第65話 悪夢はいつまでも


 要塞にれてられた若者は、まだ二十代のなかばのように見えた。


 明るい茶色のかみをしており、中肉中背ちゅうにくちゅうぜいで、とくにこれといった特徴とくちょうはない。

 なりからすると明らかに兵士ではなく、さりとてクリフのような野盗やとうのようでもなく、ごく平凡へいぼん町人ちょうにんに見えた。


 しかし、クリフはその姿すがた遠目とおめに見たときに、なんとなくではあるが不気味ぶきみ気配けはいを感じた。

 付近ふきんには廃迷宮はいめいきゅうしかないこのような場所で、兵士たちにかこまれているにもかかわらず、若者が平然へいぜんとしているからだろうか。


 若者は軍医ぐんいの男に連れて行かれて、それから姿を見かけることはなかった。


 兵士たちの様子はいつもとは違っていた。

 誰もがいそがしそうに働いており、まるで何かにそなえているようだった。


 しばらくして顔見知かおみしりの若い兵士たちが連れ立ってクリフのところにやって来た。


「おい、クリフ。いいものみせてやるからいよ」

「サヴィアス副隊長には内緒ないしょだぞ」


 三人はクリフの足枷あしかせの鍵をはずすと、クリフを隊舎へと連れて行った。


 そこは隊舎の一階のすみ、普段は物置小屋ものおきごやとして使われている部屋だった。


 クリフも掃除道具そうじどうぐを取りに何度か入ったことがある。

 そのときはがらくたがうずたかまれており、まどや床にべっとりとほこりがこびりついた小汚こぎたない部屋だという印象いんしょうしかなかった。


 兵士のひとりがを開けると、そこはがらりと様子をえていた。


 綺麗きれい掃除そうじをされた部屋に窓から陽光ようこうが差し込んでいる。


 がらくたは姿をし、掃除道具そうじどうぐが残されているだけになっていた。


 いた空間にはそのかわり寝台ベッドが置かれていた。

 寝台にはあらいたてのシーツや毛布もうふがかけられている。


「お前が靴磨きをしている間に、俺たちで掃除しておいたんだ。道具もそろえておいたんだぜ」

「道具?」

「まあ、はいれよ」


 寝台の脇に置かれた小さなたなのそばには、武具と防具、制服が一揃ひとそろいと革の小物入れが置かれていた。


 小物入れの中には火起ひおこしに使う道具やはりや糸などの裁縫さいほうセットが入っている。


 食事用のナイフや木でできたボウル、コップ、皿といった生活用具せいかつようぐそろっていた。


 それは新兵が入隊のさいに必要とするもののすべてだった。

 それらの品々がかがやかしい光の下にあった。


 実際のところ、隊舎たいしゃの部屋のかりりの窓などごく最低限のもので、元物置部屋はずいぶん薄暗かったのだが、クリフの目にはそれらの輪郭りんかくがはっきりと見てとれた。


 どれも質素しっそな品々だった。

 それなのに、ひとつひとつが目には見えない光を発していたのだ。


「全部、お前のだぞ」

入隊にゅうたいおめでとう、クリフ!」


 振り返ると、出入口のところで三人の兵士たちがほがらかに笑っている。


 そのときクリフは、自分はもうながあいだずっとこれが欲しかったのだということに気がついた。これらの品々が人生で手に入れるべきすべてなのだということが、理屈りくつではなく直感ちょっかんとして理解できたのだ。


 金でもなく、宝石でもなく、ましてや暴力や闘争とうそうなどでもない。


 ここにならべられたものたちは、うそをつくことも、だますことも、傷つけることもせずに人が手にすることのできる最良のものたちだ。


 それは、とりではなれてようやく手に入れただった。


 クリフが若い兵士たちに感謝の言葉をべようとしたときだった。


 三人組の背後からサヴィアスのするど叱責しっせきの声が飛んできた。


「お前たち!」


 三人組は青い顔で廊下を振り返り、恐ろしい魔人まじんのような顔をした副隊長の姿を発見した。


 サヴィアスは物置部屋をちらりと見て、そこにクリフがいるのを見ると溜息ためいきを吐いた。

 そして気を取り直したように怒声どせいを上げる。


「これはどういうことだ!?」


 三人組は限界まで委縮いしゅくしていたが、それでもなんとか弁解べんかいの言葉をかきあつめる。


「く、クリフが入隊すると聞いたので、は、廃棄品はいきひんを集めて……」

こわれている防具ぼうぐを修理して使えるようにしました」

「けして銀蠅ぎんばえ行為はしておりません!」


 若者たちはそれぞれかたくしてばつくだるのを待っていた。

 しかし、サヴイアスはそれ以上に声をあらげることはなかった。


「まったく……。靴磨くつみがきをさぼって何をしているかと思えば、お前たちもクリフの入隊準備をしていたとはな。気持ちはわかるが、ことわってからやってくれ。おかげでひとりぶん無駄むだになってしまったじゃないか」


 そう言って、がっくりとかたとしている。


「あっ、もしかしてサヴイアス副隊長もクリフのために……?」


 サヴィアスも考えていたことは同じなのだ。

 若い兵士のひとりがうれにそう言うと、サヴィアスはわざとらしい咳払せきばらいでごまかした。


「お前たち、着替きがえる手伝てつだいをしてやれ。セヴェルギン隊長がんでいる」


 サヴィアスの最後の言葉は、クリフに向けられたものだった。

 鎧下よろいしたそでを通し、装備を身に着けたクリフはそれなりに兵士らしい姿である。


 しかし、兵士たちが用意した防具ぼうぐはよくみるとところどころがほころんでいた。


 鎧下も何枚か別々のものをりしたらしく、わせがパッチワークじみていた。い方もお針子はりこの仕事のようにはいかない。縫い目はあらっぽくてだ。


 サヴィアスはそれを見てまゆをひそめる。


裁縫さいほうがへたくそだな。俺が用意したのをるか?」

「これでいい。いや……俺はこれがいい」


 執務室しつむしつでクリフを迎えたセヴェルギン隊長はというと、仲間たちがこしらえた装備を一揃ひとそろい身に着けたその姿を見て、一瞬で目頭めがしらうるませていた。


道端みちばたてられた小猿こざるのようだったお前が、こうも立派りっぱになりおって……年寄としよりを泣かせるんじゃない」

「ということは、入隊をみとめてくれるんだな」

「それとこれとは話が別だ」


 セヴェルギン隊長は居住いずまいをただした。


「クリフよ。王国軍に入隊したいというお前の意志はサヴィアスから伝え聞いておる。しかし、いまいちどあらためて確認しておく。王国軍にはいるということは、王家と王国のために身命しんめいして働くということだ。この先は何があっても上官じょうかんの命令にしたがい、その命令がどれほど理不尽りふじんなものであろうとも、ロンズデーライトの星のかがやきが途絶とだえぬよう、懸命けんめいに尽くさねばならん。その覚悟かくごがお前にあるのか」

「あんたの下で、あんたの部下たちと働けるなら、俺に文句もんくはない」

「そうか……。では、貴様きさまに最初の命令をくだす」


 セヴェルギン隊長は深刻しんこくそうな顔つきで、封蝋ふうろうを押した書簡しょかんをクリフに差し出した。


伝令でんれいだ。この書簡を、ガンバテーザ要塞近郊、オビサの街まで無事にとどけよ」

「伝令……?」

「そのとおりだ。このガンバテーザ要塞には現在、針魔獣まりまじゅうせまっておる」

「針魔獣……? なんのことだ?」

「針魔獣のレガリアが廃迷宮はいめいきゅうに戻ったのだ」

「なんだって!?」


 それは、納屋なやに繋がれていた捕虜ほりょとしてのクリフには決して知らされなかった事実のひとつであった。

 そして、それこそが、なぜ日頃は十名の兵士しかいない要塞にセヴェルギンたちの部隊が派遣されたのかという疑問の答えでもあった。


 セヴェルギン隊長は、その理由を事細ことこまかにクリフに話してみせた。


 セヴェルギンの部隊は秘密の任務を負っていた。

 部隊が派遣はけんされる前、オビサの街では封印されていたレガリアが盗まれるという大事件が起きていた。

 犯人とその一味いちみはガンバテーザ廃迷宮はいめいきゅう目指めざし、姿を消した。

 これを探し出し、針魔獣の復活ふっかつ阻止そしすることがセヴェルギンたちにせられた任務である。


 セヴェルギンたちは命令にしたがい、三十名の仲間とともに要塞に入り、一味いちみを探し出した。


 しかしそのとき、一味はすでに廃迷宮の奥深くに陣取じんどり、立てこもるかまえをみせていた。


 これはかなり計画的な犯行はんこうであった。


 もしも一味が追手おってこうとして苦しまぎれに廃迷宮に逃げ込んだのだとしたら、潜伏せんぷくはひと月ももたなかったはずだ。

 彼らがあらかじめ迷宮の中に十分な食料や水、資材をはこみ、レガリアを待ち構えていたことはあきらかだった。


 クリフたちは、そうとは知らずに輜重隊しちょうたいおそったことになる。

 セヴェルギンたちは当然クリフたちをレガリアを盗んだ連中の仲間だと思ったことだろう。


 しかし、それは単なる不幸な偶然のかさなりだったのだ。


 クリフがつかまってからの三ヶ月間、セヴェルギンたちは敵の規模きぼもわからない状態で手をこまねいていた。


「どうして針魔獣が復活したとわかったんだ? まさか……今朝けさ、サヴィアスが連れ帰ってきた奴と何か関係があるのか?」


 クリフがたずねると、セヴェルギン隊長は黙りこんだ。

 いまだかつてないほど苦しげな表情である。

 かわりにひかえていたサヴィアス副隊長が言葉をぐ。


「我々は犯人たちと交渉をしていた。レガリアを渡し、この地を去るようにと。そうすれば後は追わないと……」

「危険すぎる。そんな悪党あくとうたちが正規の兵隊との交渉になんかおうじるはずがない。応援を呼んで一気にたたつぶすしかない」

「それができない理由があったんだ。我々がガンバテーザ要塞に来なければいけなかった理由が……」


 サヴィアスの表情もまた、苦悩くのう困惑こんわくちたものだった。

 話の続きは、セヴェルギン隊長が引き取った。


「よい、サヴィアス。続きは自分で話す。つまり、これは私のきわめて重大なあやまちだったのだ。私は私の正義にはんするおこないをしたのだ。それはすなわち、このさき何千何万という善行ぜんこうを行おうとも、とてもつぐないきれぬつみをおかしたということだ」

「なんなんだ、隊長。言いたいことがあるなら、はっきりと言ってくれ」

「つまり…………息子なのだ」


 セヴェルギン隊長は苦しみながらも、はっきりとそう言った。


「針魔獣のレガリアを盗み、廃迷宮に立てこもった一団の首魁しゅかいは、血を分けた我が息子エリオット・ロードライトなのだ」


 エリオットは、セヴェルギン隊長と別れた元妻が、王都の実家に連れ帰った一人息子だった。


 元妻にはセヴェルギンから多額の慰謝料いしゃりょう養育費よういくひとを渡しており、ふたりは何不自由なにふじゆうないらしをしていたはずだった。


 だが、いつの頃からかエリオットはあくみちすすみはじめた。


 そして、母親がそのことに気がついたときにはもう女親おんなおやの手ではもどせぬふかみにはまっていた。

 エリオットは母親の元には戻らず、ほかにたよる当てもない彼女はとうとうセヴェルギンにきついてきたのである。


 そのときにはすでに、エリオットはレガリアを盗み出す計画を立てていた。


 セヴェルギン隊長は何とかエリオットを助け出そうと悪党どもと交渉を続けた。

 いや、セヴェルギン隊長だけではない。

 部隊全体が、エリオットを助けるべく行動していた。

 そうした事情は部隊の誰もが知るところであったのだ。


「わしがあのとき、妻を冷たく突き放しておればよかった。エリオットはあくみちすすみ、もう二度ともどらぬと言えば、こんなことにはなろうはずもなかった」


 そう言って後悔こうかいするセヴェルギン隊長に、サヴィアスが声をかける。


「何をおっしゃるのですか、隊長。あなたに息子を見捨みすてるなんて、そんなまねができるはずがないではありませんか……。この要塞にあつまった我ら三十人、ただのひとりも見捨みすてることのできなかったあなたに……」


 セヴェルギンたちは強いきずなと信頼によってむすばれた仲間だけを連れ、ガンバテーザ要塞にやってきた。


 エリオットを何とか悪党どもから引き離し、母親の元へと連れ戻すためだ。


 そのために、エリオットはこの任務が始まる前にセヴェルギンの隊へと入隊したという工作までしている。


 あとはエリオットの仲間たちを始末しまつし、レガリアを破壊し、針魔獣をたおしてしまえば、その罪も地上から消え去るというわけだ。


「しかし、エリオットはとうとう改心かいしんすることはなかった。レガリアがどこにあるかも我らにはおしえず、最後の交渉に出た部下に暴力までるったのだ」


 そして三ヶ月たった今、エリオットはサヴィアスの前に姿を現わした。

 たったひとりで、仲間はまだ迷宮の深部しんぶに残したままで、廃迷宮から出てきたのである。

 彼はサヴィアスに連れられて要塞にはいったが、やはりレガリアがどこにあるのか、いま針魔獣はどういう状態にあるのかについてはくちざしている。セヴェルギン隊長と再会しても母親を捨てたうらみ言を口にするだけだった。


「クリフ、わしのおろかさを知り、声もでないだろう。ここを去って、どこへなりとも行くがよい。引き止めてすまなかったな。我らはここで針魔獣をめるつもりだ」


 セヴェルギンはいていた。


 彼の底知そこしれぬやさしさを知らなければ、息子のおろかさにあきてているのだと考えたことだろう。


 しかし、そうではないとクリフには思えた。


 クリフのおごたかぶりですら許してみせたセヴェルギンがめているのは、あくまでもおのれのことだ。

 どうしてもっとはやくエリオットの心のゆがみに気がつき、正しい道にみちびいてやれなかったのかと、自分自身を責めているに違いないのだ。


 クリフはそんなセヴェルギンのことを責める気にはなれなかった。

 

「隊長、俺はどこにも行かない。俺はあんたの兵士になる」

「やめておけ。兵士になるにしろ、別の土地に別の生き方がある。正しい道がお前をっているはずだ」

「そんなものはない!」


 クリフはさけんだ。


「俺には別の生き方なんてない! 俺は……、俺の名前は、クリフ・アンダリュサイト。ディッタイのしょうイエルクの息子、オスヴィンの第四子だ!」


 名乗なのりを上げると、サヴィアスの表情が強張こわばるのが見えた。

 セヴェルギンもおどろいたようすで「ハゲワシの血か」とつぶやいた。


 それはいま、何よりも重いのろいとなってクリフを押さえつけようとしている。


 とりでに生まれついたが最後、正しさはつねにクリフの敵であった。


 これまでイエルクの名前ひとつで、何もかもが変わるのを目にして来た。

 その名前を聞くだけで、人々はクリフを恐れた。あるいは下心したごころを持ちしたなめずりして近づいてきた。


「セヴェルギン隊長、あんたとその部下には一宿一飯いっしゅくいっぱんをはるかにえた恩義おんぎを受けた。部下にしてくれなくてもいい。たとえ追い出されたとしても、俺は自分の意志でとどまり針魔獣とたたかう。あんたたちだって俺の力が必要なはずだ」


 砦を出てからずっと、居所きょしょさだめず、さまよいながら生きて来た。

 自分のいのちはとうにないものと思っていた。

 まるで亡霊ぼうれいのようだった。


 だけど、セヴェルギン隊長はそんな亡霊に手を差し出してくれた。

 彼の部下たちが夜をてっして端切はぎれをい、ひとりの兵士に仕立したててくれたのだ。


「クリフ……わしは世界一おろかな男なのだ。お前の仲間は野盗やとうだからといって何もためらうことなくてたというのに、若くてあわれだからとお前を生かし、私の息子だからと悪党を助けようとしている。そのように身勝手みがってきわまりない男に命をあずけると言うのか。あの悪鬼あっきの血のすえが、わしのために戦うというのか」

 

 クリフはためらわなかった。

 剣を鞘ごとぬき、地面に立てた。

 そしてつかをセヴェルギンへと向けてひざまずいた。


によって助太刀すけだちいたす。……命を捨てる覚悟はできてる」


 セヴェルギン隊長は複雑な表情で、差し出された剣を見下ろしていた。


「あいわかった」


 しばらくして、彼は深くうなずいて言った。


「クリフよ。そなたはこれより先、クリフ・アキシナイトと名乗り、誇り高き王国兵として振舞ふるまうがいい。さすればその魂は王国とその民を守護する剣となりたてとなり、死してなおロンズデーライトの星をかがやかせる光となるであろう。わしの部下として、命令めいれいそむかず働くとちかうか?」

「誓う!」


 セヴェルギン隊長にけられたクリフの表情は必死そのものであった。

 親の愛情をかけらも知らぬ若者の、わずかなやさしさを手放てばなすまいとして立てられた誓いを、セヴェルギン隊長が痛々いたいたしくはかないものとして受け止めているのは明らかだった。


 クリフの気持ちは本当のものだっただろう。


 いくら剣の技にひいでていても、伝説の魔獣には通用つうようしないとわかっていて、それでもこの砦に残る覚悟かくごでいるのだ。


 だが、そんなクリフを前にしても、セヴェルギン隊長は変わらなかった。


「では、クリフ。改めてお前に任務をめいじよう。我らは王国兵としてその義務にじゅんじ、針魔獣をこの要塞でむかつ……。お前は、伝令としてオビサの街を助けよ」


 クリフは呆然ぼうぜんとしてその場に立ちすくんだ。

 セヴェルギン隊長がくだした命令は、クリフの望みからはあまりにも遠くかけ離れていたからだ。

 

「セヴェルギン隊長、何故なぜだ……」

「クリフ、次がある……。あきらめずにつづければ、必ず次の機会がめぐってくる。この世のどこかに、お前のためになみだを流し、お前とともに笑う者がかならずいる。そのときは、お前を本当に必要とする者のために、その剣をるうのだ」

「なぜだ!」


 さけんだクリフを、サヴィアスが止める。


「クリフ、命令がこえなかったのか。行け」

「セヴェルギン隊長! いやだ! 俺はここにのこりたい!」

「お前はもう兵士なんだぞ。行け! いそげばう!」


 こうして、クリフは力ずくで部屋から追い出された。

 無情むじょうにも目の前でまって行く扉の向こうに、セヴェルギン隊長の小さな背中が見えた。


 まだ日は高くのぼっていたが、扉が閉まった瞬間、視界がくらくなるのがわかった。


 さっきまではすべてのものごとが輝かしく思えたのに、ほんの一瞬でまったく光の差さない絶望ぜつぼうのふちに落とし込まれてしまった。


 命はかけらもしくなかった。

 それは心の底からの本当の言葉だ。

 ただ、ほんの一瞬だけでも、誰かの仲間になれるのではないかと思った自分のあさはかさがずかしかった。

 大した思いがりであった。

 そんなはずがなかったのだ。


 これまでずっと、クリフは見返りのないやさしさをもとめていた。

 無償むしょうの愛情がほしいと手をこまねいていた。


 だが、本当はずっと前に、それは彼の前に差し出されていたのではなかったか。


 クリフのんだかみの先に、黄色い飾りをささげた少女がいたはずだ。


 帰ってきてほしいとも、自分のそばにいてほしいとも言わずに、ただ生きていてほしいというかぼそい願いだけをかけた少女が……。


 なぜ、いま、彼女は自分のそばにいないのだろう?

 どうして彼女を連れてとりでを出なかったのだろう……?


 その答えはわかりきっていた。

 それは、これまでずっとクリフが他人を裏切り、自分にかけられたいつくしみやあわれみ、優しさを台無だいなしにして生きて来たからなのだ。


 そのときのむくいを、今この瞬間の自分が受けているにすぎないのだ。


 急げば間に合うと言ったサヴィアスの言葉をしんじ、クリフは馬をはしらせてオビサの街へと向かった。

 街の衛兵隊に書簡を受け渡し、帰途きとこうとしたときのことだった。


裏切者うらぎりもの!」


 浮浪者ふろうしゃのような姿をした人物が背後から近づき、クリフの頭を棒のようなものでえた。


 それが誰なのか、クリフはまるでおぼえていなかった。

 しかしそれが、これまで正しく生きられなかったクリフの人生の、その精算せいさんなのだろうことだけは確かだった。


 クリフはそのまま昏倒こんとうした。

 目がめたのは明け方近くになってからだった。

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