第48話 正真正銘の戦い
部屋中が殺気立っていた。
ナミル氏は額に
「俺の拳闘場で……八百長が公然と行われていただと……?」
不用意な発言をしようものなら一瞬で首の骨を折られそうな雰囲気である。
「まあ八百長なしの拳闘よりも台本ありのほうが良い面もあるでしょう。客はストーリーを求める。たとえば
そこであるときから拳闘士たちは
ヴィクトリアス氏は今回の犯行を行う上で、初めから客全員を
それはつまり、ナミル氏が拳闘場に来ていなかったという事実だ。
「ナミル氏もランドン支配人も、これまで拳闘場の客たちが見ていた試合と、あなた方に知らされた試合の結果は、まったくの別物であるかもしれないなどと考えたこともなかったのでしょう。そしてナミル氏に
ラトはぺこりと頭を下げたが、それを謝罪だと認識している者はこの場にはひとりもいなかった。誰もが
この名探偵が次に何を言いだすのかを。
「さて、そうなると真実は
そしてそれだけのことを客たちは自らの楽しみのために語らなかった。
誰にも秘密にしていた。秘密にしているという意識すらなかった。
ヴィクトリアス・フェニックスが
「くそったれが、この俺の店で八百長をしたっていうのか! 俺の拳闘士が!」
ナミル氏は
グラスとその中身がクリフが広げたマントの表面に飛び散り、床に落ちて
「クリフ君、ありがとう。でも依頼を受けた以上、最後まで話を聞いてもらいたい」
「この先は本当に助けられないかもしれないぞ」
クリフは言った。全員が激高したナミル氏の行動に気を取られ、クリフの存在を視界から外した一瞬、それが最後のチャンスだった。——ナミル氏を人質に取って、脱出する。それだけがクリフが出せる助け舟だった。
それはクリフにとって祖父イエルクを思わせる卑怯なやり方であったが、命にはかえられない。
しかし、ラトはその小舟に乗らないと最初から決めていた。
全員の殺気を全身に
「八百長を認めますか? ヴィクトリアス氏。この時点で何か反論があるなら聞いておきましょう」
この場でラトと同じくもっとも
「八百長のことは認めよう。確かにそうだ。おまえの言う通りだ」
彼ははっきりとしたしぐさで
ブルーノが何かを言いかけたが、ヴィクトリアス氏は言葉を
「すべて俺が
「事件の
拳闘士たちの目つきはますます
すでに落とし前をつけた過去の事件を
「当時、ゴッドフリーは落ち目だった。というか、落ちる以前に高く飛ぶことすらなかったのです。店からも血の繋がった実の兄からも
エイブリルの名を出すと、ヴィクトリアス氏は少しだけ身じろぎをした。
「そこで彼が大人しく暴力の世界から去っていれば、今回の事件は起きなかった。けれどゴッドフリーは
ラトは黙りこくっているヴィクトリアスに向かい合った。
「ご存知の通り……ヴィクトリアス氏、いえ……ゴッドフリー氏に拳闘の才能はない。見てくれは兄にそっくりで強そうではあるが、いざ戦いになればてんでダメだ。無事に兄に成り代わったとしても、一番人気の拳闘士の座を守り切ることはどう考えても不可能でした。そこで彼はほかの拳闘士たちを
ラトは全員の注目を
「しかし、そこにデュマンが現れたのです。デュマンはヴィクトリアス氏の……いや覆面兄弟の知人です。それも古くからの、同郷の人物でしょう。彼はゴッドフリーがこの拳闘場で何をしているのかを知り
「八百長までは認めるが、成り代わりなんぞ馬鹿馬鹿しい話だ。俺はヴィクトリアスだ」
氏はそう言って、はっきりとした敵対の目をラトに向けた。
「それに仮にお前の言うことが真実だったとして、しかしそこには大きな矛盾がある。ゴッドフリーは万年最下位の選手だった。それほどまでに弱い男に、ヴィクトリアスは殺せない。ましてや、試合中という
ヴィクトリアスの反論は
しかしここで引き下がるわけにはいかない。
今やナミル氏は凄まじい形相でヴィクトリアスとラトを
「その通りです。あなたは
ラトは続ける。ラトは
あるいは、言葉という剣を戦わせていた。
「エイブリルが言うには――ヴィクトリアスは刺繍の良さがわからないそうです。それは一般的には
「ゴッドフリーが兄に勝てたことの説明にはならないぞ」
「それは簡単です。それこそ兄に八百長を持ちかければいい。ゴッドフリーは最下位の拳闘士で、兄と戦って勝てば
そのとき、これまで平静だったヴィクトリアス氏が声を荒げた。
「証拠はあるのか!? 証拠がなければ、すべてはお前の妄想だ!」
「証拠……それが問題です。色覚異常のこと、デュマンのことは、エイブリルにもっと詳しく聞けば済むでしょう」
再度エイブリルの名前を出しても、ヴィクトリアス氏はあまり動揺しなかった。
むしろ、先ほど声を荒げたのが何かの間違いだったかのように、ほっとして見えた。そして何も知らない新人拳闘士を相手にするように「ああそうだな」とのたまった。まるで勝利を確信しているかのようだ。
その態度からクリフは嫌な想像を働かせた。もしかすると……エイブリルは色覚異常のことまでは知らないのかもしれない。デュマンの存在は知っていても、色覚異常であったことを証言できなければ、ラトの推理は証拠のない妄想だ。
クリフは緊張しながら眉間に深い
「ラト、決め手に欠けるぞ」
ラトは何故か微笑んで、腕を組んで
それから、わざとらしく良く通る声で、とんでもないことを言いだした。
「うーん、
拳闘士たちは
剣は
証拠が無ければナミル氏もラトに味方することはないだろう。
彼も
しかしラトは穏やかだった。
「そこで僕はナミル氏に、今夜、素晴らしいタイトルマッチを提案します」
「タイトル……マッチ……?」
クリフはうめき声を上げた。
「ナミル氏も八百長の話ばかり聞かされて、がっかりなさったでしょう。口直しはいかがですか? あなたのお望み通り、拳と拳の、正真正銘の戦いをお目にかけます。数十年ぶりに、本当の
「何を考えているかは知らねえが、話だけは聞いてやろう」
ナミル氏はしばらく
*
ラトはナミル氏と拳闘士たちを引き連れて地下拳闘場に向かった。
拳闘士たちはどちらかというとラトが逃げ出さないよう見張っていたというのが正しいが、営業していないはずの店に入ると驚いて目を
店は
どこから現れたのか老若男女がリングの周りを取り巻き「はやくしろ」と
それらの客の大半がギルド街で見かけたことのある冒険者であることに、クリフはすぐに気がついた。
「お集まりいただいた
ラトは楽しそうに、客たちに向かって両手を広げた。
「ここに世紀のビッグマッチが開催されます。注目の対戦カードは、ご存知の通り、十五年もの間、地下拳闘場で最強の名を
そこまで言って、ラトはリングに近づいて行き、こちらを振り返った。
そして左手を胸に当てて
リングの中央、明るい照明に照らし出された不動の男を。
「冒険者ギルドの鉄の
そこには、
服装はいつものしわひとつない
「私はクリフさんと戦えるって聞いたから来たんですけどね。ま、いいでしょう」
敏腕氏はいつもよりぞんざいな口調でそう
そして深く腰を沈めると、左手を前に出して構えを取った。
敏腕氏が目を閉じて深く息を吐き、呼吸を整えて再び
酒を飲み、ヤジを飛ばしていた客たちがしんと静まりかえる。
「あいつは一体何者なんだ……」
殺気を受けたヴィクトリアスが呆然として言った。
鉄の眼差しに見据えられた剣闘士は、まだ何メートルも距離が開いているというのに全身から冷や汗をにじみ出させている。
「知らなくていいこともあります。まあ、ザックリいうと、彼は冒険者界の超有名人でして。今夜あなたと戦ってもらうために呼び出しました。拳闘士ではありませんが、しかし……ヴィクトリアス氏、あなたが本当に十五年もの間、不敗の座を守っていたというのなら、敏腕氏に手も足も出ずに負けるなんてことはないでしょう。さあ、服を脱いで。リングに向かってください」
ラトが言うと、前に進み出たのはヴィクトリアスではなかった。
ブルーノが上着を
「どこの馬の骨とも知れん男を、俺達の頭と戦わせるわけにゃいかねえ。まずは前座が相手だ!」
敏腕氏は
鋭すぎる目つきが
「ラトさんからは誰ひとりとして殺すなと言われています。命までは取りませんので、お気軽にどうぞ」
ブルーノは恐れることなくまっすぐに敏腕氏に向かっていく。
ラトたちからは、細身に見える敏腕氏の姿はブルーノの
次の瞬間、ブルーノの背中が浮き上がるのが見えた。
ブルーノはリングを囲う塀に背中から叩きつけられていた。
あまりにも
ブルーノはなんとか立ち上がり、再び敏腕氏に立ち向かっていく。
敏腕氏は突き出された拳を退屈そうに何度か
敏腕氏は最小のステップを踏んだだけで、攻撃のすべてをかわしてしまうのだ。
そして、敏腕氏は頃あいをみてブルーノの側頭部に左肘を叩き込んだ。
ただの一撃でブルーノの瞳は
衝撃に
再びブルーノの体が宙に浮いた。地面に倒されたブルーノは、今度は起き上がらなかった。
そこには暴力による
ただ圧倒的な強さが、弱者をねじふせただけである。
強い者が勝つ。
純粋で圧倒的な勝利の法則が、人の形をしてリングに立っていた。
敏腕氏はちらりとラトたちの方へと視線をやると、無言のまま、ヴィクトリアスを手招きする。
「俺には……彼と戦う資格はない……」
ヴィクトリアスは苦しげな表情となり、戦うことなく負けを認めた。
「罪を認めますか。たとえ負けるとしても、あなたがヴィクトリアスとして
ラトが問いかける。
しかし、ヴィクトリアスのふりをしたゴッドフリーは戦うことを選ばなかった。
「俺は……君の言う通り、常勝不敗のヴィクトリアスではない。十五年前、彼を殺してその立場を奪った卑怯な男だ……」
いつまでも対戦相手が
敏腕氏は呼吸を
敏腕氏が踏み込んだつま先を
ひとりの人間によって起こされた小規模な地割れはリングを
「あいつは一体なんなんだ……」
クリフはうめき声を発した。
「知らないほうがいいこともある」
ラトは答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます