサイトよ。次の杯で四杯目になる。毒によってあたえられるくるしみもこれまでのではない。しかし君の態度たいどしだいでは、恩赦おんしゃを与えても良いと私は考えている。もしも君にガンバテーザ要塞でおこなった悪事についてやみ、くなった者たちのことをいたむ心があるというのなら、少しばかり穏便おんびんやすらかな死を与えよう」

「どうやって心を証明する? またレガリアか?」

「そうではない。兵士たちの名前をすべて言いたまえ。ガンバテーザ要塞で死んだ者たちの名前を……」


 クリフは鼻で笑った。


「くだらない。毒の杯はどちらだ?」

「そうまでして死にたいか。セヴェルギン隊長が身にけていたサーコートの色を答えよ」


 死にたいのではなかったが、クリフは白い杯に手を伸ばす。

 ラトはだまったまま、今度はめなかった。

 指先のふるえは不思議と止まっていた。


 まるで誰かがクリフをささえているかのようだ。

 目には見えぬたましいとなって……。


 クリフは目を見開き、四杯目の杯を見据みすえていたが、その心は要塞にあった。


 彼の魂は毒の苦しみからのがれ、あのおぞましい大穴から、死だけが支配する空間へとあるいていく。


 生前せいぜんの姿をとどめぬいたましい亡骸なきがらの数々がクリフをむかえる。


 まずは、コニーのそばかす顔が見えた。

 隊舎たいしゃ見張みはりをしているとき、クリフによく冗談を聞かせてくれた兵士だ。


 仲間をかばって死んでいるのはダレルだ。

 大きな耳をからかわれては、ぶつくさと文句もんくを言っていた姿をおぼえている。


 かばわれているのはイーデンだった。

 訓練をさぼっては隊長におこられていた……。


 中にはあたまくだかれ、顔さえ判別はんべつできない者もいたが、不思議とクリフにはそれが誰なのかよくわかった。


 左右さゆうくつの大きさが違う、これはディーン。

 要塞でごした最初のばんに毛布を持ってきてくれた男だった。


 ジャイルズは手のひらに特徴的な生まれつきのあざがある。


 ガス、クラントリー、メイナード。

 故郷ふるさとが同じだという三人組は、徹夜てつやでクリフが入隊するための準備をととのえてくれた気のいい奴らだ。

 クリフとは一番親しかったと思う。


 軍医ぐんいのオーウェン先生には本当に世話せわになった。

 訓練中の小さな怪我けがでも親身しんみになっててくれた……。


 あの日、要塞ようさいで戦い、星の光となった者たちのなかで、名前がかんでこない者などひとりとしていなかった。


 彼らを納屋なやの前からずっと見ていた。


 彼らの仲間になりたかった。

 彼らのように生きたかった。

 もしも許されるのだとしたら、いまも生きたい。


 クリフ・アキシナイトの生に役目があるのだとしたら、最後の数秒まで、それを生きたいと心から思う。


「あんなやつらの名前なんかひとつも覚えちゃいないね」


 そう言って、四杯目の杯を飲みほした。

 ブーツの中にはロー・カンがしのばせたナイフがあったが、それを使うことはついぞ考えもしなかった。


 人が窮地きゅうちおちいったとき、決して引けぬとき。

 か弱い人の心を支えるものが何であるのか、いまのクリフはよく知っていた。

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